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2022年4月17日 (日)

「水木しげるのラバウル従軍後記」水木しげる

水木しげる 著
中央公論新社(256p)2022.03.09
2,530円

本書は水木しげる生誕100年を記念して今年刊行された。「トペトロとの50年:従軍後記(文庫本)」(2002)を底本として、同書の単行本(1995)に収録されていた絵や写真を加えるとともに、「娘よあれがラバウルの灯だ」(1973)、「トペトロの葬式」(1994)を増補したもの。タイトルの通り、第二次大戦でラバウルに従軍した際の現地の人々との触れ合いをもとに、戦後も続けた彼らとの交流と南方文化についての好奇心を語りつつ、多様な絵で表現している。写真も収録されているのだが、どうしても水木自身の絵やデッサンに目が行ってしまうと言うのも当然のこと。水木は大正11年(1922)生まれで、私の父と同年令。そう考えると戦争体験や混乱の戦後を生きてきた世代としての共通の感覚を想像しながらの読書となった。

本書は子供の頃からの話に始まり、中心はラバウルの従軍と現地のトライ族の人達との交流にある。水木は昭和18年(1943)召集。上官から「任地は北がいいか、南がいいか」と聞かれ、水木は日本国内の話と勝手に思い、土地勘もある暖かい「南がいい」と答えた結果、南方軍に編入となりラバウル近郊の「地の果てみたいなところの、そのまた最前線」であるズンゲン守備隊に配属になる。そこで歩哨中に敵の襲撃を受け、隊は全滅。水木はただ一人助かったものの爆弾で腕を負傷して左腕を失っている。そのズンケンの兵舎の様子を描いた絵が収められているが、それを見ると軍服の兵隊が描かれていなければ、ヤシの木が茂り、鳥が舞うという長閑な南方の島の風景そのものであり、悲壮感の欠片もない。そして、傷病兵としてラバウル近郊に集められ、畑仕事など軍役とは関係ない作業をさせられていた。作業の合間にはトライ族の家を訪れる等の付き合いがあり、後に交流の中核となるトペトロと呼ばれていた少年もその一人。こうした時間は傷病兵にとって大いなる安らぎであったことは想像に難くない。この体験が「ラバウル従軍後記」を生む原点になっているとともに、トライ族の人達の生き様や風習の中から水木が後に描く妖怪などのヒントを得たというのも面白い。こうして終戦を迎えた時、トライ族の人々からはラバウルに残り、日本に帰るなと言われた様だ。しかし、水木は七年後に戻ってくると言い残して帰国している。

本書には水木の多くの絵画・デッサン・漫画が収められている。その一つ、ラバウルでの戦争を描いた水彩画は小松崎茂の作品を彷彿とさせるし、終戦後に描かれた鉛筆画の家族の姿は終戦直後の重苦しい生活をリアルに表現している。復員して故郷の境港で描いた古い町並みはモノクロームの静かな佇まいの中に懐かしい風情を感じさせるものだ。

その中で、戦前から残していたクレパスを使って描いた、自らの心象風景の数枚の絵は「戦争というハンマーで頭を殴られたような気持ちで’脳みそ’が思うように働いてくれない。・・・戦争のショックが襲ってきた」と言っているように暗い表情の男が画面中央に小さくなって部屋で膝を抱えてしゃがみこんでいる。この絵を見ると、明るく語る水木の深層心理は暗く沈殿したような思いがあったことが気付かされる。

昭和23年(1948)に武蔵野美術学校に入学し絵画の学び直しにチャレンジしている。「デッサンもさることながら、私は奇妙な人々に子供のころから興味を持っていた」と言っている通り、この「むさび」で出会った人々の中から8名の「奇人」を描き、彼らの言葉を紹介している。ある奇人曰く「芸術は詩がないとだめですよ。芸術の前に生命はカケラに等しい」とか、別の奇人を評して「この男は理屈をのみこねて、絵を描くこと更になく、やたらと歩き廻り一言『絶望』と叫ぶ」。また、同じ頃、電車の中で見掛けた女性達を描いていて、ひとりひとりにタイトルを付けている。割烹着で買い物かごを持った女性は「配給一路型」、英字新聞とハンドバックを持った女性は「インフレ愛好型」。「婚期あせり型」、「新人類型(別名パンパン)」等が描かれている。水木のひねりの効いた表現だ。

もう一つ、「絶望の町」というタイトルの一連の鉛筆画がなかなか重い。戦後の一般民衆の生活の厳しさを描いたものだが、なぜか登場人物は服を着た骸骨たち。その中の一枚は我先に霊柩車に載ろうとしている骸骨たち。その吹き出しには「かの国に幸福を求めて。押さないで下さい、私が先です」とある。まさに、戦後の生活と世情を描く、水木ワールド全開である。こうして、紙芝居や貸本屋の為の漫画を描いて食いつないでいたものの、ラバウル行きは「夢のまた夢」の生活が続いていた様だ。

そして、昭和46年(1971)に念願のラバウル再訪を果たし、トペトロを探し当てたのも偶然が味方したようだ。このラバウルは水木にとって思い出の地である以上に「南方病」と云うほどに、この地の文化・風習にのめり込んでいた。「鬼太郎たちは実はトペトロたちなのだ」と語っているようにトライ族の風俗や人々にヒントを得ていたし、「鬼太郎を守る側の一団のお化けたちはトライ族に近い。それはトライ族の方が日本人より人間本来の姿に近いから」という感覚は、学校や軍隊といった社会環境や人間関係に馴染むことが難しかった水木の本音であろう。

トペトロの死は平成3年(1991)に一通の手紙で知らされる。葬式をしないまま墓地に埋葬されていると聞き、水木は二年後にラバウルを訪れている。トライ族の葬式は参拝に来てくれた人達に貝貨(金)、米、カンズメなどを渡さなければいけないという事で、水木が喪主として資金を負担して葬儀を終えたという。水木は「トペトロとの50年は奇妙な楽しみに満たされた50年だった。片腕の当番兵と土人、森の人たちとの奇妙な交流の話を、そのまま捨てておくのはもったいないと思って一冊の本にした」という文章で終えている。

私は、今まで「ゲゲゲの鬼太郎」に代表される漫画を通して「水木しげる」という人間を見てきたのだが、そうした妖怪漫画の原点としてのラバウル体験を真剣に語り続ける姿に戦争の持つ厳しさを感じるとともに、片腕を失い、復員後も厳しい生活環境で多くの喪失感もあったと思うのだが、戦時中の人との繋がりを保つことが出来たというのは素晴らしいことである。加えて、絵やデッサンを通じて水木の画才の新たな一面を知ることが出来たのも収穫だった。大きくとらえると昭和という時代を辿る読書であった。

わたしの父は第二次大戦に従軍し無事復員したものの、学生時代の旧友の1/3が戦死したという喪失感は大きく、戦死した仲間の為にも、生き残った自分は頑張らなくてはならないという気持ちをバネにして生きていた人だった。「級友の1/3が戦死」という言葉以上の戦争体験を私に語る事は無かった。「もう少し、親父といろいろ話していれば・・・」と思っても、もう遅いのだが。(内池正名)

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