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2022年6月

2022年6月19日 (日)

「あの胸が岬のように遠かった」永田和宏

永田和宏 著
新潮社(318p)2022.03.25
1,870円

本書のサブタイトルは「河野裕子(かわの・ゆうこ)との青春」。永田和宏に河野裕子という名前は現代短歌に興味がある人なら誰でも知ってるだろうけど、そうでない人には馴染みがないかもしれない。永田と河野はともに歌人、そしてふたりは夫婦でもある(あった)。永田は歌人であるとともに細胞生物学の研究者で、京都大学教授などを経て現在はJT生命誌研究館館長。歌人として宮中歌会始の選者も勤める。

河野裕子は1969年、23歳で戦後生まれとして初めて角川短歌賞を受賞。その後、永田と結婚し2人の子を育てながら精力的に歌を発表し短歌の賞を「総なめしてきた」(永田)が2010年、乳がんで死去した。

……と、略歴を記しても何を語ったことにもならない。ふたりはお互いを詠んだ相聞歌をたくさん残しているので、それらを集めた『たとへば君』(文春文庫)からいくつかを抜き出してみる。

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか─河野
あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年─永田
(ふたりが出会ったころの歌)

君は今小さき水たまりをまたぎしかわが磨く匙のふと暗みたり─河野
なにげなきことばなりしがよみがえりあかつき暗き吃水を越ゆ─永田
(収入も乏しく、子育てをしていたころ)

何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない─河野
待ち続け待ちくたびれて病みたりと悲しき言葉まっすぐに来る─永田
(河野にがんが見つかったころ)

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が─河野
たつたひとり君だけが抜けし秋の日のコスモスに射すこの世の光─永田
(河野が死の前日に詠んだ歌と永田の挽歌)

河野の死後、永田は妻・裕子の10年にわたる闘病を記した『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の10年』(新潮文庫)を刊行している。『あの胸が岬のように遠かった』はそれに次ぐもので、時期を遡って1960年代後半、ふたりが出会ったころを回想したもの。「はじめに」で永田が書くところによると、河野の死後、彼女の実家で遺品を整理していたら若き日に河野と永田がやりとりした300通を超す手紙と、河野の十数冊の日記帳が出てきた。この本は、その手紙と日記帳を引用しながら「出会いからの、どこかとことん熱く、波瀾ばかりだったような気のする、ある意味とても恥ずかしい青春の記」である。

河野の日記は、彼女の歌と同じようにひたむきで、そのときそのときの感情をぐいぐいと自ら追い込み、突き詰めて読む者に迫ってくる。例えばこんな具合に。

「ああ なんということになってしまったのだろう
抱きしめ合った 抱きあげられた
あのひとの てのひらの中に ほおを埋めながら
狂おしくうめいて そうして
ああ
私たちは 一体どうしたというのだろう
言ってはならぬことを言ってしまった
傷つけてしまった また ひとりを。
ふたりの人を 愛していると
そのために こんなに つらいと」

河野裕子の熱心な読者なら、河野が永田と出会ったとき、それ以前に出会い、愛してしまった男性が既にいたことを知っているだろう。河野の初期の代表作とされる「たとへば君」の一首は、その時期に詠まれている。そこで呼びかけられている「君」が永田なのか、もうひとりの男性なのか。歌は歌それ自体独立したものだから、背後の事情などどうでもいいことではあるけれど、河野の歌に惹かれる身として気になるところではある。永田自身、「『たとへば君』の君は私なのか、と問われるとにわかに私だとは言い切れない気もする」(『たとへば君』)と書いている。そのあたりの事情が、河野の日記と手紙を追うことでつまびらかにされている。

誰のものであろうと、20歳前後の若い時代に書かれた日記を読むという体験は、なんとも心苦しく、胸が痛む。そして著者ばかりでなく、読むほうも「恥ずかしい」。それは、日記が他人に読まれることを前提にしていないからというだけでなく、往々にして読み手の若い時代の似たような出来事や感情が眠っている記憶を刺激し、呼び覚ましてしまうからでもあろう。河野や永田と同世代が書いた日記として、かつて『青春の墓標』とか『二十歳の原点』といった、自死した若者の書き残したものが刊行されたことがあった。河野の日記や手紙を追いながら、はるか昔のことになるこの2冊を読んだ時のざらざらした感覚が生々しく思い出された。

