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2020年6月

2020年6月17日 (水)

「カブラの冬」藤原辰史

藤原辰史 著
人文書院(156p)2011.1.20
1,650円

「第一次世界大戦期ドイツの飢餓と民衆」とサブタイトルを打たれたこの本は、「レクチャー 第一次世界大戦を考える」というシリーズの一冊。京都大学人文科学研究所の共同研究を基に刊行された十数冊のうちの一冊だ。「カブラ(蕪)の冬」とは、日本ではあまり知られていないが、第一次世界大戦中のドイツで飢餓によって76万人の餓死者が出た事態を指す。1916~17年の冬、食糧が尽きて飢饉となったドイツでは、ふだん飼料として使われることが多かったカブラ(ルタバガ)を食べるしかなく、多くの国民が飢えや栄養失調で死んだ。

ルタバガという野菜には馴染みがない。外見は聖護院かぶらに似ているが、カブとは別種のアブラナ科の野菜。明治期に日本にも移入され北海道で栽培されたが、食用としては広まらなかった。筆者も食べたことはなく、ある人によると「加熱すると甘くなり、食感はジャガイモかカボチャ、香りはキャベツみたい」という。日本で食糧不足に陥った第二次大戦中に米の代用食として食べられたイモ類や穀類のようなものだったのだろう。

この本を読んでみようと思ったのは、著者の藤原辰史という名前にこのところ出会うことが多かったから。食の思想史、農業史の研究者として『給食の歴史』『戦争と農業』『ナチスのキッチン』など次々に本を出している。現在の新型コロナウイルスに関しても、「パンデミックを生きる指針」という文章を発表している(https://www.iwanamishinsho80.com/)。

20世紀初頭、第二帝政下のドイツは工業、科学、軍事が発展してイギリスなど列強に伍し、その秩序に挑戦するほどの経済力を備えるようになっていた。そんな「近現代史上稀に見る先進工業国の飢饉」で、なぜ76万人もの死者を出すに至ったのか。そしてその飢餓体験が、後のナチス台頭とどう関係してくるのか。そんな視点から藤原は「カブラの冬」を読み解いていく。

第一次世界大戦を戦うドイツが飢饉に陥ったのには、大きく二つの理由がある。ひとつは、交戦国であるイギリスが海上封鎖を発動して、ドイツがアメリカやカナダから輸入していた食糧を止めてしまったこと。海上封鎖は1909年に国際法上合法と認められた戦時措置で、敵国の港湾封鎖を宣言した国は封鎖線を越えようとする船舶をどの国籍の船でも拿捕し、戦時禁制品を没収することができる。当時、イギリスは世界最大の海軍力を誇っていたから、「直接の戦闘を避け、遠隔操作で相手国の弱体化を図る」ことに、その意図があった。

もうひとつの理由は、ドイツが食糧輸入大国であったこと。開戦直前のドイツはカロリーベースで全食糧の5分の1を輸入に頼っていた。輸入していた主な食糧は小麦、大麦(飼料)、濃厚飼料(牛乳、バター用)、野菜、鶏卵、肉、コーヒーなど。自給できていたのはライ麦、ジャガイモ程度だった。輸入相手国は小麦の場合、アメリカ、ロシア、アルゼンチン、カナダの順になっている。このうちロシアは交戦国になり、海上封鎖によってアメリカ、カナダ、アルゼンチンからの輸入が激減した。「交通はドイツにとってのアキレス腱」なのだった。

ドイツがイギリス海峡と周辺水域の敵国艦船すべてを攻撃する報復に出たのは半年もたってからだった。その背景には、この戦争は短期で勝てるというドイツの目算があった。ドイツが戦争を始めるとすれば、ロシアとフランスに対する二正面作戦となる。そこで参謀総長のモルトケは、まずフランスを急襲して叩き、転じてロシアを撃つという作戦を立てた。ところがパリ目指してベルギーに侵攻したドイツ軍は激しい抵抗に遭い、「マルヌの戦い」で連合国軍に敗北してしまう。以後、戦線は膠着し、西部戦線は膨大な物資と人員を要する長期の塹壕戦となってゆく。

