「東京ヴァナキュラー」ジョルダン・サンド
ジョルダン・サンド 著
新曜社(304p)2021.09.24
3,960円
著者は1960年生まれのアメリカ人、東京大学で建築史、コロンビア大学で歴史学を学び、東大在学中は谷中に住んで「地域雑誌 谷中・根津・千駄木」の編集者たちと歴史保存運動に係わった実体験が本書を書かせた原動力の様だ。「ヴァナキュラー」という言葉の意味を「土地ことば」と知ると、「谷根千」「新宿西口広場」「江戸東京博物館」といった一見ランダムな都内の地域や場所をテーマにして住民と空間の織りなす歴史を描いている本書のタイトルとして納得出来る。著者は東京のユニークさよりは、世界各国の都市空間を考える共通の手法を示したかったようだが、東京で生まれ、生活をしている私が時代記憶とともに本書を読むと「東京論」以外の読み方は見つからない読書だった。
20世紀後半には旅行や観光の商業化が進み、各国の都市は歴史資産とローカルな文化の独自性を打ち出す姿勢が顕著になった中で、東京がこの波に乗るのは若干遅かったと指摘している。その理由として1970年代初頭で東京には一世紀を超える建造物は殆ど無かったとしている。そう言われてみると、江戸期に繰り返された大火事、関東大震災、東京大空襲などで破壊と再建が繰り返され、東京駅や国会議事堂という近代建築物も19世紀末から20世紀初頭に作られていることを考えると、東京は「モニュメント」なき都市というサブタイトルにも納得がいく。
また、戦後の30年間に眼を向ければ、公害の代名詞でもあった東京はポスト工業化を果たし、1950年代からの郊外ニュータウンへの開発、1970年代には逆に都心のマンションに人口移動が進んだ。この結果、古くからの住民と新しい住民が混在したコミュニティーの成立のためにも、地域住民が自ら住む地域を守るという視点からの保存運動が顕著となった。こうした中1979年から1994年の16年間都知事をつとめた鈴木俊一は「マイタウン東京構想」という住民主体を匂わす政策と同時に「世界都市東京」を目指した「世界都市博」開催を推進した。結果としてバブル崩壊とともに「世界都市博」は開催されなかったが、この相反する政策こそ東京のジレンマを映し出していたと著者は指摘している。
本書の第一章は1969年の新宿西口地下広場が取り上げられている。一瞬とはいえ大衆が公共の広場を占有したものの公権力で排除された結果、東京では市民のための公共空間・広場機能は終焉を迎え、東京の都市論の転換点になったとしている。
中世ヨーロッパの都市国家における広場は、市民たちが集まり、政治を語り、決議する舞台だった。こうした広場は日本の都市空間には存在してこなかった。江戸幕府は防火帯として広小路を作ったり、橋のたもとにスペースを確保したことで非公認の市場や興行場として利用されることはあったが、あくまで、災害対策と経済活動のためであった。明治政府も1886年ドイツの建築家達に東京中心部の設計を依頼したが、彼らの大広場を含む都市計画が採用されることは無く、街路バターンの規格化と経済発展のインフラ整備のみに注力することになる。
こうした東京で、1968年10月21日国際反戦デーのデモに始まり、1969年のフォークゲリラ、ベ平連の集会などが新宿西口地下広場で行われた。この集会の特徴は「行進する統一的な行動をとる市民ではなく、座り込む幾つかの集団」であり、メディアは「精神の解放区」と呼んだ。しかし、この場所を「広場」から「通路」と名称を変えることで道交法違反として人々を排除した。この事件以降の都市論は公共の広場や国政のモニュメントから切り離された日常共有空間に可能性を求めて行ったというのが著者の見方である。以降、「界隈」や「原風景」といった言葉によって人々の思い出と歴史遺産の織りなすイメージが作られていく。一方、言葉としての「広場」は、新聞の読者投稿欄のネーミングに使われるなど、本来の「人々の声を集める」という意味を体現していると指摘されると、理念は正しく理解しているものの具体的な広場がないということかと納得させられる。
