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2022年12月

2022年12月16日 (金)

「オリーヴ・キタリッジ、ふたたび」エリザベス・ストラウト

エリザベス・ストラウト 著/小川高義 訳
早川書房(440p)2020.12.25
2,970円

「ふたたび」(原題:Olive, Again)というタイトルから察せられるように、オリーヴ・キタリッジという女性を主人公にした小説の二冊目である。一冊目は『オリーヴ・キタリッジの生活』(ハヤカワepi文庫)。原著は2010年に出版されて、ピュリッツァー賞を受けた。本書はその9年後に刊行されている。といって、必ずしも1冊目から読む必要はない。2冊とも短篇集で、時にオリーヴ・キタリッジが主役で、時には脇役や端役としてちらりと登場する。だからどこから読んでも短篇として楽しむことができる。

舞台はアメリカ合衆国メイン州の架空の街クロズビー。ボストンの北、合衆国の東北端で太平洋に面する小さな港町だ。林に囲まれた入江にはロブスター漁の浮きが見え、マリーナもある。冬は寒く、雪が積もる。オリーヴは、今はリタイアしたがこの町の高校で長いこと数学を教えていた。教え子がたくさんいるので、町の住民には顔見知りが多い。夫のヘンリーは隣町で薬局を営んでいる。

小さな町だから大事件など起こらない。そんな平穏な日常のなかでの、オリーヴやヘンリーや、町の住民たちの小さな出来事が短篇に仕立てられている。もっとも、恋したり、結婚あるいは離婚したり、町を出たり、ありふれた出来事だからといって、オリーヴやヘンリーや登場人物ひとりひとりにとってみれば、人生を左右するような恐怖や不安、あるいは喜びに満ちている。そんな心模様が掬いとられている。

オリーヴは背が高く、「図体が大きい」。好き嫌いをそのまま言葉にせずにいられない性格。信仰深い看護師が祈りの言葉を繰り返すと、「いいかげんにしなさいよ。くだらない」。その毅然とした、傲慢とも取られかねない姿勢を嫌う住民も多く、町の人からは「ひねくれ婆さん」と呼ばれている。その一方、教室でオリーヴが口にした、人の生き方にまつわるちょっとした言葉を今も覚えている教え子もいる。

夫のヘンリーは、オリーヴと対照的に気配りのよくきく善人だ。第一作の冒頭は、そのヘンリーが店員として雇った若い女性にほのかな思いを寄せ、妻のオリーヴには何も言わず自分の心を始末する話。ほかに、強盗事件に巻き込まれた二人が互いを傷つけあう言葉を吐いてしまったり、息子の結婚相手と気が合わず、息子夫婦がカリフォルニアに去ってしまったり、ヘンリーが卒中で倒れて入院したり。そんな歳月を過ごしながら、オリーヴは心の底にこんな感情を抱いている。

「人間にとって淋しさはたまらないものだ。いろいろな淋しさがあって、どうしても死にたくなることだってある。オリーヴは心の中で、大きな破裂、小さな破裂、ということを考えていて、それで人生が決まるのだというのが持論である。“大きな破裂”とは結婚や子供のようなもの。そういう愛の関係があるから人間は沈まずにいられる。でも大きな破裂には、うっかりすると足を取られそうな底流もあって、だからこそ、“小さな破裂”も必要になる。たとえばディスカントストアへ行ったら店員が親切だったとか、ダンキン・ドーナツの顔なじみのウエートレスがコーヒーの好みを心得ていてくれるとか」

第一作の最後、夫のヘンリーは既に亡くなっていて、川沿いを散歩していたオリーヴは「禿げあがって、大きな腹」をしたジャックと知り合う。本作『オリーヴ・キタリッジ、ふたたび』は、そのジャック・ケニソンを主人公とした短篇から始まる。ジャックはハーヴァードで教えていたがセクハラで辞職し、クロズビーに隠遁している。その、ささやかな一日──隣町のバーで飲んで死んだ妻を思い、帰り道でパトカーに飲酒運転を疑われて止められ、家に帰ってオリーヴに手紙を書く。いかにも短篇小説らしい起承転結からは遠く、ある日の断片が放り出されるように置かれている。これがエリザベス・ストラウトのスタイルなんだろう。最後、ジャックは己の生き方を顧みて自分につぶやく。「たいしたことないぞ、ジャック・ケニソン」。

