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2020年8月17日 (月)

「ウェブスター辞典あるいは英語をめぐる冒険」コーリー・スタンパー

コーリー・スタンパー 著
左右社(360p)2020.04.13
2,970円

著者のコーリー・スタンパーはアメリカの伝統的な辞書出版社であるウェブスター社で辞書編纂者として活躍してきた言語学の専門家である。本書は知ることの少ない辞書編纂者の仕事の内容を楽しさや苦労話とともに紹介しつつ、言語としての英語固有の世界を書き綴っている。その説得力の源泉は、彼女の体験からの説明と言葉に関する小ネタ(トリビア)を示すことでこの特殊な世界を感情豊かに伝えているところにある。我々の家庭には何種類かの辞書が有る。しかし、身近な辞書という書籍がどう作られているのかはあまり知られていないというのが本書を読んでも良く判るはずだ。

著者は当初医師を目指ししていたものの、進路を文学に変えて大学卒業。ウェブスター社の辞書編纂者の求人に応募したという。その求人条件とは、正式に認可された大学で学部を問わず学位を受けていること、英語が母語話者であることの二点で、スペシャリストとしての辞書編纂者として仕事を始めて、専門職としての教育や実践で遭遇した色々な課題、語釈の書き方、用例の探索、文法上の解釈議論、読者からの質問への返信対応などが詳細・厳密に語られているところが辞書編纂者らしいところ。

英語を他言語と比較しながら、その歴史や特徴が語られているのは興味深く読んだ。

15世紀まではイギリスの公文書はラテン語かフランス語で書かれていたが、16世紀にヘンリー5世が突然英語を公用語に定めたのもイギリスの国家としての自信の確立だったのだろうし、印刷機の出現が言語の標準化の推進に寄与したことも忘れてはいけない視点だ。

一方、識字率の向上とともに「正しい文法」が自国語を話す人のために作られ、コミュニケーションの質だけでなく、礼儀作法を補強するものとして存在した。しかし辞書編纂者としての著者は「文法」として成文化されてきたルールを支えているのはあくまで「理想」であって、「現実」ではないという意見。別の言い方をすれば、辞書が扱う「文法」は「正しい文法」ではなく「使われている文法」ということだ。

従って辞書編纂者は本、広告、新聞、個人の手紙など、広範囲に事例を集めてくる。黙々と資料を読み続ける姿から「8時間座って本を読むという退屈な仕事」と表現しているほど。

広範な資料からメモをとり、用紙に書き写して、語釈や引用のネタを集めて行くという辞書作成プロセスは18世紀のサミュエル・ジョンソンが「英語辞典」で初めてやり始めた手法だという。この方法は以降の全ての辞書の制作現場で採用されていった。しかし、現代はコンピューター用語、科学技術用語、医学用語など先端的領域では続々と新しい言葉が生まれ続けているし、インターネット上には語源さえ定かでない言葉があふれている。同時に、言葉は時代の変化で語源とは異なった意味で再定義されたり、使う人によって受け止め方が変わるといった状況が多くなっているだけに、こうした手法が今後とも編纂作業の中核たりうるのかはいささか疑問がある。

「American Dream」という言葉が最初に使われたという文章を紹介しながら、そこで使われている意味を聞かされると、また違った感慨がこみ上げてくる。そして著者は言語体系を川に例えて「それはひとつの流れに見えても、川は数多くの独立した流れから出来ていて、その一つでも変わったなら生態系から水流まで全体に変化が及ぶ。そして、川はどこにでも望むところに向かって流れて行く」とその壮大さを表現している。

標準と非標準という視点で、「Nuclear(核)・ニュークリア」という言葉の発音からの人物評価が紹介されている。それはジョージ.W.ブッシュ元米国大統領がこの言葉を「ヌーキャラー」と発音することで、彼は「無教養な南部の白人男」と烙印が押されたという。しかし、こうした非標準発音だけでなく、使用する言葉自体が時代と共に人種差別や性差別の波に晒されている。「Nude(肌色)」という色彩の言葉に内在している人種差別問題、「Marrige」と言う言葉の語釈として同性婚を認めつつある現代ではどう記載すべきなのか等、時代とともに言葉は意味を変えていくという特性には注意が必要なのだろう。こうした変化は英語が母国語でない日本人にとってなかなか判りづらい部分である。

外資系会社での体験で言うと、海外出張して公式の講演スピーチをするときには言語表現に気を使っていたと思う。特にインターネットの時代では、一過性の形で各国の社員がそのスピーチを聞くというだけでなく、何か月もその映像音声が社内のHPで開示され続ける。従って、色々な文化の人達がその言葉を聞いて少なくともネガティブに捉えられないようにしなければならないのだが、私には充分な英語表現力が有るわけではない。止む無く、内容を原稿にして、NYの本社でスタッフ(アメリカ人とフランス人)にこの言葉づかいから、宗教的・文化的に避けるべき言い方になっていないか見てほしいと言って渡した。翌朝、彼らからの答えは「日本人らしい英語でいいんじゃないか!」というものだった。そうか、「上手い英語」ではなく「日本人らしい英語」なのかと微妙な感覚を覚えたことが有った。

「辞書の改訂版で例文が断片的で違和感を感じるとすると、それは印刷時代の遺物である。活字印刷では一字でも増えれば頁を跨ぐことになるため、それを避けるために改訂版では新語を加えると同時に既掲載語の文例などから無理に文字を削ることがある。その結果である」という著者の指摘が目についた。

その文章を読みながら、私は50年以上前、学生時代に岩波国語辞典第二版の制作時にバイトをしたことを思い出していた。第二版が出版されたのは1971年1月で、私がバイトをしたのは1968年だが、新しく取り入れる言葉の語釈と引用について編集者のメモから原稿用紙に清書し字数を確定したり、採用候補の言葉の語釈を他社の辞書で確認したりしていた。当時は活字印刷だったので、新しい言葉の行数、字数の調整とともに既掲載の言葉の字数調整をして頁単位、折丁単位の版組影響を最適化するのが編集者の腕の見せ所であったと思う。しかし、そうした熟練の技も1970年代半から導入されて来たコンピューター写植システムでは、改ページなど気にせず注記も思いのまま増やすことが出来ることから、編纂者のスキルも変化していった。

また、このバイトの経験から、社会人になっても役に立つことがあった。それは岩波の編集部の人から岩波国語辞典の語釈の特徴として教わったのが、「この辞書は世界で初めて右と左の絶対定義をしている」というものだった。「舟を編む」でも紹介されていた様だが、それは「右 : この辞書を開いて読むとき、偶数ページのある側」というもの。編集者の得意気な顔を見ながら、学生の私は「右も左も判らずに辞書を引く人間に、奇数や偶数は判らないだろう」と思ったが口には出さずに我慢した。ただ、同時に「プロの仕事では、素人には判らないだろうがプロはここまでやるんだという、数%かの自己満足(遊び)が仕組まれている」という理解をした。「数%の遊び感覚」の必要性は、その後の私の仕事の指針の一つになった。

思えば、言語と辞書という二つの領域は私にとって多くの思い出を含んでいる領域であった。懐かしさと苦労がふと蘇ってくる読書になった。内池正名)

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