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2017年9月20日 (水)

「森の探偵」宮崎学・小原真史(文・構成)

Morino_miyzaki

宮崎学・小原真史 著
亜紀書房(336p)2017.07.06
1,944円

動物写真家と紹介されることの多い宮崎学だが、彼の撮る写真は普通の人が考える動物写真のイメージから、ずいぶんはずれている。

いま手元に、宮崎の特徴をよく表した2冊の写真集がある。『死』(平凡社)は、森のなかで見つけたニホンカモシカやタヌキなど野生動物の死骸を定点観測したもの。ニホンカモシカの死骸をまずシデムシやハエがかぎつけ、卵を産んでウジが体内に入り、タヌキやネズミ、モモンガ、コマドリがやってきて死肉を食い、体毛をもっていき、やがて白骨になって落葉のなかに埋もれる様子を数カ月にわたって撮影したものだ。

『アニマル黙示録』(講談社)は、文明社会との接点に住む野生動物を追ったもの。盛り場をねぐらにするドブネズミ。どぶ川に住むティラピア。洗剤のキャップを宿にしたヤドカリ。行楽地の残飯をあさるニホンザル。野生化して東京の空を飛ぶインコ。ゴミ焼却場のゴミを餌にするキツネの家族。キャンプ場のゴミ捨て場に現れるツキノワグマ。ブラジャーやティッシュで巣をつくるトビ……。

宮崎は自分のことを「自然界の報道写真家」と呼んでいる。この「自然界」には、当然のことながら人間もその一員として含まれる。文明社会が変化すれば、人間との接点にある森やそこに住む動物たちと人間の関係も変わる。その変わりようを、独自に開発した無人カメラを駆使して撮影するのが宮崎の手法だ。

『森の探偵』は、半世紀以上におよぶ宮崎の作品を紹介しつつ、小原真史が撮影現場やカメラの工作場を訪ねながら対話によって宮崎の写真の意味とそのスタイルを言葉にして引き出した一冊だ。小原は宮崎の写真展を企画したこともあるキュレーターで映像作家。写真に関する著作もある。写真家は常に写真によってしかモノを語らないから、読者にとってこんなふうに言語化されることで見えてくるものも大きい。

小原はまず、宮崎の拠点である伊那谷の無人カメラを設置した現場へ出かける。宮崎が「ホイーッ、ホイーッ」と大声を上げる。クマよけのためだ。山は「車から一歩足を出しただけで、野生動物の存在を意識しなければならない警戒ゾーン」だからだ。カメラは車道から100メートルも離れていない山道に設置されている。動物が通ると、赤外線が遮られてシャッターが切れる。その定点カメラに写っているのはノウサギ、ニホンカモシカ、ツキノワグマ、イノシシ、キツネ、タヌキ、リス、そして人間……。

いま、森がきちんと手入れされずに荒廃していると言われる。でもそれは人間の側からの視点で、動物の立場から見れば多様性のある植物が繁茂して、エサも森林も豊かになっていると宮崎は言う。エネルギーを化石燃料に切り替え、森林を使わなくなった1960年代あたりから、森は深く豊かになり動物たちのエサが増えることでニホンカモシカやニホンジカが激増した。

70年代には宮崎の無人カメラにツキノワグマが写ることはほとんどなかったが、カモシカやシカを食べるクマも増えて、今では「バンバン写る」ようになった。里山が過疎化することで人間が森林から遠ざかり、一方、動物が人間に近づいてきた。「人間の山への進出線が後退している」のをひしひしと感じるという。

この本に収められた写真に、ニホンジカやニホンザルが道路を舐めているものがある。シカやサルが舐めているのは塩化ナトリウム。寒冷地で凍結防止剤として高速道路や一般道路に撒かれたものだ。サルやシカにとっても塩などのミネラルは、人間にとってと同様の必需品。動物が必要としているものを大量に撒くことは、自然環境を変えることになる。「全国的なシカの激増と塩化カルシウムの散布は(時間的に)ぴたりと一致している」そうだ。

