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2018年1月20日 (土)

「戦争育ちの放埓病」色川武大

Sensou_irokawa

色川武大 著
幻戯書房(416p)2017.10.11
4,536円

戦争中の色川にとって、未来を考えるとは戦争で死ぬまでの間どんな生き方をするか、ということだった。敗戦が決まり、見渡す限り焦土と化した東京を眺めて、それまで家があって畳があってと思っていたのが「実際は、ただ土の上に居たのだと知った」。家も高層ビルも、地上の人工的なものの一切は地面の飾りにすぎない。

「元っこは地面。その認識がはたして私の一生の中でプラスしたかマイナスしたかはわからないけれど、どのみち、あの焼跡を見てしまった以上、元っこはあそこ、ばれてもともと、という思いで生きるよりしかたがない」

虚無と楽天が分かちがたく絡みあった彼らの書くものが毎週、毎月、僕たちを楽しませてくれた時代の空気は、あれよあれよという間に変わってしまった。「戦後が終れば戦前だ」といったのは故竹内好だったけれど、僕たち戦後世代はいま生まれてはじめて戦争になるかもしれない恐怖に直面している。「核のボタンは私の机の上にある」と脅す金正恩。「私のはもっと大きくてパワフル」と返すトランプ。万一現実になれば韓日で100万単位の犠牲が出るとの予測もある危険なゲームをつづける二人。その一方のトランプを全面的に支持する戦後世代の首相を僕たちは持っている。

読めなくなってはじめて、それがどんなに貴重なものだったか気づくことがある。たとえば色川武大(阿佐田哲也)のエッセイ。色川武大だけではない。たとえば野坂昭如、寺山修司、田中小実昌、吉行淳之介。北杜夫や遠藤周作を加えてもいい。かつて、週刊誌や月刊誌には毎号、こうした作家たちの軽いエッセイや座談があふれていた。そこにあるのが当たり前のように楽しみ、感心したり、これはちょっとね、などいっぱしの批評をしたつもりになっていた。

でも、彼らはみな死んでしまった(五木寛之は健在だけど、ずいぶん違う場所へ行ってしまった)。もちろん彼らの衣鉢を継ぐ人たちはいて、一世代若い嵐山光三郎や椎名誠、沢木耕太郎の書くものを楽しんではいるけれど、死んでしまった書き手たちとどこか違うという気はする。

第一、当時と今とではメディア環境が異なる。敗戦直後に雨後の筍のように生まれたカストリ雑誌にはじまり、1980年代くらいまでは雑誌の黄金時代だった。たくさんの週刊誌や月刊誌が生まれ、趣味の専門誌が生まれ、企業のPR誌も充実して、彼らに舞台を提供しつづけた。やがてインターネットが生まれ、雑誌の凋落がはじまる。液晶画面も活字を読む媒体として紙と同じはずだけど、ここで挙げた書き手のようなテイストをもった文章は、なぜかウェブにそぐわない。

色川武大はじめ亡くなった書き手たちの共通点は、少年あるいは10代の青年として戦争を経験したことだと思う。兵士として戦争を体験した上の世代、たとえば五味康佑や司馬遼太郎、大岡昇平のエッセイとなると、肌合いがずいぶん異なる。色川武大や野坂昭如たちは自分の価値観をつくりあげる前に、あるいはそのさなかに、戦争と敗戦の混乱を体験した。その共通体験が、それぞれの文章にそれぞれの影を投げかけていないはずがない。

『戦争育ちの放埓病』は、色川武大(一部は阿佐田哲也)名義で発表され、単行本や全集に未収録の86編のエッセイを集めたものだ。これらがなぜ全集に収録されなかったのかはわからない。あまりにたくさん書いたため編者が集めきれなかったのか、出版社の都合で割愛したのか。それ以上の特別の理由はなさそうだ。ともかくも、色川武大のエッセイをこれだけまとめて読める贅沢を喜びたい。