銃後の日常生活への影響は、開戦の年から既に現れている。インフレと食糧価格の高騰が家計を直撃した。パンや小麦が配給制になり、闇経済も生まれた。やがて配給のパンにジャガイモが混ぜられるようになり、2年後にはパンでなくルタバガが配給されるようになる。

そんな食糧危機のなかで、「豚殺し」と呼ばれる事態が起きた。ドイツ全土で豚が「ドイツの敵」として大量に虐殺されたのである。豚はドイツの食卓に欠かせないものだが、こういう理屈だった。家畜の飼料消費は人間の2倍以上であり、家畜頭数を減らすことで、大量の飼料(ジャガイモなど)を人間に回すことができる、と。標的はとりわけ飼料消費量の多い豚だった。その結果、前年に2500万頭いた豚は翌年には1600万頭まで減った。屠殺があまりに急で、腸詰や燻製にする作業が間に合わず、多くは肥料にされたり、そのまま腐敗してしまった。しかし、そのことで人間に回るはずのジャガイモの在庫量は、屠殺の後でも増えることはなかったという。

そんなエセ科学的精神主義のひと幕の後に、「カブラの冬」がやってきた。1916年は凶作だった。前年に5400万トンの収穫があったジャガイモは2500万トンに激減。秋には食糧危機が深刻化し、飢饉といえる状況に陥った。都市下層民の主食は、パンからルタバガになった。飼料だったルタバガを少しでも美味しく食べるため、「ルタバガスープ、ルタバガ炒め、ルタバガスフレ、ルタバガサラダ、酢漬けルタバガ、煮込みルタバガ団子、ロールキャベツのルタバガ詰め」などのレシピが配られた。豚肉の代わりに、カラス、スズメを食べることも推奨された。

「カブラの冬」の最大の犠牲者は子供と女性だった。飢餓に打ちのめされたドイツ人の憎悪は、敵国だけでなく国内の敵であるユダヤ人と社会主義者に向けられた。その記憶が十数年後、大恐慌の不況のなかで蘇る。「飢餓の反省を最も厳しく、しかも強烈な憎悪とともに内面化したのがナチズム」なのだった。

『我が闘争』に続いて出版されるはずだった『第二の書』のなかでヒトラーは、かつての敵の兵士となら和解できるが、裏切り者とはできない、と述べている。第一次世界大戦のとき、戦闘では勝っていたのに国際的なネットワークを有するユダヤ人と社会主義者、国内の裏切り者が共謀して革命を起こしたためにドイツは敗北した、というわけだ。「背後からの一突き伝説」と呼ばれる。ワイマール共和国時代のナチスの選挙ポスターには、子供や家族のイラストとともに、「飢餓と絶望に対抗せよ! ヒトラーを選べ」「僕たちを飢えさせないで! 飢餓と寒さに対する闘争に身を捧げよ」といったキャッチが印刷されている。「世界恐慌期の日々のパンへの不安がナチ党を政権の座に押し上げる。15年ほど前の飢餓を体験した民衆にとって、飢餓からの解放というスローガンは、それぞれの体験の度合いに応じて、重みを持って受けとめられたに違いない」

最後に藤原は、「20世紀的な暴力感覚」について触れている。ナチスによる空前絶後の暴力の象徴として、アウシュビッツが挙げられる。でも藤原は、フォード工場のような大量生産システムでユダヤ人を虐殺したのと同質な暴力感覚を、イギリスによる海上封鎖にも見ている。敵国の国民を飢えさせることを目的とし、実際76万人の餓死者を出した海上封鎖は、「良心の呵責を感じずに相手国の住民を攻撃でき」、「敵を遠隔操作で消し去る暴力感覚」においてアウシュビッツに先んじ、アウシュビッツと同じものである、と。その暴力感覚は、その後も広島長崎から枯葉剤、クラスター爆弾、ドローン攻撃といった形で現在までを貫いている。「第一次世界大戦以降の時代を生きる人間たちの精神の、おそるべき基調」だと藤原は言う。

