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2018年4月18日 (水)

「日本軍兵士」吉田 裕

Nihongun_yoshida

吉田 裕 著
中公新書(230p)2017.12.25
886円

国有地が確たる理由なしに8億円値引きされた森友学園問題で、当事者である財務省が作成した決裁文書が大量に改竄されていたことが発覚した。決裁文書は行政府が法に則って意思決定をし、決裁権者がそれを承認したことを記録するもの。これをきちんと保管することで後から意思決定の過程を追跡できる一次資料だ。その決裁文書を改竄したり隠蔽したりする行為は、いわば歴史を偽造するに等しい。今回は総理大臣とその妻の存在が、直接にか間接にか影響を与えて公正な法の執行を歪めた疑いが濃い。

と、この本を読みながら森友問題を思い出したのは、どうもこの国は昔から同じようなことやってるなあと感じたから。というのも、軍民合わせて310万人の犠牲者を出した第二次世界大戦の死者に関して、「包括的な統計がほとんど残されていない」というのだ。日本政府は、なぜか年次別の戦没者数を発表していない。戦争末期の混乱はあったにせよ、戦後ずっと厚労省が戦没者の調査を進めているのだから、その時々での数字を確定させることはできるはず。それがされていないことは、そこになんらかの意図があるのではないかと疑ってしまう。

310万人の戦没者のうち、大部分はサイパン島陥落(1944年7月)以降の1年ちょっとの間に亡くなったと推測される。この時期を著者は「絶望的抗戦期」と呼んでいる。サイパン陥落後は日本本土がB29の飛行圏内に入ることになって多くの都市が空襲された。米軍は本土に肉薄し、レイテ島、硫黄島、沖縄、そして広島、長崎と多くの犠牲者を出した。敗戦が決定的になったこの時期、少しでも早く戦争終結を決意していれば、かなりの数の国民が犠牲にならずにすんだのではないか。国家指導者の不作為の罪を隠すために年次別戦没者数を発表していないのではないか。そんな邪推をしたくなってしまう。

国も都道府県もほとんど戦没者の数字を発表していないなかで、唯一秋田県だけが年次別の陸海軍の死者数を公表している。それによると、秋田県では1944年1月以降の戦死者が全戦死者の87.6パーセントを占める。それを国全体の陸海軍の死者数230万人にあてはめると、201万人になる。民間の犠牲者80万人の大部分は空襲が激化したこの時期のものだから、これを加えると310万のうち281万人が敗戦前の1年半に集中し、この時期に亡くなったことになる。そんな数字を前に、言うべき言葉もない。

この本は、軍事史の研究者である著者が「兵士の身体」という視点から、兵士の服装や食料、体格、心身の病気について、特にその貧弱さや弊害が表立った「絶望的抗戦期」を重点に記述したものだ。

よく知られているように、日本軍兵士には戦闘による死者に比べて、病気や餓死による戦病死者が異常に多い。太平洋戦争が始まる前、日中戦争が続いていた1941年の時点で、全戦没者のうち50.4パーセントと約半数が戦病死者になっている。その割合は、戦線の拡大とともに増大する。支那駐屯歩兵第一連隊の記録では、1944年以降、「絶望的抗戦期」に重なる時期の全戦没者のうち73.5パーセントにあたる1475人が戦病死者となっている。

餓死者も多い。栄養失調と、その結果体力が衰えてマラリアに感染・病死した者を含める広義の餓死者が全戦没者に占める割合は、研究者によって4割から6割まで幅がある。が、いずれにしろ「内外の戦史に類を見ない異常な高率」であることに違いはない。これは、制海権・制空権を失って補給が寸断され、深刻な食糧不足が生じたことによる。

自殺(自決)も多い。1938年の記録によると、陸海軍の自殺者数は毎年120人前後。軍人10万人当たり30人強となり、これは「一般国民の自殺率よりやや高い」、したがって「日本国民の自殺率は世界一であるから、日本の軍隊が世界で一番自殺率が高い」と、当時の文書は結論している。それは古参兵による私的制裁が日常化していたこと、それによって精神的失調を来す兵士が多かったことと関係していよう。また戦病死者のなかには「処置」と呼ばれ、部隊が撤退する際に落伍者や傷病兵を殺害した例も含まれている。

病気も深刻だ。特に結核と虫歯。日中戦争から太平洋戦争にかけて20~24歳男性の結核死亡率が爆発的に増えた。これは徴兵や工場動員による集団生活によって集団感染が拡大したことも原因と言われる。作戦行動中に歯磨きなどする余裕はないから虫歯も増えた。しかし従軍する歯科医師の数は少なく、虫歯は兵士を悩ませた。

装備と体格についての指摘も興味深い。陸軍歩兵の移動は徒歩が原則だった。兵士はヘルメット、着替えや飯盒を詰めた背嚢、シャベル、天幕、小銃、銃剣、弾薬盒に加え、補給が期待できない作戦では予備の弾薬や食料も背負う。日中戦争前の段階で、背負う荷の「能率的限界は体重の35~40%」とされていたが、日中戦争が長期化するなかで、「体重の50%を超過せんとする状況」が出てきた。弾薬手や軽機関銃の射手など「ほとんど自分の体重に近い負担量を持って行動」せざるをえなかった。戦局の悪化とともに予備役や乙種合格者など「老兵」や「弱兵」が増えたことも、装備の過重に拍車をかけた。

軍靴についても触れられている。軍靴は兵士として行動するためにきわめて重要な装備。しかし軍靴や背嚢など革製品をつくるのに不可欠な工業用ミシンは外国製品に依存していた。日中戦争後、国産化が図られたが不足は歴然としている。また縫糸は丈夫な亜麻糸でなければならなかったが、亜麻は国内では北海道でしか栽培できない。生産が需要においつかず、質の悪い人造繊維スフで代用された。そのため「軍靴の底が泥と水のために糸が切れてすっぽり抜けて」しまう事態が続出した。また牛革でなく、馬革や豚革、戦争末期には鮫革の軍靴まで出現した。

先週、仕事で九段坂上の靖国神社を訪れる機会があった。境内の一隅に、インパール作戦の跡地で収集された兵士の遺品が展示されている。そのなかに、本書で描写されているように上部の革がすっぽりはがれた軍靴の底があった。兵士はこんな靴をはかされて、どんな思いでミャンマーの山地を敗走していたのか。この国に総力戦の能力も準備もなかったことは、こんな装備の末端からもうかがうことができる。

朝鮮半島から旧満州、中国全土へ、さらには南アジアから太平洋へと持てる力以上に戦線を広げつづけた日本軍は、その無理と矛盾を自国軍の兵士ひとりひとりに押しつけた。この本を読んでいると、日本軍の兵士は敵よりもまず自分の属する国家から集団的虐待を受けていたんじゃないかとすら思いたくなる。日本軍兵士は被害者であり、加害者でもあった。その結果、犠牲となった自国民310万人、米英ソ蘭、さらに日本軍が展開したアジア各国の官民に推定1900万人以上の犠牲者が出たことを改めて思い起こしておきたい。(山崎幸雄)

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