凍結防止剤だけでなく、ヒトによって捨てられた大量の生ゴミ、商品にならずに処分された野菜や果実。「動物たちにとっては便利な無料ビュッフェを人間たちがそこら中に作ってくれている」。人間のつくる環境そのものが間接的な餌づけになって、動物たちを増やし、人間の側に引き寄せる。

また、人工的な環境を恐れない動物も増えている。都市近くの山や森では夜の街の灯りや騒音が聞こえてくる。寿命の短い動物にとっては、それらは生まれたときから体験している自然の環境だ。だから人間や人工物を恐れない「イマドキの野生動物」が増える。

「日本の自然は滅びるとか、野生動物もどんどん減ってゆくという意識が蔓延しているけれど、……現実の自然は人間が考えるほど弱くもろいものではなく、人間の心理とは関係なく自然界の摂理にそって動いているのですよね。自然破壊のように見える行為を喜ぶ動物たちもいれば、そうでない動物たちもいる。自然が荒廃しているように見えても、見方を変えれば豊かになっているとも言えるわけで、動物たちはそういうふうに複眼で物を見ることを僕に教えてくれました」

宮崎はこの本に載せた写真の多くを無人カメラで撮っている。仕事場のある伊那谷はじめ、福島原発事故の帰還困難地域も含め、いま全国で20台ほどの無人カメラが稼働している。宮崎はそのすべてを中古カメラを改造して自作した。当初は釣り用のテグスを獣道に張って動物が触れるとシャッターが落ちる仕組みを考え、やがて赤外線を使うようになった。三脚は缶詰にコンクリートを詰めたものを土台にし、ストロボは「写ルンです」を分解して使う。カメラを風雨から守るにはプラスチック製工具箱を改造する。小原が「ブリコラージュ(器用仕事)」と呼ぶ独特のやり方で、宮崎にしかつくれないカメラで宮崎にしか撮れない写真を撮ってきた。

当初は宮崎の無人カメラに、「写真家は指でシャッターを押すのではなかったのか?」といった批判も聞こえてきた。機械が撮ったものは「作品」ではない、芸術は個人的主体から生まれるという思い込みに基づいたものだろう。でも宮崎は「日本では動物や生態系のことを誰も知らない」と意に介さなかった。

僕がこの本を読んでいてはっとしたのは、宮崎が無人カメラの手法を「樹木の視点を借りている」と語っているところだった。無人カメラはたいてい獣道や山道の脇、視点の低いところに設置されている。道の脇には樹木がある。樹木に目があるとするなら、その目が見ている風景を記録しているわけだ。

樹木という喩えには二つの意味合いがあるように思われる。一つは、植物は動物や人間のように自らの本能や意思に従って行動するわけではない。風が吹けば揺られるままになり、嵐がきても避難できない。動物や人間に実や葉や幹をかじられてもどんな抵抗もできない。すべてに受動的な存在でありながら、でも自らの生存戦略を持ってしたたかに生きている。そんな、人間のようには「主体的」でない存在の目を借りると、人間と動物の織りなす現在の風景がどのように見えるのか。

いまひとつは、寿命。動物や人間の寿命は数年からせいぜい数十年、長寿の人間でも百歳がせいぜいのところだ。でも樹木は種類によっては数百年から数千年の寿命を持って生きる。そのような存在の目を借りると、人間の時間的スケールとは違う別の見え方があるのではないか。いま現在進行している自然と文明との生存ラインをめぐる攻防も、植物の時間スケールで見たらどうなるのか。

なんてことを考える以前に、さまざまなアイディアを考え、無人カメラを自作し、全国に設置し、見てまわり、そこで撮られた写真から何が読みとれるかを語る宮崎は本当に楽しそうだ。自らの手でつくること、撮ること、考えることの楽しさが伝わってくるのが、本書のもうひとつの魅力。

最後に、その写真を見て、わははと笑ってしまった、いかにも宮崎らしい仕事を紹介しよう。彼の仕事場の外には「糞盆栽」と呼ぶ植木鉢がたくさん並ぶ。ツキノワグマやキツネなど野生動物の糞には未消化の種子が残っている。その糞を拾ってきて、そこから発芽した植物を育てているのが「糞盆栽」。これによって動物の行動範囲と、彼らが何を食べているかを特定できるというわけだ。(山崎幸雄)

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