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2021年7月19日 (月)

「ふたつのドイツ国鉄」鴋澤 歩

鴋澤 歩 著
NTT出版(270p)2021.03.25
2,860円

海外に旅して感じることは、空港の入出国は標準化されているので戸惑う事はないが、鉄道などの公共交通機関を利用しようとするといろいろ苦労することがある。国によって発券や乗降方式などが違ったり、説明表記や職員などが現地語しか話さなかったりすることもあり、個人で鉄道の旅をするのはなかなか大変である。それだけに、鉄道の旅の楽しさは格別である。いままで仕事や旅行でヨーロッパも何度も訪れているが、何故かドイツには行ったことが無かった。そんなこともあり、書店で目にしたタイトルに惹かれた。

1945年のナチスドイツの終焉とともにドイツは東西に分断された。インフラとして残された鉄道の運営組織、運行状況、経営や技術を支えた人材等についてドイツ再統一までの期間を俯瞰することで近現代ドイツ史を考えてみるという一冊。

本書では時代区分を、1945年から米英仏ソ四か国による占領期、1949年の東西ドイツ建国からの1950年代、1961年のベルリンの壁建設から1970年代、そして1989年のベルリンの壁の崩壊からの両国鉄の再統合までの四つの時代に分けて描いている。この間の西ドイツ国鉄(DB)と東ドイツ国鉄(DR)に分れて運営された鉄道を比較していくことで、異なる政治・経済システムの下で、同一産業のパフォーマンスを分析するという本書の狙いは新鮮であるとともに、なかなか挑戦的である。ただ、鉄道好きなので、鉄道用語などは戸惑うことなく理解できたが、駅名や鉄道人たちの名前など数多くのドイツ語固有名詞が登場するのには辟易とする部分があったことは否定できない。

戦後ドイツの鉄道の特異性が顕著に現れたのはベルリンであった。東ドイツの中の大都市ベルリンは東西に分断占領され、西側から見ると飛び地として西ベルリンが存在していた。この異様な占領形態は多くの事件やドラマを生み出す舞台としては申し分ないものだった。本書の冒頭で、この点を開高健の「夏の闇」(1972年)から引用して説明している。それは、日本人男女がヨーロッパのとある鉄道に乗った時の会話。

「・・・しばらくすると女が『東にはいったわ』といった。またしばらくすると、『西に入ったわ』・・・」

東とは東ベルリン、西とは西ベルリンを指している。この様に、分断されたベルリンでは東西ベルリンを繋ぐ複数の鉄道路線が有ったが、その一つ「Sバーン」と言われる市街鉄道は西ベルリンから東ベルリンを通過して西ベルリンに入っていく路線で、分断ドイツの象徴のような鉄道である。

このSバーンは東ドイツ国鉄(DR)が西ベルリン内も含めて運営管理していたが、西ベルリン地域の運行を担った職員は西ベルリン居住者を多数雇用していた。こうした分断されたベルリンの鉄道運営の不合理性から、年を追うごとにその内在する問題は大きくなっていたようだ。賃金の支払い通貨の問題や、西側の職能別給与体系に対し東側は勤務年数だけを評価基準としていたなどのギャップが指摘されている。あえて東ドイツ国鉄がこうした問題を抱えながらもSバーンを運営していたものの、乗客数の減少や政治的効果が薄れてきたことなどが蓄積して限界に向かって行く姿は象徴的である。

