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2020年4月18日 (土)

「鶴見俊輔伝」黒川 創

黒川 創 著
新潮社(568p)2018.11.30
3,190円

最初に買った鶴見俊輔の本は『限界芸術論』だった。1973年のことで、当時僕は週刊誌記者として芸能担当をしていた。この本は漫才や流行歌、雑誌や広告など後にサブカルチャーと言われるものを論じて、自分の興味とも仕事とも重なるところがありそうなので買い求めたと記憶している。

もちろん鶴見俊輔の名前はそれ以前から知っていた。雑誌『思想の科学』の中心メンバーとして、そして活発な市民運動を繰り広げていたべ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)の創設メンバーとして。でもそれ以上に鶴見俊輔の名前を強烈に意識したのは、吉本隆明対談集『どこに思想の根拠をおくか』に収められた、書名と同タイトルの対談だった。ここでは60年安保反対運動に際しての二人の思想と行動をめぐって、互いに共鳴しながらも立場の違う両者ががしがし噛みあう、いま読んでもスリリングなものだった。学生時代に読んで傍線を引いた部分を引用してみよう。

「吉本 いや、ぼくはそうは思わないですね。あいまいさは残らないのだということが一つの原理としてくみ込まれていなければ、それは思想じゃない。……僕は思想というものは、極端にいえば原理的にあいまいな部分が残らないように世界を包括していれば、潜在的には世界の現実的基盤をちゃんと獲得しているのだというふうに思うんですよ。……

 鶴見 私は思想として原理的に定立するのは、あくまでも思想のわくぐみの次元のこととして考えるんです。それを現実とからめて考えるときには、かならず適用の形態で、こういうふうにも適用できる、別のふうにも適用できると、あいまいさが思想の条件として出てくる根拠があって、……思想が状況とかかわる場合には、どうしてもあいまいさは排除できないと考えるのです。

 吉本 そこが私とちがうところだ。

 鶴見 そうですね。いつもそれを感じています」

これを読んだときは20歳前後だったから吉本隆明の原理的で直線的な言葉に惹かれたけれど、一方で鶴見俊輔の言う「あいまいさ」も心に残った。その後、鶴見の著作を読むようになって、これもありうる、あれもありうるという「あいまいさ」が彼の幅広い関心やさまざまな活動の底に常にあり、それが論ずる対象や他者に対する寛容な眼差しを支えていたことに気づいた。

『鶴見俊輔伝』は、子供のころから鶴見の周辺にいて晩年まで近くで接した著者による伝記。『思想の科学』編集委員を務め、鶴見との共著もあり、私生活も知りつくした著者でなければ書けないものになっている。それを全体として評価する力は当方にないので、へえ、そうなんだ、と思えた個所を拾ってみる。

鶴見「俊輔」という名は、初代総理大臣・伊藤博文が若年に名乗った「伊藤俊輔」から来ている。鶴見は祖父が台湾総督府長官、満鉄総裁などを務めた後藤新平、父が作家で政治家の鶴見祐輔という名門に生まれた。後に鶴見は父を「一番病の優等生」だったと批判しているが、父は総理大臣になる野心を持って息子に「俊輔」と名づけた。母は夫・祐輔のそんな野心を空しく感ずる人で、息子・俊輔に「厳しいしつけと過剰な愛情」で臨んだ。俊輔はそんな両親の期待を裏切るように中学時代に不良になり、年上の女給と関係を持ったり、自殺未遂を起こして学校を退学した。

3枚の写真が収められている。一枚は小学校時代だろうか、有名家庭のお坊ちゃんとして雑誌に登場したもの。洋館のある庭で、半ズボンにネクタイ姿でサッカーボールを持ち、いかにも戦前の上流階級の雰囲気を感じさせる。あとの二枚は十代で両親や家族と一緒に写っている。こちらになると俊輔は身体も首も斜めに構え、横目でカメラを睨む。不敵な面構えの不良少年。だが父と母への複雑な思いから「自罰的な意識」が鬱を引き起こし、それは後々まで尾を引いた。60年安保後に鬱を発症したときは、「鶴見俊輔」という名前を書けなくなったという。「鶴見」も「俊輔」も、彼にとってそれほどまでに過重なストレスを感じさせるものだったのだろう。