知り合って互いを「わけのわからないことを言いたがる御大層なへんてこりん」、「しち面倒なやつ」と言うオリーヴとジャックだが、中ほどの短編では二人が惚れあって結婚してしまう。そのことを気に入らない息子に「どうして?」と聞かれて、オリーヴは「どっちもさびしい年寄りで、一緒にいたいと思うから」と答える。

ところがそのジャックも、後半の短編であっけなく死んでしまう。一冊の終わり近く、「心臓」と題された短篇では、83歳になった一人暮らしのオリーヴが心臓発作を起こす。入院したオリーヴは、話をよく聞いてくれる医師に少女のような好意を寄せる。

家に戻ったオリーヴのもとを二人の看護助手が訪問看護にやってくる。ベティはオリーヴの教え子だが、トラックの後部に「大統領になったオレンジ色の髪の怪人」を支持するステッカーを貼っていて、オリーヴは彼女を毛嫌いする。もう一人のハリマはアフリカからやってきた難民の娘。ベティはハリマに冷たく当たって、オリーヴはそれが気に入らない。

でも訪問看護が終わり、一人暮らしに戻ったオリーヴを訪ねてきたベティに、教え子の人生はどうだったかを尋ねる。高校の校長先生に恋心を抱いたまま二度の不幸な結婚をし、やっと看護助手の資格を得た彼女の話を聞いて、オリーヴは「自分は安楽に生きてきたものだ」と思う。この短篇の最後の一文。「オリーヴは愛を感じた。くだらないステッカーを貼っているベティでも、いまは愛せると思った」。エリザベスの短編は、物語がなんらかの結末を迎えることなく突然に終わってしまうことが多いが、この小説では珍しく温かな余韻を残して終わる。

エリザベス・ストラウトを読んでいてドキッとする瞬間がある。小さな出来事の小さな一瞬を捉えて、さりげない、でも味わい深くもあり恐ろしくもある文章が配されているところだ。

「救われる」はオリーヴではなく、弁護士のバーニーを主人公にした一篇。バーニーは、金持ちの依頼主の娘で幼いころから知っているスザンヌと再会する。スザンヌの父は火事で焼死し、母は認知症で施設に入っている。それで久しぶりに故郷へ帰ってきた。スザンヌがバーニーに相談するうち、二人にかすかに惹かれ合う感情が流れるのだが、互いにすっと身を引いて別れる。家へ帰ったバーニーは、スザンヌのことを心配する妻に何と言おうかと考える。「まもなく一階へ下りて、スザンヌは大丈夫だと妻に話してやるとしよう。話したことの詳細までは言わずともよい。スザンヌに助けられたと思っていることも、胸にたたんでおくだけだ。たいして害はあるまい。椅子から立ち上がりながら、そう思った。人間がどれだけの秘密を押し隠して生きるものかと思えば、それくらいの秘密に害はない」。

もうひとつ。先に紹介した「心臓」のなかで、ジャックが突然死する前の最後の夜をオリーヴが思い出す場面がある。その夜、ジャックは「おやすみ、オリーヴ」と笑顔を見せて眠りについた。「あれは遠く離れたところから笑う顔、と彼女の記憶には残っている。そういうことがわかるくらいには、彼との暮らしも長くなっていた」。「もう何なのよ、と彼女は思った。そういうことだとわかってくると、本当に心が傷ついた。彼はオリーヴのそばにいて死んだのではなかった」。作者はそれ以上の説明をしないけれど、直後にこの家はジャックが「妻のベッツィーと暮らした家」であることが添えられている。

短い要約では微妙なニュアンスが伝わりそうもないけれど、この小説を読む喜びは、そうした日常の襞々の深いところから言葉が紡がれている、と感じられることだろう。第一作では60代くらいだったオリーヴは第二作の最後では83歳になっている。最後に置かれた短篇「友人」では、一人で生活できなくなったオリーヴが老人ホームに入っている。相変わらず話しかけてきた老女にそっぽを向いたり、食事のとき誰からも声がかからないが、一組だけ一緒に食事する夫婦もできた。

