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2020年8月17日 (月)

「大洪水の前に」斎藤幸平

斎藤幸平 著
堀之内出版(356p)2019.04.25
3,850円

去年、斎藤幸平編『未来への大分岐』(集英社新書)を読んだ。編者とドイツの哲学者マルクス・ガブリエルら3人との対話で、グローバル化した資本主義の危機が論じられていた。NHK・Eテレがマルクス・ガブリエルの特番をつくったときも斎藤は番組に顔を見せていて、そんなことから彼のことが気になった。

でも斎藤の唯一の著書である『大洪水の前に』は、ベルリン・フンボルト大学に提出された博士論文を基に再構成された本で(博士論文の英語版で2018年ドイッチャー記念賞受賞)、書店でぱらぱら立ち読みするとえらく難しい。とても73歳のジジイのにおえる本ではないと尻込みしていたが、コロナ禍で家にいる時間が長いので思いきって挑戦することにした。買って奥付を見ると「第3刷」とある。出版の危機が言われるなか、少部数であるにせよこういう本に興味をもつ読者がちゃんといるんだと、半分引退した編集者として心強く思った。

この本には「マルクスと惑星の物質代謝」とサブタイトルがつけられている。取り上げられているのはガブリエルでなくカール・マルクス。しかも、かつてソ連で刊行された『マルクス・エンゲルス全集』には収録されず、現在刊行中の新『マルクス・エンゲルス全集』にいずれ収録される、未刊行の抜粋ノート、メモ書き、蔵書への書き込みを丹念に調べて、未完成に終わった『資本論』第2、3巻(マルクス没後、エンゲルスの編集で刊行)が本来どんな構想を持っていたかを考えるという雄大なもの。あらかじめ言ってしまえば、晩年のマルクスには現在の言葉でいうエコロジー的な視点があり、利潤追求を最優先に求める資本主義は自然と人間の関係を歪めて持続可能性を持たないシステムであるという結論になるはずではなかったか、と著者は推論している。

このエコロジー的な視点は、19世紀の言葉でいえば「物質代謝」ということになる。従来、マルクスは資源の枯渇や生態系の破壊といった環境問題に関心がなく、技術の進歩と経済の成長によってすべてが解決するという生産至上主義だという批判が根強くあった。確かに若きマルクスには、そういった19世紀の楽観的な近代主義の言葉が散見される。でも1848年にヨーロッパの革命が挫折して以降、マルクスは自然科学の研究に没頭して自然というものが持つ限界を知り、資本と自然の緊張関係のうちに資本主義の矛盾を見定めるようになった。未刊行の抜粋ノートやメモ書きからそれが見えてくる、と斎藤は言う。

「物質代謝」という言葉は19世紀初頭から生理学の用語として使われていた。あらゆる生物が外から栄養物を摂取・吸収・排泄するかたちで、外界との関わりのなかで生命を維持していることを指す。さらにこの言葉は自然科学だけでなく哲学や経済学の領域で、人間の生産・消費・廃棄といった社会的活動を分析する概念としても使われるようになった。

マルクスはこの言葉に刺激を受け、自らの経済学批判に用いるようになる。人間もほかの生物と同様に外界の自然との間で「物質代謝」を行なっているが、人間は労働というかたちで「意識的」に自然と関わる。その結果、人間と自然の「物質代謝」は労働の社会的あり方に対応して変容を迫られる。資本主義の社会は、一方で自然の力(エネルギー、食料、原料)を徹底的に開拓し利用しようとするが、他方で利潤獲得が最優先されるため、限界を超えて自然の力を利用するようになり世界的規模で「物質代謝」に矛盾と軋轢をもたらす。

マルクスは、およそそんな道筋で資本主義の矛盾を考えるようになった。もちろん斎藤によるマルクスの抜粋ノート追跡はこんな大雑把なものでなく、「素材」と「形態」、「物象化」、「商品」といった概念を駆使した細かなものだが、その過程(それこそ斎藤論文が評価された部分だろう)は省略。興味ある方は書店へどうぞ。

もうひとつ、マルクスが自然科学研究から取り入れたのが「略奪農業」という言葉。若きマルクスは農業についても技術と化学(肥料)によって農業生産を増大させられると楽観的だったが、「物質代謝」という概念でもマルクスに影響を与えた化学者リービッヒは、土地の肥沃さを維持することを考えず、利潤を得るために自然の無償の力を絞りつくす農業を「略奪農業」と批判していた。これに刺激を受けたマルクスは、土地の疲弊や自然資源の枯渇について研究するようになり、やがて「大土地所有は、社会的な物質代謝と自然的な、土地の自然諸法則に規定された物質代謝の連環のなかに修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出す」(『資本論』)と書くにいたる。

晩年のマルクスは、土地の疲弊、森林伐採、(高く売るための)羊の奇形的飼育といったさまざまな持続可能性に関心を持っていた。また、過度な農耕と森林伐採が自然的物質代謝の攪乱を引き起こして気温が上昇し、その結果、多様な植生が失われステップが広がってゆくというフラースの著書も読んで抜粋ノートをつくっていた。斎藤は、こうしたマルクスの抜粋ノートが「もし『資本論』が完成したなら、マルクスは人間と自然の物質代謝の攪乱という問題を資本主義の根本矛盾として扱ったという推測を根拠づけてくれるように思われる」と書く。

しかしマルクス死後、その仕事を引き継いだエンゲルスは「物質代謝」という概念をマルクスのようには評価しなかった。結果、エンゲルスの手になった『資本論』第2、3巻では「そのエコロジカルな視座も完全には取り入れられることはなかった」。

では晩年のマルクスは、「物質代謝の攪乱」をどう解決しようと考えていたのか。斎藤は、マルクスのこんな一文を引用している。「歴史の教訓は、農業を別の見地から考察してもわかるように、ブルジョア的制度は合理的農業に反抗し、農業はブルジョア的制度と相容れないということであり、自らの労働する小農の手か、アソシエイトした生産者たちの管理を要するということである」。つまり持続可能な社会であるためには「アソシエイトした生産者」によって合理的、意識的に労働や生産が管理されることが必要ということだろう。

斎藤によれば、マルクスは『共産党宣言』の段階では大恐慌が労働者の蜂起を引き起こすと楽観的に考えていたが、1948年革命の失敗後は楽観論を放棄し、「労働組合などを通じて物象化(注・生産物が商品となり社会的な力を得て生産者に敵対するようになること)の力を制御し、より持続可能な生産を実現するための改良闘争が持つ戦略的重要性を強調するように転換して」いったという。

著者は最後に、宮沢賢治の次のような言葉を記している。「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変へよ」

日本では、いまマルクスに対する関心はきわめて低い。その人物も著作も歴史上のものとして整理され棚上げされてしまっている。でも地球規模での経済の長期停滞や、1%対99%といわれる極端な格差拡大、温暖化による気候変動を背景に、ヨーロッパやアメリカではマルクスの再評価、エコ社会主義の視点から新しい読み込みが進んでいるという。そんな世界の最前線を伝えてくれる一冊だった。

カバーは、イルカやクジラが波頭から頭を出した瞬間のイラスト(装画・マツダケン)を全面に銀で箔押しした贅沢なもの。専門的な書籍を、本棚にとっておきたくなるような造本でモノとしての魅力を加え、少部数高定価で出版する。増刷していることからわかるように、こういう方向はひとつのモデルになるかも。(山崎幸雄)

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