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2018年11月22日 (木)

「親鸞と日本主義」中島岳志

Shinran_nakajima

中島岳志 著
新潮選書(304p)2017.08.25
1,512円

今年5月のブック・ナビで中島岳志の『超国家主義』を取り上げたとき、書店で同じ著者のほかの本もぱらぱらと立ち読みした。そのとき、『親鸞と日本主義』がどうやら『超国家主義』と対になる著作であるらしいことがわかった。研究者の書くものというよりノンフィクションのようだった『超国家主義』につづけてこの本も読みたくなったので、今月はちょっと古くなるが去年8月に刊行された『親鸞と日本主義』を取り上げることにした。こちらは、いかにも研究者の著作というスタイルが採用されている。

2冊とも明治から昭和前期にかけての超国家主義を素材とする。『超国家主義』は、近代化によって生まれた自我意識と立身出世の風潮や封建的家族関係の相克に悩む煩悶青年がテロリストとして転生する「テロリスト群像」といった趣きの本だった。彼らのなかには、日蓮の教えを独自に解釈して「国家改造」「昭和維新」を夢見た日蓮主義者が多くいた。

『親鸞と日本主義』で取り上げられるのは、日蓮と並ぶ鎌倉新仏教の祖である親鸞に思想の根拠を求めながら日本主義を唱えた超国家主義者たち。彼らはその主張を物理的なテロリズムに訴えることこそなかったが、主に帝国大学教授を標的に滝川事件、天皇機関説事件、河合栄次郎や津田左右吉の発禁事件などを起こして時代の空気を超国家主義へと大きく旋回させた。これまでテロリストと日蓮の関係はよく知られてきたけれど、親鸞が昭和の超国家主義にどう影響を与えたのかはあまり語られなかったように思う。そこに光を当てたのがこの本の面白さだろう。

本書の第一行はこう始まる。「私は、親鸞の思想を人生の指針に据えている」。中島はどんな宗派にも属していないが、「自分は浄土真宗の門徒だと思っている」。そんな著者の親鸞との出会いは、学生時代に吉本隆明の親鸞についての講演を聞いたことだった。講演後、中島が「親鸞なら麻原彰晃でも往生できると言うでしょうか」と質問したところ、吉本は「間違いなく、往生できると言うでしょう」と答えた。その答えに震えた著者は吉本の『最後の親鸞』を買い求め、そこから親鸞への関心を深めていったという。だから親鸞に帰依した者が超国家主義者に変貌した戦前の歴史は、著者にとっても他人ごとではないはずだ。

第一章では、滝川事件や天皇機関説事件を引き起こした雑誌『原理日本』に拠る二人の親鸞主義者が取り上げられる。ひとりは、この雑誌の中心人物である三井甲之。もうひとりは激烈な帝大教授攻撃で「狂気」と恐れられた蓑田胸喜(音読みすれば「狂気」)。1925年に創刊されたこの雑誌は「不敬」と見なした言論を片っ端から攻撃し、社会的な制裁を加えようとした。左翼やリベラルだけでなく、大川周明のような革新右翼から京都学派の哲学者まで執拗に攻撃し、この時期の思想弾圧の尖兵となった。西田幾多郎は彼らを「狂犬」と呼んでいる。

東京帝国大学の学生で、正岡子規の弟子たちが集った根岸短歌会の会員でもある三井は、本郷にあった浄土真宗の教会堂、求道学舎に出入りするようになって親鸞に親しんだ。また陸羯南が創刊した新聞『日本』(子規はこの新聞の記者をしていた)に投稿するようになって、民族主義的な色彩を強めていく。「歌人、信仰者、そして民族主義者」、この三つが三井の思想を構成する要素だ、と中島は書いている。簑田もまた東京帝国大学の学生で宗教学者を志し、三井に感化されて皇国主義的な言動を鮮明にしていった。

僕は親鸞の『歎異抄』しか読んだことがないので大きなことは言えないけれど、親鸞の信仰は単純に言ってしまえば「自力」による救済の否定と、「絶対他力」=「弥陀の本願」への帰依、そこへ近づく手法としての南無阿弥陀仏の念仏と言えるだろう。

彼らの理解によると、革命を唱えるマルクス主義も国家改造を主張する革新右翼も「自力」の「はからひ」であり、ちっぽけな理性で世界を改造しようとする邪悪な思想にすぎない。そんな邪念を捨て、「絶対他力」にすべてを委ねることが大切だ。「絶対他力」とは本来「弥陀の本願」への帰依であるはずだが、近代人である三井や蓑田にとって(そして僕らにとっても)阿弥陀仏の実在を信ずることはできない。「神々の威力」から「内心の信仰」へと変化した宗教観をもつ近代人にとって、信じられる「絶対他力」は「祖国日本」である。「祖国日本」は「日本意志」とか「原理日本」「南無日本」などと言い替えられる。「小さき醜き自己」を捨て、個を超えた民族的生活に没入することが親鸞の信仰の実践だと彼らは考えた。

もうひとりの親鸞主義者である亀井勝一郎は、「絶対他力」を「天皇の大御心」と重ねあわせている。「人間のさかしらなはからひ」を捨て、「人智を超えたものはただこれを信ずること、そして皇神の示し給うた道のまにまに一片の私心もなく信従する」ことこそ親鸞の説いた世界である。だからわれらが戦う大東亜戦争は近代合理主義を超える、「人間自力主義の崩壊を宣する戦争」なのだ(この論が展開されるのは亀井の代表作『親鸞』のなかでだが、戦後の版ではこの部分は削除されている)。

「亀井の親鸞論には、『原理日本』グループと同様の論理構造が見え隠れする。──阿弥陀仏を天皇と置き換えることによって、国家への絶対的な随順の論理を導き出し、神ながらユートピアの現前を志向する。そして、そこに自然法爾の実現を夢想する」(中島)

「自力」をことごとく否定する。「絶対他力」を「日本意志」や「天皇の大御心」と言いかえる。つまらぬ自意識を捨て、天皇の大御心につつまれれば安心できる。いま読んでみると、論理だけ取り出せばずいぶん粗雑な議論に思える。でも中国大陸で戦争が始まり、それが徐々に身近なものとして迫ってくる昭和前期の空気のなかで、こういう言説がリアリティをもって煩悶青年の心を捉え、リベラルな知識人を追い詰めていった。

日蓮のような国家救済・国家改造といった発想が出てくる思想と違って、親鸞には国家にかかわるような用語や発想はない(と思う)。でも自力の否定、絶対他力への帰依という構造は、亀井勝一郎が「近代の超克」論者の一人だったように近代合理主義・近代個人主義への懐疑と密通してしまう可能性を持っているのではないか。中島岳志が『超国家主義』で繰り返し強調していたように、超国家主義は単に復古的なものというより、近代人の自意識の病に源を発する、近代であるからこそ生まれたイデオロギーだった。親鸞の信仰も、親鸞と同時代の衆生は阿弥陀仏を心から信じ、その本願にすがりたいと一心に念仏を唱えたはずだ。でも、「宗教は民衆のアヘンである」といった言説を知った近代に生きる人間に、そんな中世人のような真似はできない。そこに、「弥陀の本願」が「天皇の大御心」と読み替えられる隙が生じたのではないだろうか。

明治の近代化によって登場した煩悶青年を生みだした土壌は今もつづいている。というより、経済のグローバル化が進む現在の世界は、その荒廃の度をさらに強めているというべきか。そんなとき、「弥陀の本願」はまた新たな装いのもとに僕らを誘惑するかもしれない。そんなことを考えさせてくれる、とても刺激的な本だった。(山崎幸雄)

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