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2020年12月

2020年12月18日 (金)

「日本習合論」内田 樹

内田 樹 著
ミシマ社(296p)2020.09.19
1,980円

「習合」という言葉を日常的に使う人はそう居ないだろう。私も「神仏習合」という熟語が頭の片隅にあるというぐらいなもの。タイトルを見て、どんな内容なのかと訝りながら本を開いた。著者の内田は「習合」と言う言葉を宗教の教義の折衷という意味に限定せず、異文化との混合、ハイブリッド、折り合いといったより広い意味で捉えて、「習合」をキーワードに多様な切り口から日本文化を語っている。

日本は地政学的には辺境国家で「異文化の習合」から得られた成功体験を生存戦略として選択してきたことを考えると、日本の雑種文化というのは必然と言っていい。加藤周一の「日本文化を世界に冠たる純粋種の文化と言いたてるのは英仏の純粋文化に対する劣等感のあらわれ」と言う言葉を紹介しながら、内田は「雑種文化で上等」という前向きの雑種文化論から出発して、神仏習合を語り、農業・教育・労働・日本の民主主義へと話を展開している。

内田は自称少数派であるが、少数派であることに悩んでいるわけではない。少数派だと不安になる人が居るが、内田の言葉を借りれば「孤立する力が足りない」とバッサリ切り捨てている。考えてみれば、異文化の人々とは会ってすぐに理解と共感が生まれることはまず無い。一人一人は所詮少数派だから、意見が異なるにしても少なくとも敵対していないことを相互確認する力が最低限必要ということだろう。そのように、「理解と共感」の上に人間関係を築くことは重要だが、過剰な価値を置くべきでないというのが内田の生き方である。

言葉を変えれば「習合」とは「異物との共生」であり、「習合的な集まり」とは一つの仕事をすることが第一で、そこには親密も共感も求めないという特性が彼にとっては心地よい集団という事の様だ。社会集団が寛容で効率的であるためにこうした「習合的」なあり方は良く出来たシステムであるとしている。

日本列島の住民は古代から異動と共生で上手くやって来た。その例として黒沢の「七人の侍」のストーリーを挙げているのも世代感としては良く判る。こうした雑種文化は他言語との混合を楽しむ文化としても根付いて来た。旧制高校の学生たちが造語した「バックシャン」は英語とドイツ語の、「ゲルピン」はドイツ語と英語の合成語だ。加えて母国語と外来語の合成としては団塊の世代が思い出すのは「内ゲバ」や「ドタキャン」などと枚挙にいとまはない。また、国歌の君が代も古今和歌集の詠み人知らずの長寿祝歌にイギリス人の軍楽隊教官のジョン・フェントンが旋律を付け、ドイツ人音楽家のフランツ・エッケメルトが手を入れているという「習合」の極め付きといえる。

本書の大きなテーマの一つが「神仏習合」である。「神仏習合」とは六世紀の仏教伝来とともに神仏の共生が始まり、神社の中に寺院が、寺院の中に神社が有るといった形が1300年続いて来たことをいう。しかし、慶応4年の神仏分離令によってこの共生は途絶して「神仏分離」が行われる。神宮寺の中では僧侶と神官が一緒に活動していたが、それが否定された。神仏習合の時代は、寺院と神社を統括する職分は別当と呼ばれた僧侶が任ぜられていたが、政令でこの別当職を廃し、神社の神官たちを政府の神祇官の所属にすることを命じた。この結果、神社で御経を唱える社僧たちは、還俗帰農するか、神官に職替するか迫られた。

ただ、政府は「分離」は決めたが「廃仏」を決めたわけではない。しかし、旧水戸藩を始めとして、鹿児島、宮崎、土佐、松本など国学が盛んだった地域では廃仏の運動が盛んだった。加えて、民俗信仰への抑圧は続き、京都五山の送り火、盂蘭盆会、盆踊りなどが禁止された。しかし、この間、組織的な抵抗を示したのは浄土真宗だけで、民衆の抵抗も見られなかった。これは何故かとの答えを内田は、人々は「天皇神」が他の土俗神に対して、その優位性の確認を求めたものと受け取ったと見ている。戦後は神社の国家管理がなくなったこともあり、いずれまた日本では「神仏習合」が行われるといっているのだが、我が身を振り返ると初詣、酉の市等では神社に参り、菩提寺の代々の墓参りにも行く。生活の中では「神仏習合」そのものである。

内田のもう一つの大きな指摘は日本における民主主義の定着の歴史である。帝国憲法下で「天皇神」という認識が人々にあったにも関わらず、福沢諭吉が明治5年に書いた「学問のすすめ」の中で「日本国中の人民に生まれながら、その身に向きたる位などと申すはまずなき姿にて・・・」と語られていることを取り上げて、デモクラシーの萌芽としている。その後、自由民権運動が盛んになるとともに、美濃部達吉の「天皇機関説」は学界では定説になっていた。しかし、軍が天皇の直轄機関として突出し権限を集約していく中でエリートに支えられていた大正デモクラシーは命脈を断たれたという。