オリーヴは過去のいろんな記憶をタイプライターで打ち始め、自分が死ぬことを考えながらこう打つ。「自分がどんな人間だったのか、手がかりさえもない。正直なところ、何ひとつわからない」。高齢になり先が見えてきたからといって、人は変わるものではないし、きれいに収まりがつくものでもない。綻びだらけ、小さな秘密だらけで、とっちらかったまま、この小説がそうであるようにブツリと中断される。(山崎幸雄)

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「鉄道小説」乗代雄介、温又柔、澤村伊智、滝口悠生、能町みね子

乗代雄介、温又柔、澤村伊智、滝口悠生、能町みね子 
交通新聞社(256p)2022.10.06
2,420円

本書は日本の鉄道開業鉄道150年を迎えるにあたり、交通新聞社の「鉄道文芸プロジェクト」の一環として作られた短編小説集。掲載されている五編の小説は鉄道、車両、時刻表などがストーリーの重要な役割を担って、様々な人間関係と時間を結びつけている。鉄道の150年という歴史が多くの物語を生み出してきた装置であったが、各小説はともに現代に生きている主人公がその思い出と生活の範囲で構成されている。

鉄道好きの私としてはどうしても鉄道や車両に目が向いてしまうのだが、描かれている人間模様の面白さに注目して読むというのが自然なのだろう。

乗代の「犬馬と鎌ヶ谷大仏」は、新京成線の鎌ヶ谷に子供の時から住んでいる25才の男(坂本)と15年間飼っている犬(ベル)が主人公。

ある日、座敷の天袋を掃除すると奥の方から模造紙の束が出てきた。広げてみるとそれは小学校五年生の時の自由研究で「鎌ヶ谷駅の歴史」を調べた発表資料。「戦争の時代、陸軍鉄道第二連隊が津田沼と松戸の間に訓練線路を作りました。・・・戦争が終わったあと、現在の新京成線になりました。」という説明から始まる。小学校に置いてあり、もうなくなったと思っていた資料が何でここにあるのかと、母に聞くと「あんたが高校生の頃、一緒に発表した松田さんが持ってきてくれた。あんた修学旅行に行っていた時。」という。松田さんには好意を持っていたが、彼女は六年生の時に転校し、それ以来会っていない。

そんな懐かしさに浸りながら、ベルと久しぶりに小学校時代の散歩コースを歩いてみた。すると鎌ヶ谷大仏の近くで、小学校の同級生だった「国坂」とバッタリ出会う。その後ろには松田さんが立っていて「覚えていた?」と笑いながら、二人は「結婚する」と告げられる。

同級生達が未来に向けて歩んでいる。一方、今でも実家に両親と住んで老犬ベルと過ごしながら、過去の思い出に浸っている自分との違いに心が揺れている一人の青年。愛犬と一緒に昔と変わらない踏切の警報音を聞いているという、鉄道好きで犬好きの私としては切なすぎる結末だ。

温の「僕と母の国」は、戦後生まれの台湾人夫婦と3才の子供の一家が1983年に来日して帰化した話である。恵比寿に居を構えたが、その頃はまだサッポロビール恵比寿工場が稼働しており、山手線に隣接していた工場引き込み線周辺にはビール運搬用の箱が山積みされ、貨物車両が風景に溶け込んでいた時代。そして、父は亡くなったが、母は現在65才、主人公である息子も42才になった。母親はこの間25年ほど、カルチャーセンターの台湾料理教室の講師を旧姓の「王燕淑」と名乗り教え続けた。そんなある日、母を訪ねると「日本に長く居過ぎたようだから、この家を売って台湾に帰ることにした。」と打ち明けられる。戦後世代が台湾から日本に帰化してからの40年間の生き様を描いている。国籍と生活の関係とは何かとの問い掛けである。

また、帰化二世世代の多くは日本を離れて中国、欧米の大学に進学したが、主人公は日本での教育を受け、結婚し、両親が手に入れた恵比寿の家で家庭を築いていく。「窓から山手線をみると銀色に緑の線が入った車両が走って行く、子供の頃は緑一色だったのに」と思いながら。

