「名誉と恍惚」松浦寿輝
松浦寿輝 著
新潮社(768p)2017.03.05
5,400円
松浦寿輝という名前は僕の頭のなかで詩人、フランス文学者として登録されていた。パリのエッフェル塔を現代思想っぽく読み解いた『エッフェル塔試論』をぱらぱら読んだこともある。でも、調べてみると小説『花腐し』で芥川賞を受賞したのが2000年。以来、10作近い小説を発表しているから、小説家としてのキャリアも十分に長い。でもその小説に手が出なかったのは、詩人・研究者の書く小説はあまり面白くなさそうという、こちらの勝手な思い込みと偏見による。
書店の棚で、ずいぶん分厚い本だなあと本書を手に取ったとき、帯に筒井康隆が推薦文を書いているのが目に入った。「舞台は子供の頃から憧憬していた魔都・上海。まるで青春時代の古いモノクロの超特作映画を見ているような気分になり、僕はミーハー的な惚れ込み方をしてしまった」
なんだか面白そうだなあ。しかも今年の谷崎潤一郎賞とドゥマゴ文学賞をダブル受賞している。5000円札が出ていってしまうのには躊躇したけど、結局誘惑に勝てずレジに本を持っていった。そして、それだけの価値はあった。筒井康隆が言うように(年代は違うけど)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』とか『ゴッドファーザー』4部作とか、ひとりの男の一代を描いた長大な映画を見た後と同じ、ずっしりと重いものを小説から受け取った。しかもこんなにストーリー・テリングが巧みで、面白く、これまで食わず嫌いだったことに反省しきり。
時は盧溝橋事件が日中全面戦争に発展した1937年9月。場所は、日中両軍が郊外で激しい戦闘を繰り広げている上海。主人公は、東京の警視庁から上海・共同租界の工部局警察公安部に派遣された警察官の芦沢一郎。ある夜、陸軍参謀本部の情報将校・嘉山少佐から呼び出された芦沢が、ひとりの中国人を紹介するよう慇懃な態度で強要されるところから物語が始まる。
その中国人、簫炎彬(ショー・イーピン)は上海の昼と夜の世界を二つながら牛耳る秘密結社・青幇(チンパン)のボス。ほかに、簫の第三夫人で元女優の美雨(メィユ)。美雨の父で、骨董屋の看板をかかげながら裏でエロチックな人形作り師の顔をもつ老馮(ラオフォン)。馮の養子でロシア系美少年のアナトリー。馮の助手で男気のある洪(オン)。芹沢の同僚警察官で、芹沢を冷たく見る乾。多彩な人物が小説を彩る。
外白渡橋(ガーデン・ブリッジ)脇の大廈(マンション)での、石原莞爾の「最終戦争」といった言葉を使う嘉山と芹沢の歴史をめぐる問答。北一輝を知る老馮と、朝鮮人の父をもつ芹沢には、互いに好意を寄せあう気配がある。フランス租界にある簫の豪華な公館で、芹沢は美しいがどこか崩れかけた美雨と出会う。スイング・ジャズが演奏されるクラブでの、二人の時間。芹沢のアパートにおしかけた美少年アナトリーに誘いをかけられ、誘惑に屈する芹沢。それらの出来事が写真に撮られていたことを、芹沢は知る由もなかった。
芹沢は、彼の姉が植民地で朝鮮人の技師と愛し合い産まれた子で、姉の両親の子として育てられた。家族の間ではそのことは秘密でもなんでもなかったが、芹沢が曰くありげな中国人とつきあいはじめると、血の問題は警察官としての資質を疑われる材料になる。
結局、日本軍の謀略の駒として使われた芹沢は同僚の乾を殺す破目になって警察を追われ、老馮を頼り中国人・沈(スン)と名乗って身を隠す。ここからが第二部。第一部では日本国籍をもつ人間として内部から日本を見ていた芹沢が、外側から日本と日本軍の行動を見ることになる。
「国家総動員などと言うけれども、おれはまったく『動員』されていない。おれは『動員』されない日本人なのだ。いや、もう日本人でさえないのか。おれにはもう戸籍も国籍もないのか。『内地』などと言うが、おれにとってはもう『内』はない、そういうことか。『外』に棲むしかない男、それがおれなのだ、という直観が芹沢の頭に閃いた。……いいとも、結構ではないか」
