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2018年11月22日 (木)

「タイワニーズ 故郷喪失者の物語」野嶋 剛

Taiwanizu_nojima

野嶋 剛 著
小学館(315p)2018.06.08
1,620円

本書は「タイワニーズ」という言葉を「本人や家族に多少でも台湾と血統的につながりのある人」と定義した上で、日本で活躍した「タイワニーズ」とその家族(ファミリー)の生き様を描いて、日本と台湾との歴史的関係を多面的に俯瞰してみせている。著者が選んだのは、民進党第二代代表だった蓮舫。戦後政治の裏方として活動していた辜寛敏と野村総研の研究員として活躍した息子のリチャード・クー。「流」で直木賞をとった作家東山彰良。「真ん中の子供達」という日・中・台の中で揺れる若者を描いた作家の温又柔。歌手のジュディ・オング。俳優の余喜美子。「豚まん」で一世を風靡した「551蓬莱」の創業者羅邦強。「カップヌードル」の安藤百福。そして、日・台・中に身を置いた作家の陳舜臣と作家・経済評論家の邱永漢を取り上げている。

この10名とファミリーが各時代に決断を強いられながら生きてきた姿を示すために、野嶋は本人から始まり、両親・祖父母などの家族を調べ、本人・生存する親族にインタビューしたり、記録を調査するために台湾に足を運んでいる。逆に、本人がインタビューを断った人(例えば、渡辺直美)は本書の対象から外すという筋の通し方をしている。著者は、1968年生まれ、上智大学新聞学科を卒業し新聞社に入り、アフガン・イラク戦争の従軍取材や台北支局長等を経て、フリーになったという経歴を持つが、そうしたぶれない取材手法と多くの人達との取材こそが本書の説得力の源泉になっているようだ。

日本人の我々にとって1895年から1945年までの日本統治時代は台湾との関係が一番密な時代である。その時代、台湾において近代国家としての教育・インフラ・法治の整備が進んだという事実とともに、日本にとっては台湾経営のメリットを享受したという日台双方にとってプラスの意味が有ったからこそ、親台・親日意識に繋がっているという見方が日本では多いと野嶋は指摘する。ただ、台湾には「日本は台湾を二度捨てた」という言い方もあり「ポツダム宣言の受諾による台湾の放棄」と「1972年の中華民国との断交」が対日感情としての負の側面としてあることも否定できない。加えて、戦後の日本は台湾の植民地統治などを含めた戦争責任に関して、議論することをほとんど止めてしまっている。この状況を「冷たい忘却」と野嶋は表現しているのだが、こうした日台の関係下においても両国の「結節点」として生きてきたのが「タイワニーズ」の人達だったという視点で本書は描かれている。

著者は「タイワニーズ」の特徴を多様性という言葉で特徴づけているのだが、そこには二つの視点があるようだ。一つは人の流入の歴史である。遡れば、台湾東部には「原住民・高砂族」といわれるオーストロネシア語族の50万人の人々が定住していた。次に16-17世紀にかけて中国大陸から漢人(本省人)が流入し人口の70%を占めるに至った。そして戦後、当時人口600万人の台湾に、国民党とともに100-150万人の「外省人」が大陸から流入し多民族化する。加えて、日本統治時代に日本に在住していた台湾出身者は3万人(軍人・軍属1万人、一般人2万人)と言われている。1945年から1946年にかけての帰還事業で軍人軍属は全員台湾に帰国した一方、一般人の帰国者は3500名に止まったと言われている。本書の関係で言えば、帰国組には陳舜臣、邱永漢、残留組には安藤百福、羅邦強、余家麟(余喜美子の祖父)などが居た。

二点目は国家支配の変遷が多様性を生んだ要因と考えられる。永く清国の支配下(1683-1895)にあったが、1895年の日清戦争で清は敗れ日本に台湾を譲り渡した。太平洋戦争では日本は敗戦により台湾を放棄し、再び中国の一部となった。国民党の大陸での敗北の結果、1949年蒋介石が台湾に逃げ延びて中国と台湾は再び分断され、今日に至っているという変遷を見ても、台湾の人々は中国人から日本人、再び中国人、そして台湾人と目まぐるしくアイデンティティを変化させてきた。そうして「多様性」をもった「タイワニーズ」が生まれたとして、野嶋は次の様にまとめて見せる。 

