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2020年6月17日 (水)

「漱石と鉄道」牧村健一郎

牧村健一郎 著
朝日新聞出版(328p)2020.04.10
1,870円

私は夏目漱石も好きだし、鉄道も好きだ。だからと言って、その二つを関連付けて考えることはほとんどなかった。あったとしても、松山の軽便鉄道ぐらいなものだろう。しかし、著者は漱石の作品や日記などに鉄道に関する描写が多いことに注目している。例えば、「三四郎」は若者が九州から状況してくる東海道線の中の描写から始まり、「坊ちゃん」は新橋ステーションで主人公が下女の清と別れて四国に旅立つ場面から始まるように、出だしの情景やエンディングで大きな役割を果たしている。社会インフラとして定着して行った鉄道の歴史を詳しく紹介しながら、漱石の作品、日記、書簡などに表現されている鉄道の旅を当時の時刻表や旅行案内などを引用して、具体的に旅を再現して見せる。ちょうど、旅する漱石の向かいの座席に座って同行している気分を味わっているような一冊。

漱石の人生を振り返って見ると、1867年(慶応3年)生れ、大学予備門予科から帝国大学英文科に入学し、1893年(明治26年)に卒業。高等師範、愛媛県松山中学、熊本第五高等学校等で教鞭をとり、1900年(明治33年)文部省より英語教育法研究のため英国出張を命ぜられる。1903年(明治36年)帰国、帝国大学と第一高等学校で教鞭をとるも1907年(明治40年)すべての教職を離れ、朝日新聞に小説記者として就職している。1916年(大正5年)49才で死去。こうしてみると、まさに文明開化を経て、日清・日露の戦いを通して日本が世界に躍り出て行った時代であり、技術的にも政治的にも欧米各国に追いつき、追い越せの時代である。漱石自身も常に先端的な学校制度での教育を受けてきた訳だし、英国留学のチャンスを手にしたということからも、「開化の子」と言われてもおかしくない。

社会変革の象徴としての鉄道は漱石にどんな影響を与え、また、実際に漱石は鉄道をどう利用したのかを解明し、歴史の一コマも見つけようというのが本書の試みである。東海道線や甲武鉄道(中央線)など全国の鉄道、漱石留学先のロンドンの地下鉄、この時代の軍事的にも重要インフラであったシベリア鉄道や南満州鉄道等の進化を漱石の文章と共に俯瞰している。同時代に生きた「漱石と鉄道」という壮大なテーマのもとにページは進んで行く。

本書では、数多くのエピソードが取り上げられているのだが、その一つが「坊ちゃん」の主人公は如何なるルートで四国に行ったのか、というもの。新橋駅で下女の清と別れて、四国の松山とおぼしき地に向かったのだが、小説では新橋駅以降の旅程は省略されていて、いきなり愛媛県三津浜の港に上陸する。「坊ちゃん」が書かれたのは明治39年だが、東京市電の記述内容などから小説の舞台は明治30年頃、漱石が松山中学に赴任したのが明治28年であることを考えると、自らの松山行の体験を書いていると結論付けている。ルートについて荒正人の説に代表される定説は、新橋から神戸経由広島まで列車で行き、宇品港から短距離連絡船で三津浜港に至ったというもの。

しかし、著者は、漱石の知人あての書簡で「7日11時新橋発、9日午後2時当地着」と書いていることと、「坊ちゃん」の中で描かれている三津浜到着の様子からルートの特定について新たな説を提示している。

「ぷうといって、汽船が止まると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せてきた。・・・事務員に聞いてみるとおれは此処へ降りるのだそうだ」

艀がくるとすると乗って来た船は大型船であることが判る。事務員(船員)との会話から察するにこの船はさらに遠くへ行くと思われる。こうした推理から、神戸まで列車で行き、大阪商船が運行していた大型客船による神戸発、三津浜経由宮崎行か宇和島行に乗ったのではないかとの思いに至る。 