そしてこの2冊の本の著者が自死したのと交錯するように、河野と永田がほぼ同じ時期にそれぞれ自殺未遂を起こしたことが明かされている。恋愛(結婚)と就職(研究)と歌と親子関係(家)と予期せぬ妊娠と、さまざまな事情に追い詰められてのものであったらしい。

でも、この本を青春の息詰まる重苦しさから救っているものがふたつある、と思う。ひとつは、時間という癒し。この本が執筆されたのは、河野が日記や手紙を書いてから50年後。永田はすでに70代になっている。その時間が、「波瀾ばかり」の時代を回想する永田の筆に穏やかな距離感を与えている。例えば、河野が永田には告げずもうひとりの男性と会っていたことを記す日記を引用しながら、こう記す。「東京でNと一緒だったことは、彼女はもちろんひと言も言わなかった。……いかにも幸せな瞬間として書かれているのが、いまとなっては微笑ましい。もちろん腹が立つわけもなく、こんな小さな秘密も、何となく孫娘の行状を見ているような気さえしてくるのである」

いまひとつは、切迫した河野の文章に時に滲みでるユーモア。大学を卒業し中学の国語教師になった河野が永田に送った戯れ文の手紙「夜半のめざめ物語」など、部分しか引用されてないが全文を読みたくなる「パロディ風物語」だ。当時のふたりの歌をパロディに仕立てあげる才には感心してしまうが、ここで引用するには長すぎるので、ふたりが忙しくて会えなかった時期、手紙を書いても返事の来ない永田に宛てた別の手紙の一節を書き写してみよう。

「あなたは十一月のプラタナスの木の 一番上のはっぱみたいにとおい。
……私みたいに自家発電も充電もできる仕組みになっていると 時々メーターに故障がおこって、さわっただけであなたなんか感電死させる位 平気なんだから
私はまたガタピシして来て、おしりが痛くて 二日も寝ているわよ
おしりに注射三十本位打った。あしたもよ。痛くて少し泣いたけど。
あなたがいてくれるといいと思ったけど、きっと私が泣いていた頃には、いい気持で昼寝なんかしてたんだろうし。
どうせあなたは ひややっこなんだから」

いきなりの「ひややっこ」に笑ってしまう。先に引いた、「病院横の路上を歩いていると、むこうより永田来る」と詞書(ことばがき)のある歌、「何といふ顔してわれを見るものか 私はここよ吊り橋ぢやない」。なぜ「吊り橋」なのか。読者はもちろんのこと、詠まれている当の永田も解釈しがたいと語る、とはいえある種のおかしみをもって心に残る言葉が自ずから──絶えざる修練に裏打ちされて、自ずから滲み出ると感じられるように──生まれてくる、そんな言葉の感覚に通ずるような気がする。

この本には、河野が日記帳に書きつけたが歌集には収録されなかった歌も紹介されている。だからこれは彼女の歌の拾遺集としても読むことができる。河野がこの時期につくった歌は、いま読むと古風な、と言いたくなるほど端正なものが多くて、素人目にも完成度が高い。

60年代後半、大学は騒然としていて、その空気を取り込んで歌にした歌人も多かったけれど、河野はそこから一歩身を引いて、ひたすら自分自身の内側に目をこらしている。その自分自身の感覚の海には、高校時代から歌をつくりはじめたという彼女が親しんだ古典から近代にいたる歌の数々が溶けこんでいる。そんな言葉と風土の蓄積の豊かさを背負っているとはいえ、ここに流れる感受性や選ばれる言葉はまぎれもなく同時代同世代のものだ。ちなみに評者は河野の一歳年下、永田とは同年の生まれ。河野が日記や手紙に記す言葉ひとつ(喫茶店「らんぶる」とか「機動隊」とか)で瞬時に半世紀以上前の時空に連れていかれ、喜怒哀楽もつれあったあの時代を追体験することになる。そんな読書だった。(山崎幸雄)

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「気候変動と『日本人』20万年史」川幡穂高

川幡穂高  著
岩波書店(227p)2022.04.15
2,200円

著者は地質学を学び、東京大学大気海洋研究所の所長などを歴任。現代の炭素循環に関する知見を古気候学や古環境学に生かしながら、水環境を含めた地球表層環境の進化と人間社会への影響を研究している。本書の骨格となっている日本の2万年間の気温復元もこうした研究の成果。