本書に詳細に記述されている両国鉄の歴史のうち、興味深い点を以下に取り上げてみる。

旧ドイツ国鉄は米英仏ソ四か国の占領地域ごとに鉄道管理体が作られた。翌年には米英の地域の鉄道は統合に至ったが、なぜかフランスは米英とは歩調を合わせず、西側三カ国の占領地域の鉄道運営統合はこの時点では果たせなかった。この西側の足並みの乱れは何故なのか気になるところである。ドイツに対する欧州諸国の考え方の乱れは、「危険な統一ドイツの復活」を危惧するとか、「ドイツとオーストリア」のドイツ語圏の合邦を望む両国の希望を封殺してきた歴史を含めて、この問題は欧州の課題として永く議論されて来たことが思い出される。ただ、最終的には1946年の米ソのドイツ占領政策の決裂でドイツ統一はなくなり、西側三カ国の足並みはそろうことになる。そして、1948年6月18日にソ連占領軍は西ベルリン及びドイツ西部との通行を遮断するとともに、西ベルリンへの東ベルリンからの電気・ガス供給を止めた。いわゆる「ベルリン封鎖」である。この西ベルリンを人質にとったソ連の戦略に対してアメリカは大規模な空輸を行い1949年末までの一年強の間、毎日数千トン規模の物資を輸送し続けた。ベルリンという一都市を舞台に米ソの意地が激突した形だ。

両国ドイツが成立(1949年)すると、旧ドイツ国鉄は西ドイツ国鉄(DB)と東ドイツ国鉄(DR)が組織化された。

西ドイツはDBを国有化され、30,000kmの立て直しとともに、西ドイツ経済復興の担い手となった。それは西ドイツが資本と労働力を投入し続けることで経済成長するという西側共通の戦略に加え、近隣欧州諸国を市場とする輸出主導型で成長した中での物流の担い手であった。1950年代半ばからSLからディーゼル、電気機関車への転換が進むとともに、西欧各国(EEC・EC)との枠組に参加することで連携運行や列車の高速化が進んだ。しかし、1960年代後半には西ドイツ国内の輸送シェアはトラック輸送や航空機に奪われて赤字が続き、組織再編と合理化で82,000人を削減、6,500kmの不採算路線の廃止、システム化による業務合理化と自動化促進が本格化する。こうした施策の推進の一環としてDBは1972年に総裁として初めて民間ビジネス界からの人材(ドイツIBM社長)を登用している。

一方、東ドイツ国鉄(DR)は16,000kmの路線でスタートした。DRの管理者・職員は元ナチと係わりが無く、労働者階級出身であることが望まれていた。すなわち人材面では戦前の旧ライヒスバーンとの断絶を目指した。この結果、旧ライヒスバーンの鉄道人としての有能な人材の多くは西側のDBに採用されている。人を通じての断絶と連続の違いがここでも大きく表れている。DRでは1960年代に入っても、戦前からのSLが主力で100台が稼働していた。ディーゼル機関車の国産化が図られたが、2000馬力以上の機関車はソ連からの輸入機に限られていて、自国の車両研究や近代化には制約があったことを見ても、東欧のソ連支配の構図を知ることができる。

1985年ソ連書記長に就任したゴルバチョフは体制内改革を目指して「ペレストロイカ(経済改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」を唱えて、米との融和ムードが高まるとともに、ハンガリーを筆頭に東欧諸国は抑圧されていた民主の動きが再燃していった。こうした流れの中で11月9日にベルリンの壁は崩壊し、Sバーンを始めとした東西境界駅構内でも分断の遮断機を上げて人々は通過して行った。翌年1990年10月に両ドイツの再統合、そしてその3年後DBとDRの両国鉄は再統合を果たして、現在の「DB-AG」が誕生することになる。

こうした歴史を読んでいると、著者が指摘しているように両ドイツ国鉄(DB・DR)ともに戦前の旧ドイツ国鉄から引き継いだものもあれば、捨てた物もある。ただ、戦後の両国鉄は「新生」と呼べるような改革的な施策は無かったし、東西ドイツともに国家が鉄道セクターに積極的な資源投入をしたようには見えない。島国の日本ではとても想像できない、国家分断と鉄道の歴史であるが、同時に物流システムとしての鉄道の位置付けの変化は世界共通の課題であった。日本の国鉄も苦労しながら分社化と民営化を果たしてきた。ただ、ドイツ国鉄に比較すると、鉄道システムが自国内で完結できるという単純さはラッキーだったといえる。それにしても、今度ドイツに行ってみようと言う気持ちが強くなった一冊である。(内池正名)

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