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2018年5月20日 (日)

「超国家主義」中島岳志

Choukokka_nakajima

中島岳志 著
筑摩書房(272p)2018.03.25
1,836円

「超国家主義」とはなんだろうか。平凡社大百科事典にはこうある。「ナショナリズム(民族主義、国家主義、国民主義)の契機を極端に膨張・拡大し、自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正当化する思想・運動ないしは体制のこと」。第二次世界大戦前、天皇を頂点にいただく大日本帝国をその中心に構想された「大東亜共栄圏」は超国家主義の典型とされる。とはいえ21世紀に生きるわれわれにとって、それは歴史の彼方にある遠い風景にすぎないようにも感じられる。

いや、そうではない、と中島岳志は言う。彼は本書を構想したきっかけをこのように書く。ある日、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 まごころを、君に』という映画を見て衝撃を受けた。なぜなら、煩悶をかかえた青年が世界との一体化を希求して政治行動へ傾斜するこの映画の世界観はそのまま超国家主義につながっている。超国家主義への渇望は今もうずいている。この本は、そんな問題意識から生まれた。

といっても超国家主義の思想・運動の歴史を叙述するのでなく、その誕生や発展をになった個人に焦点が当てられる。明治の煩悶青年の先駆けとしての北村透谷から、戦前右翼運動の象徴的存在だった頭山満まで、24人の文学者、思想家、軍人、テロリスト、無名の市民が取り上げられる。

「超国家主義は、近代特有の煩悶の中から生まれてくる」と中島は書いている。文明開化の世、北村透谷は出世を望む母に反発して自由民権運動に接近するが挫折、「気鬱病」に苛まれた。「疚しさ」「後ろめたさ」を断ち切るためにクリスチャンの女性と恋愛し、「宇宙の精神」に肉薄する「内部の生命」=文学に救いを求めた。孤独な「私」は「私を超える世界」に没入することで苦悩から解放される。しかしそんな透谷の牙城である「想世界」も世俗的な「実世界」に否応なく包囲される。心のバランスを崩し、26歳で自殺。透谷を先駆けとする明治の煩悶青年の存在は、華厳の滝に投身自殺した藤村操と、藤村の後追い自殺が流行したことで可視化した。

煩悶青年の苦悩を国家に接続したのは小説家・評論家として活躍した高山樗牛だった。日清戦争後のナショナリズムが高まるなか、樗牛は個人の孤独な「主我的境地」を救い出してくれるのは日本という国家だと考えた。人は国家と結びつくことで「厭世無為」の利己的立場から脱却することができる。「『私』というナイーブな煩悶が、自己を超えた存在との一体化によって救済される。……超国家主義は……常に不安定な精神と密着していた」

樗牛はさらに、田中智学(国柱会の創設者)の教えを通して日蓮に出会う。樗牛の理解によれば、日蓮が求めたのは妙法(法華経)がゆきわたる「霊的国家タル日本国」だった。だが現実の日本はこの理想からはずれ、堕落している。このような国家は「折伏(しゃくぶく)」し改造しなければならない。「樗牛が捉えた日蓮は、国家を超えた真理を実現しようとする『超国家主義者』だった。真理を踏み外し『謗法(ほうぼう)』に陥った国家は『滅亡』すべき運命にあった」

日蓮宗の僧で宗門改革を目指した田中智学は、国体と仏法が融合した政教一致の「王仏冥合」を夢見た。日蓮宗に帰依した天皇のもと、「八紘一宇(はっこういちう)」の世界統一を成し遂げることで理想社会が実現する。田中がつくった在家宗教団体、国柱会には宮沢賢治や石原莞爾が集った。