次に、所謂「谷根千」における活動を取り上げている。1984年に「地域雑誌 谷中・根津・千駄木」が創刊される。この雑誌の三人の編集者(若き母親)は地域の住民だった。住民の思い出話や、町の習わしなどを聞き取ってまとめることに集中しており、巻頭言では「・・懐古趣味でなく、古き良きものを生かしながら暮らすのが楽しく、生きのいい場所として発展するのに役立ちたい」と心意気を表している。こうした住民の共同感覚を育み、物語を掘り起こす作業は純粋な地域活動として続けられ、メディアにも数多く取り上げられていく。1970年の都民のアンケートで「下町」ランキングは浅草が筆頭で、上位十数地区の中に谷中、根津、千駄木は入っていないが、1987年の観光ガイドブックでの下町特集では谷根千が目玉になった。しかし、「谷根千」に住む人達からすると「下町」と言われることに反対の人々も多かったと言う。
町おこしとしては大成功だったと言っていいのだが、谷根千の町並保全のジレンマが有るとすると、建物という個人の有形財産とコミュニティーという無形財産の優先順位の問題である。この観点は地域の風景資産や歴史資産を保全するというときにはどの都市・地域でもぶつかるものだ。私も街道歩きをしていれば、古い宿場としての町並みを残した東海道の関宿や中山道の妻籠宿など素晴らしい歴史遺産に感動するのだが、そこでの歴史風景保全と人々の生活の調和には大変な努力が必要と言われている。また、多くの自治体で行われている、地域風景資産の認定も住民と所有者の意見の相違は良く起こることである。完璧な解が有るわけではなく、コミュニティーの判断に委ねられることになる。
東京を扱う初めての博物館として江戸東京博物館が1993年に開館した。400年を迎えた新たなモニュメントとして「東京という過去がいかに記憶されるべきか」という命題のもと屋内模型の展示なども多用した保存事業の大衆化の反映であった。もともと江戸の日常的な歴史イメージを形作ったのは「江戸っ子を自称する」市井の研究者達で、彼らは「日本の近代化を進めて行った明治人(薩長人脈)の努力は大いに誇るべきであるが、彼らが江戸時代の文化遺産を全く認めなかったことに対しては憤りを感じざるを得ない」という気持ちが強く、この感性の延長上に江戸東京博物館の展示方針があるため、江戸から高度成長期までの期間を対象としている展示の中で明治維新そのものや、天皇と皇居に対する言及は殆ど無いという違和感を著者は指摘している。
また、1999年に九段下に作られた昭和館は「戦中戦後の国民生活の労苦」を伝えるという施設であるが、戦時をテーマにしているにも関わらず、武器や死を示す展示や資料は無く、戦争そのものを柔らかなセピア色に染め抜くことで、当時の政治を覆い隠す役割を果たしていると考えている。このように日常に傾注していく中、2005年に公開された「Always三丁目の夕日」は1958年の都内の架空の町を描いて大ヒットした。観客達は自分の個人体験や記憶が時代の典型と思いつつ、半世紀前を回想するという、まさに東京ノスタルジーの頂点であった。こうした点を含めて、江戸博や昭和館の展示は「歴史研究の成果を踏まえない、興味本位の展示であり・・・・見世物的に再現することでは歴史認識は正しく形成されない」とし、ハイカルチャーの保存庫としての博物館の存在意義が失われ、個人の記憶が前面に出た公衆不在の「パプリックメモリー」に向かう道に進んでいるという著者の指摘には新鮮さを感じる。
本書では多くの論点が提示されている。例えば、無秩序な都市開発が生み出す一風変わった風景を前向きに受け止めて都市を再評価する「路上観察学」活動の評価や、「日本橋」における風景保存と町おこし活動に内在する矛盾点の指摘、東京の「平和祈念館」の計画の挫折など、東京という都市を考えるうえで多用な視点からの問題が提起されている。文章的には読み難い言い回しが有るし、異見として読んだ部分もあるが、なかなか刺激的な一冊であった。(内池正名)
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