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2019年10月18日 (金)

「在野研究ビギナーズ」荒木優太 編

荒木優太 編
明石書店(286p)2019.09.06
1,980円

「在野」という言葉の意味を問われて、「ブロ」に対する「アマチュア」、「公」に対する「民」、「組織」に対する「個」といった様に、自分自身の中では曖昧な概念として理解していることに気付かせられた。本書は10名を超える在野で研究している人達の実践体験を自ら紹介する形で「在野」を選択した理由や研究手法、仕事との兼ね合いなどが語られている。編者の荒木は、「在野研究」とは「大学に所属しない学問研究」というザックリとした定義で研究者を取り上げていることもあり、対象の広がりが面白さを増している。

「在野」という言葉は在朝(政府)と対で用いられたもので、「十分に能力はあるが朝廷に仕えない民間人」を指していた。明治以降はより広く政権を得ていない政治家達を指し、官学に対して私学を確立する教育者たち(福沢諭吉や大隈重信)も「在野」であり、美術の世界で官展(日展)の外での芸術活動に対して在野という言葉が使われているという記述を読むと、自分自身の定義の曖昧さという事だけでなく、「在野」ということばが時代とともに多様な使われ方をしてきたことが良く判る。

戦後、鶴見俊輔たちが立ち上げた「思想の科学」の同人たちは「民間アカデミズム」とか「在野の知識人」といった表現がされているのだが、鶴見は終戦で復員するとともに大学に籍を置いていたことを考えると何となくしっくりこない。とは言え、少なくとも「アカデミズム」に埋没していなかったと言うのは事実だ。そう考えると荒木の言う「在野とは、権力そのものを相対化する立場」という意味付けが私には一番納得感がある。

本書は、大きく三つの論点で構成されている。第一部として「働きながら論文を書く」という観点、第二部は「学問的なるものの周辺」としていかにも学問的な領域から趣味的な領域まで知の世界を広く紹介している。第三部は「在野研究」のインフラとして「新しいコミュニケーションと大学の再利用」を取り上げている。ただ、各章は14名の在野研究家たちが自らの研究の説明をしているので、興味のある章だけを読み進むことでも十分楽しめる。

何故在野で研究を始めたかについては、「教員になりたくなかった」とか「研究は好きだが仕事にはしたくない」という理由を挙げている人もいれば、人文系は一人で文献を読むことで成果は出せるという人も居る。そうした中でアシナガバエを研究してきた人が学問領域の特性として、生物の研究は歴史的にアマチュア研究者が大きな役割を果たしたという指摘をしている。フィールドの調査、収集が基本という理由だろう。

研究領域によって在野研究のやり易さ、やり難さがあると思うが、やはり設備・装置が要らない人文系が多くなるのは否めないと思う。働きながらの研究は「仕事が研究に役に立つのか」や「研究が仕事の役に立つのか」といった真面目な論点もあるのだろうが、いずれにしても両立させる努力と割り切りが必要ということだろう。

在野で研究することの苦労の種も多く語られている。文献収集やフィールドワークの費用捻出、大学図書館へのアクセスの制約、他研究者との接点の少なさによる学問的刺激の不足等々。こうした点は想像がつく範囲であるが、論文やフィールド調査に於ける「肩書」が悩みどころであるとは気づかなかった点だ。やはり仕事上の名刺みたいなものが必要なのだろうか。海外論文では「Independent Scholar」という肩書が使われていて問題ない様であるが、「皇居におけるタヌキの食性と季節変動」という2008年の論文の共著者のひとり「明仁」という人物の所属は「御所(The Imperial Residence)」と記載されているという。何とも不思議な表見である。

昨今の情報化社会で言えば、情報の発信・検索の観点では、図書館などに情報収集を依存する必要性は徐々に少なくなっているし、今までであれば論文によって研究成果を発信していたものが、多くの在野の研究者がインターネットを活用しているというのは肯けるところだ。そもそもインターネットで情報を集めることにコストは掛からないし、自宅で検索が出来ることを考えると、10年、20年前の研究状況とは全く変わってしまっていると思う。

同時に、発信手段として考えれば、日本語・英語の併記発信をすると海外研究者の目に止まる頻度も圧倒的に多くなる。こうした、グルーピングの形成も新しい流れなのだろう。ただ、インターネットによる欠点として、web情報にページの概念がなく、参照先を明確にし難いという指摘も一理ある。

一方、物理的な「本」の価値を力説している人がいる。本の効用として論考のまとめ、研究のけじめ等に加えて訂正がないことを指摘しており、「本は研究を終わらせるとともに、次を始めさせる強制力としての作用」があるというもの。その気持ちはなんとなく判る気がする指摘だ。

「在野」の学問のあり方について一般解が有るわけではないし、本書でも研究者達の体験・実践をベースにして読者一人一人が手法選択のヒントにしてほしいと編者は言っている。興味のあることを掘り下げて調べたり、実験したりすることは本人が無自覚のうちに研究者的なことをしている人は多いという。そう考えると、ちょっとした発想の転換で趣味が研究に変わるという事だ。つまり、「好きなものに憑りつかれ、好きの力を信じる」という姿勢が在野を支えているというのは事実だろう。その中で「書評を書くことも研究」という意見が出ていたが、今私が書いている読書感想文的書評では「継続」の意味はあっても「研究」には程遠いと思うのだが。

在野研究には「明日が無い」と編者は言う。
「明日は労働、育児、家事、病院通いといったもろもろのスケジュールで埋め尽くされているから。それでも『明後日はある』と信じて在野の研究者は日々励んでいる。また、明日の明日(明後日)は二重の意味で在野研究者に到来する。知識不足、指導者不在、その研究がなんの価値があるのかといった不安定の中、それでも突き進む頓珍漢でジグザグな方向へ、あさっての方向へ」

それでも、既存のアカデミズムの利用出来るものを目ざとく見つけ、「好きな領域=趣味」を掘り下げるという姿勢は、長い人生を考えれば自分自身でも持ち続けたいと思わせられた。

そう書きながら、若い時に国鉄の切符を集めていたことを思い出した。昭和初期から昭和30年代の山手線の切符の変遷だ。渋谷駅の切符のパンチの形が昭和16年の10月前後で変更になっていたり、硬券から物資不足で軟券に代わっていったり、なかなか興味深い事実があったことを思い出し、本棚の切符ホルダーを手にした。

「あさっての方向」でも「好きな方向」ならいい。研究という観点だけでなく、人生感として読んでも面白い一冊だった。(内池正名 )

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