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2019年9月

2019年9月15日 (日)

「湘南」の誕生

Shounan_masubuchi

増渕敏之 著
リットーミュージック(288p)2019.02.28
1,728円

「湘南」という言葉はごく日常的な言葉として使われている。しかし、その言葉は多様なイメージを持っていることからその構成要素を分析して「湘南」を考えてみようというのが本書の狙い。著者は1957年生まれというから、私より10歳若い世代であることを考えると、「湘南」という言葉から受ける感覚の差はそれなりに大きいと想像できる。しかし、本書では歴史的経緯や、「湘南」を表現した多くのコンテンツを客観的に捉えることで、世代論として議論を狭めることはない。読者自身の「湘南」経験を本書が示す湘南イメージ全体の中に位置付けてみるという、双方向的な感覚が面白い読書になった。

湘南という地域名称の発祥から本書はスタートする。1669年、大磯に禅僧の崇雪が鴫立庵を構え、「著盡湘南清絶地」と石碑に刻んだことに因んでいるという見方。加えて、明治以降、文人たちが相模川を湘江と呼び、その南側を「湘南」と名付けて政治結社、病院、会社、村などに「湘南」を冠していったという歴史が紹介されている。

一方、相模川の東岸である茅ヶ崎や寒川などでは「湘東」という名称が橋や団体名に付けられていた等、歴史的な「湘南」の範囲については興味深い話が多く紹介されている。

そして、現在の行政上の区分や、自動車の「湘南」ナンバープレートの対象自治体、気象庁が使う湘南の範囲の間でも地理的相違があるが、いずれにも鎌倉、逗子、葉山は入っていない。一方、湘南の範囲に関するアンケート結果が紹介されているが、第一位は「茅ヶ崎から葉山まで」であり、「大磯から葉山まで」が第二位であるという結果を見ても湘南の定義の複雑さが良く判る。

明治以降の大きな変化は西欧文化の流入とともに海水浴保養が謳われ、御用邸や別荘地化が進み湘南文化の礎となった。この範囲は大磯から葉山までの海岸線であり、こうした開発を支えたインフラとして国府津までの東海道線の開通(1887年)、横須賀線の開通(1889年)は重要な要素であった。

こうした要素を踏まえて、著者は本書における「湘南」を「大磯、平塚、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉、逗子、葉山」としてその範囲を定義している。

この地域としての「湘南」の等質性を著者は以下の三つの構成要素で説明しようとしている。別荘文化に代表される「高級・富裕」イメージ。サーフィン、ヨット、海水浴といった夏と海に代表される「若者」イメージ。「爆走族・暴走族」に代表される「ヤンキー」イメージ。これらが重層的に組み合わされて湘南イメージが作られていったという仮説である。これらを湘南の発展や歴史的事象に加えて、文学、音楽、映像、マンガといった領域での湘南の表現の実態を描いている。

「湘南の音楽」という切り口では、自由民権運動の盛んな時代に演歌師として活躍した添田唖蝉坊やオッペケペ節の川上音二郎が茅ヶ崎に住んだところから著者は語るが、そう言われても「なるほど湘南」という感覚は希薄だ。しかし、戦前に上原謙が病気がちな息子の加山雄三の健康のために茅ヶ崎に転居したという逸話や、戦後の相模湾沿岸の米軍演習場や施設が作られて米国に代表される基地文化が湘南サウンドの創成に大きく影響したと見ている。

こうした歴史を踏まえて、「湘南サウンド」を、湘南育ちの若者を中心に発表された海やスローライフを主なテーマとした一連のライトミュージックと定義しているのだが、加山雄三とランチャーズ、ザ・ワイルドワンズの時代を経て、1972年に荒井由実が登場し、初期の作品の「天気雨」では直接的に湘南が登場する。八王子に住んでいた彼女と湘南を結ぶ相模線か重要なインフラであり、加えてTUBEも座間の出身で相模線の貢献を指摘しているのは鉄道好きの私としては拍手したくなるような分析である。

そして、サザンオールスターズが茅ヶ崎出身として1978年にデビューしたが、そのインパクトの大きさを考えるとサザンの持つ「湘南」イメージは圧倒的である。一方、堀ちえみや荻野目洋子といったアイドル達も楽曲として湘南を歌っているものの、湘南を表現するコンテンツはやはり自作自演のアーチストの持つ表現力の強さが裏打ちされているという事だろう。

「湘南の文学」として、1903年に発表された村井玄斎の「食道楽」が取り上げられている。村井は平塚に広大な敷地を持ち耕作をしながら、東京や大磯から著名人を招きまさに食道楽を堪能していた人間である。そして、大正期に入り、里見弴、久米正雄など多くの文士が本邸や別邸を構えて鎌倉文士と言われ、鎌倉を舞台とした多くの作品を発表していた。

戦後は1955年に石原慎太郎が葉山を舞台とした「太陽の季節」を、1964年立原正秋が鎌倉を舞台とした「薪能」といった名作が生まれる。その後、片岡義男の「スローなブギにしてくれ」、村上春樹の「村上朝日堂」などにも湘南が語られているとしている。ただ、私は「スローなブギにしてくれ」からは「湘南」というよりも、あの時代の「若者の切なさ」を感じていたというのが実感である。

「湘南の映像」という切り口として、まず1936年に松竹撮影所が蒲田から大船に移転したことが指摘されている。これを契機に俳優たちが鎌倉などに居を構えたり、大船の都市開発の進展なども湘南イメージの醸成の一翼を担ったと言える。

湘南を描いた映画としては「太陽の季節」や「若大将シリーズ」、黒沢明の「天国と地獄」など多くの映画作品が紹介されているが、その中で1971年の藤田敏八の「八月の濡れた砂」や1990年の桑田佳祐の「稲村ジェーン」が私としては印象深い作品である。この二作はともに主題歌が大きなインパクトを感じていたことを思い出す。

最後の視点は「湘南とマンガ・アニメ」である。「スラムダンク」や「ピンポン」「南鎌倉高校女子自転車部」といった作品のストーリーから「ヤンキー」と「湘南」の係わり合いを読み解いているのだが、私は1980年代以降のマンガやアニメについては知見もなかったが、唯一、イラストレイターのわたせせいぞうを取り上げていたところは共感できるところであった。1970年代に出逢ったわたせのイラストや作品には若い落ち着いた男女、海、車、空といった風景が独特な色彩感覚で描かれている。わたせの作品が持つイメージは私の湘南の感覚に重なり合うというのも事実である。

こう考えてみると「湘南」という地域イメージ、地域ブランドの形成とは各自治体の努力によって作られたものではなく、時代と人々によって自然と作られていったというのが著者の主張の大きなポイントであり、多くの自治体が現在進めている地域活性化の戦略のヒントになるだろうと言う主張もしている。「湘南」で終わらせることなくこうした分析から地域活性化のヒントが生まれてきてほしいと思うのだ。

私は1987年から1991年の4年間(年齢的には40代前半)平塚市八重咲町に住んでいた。村井玄斎の旧宅と道を隔てたところだ。10分も歩けば海岸。134号線をドライブして茅ケ崎や片瀬などのレストランを訪れたり、平塚海岸からの投げ釣りや花火大会を楽しみ、箱根駅伝の応援をしたりと、東京の下町育ちとしては束の間の湘南ボーイを体験した。そうして充分楽しい時間を過ごした思い出を蘇らせてくれた読書であった。(内池正名)

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