こうした戦時中の20年間を経て、終戦から戦後の転換点としての日本国憲法の制定自体の問題点に関する疑義を紹介している。それは、日本国憲法制定の前文として昭和天皇の「上諭」が存在している。そこには「朕は日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た、帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」というもの。

終戦時枢密顧問官だったあの美濃部達吉はこの件について、次の様な疑義を述べたと言う。ポツダム宣言受諾時点で無効になっている帝国憲法に基づいて第七十三条の改憲規定では改憲出来ないこと、新憲法の趣旨に合わない為に廃止させられる枢密院が新憲法の当否を論じるのは不合理であること、「日本国民が制定する」民主的憲法が勅命により天皇の裁可で公布されるのは虚構である、というものだった。敗戦時の混乱のなかで苦肉の天皇「上諭」だったのだろうが、法学者美濃部としては認めがたい論理だったのだろう。

明治の「神仏分離」と戦中・戦後の憲法改正などを通して、天皇制との多様な折り合いの中で日本人は生きてきたことが良く判る。それだけに、後付けで歴史と文化を語る限界もあるという事だろう。特に、戦中から戦後への連続性を語っている人間(架橋)として吉本隆明、江藤淳、伊丹十三の三人を挙げているのが面白い。

戦前・戦中・戦後の時代を生きてきた人達にこそ体験感覚を聞きたいところである。個人的に言えば、私の父は大正9年生まれ、平成21年に逝去した、まさに戦前・戦中・戦後を生きてきた人間だ。昭和17年に大学を卒業し就職、18年に召集、終戦とともにポツダム中尉で退役、職場復帰している。父は生きてきた時代について語る事はほとんどなかった。否定も、肯定・言い訳も聞いたことは無い。ただ「学生時代の友は三割が戦死した。死んでいった彼らの為にも、しっかりと生きなければならない」と言っていたことを思い出す。そこには理屈ではなく、生き方として信念の発露だったのだろう。息子の私には「判断や考え方」に口を出すことは無く、「やるんなら、死んだつもりでやれ」という一言だった。その自由さが父にとっての大切なことだったのだろうと今更ながらに思い返される。本書の全ての論に賛同する訳ではないが、幅広い議論の中で納得と、反論の混じり合う読書であった。父に読ませて感想を聞きたいと思った。(内池正名)

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「『線』の思考」原 武史


原武史 著
新潮社(256p)2020.10.15
1800円+税

「線」の思考とは何だろう? と疑問を出しておきながら、さっそく答えを言ってしまえば、ここでいう「線」とは交通路、具体的には鉄道のことを指す。たとえばある特定の地点は「点」であり、特定の地点(皇居とか国会議事堂とか)について考えることは「点」の思考ということになる。一方、「点」より広い地域や領域(東京とか、日本とか)は「面」であり、それらの地域や領域について考えるのが「面」の思考ということになる。でも「点」と「面」の中間には「線」がある、と著者は言う。「点」と「点」を結ぶことで「線」(街道や海上航路、近代の鉄道)が成り立つが、「線」は「点」や「面」と共通するものを含みながら、「線」独自の文化や思想を生み出すこともある。

そんな前置きを振っておいて、著者は北海道から九州まで八つの鉄道路線に乗りながら、その沿線に広がる「地域に埋もれた歴史の地下水脈」を探ろうとした。原は『大正天皇』『皇后考』などで知られる近代政治思想史の研究者であり、同時に『鉄道ひとつばなし』の著書をもつ鉄道マニアでもある。この本は、彼の本業と趣味(?)の二つの面を結びつけたもの。といっても堅苦しい研究書でなく、鉄道に関するうんちくや駅弁についても書く読みものになっているのが楽しい。

たとえば「二つの『常磐』──『ときわ』と『じょうばん』の近現代」とタイトルを打たれた章。ここでは品川からいわきまでJR常磐線に乗っている。途中下車して訪れるのは日立駅の日立鉱山跡、内郷駅の炭砿資料館、湯本駅の常磐炭鉱跡と炭住跡につくられたスパリゾートハワイアンズ(旧常磐ハワイアンセンター)など。この常磐線には「ひたち」と「ときわ」という二本の特急が走っている。「ひたち」には旧国名の常陸と、明治期にできた日立という村名(後に日立製作所が生まれる)が二重にかけられている。「ときわ」は常陸と磐城という旧国名の頭文字を組み合わせた常磐(じょうばん)の訓読みであるとともに、万葉集などに出てくる古語で永遠を意味する常磐(ときわ)でもある。水戸市一帯には古来、「常磐(ときわ)」を冠した地名がたくさんある。水戸偕楽園にある常磐神社の名は、アマテラスの血統を継ぐ天皇の地位は永遠であるとする「水戸学のイデオロギーにふさわしい」、と著者は記す。