現代(1950年代~)を「アントロポセン(人新世)」と呼ぶことが近年提唱されている。過去46億年の間は気候変動が人間社会に影響を与えてきた。しかし、この「人新世」では人類が気候変動、環境破壊、生態系の変化等を引き起こす主役になった時代ゆえの命名らしい。本書ではそうした現代からの目線で、過去の気候変動と社会変化の関連を分析している。特に、縄文時代初期からの2万年間に絞っては、各種データから気温復元を行い、この間に10回の大規模な寒冷期があったことを明らかにし、その時代の社会現象との関連を示している。記載も詳細で、学生時代に習い覚えた歴史年代もいささか朧げで、年表をひっくり返して時代確認をしながらの読書となった。言訳的ではあるが、年代記載形式も「XXXX年前」と「紀元前X世紀」といった多様さも読み手からすると難しくしていたと思う。

ホモサピエンスの最古化石は19万5千年前のものだが、これが本書のタイトルの「20万年」に対応する。「巨大な脳を持ち」、「二足歩行する」新人類のホモサピエンス(知恵のある人)は旧人のネアンデルタール人と共存しながらも、気候変動の中で生き延びた。日本にホモサピエンスが到達したのは対馬ルートで4万5千年前頃という。

狩猟採集時代は居住地周辺に食料を求め、食べ尽すと居住地を移動していったが、農耕を行うようになると、定住生活をして、さらに交易で離れた場所からも食料を調達するようになる。特に水稲栽培では寒冷化による収量低減が大きいことを考えると、気候変動の中で一番大きな影響は食糧不足であり、著者が指摘する人口の推移が重要な視点となる。

こうした変化の原因を探るために、気温を2万年に亘って復元している。東京湾や陸奥湾、広島湾などの堆積物試料を採取し分析、グリーンランドに残された氷の分析、樹木の酸素や水素同位分析から都市ごとの気温や降水量を復元している。また、人骨の同位体分析から当時の食事内容を推定、貝塚に残されている残存物の分析(貝の炭酸カルシュウムがアルカリ性のため土壌水が中和されて試料が保存されやすいという)等々、科学的分析が数多く紹介されているが、同時に分析機器の精度向上などもあり、過去の定説が書き変わっていく時代でもある様だ。

日本の2万年の気温復元による10の寒冷期の特徴と時代状況の中で興味を惹かれた点を以下の通りまとめてみた。

第一寒冷期は縄文文化が始まった時代。そして約1万数千年の間で徐々に温暖化してゆき、石鏃や縄文土器など、狩猟生活の画期的な技術革新をもたらした。縄文土器は煮炊き用に使われたことから、食料の殺菌や利用食材の拡大など縄文人の健康に大きく貢献した。縄文人の寿命は15才まで生きた人の平均余命は男で16.1年、女は16.3年と推計数字が紹介されている。現代より50年短い寿命のようだ。

第二寒冷期は「8200年前のイベント」と言われている。グリーンランドの氷の分析から地球規模で気温が3.3度下落した時期で、北海道ではサハリン系の石刃鏃などの石器群が出現していて、石器の精密度が大きく進化している。

第三・第四の寒冷期は「4200年前のイベント」と呼ばれている時期で、三内丸山集落の開始と崩壊に対応する。もともと縄文人は少数で狩猟生活をして居場所を転々としてきた、しかし三内丸山に見られるように、移動生活を捨てて1000年以上に亘って、定住の地で熟練した技術を持ち、交易をし、森の管理をする生活を継続させていた。採取農業から「半栽培」農業が開始されていることから、新しい縄文の農業が見えて来る。陸奥湾の堆積物解析によると、栗の「半栽培」が行われていたことも判っている。堆積物の中の栗やアカガシの花粉の量から判断して、自然の森林の栗の比率を大きく超えていることや、栗花粉の遺伝子の多様性が極端に少ないことなど、三内丸山の人達は栗林を里山の様に管理しながら収穫していたと考えている。そして地球規模で寒冷化した「4200年前イベント」の影響を受けて、この地は放棄され、少人数に分散して移住生活にもどったと著者は見ている。その後、この地に人が戻って来たのは実に3000年後の平安時代だった。

