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2019年12月16日 (月)

「下戸の夜」本の雑誌編集部下戸班編


本の雑誌編集部下戸班 編
本の雑誌社(192p)2019.06.25
1,760円

文学者、評論家、芸能人、サラリーマンなどが描いた「下戸」と「酒」についての文章を集め、「酒を飲まない我等は毎夜、何をして、何を想うのか」をテーマにして「酒はなくても人生は進む」と啖呵を切りつつ、酒の無い夜を過ごす下戸の生態を炙り出すという、かなりマニアックな企画本である。

かく言う私も下戸であり、家系的にも酒が強い人は少ないし、乾杯の一口はお付き合いするが、そのあとは酒は飲まない状態である。団塊の世代のサラリーマンとしては酒を強要するお客様も居なかったし、会社も外資系で仕事優先のストイックな社風だったのも幸いし、さしたるハンデキャップを感じたこともあまりない。

振り返れば、酒を飲んで感情開放度が上がり暴言や乱暴な所作が有ったとしても「酒が入っていたので」という言い逃れを批判がましく思っていたこともあるが、逆に心底自分を解放することが出来ない下戸の自分を残念に思うことはあった。どちらにしても些細なことと言えば些細なことである。そうした心理面を除き、金銭的には会合は全て「割り勘負け」であることは致し方ないとはいえ、生涯損失の累計はかなりの額になるのではないか。そんな、下戸である私が本書を読んで見たくなるのもまさに「下戸の夜」の過ごし方の典型かもしれない。

本書では、まず、下戸であることのメリットが挙げられている。

夏目房之助は祖父の夏目漱石同様に下戸だとのこと。得したこととして、素面だとカラオケを歌っても音程が気になって仕方がないが、ちょっと酒を舐めただけで楽しくカラオケが歌えるというもの。適当に感覚を鈍くさせるという事の様だ。同時に彼は飲まなくても酒の席に参加することは楽しいという感覚の重要性を語っているのだが、織田作之助の場合も同様で、「作之助は酒のみではありませんでしたが、そのかわり酒を飲まなくても、つねに酔っているようなところがありました。生活感情が通常の人間とはひと調子もふた調子も違っていた」と紹介している。

私も酒を勧められて断るときに「結構です。普段から酔った状態なので」と開き直って対応しているので、織田の感覚は良くわかる。まあ、そうした多少開き直り的メリットとは別に、ポジティブな「後天的下戸」の意見として「スパッと酒を止めて6年。良かったことは『夜の時間』が格段に長くなったこと。・・寝る前にちょっとした何かをやる精神的時間的な余裕が生じた。夜の時間が倍になったくらいのカルチャーショックだった。・・・そして、好きな本を読む、録画してあったTVを見る」という言葉が真っ当な下戸のメリットなのかと思う。

次は、下戸ならではの特に「夜の時間の潰し方」に関する話題である。

「珈琲と、本と、そして無駄話を愉しむ喫茶店」として、神保町古書街にある眞踏珈琲店が紹介されている。ここは深夜までの営業にも関わらず、アルコール抜きの面々が静かに本を読み、語り合うという空間とのこと。これはこれで腑に落ちる時間の使い方だ。

加えて、パフェに関する、作り方、素材、名前の付け方等をかなりマニアックに熱く語られている。私はあまり食べたことが無いので、こうした領域を真剣に追求している人が居るという事に驚くばかりである。その他、表参道の「裏道」を夜の雑踏の中をさ迷い歩くという楽しみ方を提唱している人や、夜の神社仏閣を訪れて、そこに出没する猫の写真を撮る人など、読み進んで行くと「下戸」とは関係なくディープな趣味の世界が展開されていく。

次のテーマは「下戸の主張」として、日々の鬱積した思いが語られている。その原因の多くが、酒飲みから上から目線でものを言われることへの反論だ。

その典型として、「『お酒を飲まない人』のことを世の中は『お酒を飲めない人』と規定する。『コーラを飲まない人』を『コーラが飲めない人』とは言わない。この一点だけでも、お酒ってだいぶ偉そうである」とか、「最初から炭水化物を頼むと『なんでそんなもの頼んでいるんだ』といった雰囲気になる。それが出来れば割り勘負けしない。そして、支払いの計算などは下戸が面倒を見ているのだが、酒飲みはそれさえも覚えていない」と言った声である。

確かに下戸は飲み会の席で仲間の面倒を見ていたり、我慢していることがあるのは否めない事実である。それでも、酒の効用として、下戸の人で酒を飲めたらという思いになった娘さんの話しが紹介されている。父親とちょっとした仲違いをした娘さんは「何年もろくに会話をしていない父とどうやって話をするか。今更、父と仲良くできないという不必要な恥を捨てるにはお酒の力を少しだけ借りたい」というのも切実な声だ。

最後は「下戸とカルチャー」と題して、文学・文壇の下戸話や、映画における酔っぱらいについて考察している。作家の名前を挙げられてみると、意外に下戸が多い事に気付かされる。たとえば尾崎紅葉、夏目漱石、菊池寛、武者小路実篤、江戸川乱歩、広津和郎といった面々である。「下戸が支える文学賞」という話には驚かされた。それは、下戸の菊池寛が率いる文芸春秋社で、直木三十五、芥川龍之介という二人の作家の名前を冠した文学賞がつくられた。その直木も芥川も下戸であったことと、初期の両賞の選考委員の人達、小島政二郎、佐藤春夫、瀧井孝作、川端康成、宇野浩二、片岡鉄平などは皆下戸だった。それが、必然であったと言う理由は、選考委員は沢山の作品を読まなければならず比較的時間のありそうな人が選抜されたからという。まさに「下戸の夜」に小説を読みふけることが出来るからこそ選考委員に選ばれたと言うのだ。それも良い様な、悪いような。

加えて、下戸が主役のブックガイドやらジンジャーエール研究、アルコール血中濃度の段階による酔っぱらい観察ガイドなども載せられている。本書全体としては、まあ下戸としての溜飲を下げる効果もあれば、無理やりそこまで言わなくても良いのではないかと言う複雑な気分が残る。

下戸の漱石は本書でも色々な形で語られているが、「吾輩は猫である」の最後が紹介されている。「吾輩」は迷亭などが飲んでいた宴席に残っていた酒を舐めて踊りだしたくなる。そして、気が付くと水瓶に落ちてもがいても沈むばかり。そして、考える。

「もうよそう。勝手にすればいい。…次第に楽になってくる。…不可思議の太平に入る」

こうした「太平」を人に与えうる酒の力はすごいと思う。下戸の自分がそこに至らない悔しさは有る。そんなことを考えながら、近所のコーヒー豆屋で挽いてもらったマンデリンをドリップでゆっくりと淹れている。こうしてコーヒーを飲みながらの読書で夜は更けて行く。この「太平」もかなりのものだと思っているのだが。(内池正名)

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