私は、このような分析をしながらの読書はしないのだが、著者の分析が正しそうに思えるのも漱石が小説を書くにあたって単なる想像でなく、時刻表を基にして表現していたという著者の仮説に説得力はあるし、漱石がまめに日記をつけていたこともあり、自らの旅の記憶や記録から小説に仕上げているという事が言えるのだろう。

もう一つの興味をもったテーマが「すれ違う漱石と伊藤博文」というものだ。漱石は明治42年9月2日から満州を旅している。当時南満州鉄道総裁だった中村是公は漱石の学生時代の下宿仲間であり、その誘いもあっての邂逅の旅行だった。一か月に及ぶ満州の旅を終えた漱石は10月13日に韓国に入り、ソウル9:00発の直行急行に乗り釜山に18:30に着く。日記には「すぐ船に乗る。・・10月14日8時下関着。」とあるから、釜山20:00発、翌7:30下関港着の連絡船が該当する。その後、下関から広島に入り、「昨晩(10月14日)広島発午後9時30分発の寝台で寝る。夜明方神戸着。大阪にて下車」後、大阪朝日本社を訪ねている。「TRAIN SERVICE 時刻表(明治43年)」から、広島発21:34発の寝台急行が神戸着6:22、大坂着7:22なのでこの列車と特定できる。

一方、伊藤博文は新聞記事から動き方が判る。「十四日午後五時二十三分、大磯通過の急行列車を特に停め・・・満州行きの途に就く」(東京朝日)。時刻表には新橋15:40発の下関行急行が有る。この列車は大船発16:57、国府津着17:36だから、大磯17:23とはピッタリである。それにしても、大政治家とはいえ、急行列車を特別に停めさせるというのも時代である。そしてこの急行は翌15日の6:20大阪、7:17神戸に到着し下関に向かう。

「つまり、二人を乗せた列車は明治42年10月15日朝7:00頃、東海道線の阪神間で轟音とともにすれ違い(既に東海道線は複線化されている)、そして東西に別れていった。」

数日後、漱石は伊藤が暗殺されたとの報を聞く。二週間前に自身が訪れたハルピン駅で中村是公と並んでいた伊藤博文が殺された事実は漱石に深い思いを抱かせたと思うが、漱石は阪神間で伊藤とすれ違ったことは知らない。

この他、楽しい検証も紹介されている。大正元年、病気も進んでいた漱石は妻鏡子を同行して長野に講演に行っている。日記には軽井沢駅のホームを「逍遥」したと書かれている。信越線は明治26年に碓氷峠越えをアプト式機関車の導入で開通し軽井沢では機関車の付け替えもあり停車時間が長かった。明治30年頃には軽井沢駅では立ち食いの駅そばが商売を始めており、著者は「この逍遥の間、妻の鏡子を車内に残して、漱石は一人蕎麦を食っていたのではないか」と想像は膨らむばかりである。

一方、漱石は鉄道について、かなり否定的な物言いをしているという著者の指摘は新鮮であった。「草枕」の中の、「何百という人間を同じ箱に詰めて、轟と通る・・・・汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって、この個性を踏みつけようとする。・・・・あぶない。気を付けねばあぶないと思う」というもの。近代化の象徴ともいえる鉄道を警戒しつつ、その利便性は充分に活用したという著者の指摘は正しいのだろう。

しかし、漱石は鉄道に止まらず、先端技術の進歩とともに近代化がもたらす本質的な負の部分をも引き受けて、抱え込まなければならなかった姿が病気と闘い続けた彼の人生そのものである。ナイーブであるだけにストレスは高まり精神をすり減らし、胃潰瘍も重症化していったに違いない。それにしても、明治という変革期を49才で駆け抜けた漱石の残したものがいかに多いかを再認識させられた一冊である。著者は「漱石」以上に「鉄道」が好きだと断言できる。(内池正名)

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