第五寒冷期は紀元前10世紀の弥生文化前期で、日本の水稲栽培の開始時期でもある。佐賀県菜畑遺跡出土の弥生式土器に付着した炭化米の放射性炭素年代が紀元前10世紀のものとされ、それまで教科書では弥生文化の開始年代を紀元前4~5世紀とされていたものが、訂正されている。

第六寒冷期は弥生中期で環濠集落に住み、共同生活をおこない社会の階層化が進んだ時代大陸からの移住の増加とともに、鉄器は紀元前4世紀頃日本にもたらされた。この頃は寒冷期のピークで争いも多発した。日本の吉野ケ里遺跡などのように防御施設に守られた集落へと変化して行く。鉄器は銅、青銅に比べて強度があることから、狩猟道具や農耕道具として生産効率を上げてきた。一方、この頃の人骨は受傷人骨が多く出土していることから、対人の武器として鉄器が所持され始めた時期でもあった。

第七寒冷期は古墳時代への移行期で世界的にも181年のタウポ火山の噴火によって地球規模で異常気象が多発して寒冷化が進んだ。日本書紀にある倭国の大乱も2世紀後半に発生しているが飢饉による社会不安がトリガーになったといわれている。

その後は倭国が統一国家を形成して行く時代となり、比較的温暖な期間となる。古墳造営が多く行われたが、大仙陵古墳は16年間、2000人が専従し、1万5千個の埴輪が作られるという巨大国家プロジェクトで、漢人の知恵と鉄製道具、製陶技術が必須であった。

第八の寒冷期は古墳時代から飛鳥時代の貴族政治へ移行していく。隋や唐による朝鮮半島侵攻により混乱し、百済などから多くの移民が流入した。その後、飛鳥から奈良時代は温暖化して、農業生産も増大し、律令制度が定着して行く。しかし、平城京(710年)の建設など、この時代は初めて都市型の環境汚染が始まったとされる。土壌に含まれる土器片から鉛汚染の状況分析結果が紹介されている。奈良時代後期(8世紀後期)では1200PPM以上という高い鉛濃度を示している。これは飛鳥時代の100倍で、現在の環境基準値をも上回っている。平城京の建物は朱に塗装されていて、その原料に辰砂(硫化水銀)が使われていたことが原因である。また、この時期には奈良県の木材は切り尽くされ、建物建造のための木材は兵庫県から運ばれている事実からも環境への影響も大きかったことが判る。

第九の寒冷期は平安末期。平安初期(820年頃)は過去3000年間での最温暖期で、当時の代表的な構造物である寝殿造は壁もなく、部屋の仕切りはすだれ、床は板敷、冬でさえ素足で暮らしていたという。しかし、徐々に寒冷化が進み、人口も750万人から平安後期には700万人、鎌倉時代に600万人と減少して行った。これらの時代は「自然災害の発生は、為政者の不徳の為す所」という考えがあり、こうした気候変動は政変に繋がって行った。

第十の寒冷期は江戸の武家社会が近代へ移行する時代。特に18世紀末から19世紀にかけて、天明・天保の大飢饉が発生し、人口は各々100万人減少し、幕府は対応出来ず社会転換を促したとされる。ちなみに、天保の夏の気温は過去3000年間で最も低かったと分析されている。

平均気温が1~2度下がり、数十年継続する気候を「極端な寒冷期」と呼んでいるが、この気候状況が旧体制を崩壊させ新体制の導入の原動力となり、不可逆的な変化を起こすと考えている。日本における2万年間の10の寒冷期の内、この「極端な寒冷期」は平安末期の貴族政治から武家政治に変化したことと、江戸末期の武家政治から近代国家への変革期となった二つの時期。

他の8つの寒冷期について、「気候変化は社会を直接支配する」ということよりも「食料確保や生業といった人間社会に作用して、技術革新や移住を介して人間社会に働きかけている」という前向きにとらえている。ただ、現代は「極端な気候変動の温暖化版」と捉えていて、「20万年前にホモサピエンスがアフリカで誕生し、自らの知恵で文明を発展させてきたが、現代こそ「知恵のある人=ホモサピエンス」を我々が実践することを求めている」という著者の言葉は「提言」というより「期待」ということだろう。

本書では、多くの視点からの分析や推論がパズルのように語られていく。理解力を駆使しつつも、自分なりの知的刺激が得られればそれで良し、といった開き直りが必要な読書だった。(内池正名)

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