第二次大戦中、鶴見は海軍軍属となり通訳としてジャカルタで働いていた。このとき彼は、黒川が「この自問は、戦後を生きていく上で、終わらずに続くものとなった」と書く出来事に遭遇している。あるとき、インド人捕虜がジャカルタに連れてこられた。捕虜を持て余した軍は鶴見の隣室の軍属に殺害を命じる。殺害後、その軍属は「毒薬を飲ませたが、死なない」「ピストルを続けざまに撃つと、土のなかのうめき声が途絶えた」と鶴見に話す。鶴見はその記憶を忘れることができない。「捕虜殺害の命令は、偶然にも、自分の同僚に下った。だが、その命令が自分に下っていたらどうしたか? 自殺しただろう、と考えることはできる。だが、……逃れられずに、やはり自分も捕虜を殺したかもしれない。だとすると、戦場で一度は人を殺した者として、自分は、その後をどうやって生きることになっただろうか?」。内心でそんな疑問にさいなまれながら、この時期に鶴見は日本軍やドイツ軍の士官用慰安所をつくる仕事にも従事している。

こうした体験から鶴見は、「なぜ悪が存在しているのかという問いは、なぜ不完全なものが存在しているのかという問いと同じである」というタゴールに触発されて「悪の問題」を考えはじめる。自分を含めた人間の「悪」「不完全さ」「どうしようもなさ」。そういう人間への認識が、鶴見が書くもの、しゃべる言葉の背後にはいつもあるように思う。先の「あいまいさ」もそれにつながるだろう。「自分の体験について繰り返し考え、その体験についての態度を決めるというなかで、体験の記憶の仕方、これの保持の仕方が、そのまま理論になっているような思想の方法があると思うようになった」(鶴見)。そうした認識の延長線上に戦後の「転向」共同研究や、べ平連の結成、ベトナム戦争での米国脱走兵の援助、さらには日本軍の従軍慰安婦に謝罪し償い金を渡す「アジア女性基金」の呼びかけ人を引き受けたことなどがあるのだろう。

「アジア女性基金」を巡っては、こんな発言もしている。それがまた、いかにも鶴見らしい。「慰安所は、日本国家による日本をふくめたアジアの女性に対する凌辱の場でした」と語った後、彼はこう続けている。「私は不良少年だったから、戦中に軍の慰安所に行って女性と寝ることは一切しなかった。……だけど、十八歳ぐらいのものすごいまじめな人間が、戦地から日本に帰れないことがわかり、現地で四十歳の慰安婦を抱いて、わずか一時間でも慰めてもらう、そのことにすごく感謝している。……この一時間のもっている意味は大きい。私はそれを愛だと思う」。この発言(1997年)は当時も物議をかもした。どう見ても「政治的に正しい」言葉とは思えない。でもそれをあえて言ってしまうのが、戦中の体験を考えぬくことから戦後の自分の方法を見いだした鶴見の、いかにも鶴見らしいところだ。黒川は、こう評している。

「自分と同世代の死地に赴いた少年兵士たち、彼らに代わって、世話になった慰安婦の女性たちに、いま、お礼を述べておく──。これは、まちがった振るまいであるのかもしれない。だが、それを承知で、このとき鶴見が言い残しておきたかったものは、そういった気持ちだったのではないかと、私は感じている」

鶴見はたくさんの著作を残したが、ある時期から「伝記」に力を注ぐようになった。「黒岩涙香」『高野長英』『太夫才蔵伝』『柳宗悦』『夢野久作』などがそれに当たるだろう。僕は「黒岩涙香」しか読んでないのだが、個人の事績を時系列でたどる堅実な伝記というより、人間を「地理と社会史のなかに一個の現象として」(『戦時期日本の精神史』)捉え、人物と時代との関わり、それが孕む問題を自由に考えるといった方法を取っているように思える。『鶴見俊輔伝』で黒川創は、鶴見のこの方法を踏襲している。それが黒川の鶴見俊輔へのなによりのオマージュになっている。(山崎幸雄)

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