ところで明治後期に開通した常磐線は当初、旅客輸送より貨物輸送が主な役割だった。日立鉱山の銅と常磐炭田の石炭である。どちらも常磐線開通後に本格的に開発された。そのことに触れた上で著者は、路線名と特急名についてこう述べている。「『ひたち』が常陸から日立へと変わったことで、(政治的なイデオロギーと結びつきやすい)『ときわ』から『じょうばん』へと変わった常磐同様、日本資本主義の発展を象徴する経済的な響きをもつようになったと言えようか」

もうひとつ例を挙げてみよう。「『裏』の山陽をゆく」で著者はJR山陽本線の岡山から徳山までを列車に乗っている。山陽新幹線が開通した後、山陽に限らずどの新幹線も同じだが、並行して走る在来線は乗客数が減り、ローカル線と化している。それを原は「裏」と呼ぶ。その「裏」の山陽本線に沿った内陸部では、幕末から戦前にかけて民衆のなかから新宗教が相次いで生まれた。また戦前から戦後にかけて神道系の新宗教が沿線の山を聖地とした。

まず原は熊山駅で降り、熊山遺跡へ足を運ぶ。石積みのピラミッドのようなこの奈良時代前期の仏教遺跡を、大本教の出口王仁三郎はスサノオの陵と考え聖地とした。王仁三郎は自らをスサノオになぞらえ、琵琶湖以東はアマテラスが治めるが、以西はスサノオが治めると不敬な言葉を吐いた。次に原は北長瀬駅で下車し、黒住教本部を訪れる。黒住教は幕末に生まれ、アマテラスを奉ずる神道系の宗教。さらに金光駅で降り、金光教本部へ行く。金光教も幕末に生まれた神道系の新宗教。広島で一泊した原は山陽本線を乗り継ぎ、田布施駅へ行く。ここには、もと大本の信者だった友清歓真が脱退してつくった「神道天行居(しんどうてんこうきょ)」という教団の本部神殿と日本(やまと)神社がある。この駅には、もう一つの新宗教、天照皇大神宮教の本部もある。太平洋戦争末期、天照皇大神宮教の教祖である北村サヨは、アマテラスの名を冠しながらも「天皇は生神でも現人神でもなんでもないぞ」と不敬な言葉の数々を吐いていた。

これら新宗教の教団を訪ね歩いた原は、天照皇大神宮教本部の近くで育ち、皇太子裕仁(後の昭和天皇)暗殺を試みたテロリスト難波大助の生家も訪れたうえで、「裏」の山陽には「表」の山陽にはない近現代思想史の地下水脈が流れているという。「国家や天皇に忠誠を尽くすのか。それとも反逆するのか──『裏』の山陽である山陽本線の沿線には、その答えをめぐって苦闘した人々の痕跡が、いまもなお残っているのだ」

ほかにも、小田急江ノ島線にカトリック系の教団や学校が多いのはなぜかを考えたり、JR阪和線で古代と中世、近代が交錯するありさまを見たり、房総と三浦半島の鉄道を巡りながら日蓮の足跡を訪ねたり、本書のサブタイトルになっているように「鉄道と宗教と天皇と」について思いを巡らせている。

鉄道マニアの原は、途中下車しながら電車を乗り継ぐことそれ自体を楽しんでいるようだ。また駅弁を楽しみにしている。JR阪和線の無人駅、山中渓のホームで「小鯛雀寿司」(和歌山駅の駅弁)を食しながら、「この駅弁は、個人的に宮島口の『あなごめし』と並び、西日本の駅弁の双璧だと思っている」と書く。研究者としての問題意識を披歴していたかと思うと、すぐ後でこういうマニアの顔をのぞかせるのがこの本の面白さだ。

原のそんな鉄道マニアとしての姿(というか、声)を、十数年前に直接に聞いたことがある。著者の『昭和天皇』が第12回司馬遼太郎賞を受けたときのこと。たまたまその場に居合わせた。この賞は、選考委員会が開かれ受賞者が決まって数時間後に発表の記者会見が開かれる。だから受賞者が近くにいれば会見場に駆けつけられるが、遠くにいれば電話で受賞の声を聞くことになる。この年、受賞が決まった原は秩父にいて、会見は秩父からの電話だった。なんでも受賞の知らせを聞いたのは西武鉄道の特急レッドアローに乗っている最中だったという(原には『レッドアローとスターハウス』の著書がある)。受賞の知らせが鉄道に乗っているときに届いたことで喜びが倍になったようで、そんなエピソードをまず披露した弾んだ声が会場に響いたのを覚えている。(山崎幸雄)

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