たとえば「筆不精」というエッセイがある。冒頭の書き出しは、「いつ頃からかはっきりしないが、手紙というものがどうしても書きづらくなった」。若いころ、同人誌をやろうということになり連絡係を命じられたことが回想されている。某月某日に集まると定め、連絡の手紙を書く。ところが「相手によって固有のつきあい方もあり、また親疎の差もあり、同一の文体にしにくい」。根をつめたが、全員に書けないうちに会合前日になってしまった。当日の朝、それまでに投函した人に中止の電報を打ち、10日ほど会合を延期した。翌日からまた必死で「火が出るかと思うほど」手紙を書いた。なのに、全部出さないうちにまた会合日が来てしまった。色川は再び電報局に走り、陳謝に走りまわる。

「汗みどろになっているが、最初から何もはかどっていない。……私としては、生涯にあれほど手紙を書いたことがないというほど、書いたのである。……陳謝しまわった末に、俺だって怠けていたわけじゃないんだ、と小さな声でいうと、だから一層馬鹿だ、といわれた」

筆不精はたくさんいるし(小生もその気味がある)、連絡すべき日時に間に合わないことだってあるだろう。でも一度間に合わなければ、二度目は割りきって紋切り型の文章ですませるとか、なんらかの方便を考えるのが常識ってものだろう。でも彼にはそれができない。あくまで「固有のつきあい」や「親疎の差」にこだわり、同じ過ちを二度繰り返す。そこが色川の色川たる所以だろう。おかしみと哀しみを湛えたこんなエッセイを読めるのは嬉しい。

色川には、ギャンブル(ひいては人生)の指針として「九勝六敗を狙え」という有名な言葉がある(『うらおもて人生録』)。色川=阿佐田哲也といえば『麻雀放浪記』だから、ギャンブルに関して「プロ」「無敵」、強くて当たり前という思い込みがある。それがなぜ一四勝一敗でなく九勝六敗(八勝七敗とも書く)なのか。いまひとつ腑に落ちなかったけど、その考え方が生まれた背景がわかるエッセイがあった。「無銭」というものだ。

賭場では顔見知りでありさえすれば廻銭を回してくれる。若い色川は金がないから、たとえば火曜の盆で三十万円を借りる。火曜、水曜、木曜と盆を渡りあるいて、「火曜の常盆で借りた三十万を、翌週きちんと返せるかどうかだ。それが次々にできれば、資本無しでなんとかしのいでいくことができる」。そのためにいちばん大事なのは「惨敗」しないこと。余裕がなければ、一線を引いてそれを守ることが肝心。だから銭のない者は大敗に至らない。また勝ち方もちがう。目的は運転資金を回転させることだから、「ロマンチックな大勝ちの道」は選ばない。大勝ちは大負けに通ずるからだ。「賭場にはこういうしのぎをする者が多い。……そうして支払う余裕のある旦那衆が、結局は負けて場をうるおしていくわけである。……だから本格的にばくちをやった者なら、天下無敵、などとはとてもいえない」

九勝六敗。なんとも凄味のある言葉だと思う。焼跡闇市を銭金なしでなんとか生きてきた男だからこそ吐けるセリフ。戦後に生まれ高度成長とともに成長し、経済大国といわれた時代に大過なく過ごした平均的人間(ぼくたちのことだ)とは、根元のところで生きる姿勢がちがう。その底にあるのは、青年あるいは少年として体験した戦争と敗戦後の風景だろう。

「戦争が終ったとき、私は十六歳だった」という書き出しではじまるのが、「元っこはあそこ」と題されたエッセイである。

そこで改めて痛感するのは、色川たちの不在ということだ。彼らは揃ってイデオロギッシュではなかったけれど、戦争とその結果の焦土を身をもって生き、その経験を戦後世代に伝えつづけた。彼らが存在したことの意味とその大きさを、彼らがいなくなってはじめて知り愕然とする。(山崎幸雄)

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