ところで、生きるか死ぬかという飢餓の集団体験は現在の日本人にはほぼない。でも「新型コロナウイルス以後」の世界で経済のグローバリズムは停滞あるいは後退するだろうから、食糧だけでなくいろんな物資の実質的「海上封鎖」が起きる可能性は高い。実際、ロシアやカザフスタンが小麦に、インドやベトナムが米に輸出規制をかけはじめた。この国でも食糧の自給率向上が目指されて久しいけれど、実質的な成果が上がっているとは言えない。でもこれからの世界は、地球規模でも一国内でも否応なく食糧やエネルギーのローカル化、地産地消の動きが強まっていくだろう。グローバリズムの弊害が露わになったいま、そのこと自体は悪いことではないと思う。その一方、自国さえうまくいけばよしという自国ファーストの姿勢は新たな分断をつくりだす。第一次世界大戦と大恐慌後の世界はブロック経済化し、ブロック間の競争と対立が第二次世界大戦を生む原因のひとつになった。そんな歴史も踏まえながら、これからの世界がさらに対立と分断を深めていくのか、それを修復する動きが生まれてくるのかに目をこらしたい。(山崎幸雄)

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「漱石と鉄道」牧村健一郎

牧村健一郎 著
朝日新聞出版(328p)2020.04.10
1,870円

私は夏目漱石も好きだし、鉄道も好きだ。だからと言って、その二つを関連付けて考えることはほとんどなかった。あったとしても、松山の軽便鉄道ぐらいなものだろう。しかし、著者は漱石の作品や日記などに鉄道に関する描写が多いことに注目している。例えば、「三四郎」は若者が九州から状況してくる東海道線の中の描写から始まり、「坊ちゃん」は新橋ステーションで主人公が下女の清と別れて四国に旅立つ場面から始まるように、出だしの情景やエンディングで大きな役割を果たしている。社会インフラとして定着して行った鉄道の歴史を詳しく紹介しながら、漱石の作品、日記、書簡などに表現されている鉄道の旅を当時の時刻表や旅行案内などを引用して、具体的に旅を再現して見せる。ちょうど、旅する漱石の向かいの座席に座って同行している気分を味わっているような一冊。

漱石の人生を振り返って見ると、1867年(慶応3年)生れ、大学予備門予科から帝国大学英文科に入学し、1893年(明治26年)に卒業。高等師範、愛媛県松山中学、熊本第五高等学校等で教鞭をとり、1900年(明治33年)文部省より英語教育法研究のため英国出張を命ぜられる。1903年(明治36年)帰国、帝国大学と第一高等学校で教鞭をとるも1907年(明治40年)すべての教職を離れ、朝日新聞に小説記者として就職している。1916年(大正5年)49才で死去。こうしてみると、まさに文明開化を経て、日清・日露の戦いを通して日本が世界に躍り出て行った時代であり、技術的にも政治的にも欧米各国に追いつき、追い越せの時代である。漱石自身も常に先端的な学校制度での教育を受けてきた訳だし、英国留学のチャンスを手にしたということからも、「開化の子」と言われてもおかしくない。

社会変革の象徴としての鉄道は漱石にどんな影響を与え、また、実際に漱石は鉄道をどう利用したのかを解明し、歴史の一コマも見つけようというのが本書の試みである。東海道線や甲武鉄道(中央線)など全国の鉄道、漱石留学先のロンドンの地下鉄、この時代の軍事的にも重要インフラであったシベリア鉄道や南満州鉄道等の進化を漱石の文章と共に俯瞰している。同時代に生きた「漱石と鉄道」という壮大なテーマのもとにページは進んで行く。

本書では、数多くのエピソードが取り上げられているのだが、その一つが「坊ちゃん」の主人公は如何なるルートで四国に行ったのか、というもの。新橋駅で下女の清と別れて、四国の松山とおぼしき地に向かったのだが、小説では新橋駅以降の旅程は省略されていて、いきなり愛媛県三津浜の港に上陸する。「坊ちゃん」が書かれたのは明治39年だが、東京市電の記述内容などから小説の舞台は明治30年頃、漱石が松山中学に赴任したのが明治28年であることを考えると、自らの松山行の体験を書いていると結論付けている。ルートについて荒正人の説に代表される定説は、新橋から神戸経由広島まで列車で行き、宇品港から短距離連絡船で三津浜港に至ったというもの。

しかし、著者は、漱石の知人あての書簡で「7日11時新橋発、9日午後2時当地着」と書いていることと、「坊ちゃん」の中で描かれている三津浜到着の様子からルートの特定について新たな説を提示している。