上海市街から黄浦江をはさんだ浦東(プートン)の工場に身を潜め、長江際の呉淞口(ウーソンカゥ)で苦力(クーリー)として働く芹沢=沈は、熱病に浮かされた身体で、風景の細部のひとつひとつがくっきりと粒立って感受される「恍惚」を味わう。やがて老馮から救いの手が差し伸べられる。
芹沢=沈は、老馮が経営する映画館の映写技師として働くことになる。このあたり、映画好きで映画論集も出している松浦の好みが滲み出ているところか。美雨が女優として出演した反日映画の描写などは、李香蘭(山口淑子)の伝記などで垣間見る当時の中国映画の歴史を反映しているんだろう。また筒井康隆が古いモノクロ映画を連想したように、僕も冒頭に挙げた2本だけでなく、場面場面で『太陽の帝国』とか中国映画『活きる』とか、芹沢・洪・美雨の取り合わせに『冒険者たち』とか、ラストで『ハスラー』とか、いろんな映画を思い出した。この小説自体が映画的というか、明らかに過去のいろんな映画のイメージを意識的に取り込んでいるように思う。それがこの小説の遊びになっている。
遊びということでは、ストーリー展開も特に第一部はいたるところに謎が仕掛けられ、ミステリー仕立てで読者を引き込む。警察か軍か青幇か特務機関か、芹沢は誰が何のために仕掛けた罠なのかもわからず、次々にいろんな出来事に遭遇する。この分では第二部は波乱万丈の活劇になるのかと思うと、一転して芹沢=沈と老馮、美雨、洪をめぐる愛と友情の物語になる。そのあたりにも、この小説の遊びを感ずる。
松浦寿輝の文章はなじみのない漢字を多用し、会話にもカッコを用いない。明晰なのに、冷たい官能を感じさせる。ほんの一瞬の出来事を、さらに細分化して描写する。
「今度はおれが美雨に近づいてゆくのだ、と思った。美雨がおれに近づいてくるときの、微分化された時間の中でのあの不思議な変移……吹きつけてくる花粉……枯れしおれてゆく植物の感触……それと入れ替わるようにむうっと膨れ上がる動物的な精気……。美雨はそのすべてを一身に受肉しているような女だが、ではおれの場合はいったいどうなのか。素裸になったおれがじりじりと接近してくるのを彼女はどのように感受しているのか。漂ってくる花粉を浴びるように感じているのか、暒い動物の呼気を嗅いでいるのか、それともおれの身体は何も発散していないのか。美雨が躰を倒したので、ランプがのっている卓とはベッドを挟んで反対側にある卓のうえにも蝋燭の小さな炎がちらちら揺らめいているのが見えるようになった」
ここでも、時間にすれば1秒の何分の1かのわずかな間に芹沢が感じたことが、何枚ものイメージを重ねるように言葉にされている。
この小説は、一面ではやがて南京大虐殺へと至る上海事変を背景に、「おまえは日本人の恥だ、日本人の敵だ」と排除されることで主人公が「外」の人間になっていく、社会的な主題をもった歴史小説になっている。でもそれだけでなく、「魔都・上海」という歴史的な時間と場所を素材に製作された小説や映画のイメージ群の集積を踏まえて、映画やジャズや漢詩やギャンブルやセックスといった遊びの要素がふんだんに取り込まれている。
最後の場面も遊びになる。特務機関の嘉山と芹沢は、事の真相を明らかにすることをビリヤードの勝敗に賭ける。勝敗が決したあと、芹沢は嘉山に「我是日本人(ゴー・ズー・ザペンニン)」、おれは日本人だと上海語で低くつぶやく。それは芹沢の「名誉」を賭けた言葉だった。
過去を素材にした歴史小説だけれども、東アジアの緊張が高まる現在の世界に向けて差し出された作品であることは言うまでもない。(山崎幸雄)
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