煩悶青年から生まれたテロリストが朝日平吾だった。大学退学、軍隊生活、満洲に渡り満蒙独立運動に従事するが離脱、自暴自棄から犯罪を犯し投獄、出所し神州義団を結成して下層労働者の救済に奔走するが従う者はなかった。朝日が信じたのは、天皇の大御心(おおみこころ)のもと国民はすべて平等という「一君万民」思想だったが、大御心の実現を邪魔しているのは財閥や政党政治家といった「君側(くんそく)の奸(かん)」である。1921年、朝日は安田財閥の創始者、安田善次郎を大磯の邸宅に刺殺し、こう書き記した。「タダ刺セ、タダ衝ケ、タダ切レ」

以後、煩悶青年のテロリストが次々に生まれる。原敬首相を暗殺した中岡艮一。ロシアの左翼テロリストに惹かれ摂政宮(昭和天皇)に発砲した難波大助。濱口雄幸首相を狙撃した佐郷屋留雄。前大蔵大臣・井上準之助に銃を突きつけ「南無妙法蓮華経」と唱え引金を引いた小沼正。着ているシャツに「南無妙法蓮華経」と書き、三井財閥総帥・團琢磨を暗殺した菱沼五郎。

小沼と菱沼は、日蓮宗の僧・井上日召を盟主とする血盟団の団員だった。日召は、「一殺多生」による国家改造で「君側の奸」を排除し「一君万民」の理想を実現しようとした。この血盟団事件は、軍の青年将校を吸引してその後に相次ぐテロリズムの導火線となった。

後半では、5.15事件の藤井斉、北一輝、2.26事件の磯部浅一、頭山満らが取り上げられる。北一輝は煩悶青年がテロリストに転ずることを、藤村操の自殺から3年後に早くも予見していた。「余輩は煩悶の為めに自殺すといふものゝ続々たるを見て、或は暗殺出現の前兆たらざるなきやを恐怖す」と。中島は次のように記す。「煩悶がテロへと向かうとき。それは『小我』が『大我』へと転化するときである。自己が全体へと融解するときである」

以前、中島の『秋葉原事件』という著書を読んだことがある(ブック・ナビで取り上げた)。『超国家主義』を読んだ後では、孤独な煩悶青年が秋葉原で通行人を無差別に殺傷したこの事件を中島がどのような興味で、どのような文脈で取り上げたかが理解できる。超国家主義のテロリストと秋葉原事件を起こした青年は、煩悶がテロ(犯罪)に転化したことで共通している。異なるのは戦前のテロリストには「大我」が与えられていたのに、秋葉原の青年にはそれがなかったことだ。だからこそ、殺意の対象は特定の誰かに向かわず(向かうことができず)、殺意だけが爆発して無差別に人々を殺傷した。同じような無差別殺傷事件は、その後も起きている。

一方、中島が『エヴァンゲリオン』を見て超国家主義との近縁を感じたように、やがて「大我」に吸引されるかもしれないナショナリズム、優越主義、他者への攻撃のピースはそこここに散らばっている。連呼される「美しいニッポン」や「ニッポンすごい」。路上で公然と語られる嫌韓・嫌中のヘイト。ウェブという新しいメディアでネトウヨという名の匿名者がまき散らす言葉のテロリズム。南京大虐殺や従軍慰安婦問題など「見たくないもの」をなかったことにしたい、歴史の改変への欲望。生活保護バッシングに見られる弱者へのいたぶり……。

戦前の「大東亜共栄圏」という超国家主義で、「大我」の中心にある最大のピースは天皇の存在だった。いま、日本国憲法下のこの国で、スピリチュアルな存在として天皇が神格化される可能性は現天皇の意思的なふるまいもあって小さい。だから「大我」を構成するかけらはかけらのまま留まっている。

でも、なにかしら別のピースが出現し欠落部分に収まったら、戦前とまた別の、形を変えた「大我」が出現するかもしれない。この本を読んで考えると、オウム真理教による地下鉄サリン事件は戦前の超国家主義の誕生と破滅をミニチュアとしてなぞったようにも感じられる。中島岳志が言うように、この時代に新しい「全体」に吸引されかねない存在の不安が蔓延していることだけは確かだろう。(山崎幸雄)

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