澤村の「行かなかった遊園地と心霊写真」は、怪談好きの文筆家が仕事仲間との飲み会で、同郷と称する男(山田)が話を聞いて欲しいと近づいてきたところから始まる。

山田は小学校高学年になった頃、クラスメイトから「再来週の日曜日に宝塚ファミリーランドに行こう」と誘われた。すると、普段仲間からつま弾きにされている島崎という子が「俺も行く」と割って入って来た。皆は一瞬白けたが作り笑いをしながら「ええよ。10時半、中山駅の改札口で」と約束する。数日後、クラスメイトは「日曜日やけど、宝塚ボーリング場に変える。島崎には言わんといて」と言ってきて、皆で島崎を裏切ることになる。翌日、学校に行くと担任から「島崎君の行方が分からなくなりました、昨日の朝に出掛けたきりです。」と伝えられる。結局30年以上経った今になっても島崎は行方不明のまま。

そして、つい最近、山田は仕事で使うスケジュール帳に一枚の写真が挟まっているのを発見したという。いまは中山観音駅と改名された、宝塚線中山駅で阪急8000系をバックにした島崎が写っており、日付は失踪した1989.6.xxとプリントされている。誰が撮ったのか、何故自分のスケジュール帳に突然挟まっていたのかも判らない。山田は「心霊写真としか思えないのです」という言葉とともに、その写真を手に飲み屋から消えて行った。

一ヶ月程して、文筆家のスマホが鳴る。出てみると、阪急8000系特有の「デュオーン」という発車音が聞こえて来る。「山田です。いま中山駅を出ました」という声にかぶさる様に、「ヤマチャン」という子供の声が聞こえる。「オー島崎」という別の声が聞こえて電話は切れてしまった。まるで30数年前の「1989年6月xx日の朝」の状況の様だったという怪談話である。

滝口の「反対方向行き」は、宇都宮に行く予定で、渋谷から湘南新宿ラインに飛び乗った女性(なつめ)が行先を間違えて反対の小田原行きに乗車した話。飛び乗った車両のボックス・シートにはなつめ一人。乗り間違いに気付いたのは多摩川を渡り「次は武蔵小杉」という車内アナウンスだった。寝坊など朝から失敗続きだったので、開き直ったように「良し分かった」という気分になって乗り続ける。通路を隔てたボックスにも一人の女性が座って窓の外を見ていたが、いつしか眠ってしまい持っていた本を床に落としている。なつめが拾い上げると「鉄道時刻表」だった。ページをめくると、無理やり日本列島を詰め込んだような全国路線図が眼に入る。その路線図に詰め込まれた駅名から、今まで関わって来た人達や思い出を辿り始める。

宇都宮の祖父、祖父と別居した祖母は金沢、そして彼らと疎遠だった母との関係等を思い出していく。一人になった祖父を宇都宮から引き取り、一年間一緒に住んだこと。祖父が亡くなって七年たったことなど。我ながら込み入った人生だったと、思い出に耽りながら、今日の予定を全てキャンセルし、小田原までの旅を続ける。

能町の「青森トラム」は女性(24才)が青森に自分探しの旅に出る話。青森トラムという空想の路面電車を舞台にしている。社会人になったものの、なかなかモチベーションの感じられない生活が続くなか、コロナでのリモート勤務も重なって仕事を止めることを決断する。会社にその旨を話すと「そうですか」と引き留められることもなくアッサリ受け入れられてしまう。青森に住む漫画家・アーチストの叔母さんの所に転がり込んだものの、市内を回る青森トラムの一日切符を買って市内を見て回る日々。女性の運転手が多い事に気付きながら、青森を楽しむ。

実際に生活を始めてみると、叔母は漫画家・アーチストという仕事からのイメージとは異なる人生を歩んできたことが判ってくる。本人や叔母と付き合いのある人達との会話から、叔母の男女間のドロドロの姿を教えられる。それでも、しらっと生きて行く叔母を見て、人が自分をどう見るかではなく、自分自身の価値観で生きて行こうと考え始める。そんな自立のステップが描かれている。そうした先は青森トラムの女性運転士の一人に好意を持っている自分に気付くというもの。青森を楽しく紹介する側面も強く、鉄チャンの私としては、もう少し鉄分が含まれてほしい一篇。

これらの小説に描かれている様に、鉄道は様々な思い出を形成してくれる相棒である。私にとっては自宅のすぐそばを通っていた現在の都営荒川線だ。近所の大人たちは昭和30年代でも「王子電車」といって言っていたが、戦前は「王子電気軌道」という私鉄だったからその名残。都内に沢山あった都電で残っているのはこの荒川線だけになってしまったが、私の鉄道記憶の原点が今も残っていることに感謝である。(内池正名)

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