「台湾出身者は故郷を何度となく失った。祖国を追われ、祖国に裏切られ、祖国に捨てられた歴史である。しかし、彼らは生きることを諦めず、多くのことを成し遂げた。故郷を失うことで『国家』から自由になった彼らでなければ出来ない役割を担った。彼らは英雄でもなく、リーダーでもない。多様であるが故に集団にもならない。強烈な個である」

本書を読むと、取り上げられている人達をそれなりに知っていたつもりでも、各個人と家族の歴史を読み進んで行くと、知らないことへの気付きと不正確な知識を再認識させられることが多かった。その中から気になった人物が「直木賞」を始めとして多くの文学賞を受賞している作家の陳舜臣である。

陳家は先祖が本土からの本省人。父の陳通は日本の貿易商社で働き、1919年に台湾から神戸に転居している。陳舜臣は1924年の神戸生まれ、大阪外国語大学を卒業後も研究員として大学に残ったが敗戦とともに国籍が日本から中国に代わったことで国立大学に籍を持つことが出来なくなり日本での学問の道は閉ざされてしまった。1946年から台湾に渡ったものの、国民党の台湾進出を契機に1949年に日本に戻り、執筆活動を開始して、1968年「青玉獅子香炉」で直木賞を受賞。その作品は国民党の腐敗や国共内戦での敗北を描いていて当時の蒋介石政権の目に止まり、中華民国国籍を有していたが台湾渡航が許されない状況になる。そして1972年の日中国交樹立とともに中華人民共和国の国籍を取得し、1989年天安門事件を機に中華人民共和国国籍を放棄することになる。これが三度目の祖国喪失となる。

私は陳舜臣がこれほどアイデンティティの浮遊する人生を送ったという事を知らなかった。その生涯を振り返るとまさに「タイワニーズ」の苦悩の一端が見て取れる。生涯で500冊ともいわれる本を刊行し、波乱の人生を送った陳舜臣が死去したときに、日本のメディアが回顧談や評伝の記事を掲載することが少なかったことに野嶋は違和感を覚えたという。こうした状況を陳舜臣の姪である陳來幸(兵庫県立大学教授)は「台湾は彼の業績を受け継いでいない。中国は彼を台湾人として見ている。日本では華僑の作家。陳舜臣はどこからも、しっかりと評価されていない」と理解しているようだ。しかし、私は陳舜臣が「タイワニーズ」の渦の中からの視点からだけでなく、一歩外側から台湾、中国、日本の歴史を見ていたというプラス面をもっと評価したいと思う。

大阪外語大学で同期だった司馬遼太郎と陳。時が結びつけた二人は日台の人的関係の形として象徴的なものを感じさせられる。「街道をゆく 中国・閩の道」では司馬に帯同して中国を歩き、「街道をゆく 台湾紀行」は、陳が司馬にささやいた「街道をゆく、台湾はまだやな」という一言から企画が始まったというエビソードを聞くと、陳の中にある台湾と中国の多様性が見て取れる。

私は台湾に対して親近感がある。それは、仕事で台湾に行ってビジネスをしたときも、滞在中の私的時間の中でも違和感やネガティブな雰囲気に出逢ったことは無い。それは、中国、特に北京や韓国などでビジネスの場面では感じないものの、仕事を離れた状況でちょっとした言葉の端々にすんなりと納得できない感覚があるのとの違いである。また、家人の友人で、戦前に父親の仕事で台中での暮らしを経験した女性(84歳)がおられる。彼女が台湾の話をするとき、食べ物も気候も日々の生活すべてが楽しい思い出として残っているように語るのが印象的である。

私を含め、そうした肯定的感覚が日本人の中では典型だと思う。ただ、「台湾」という一括りで語ることのリスクは否定できない。国を隔てて、常に相手が存在していることを考えれば、それに甘えてはいけないと思いつつ、本書を読み終えた。そして、もう一度、司馬遼太郎と李登輝の対談を読んで見ようかと思い、「街道をゆく 台湾紀行」を手にしている。(内池正名)

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