「ぷうといって、汽船が止まると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せてきた。・・・事務員に聞いてみるとおれは此処へ降りるのだそうだ」

艀がくるとすると乗って来た船は大型船であることが判る。事務員(船員)との会話から察するにこの船はさらに遠くへ行くと思われる。こうした推理から、神戸まで列車で行き、大阪商船が運行していた大型客船による神戸発、三津浜経由宮崎行か宇和島行に乗ったのではないかとの思いに至る。 

私は、このような分析をしながらの読書はしないのだが、著者の分析が正しそうに思えるのも漱石が小説を書くにあたって単なる想像でなく、時刻表を基にして表現していたという著者の仮説に説得力はあるし、漱石がまめに日記をつけていたこともあり、自らの旅の記憶や記録から小説に仕上げているという事が言えるのだろう。

もう一つの興味をもったテーマが「すれ違う漱石と伊藤博文」というものだ。漱石は明治42年9月2日から満州を旅している。当時南満州鉄道総裁だった中村是公は漱石の学生時代の下宿仲間であり、その誘いもあっての邂逅の旅行だった。一か月に及ぶ満州の旅を終えた漱石は10月13日に韓国に入り、ソウル9:00発の直行急行に乗り釜山に18:30に着く。日記には「すぐ船に乗る。・・10月14日8時下関着。」とあるから、釜山20:00発、翌7:30下関港着の連絡船が該当する。その後、下関から広島に入り、「昨晩(10月14日)広島発午後9時30分発の寝台で寝る。夜明方神戸着。大阪にて下車」後、大阪朝日本社を訪ねている。「TRAIN SERVICE 時刻表(明治43年)」から、広島発21:34発の寝台急行が神戸着6:22、大坂着7:22なのでこの列車と特定できる。

一方、伊藤博文は新聞記事から動き方が判る。「十四日午後五時二十三分、大磯通過の急行列車を特に停め・・・満州行きの途に就く」(東京朝日)。時刻表には新橋15:40発の下関行急行が有る。この列車は大船発16:57、国府津着17:36だから、大磯17:23とはピッタリである。それにしても、大政治家とはいえ、急行列車を特別に停めさせるというのも時代である。そしてこの急行は翌15日の6:20大阪、7:17神戸に到着し下関に向かう。

「つまり、二人を乗せた列車は明治42年10月15日朝7:00頃、東海道線の阪神間で轟音とともにすれ違い(既に東海道線は複線化されている)、そして東西に別れていった。」

数日後、漱石は伊藤が暗殺されたとの報を聞く。二週間前に自身が訪れたハルピン駅で中村是公と並んでいた伊藤博文が殺された事実は漱石に深い思いを抱かせたと思うが、漱石は阪神間で伊藤とすれ違ったことは知らない。

この他、楽しい検証も紹介されている。大正元年、病気も進んでいた漱石は妻鏡子を同行して長野に講演に行っている。日記には軽井沢駅のホームを「逍遥」したと書かれている。信越線は明治26年に碓氷峠越えをアプト式機関車の導入で開通し軽井沢では機関車の付け替えもあり停車時間が長かった。明治30年頃には軽井沢駅では立ち食いの駅そばが商売を始めており、著者は「この逍遥の間、妻の鏡子を車内に残して、漱石は一人蕎麦を食っていたのではないか」と想像は膨らむばかりである。

一方、漱石は鉄道について、かなり否定的な物言いをしているという著者の指摘は新鮮であった。「草枕」の中の、「何百という人間を同じ箱に詰めて、轟と通る・・・・汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって、この個性を踏みつけようとする。・・・・あぶない。気を付けねばあぶないと思う」というもの。近代化の象徴ともいえる鉄道を警戒しつつ、その利便性は充分に活用したという著者の指摘は正しいのだろう。

しかし、漱石は鉄道に止まらず、先端技術の進歩とともに近代化がもたらす本質的な負の部分をも引き受けて、抱え込まなければならなかった姿が病気と闘い続けた彼の人生そのものである。ナイーブであるだけにストレスは高まり精神をすり減らし、胃潰瘍も重症化していったに違いない。それにしても、明治という変革期を49才で駆け抜けた漱石の残したものがいかに多いかを再認識させられた一冊である。著者は「漱石」以上に「鉄道」が好きだと断言できる。(内池正名)

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