« 2023年5月 | トップページ | 2023年7月 »

2023年6月

2023年6月16日 (金)

「宝ヶ池の沈まぬ亀 Ⅱ」青山真治

青山真治 著
boid(592p)2022.12.25
3,850円

本書は2022年3月21日に食道がんで亡くなった映画監督、青山真治(享年57)が死の直前まで記した日記だ。青山は『EUREKA ユリイカ』(2000)でカンヌ映画祭国際批評家連盟賞を受けたのをはじめ、『サッド    ヴァケイション』『東京公園』など国際的にも評価の高い映画を何本もつくった。『EUREKA』を自らノベライズした同名の小説では三島由紀夫賞を受賞しているし、映画に関する著書もある。また高校時代にバンドを組んでいたから自作で映画音楽も手がけるなど、多彩な才能を発揮した。ミニシアター系だから興行的に大ヒットした作品はないけれど、どの映画、たとえ失敗作といえそうな映画にも、凄い、と唸るしかないショットが散りばめられている。

この日記はウェブ雑誌に連載されたもので2020年9月から、未発表のままパソコンに保存されていた22年3月までの1年半。実はこの本を読もうと思ったのには評者の個人的理由もあって、この期間は小生と連れ合いが続けてがんを発症した時期にあたる。またコロナ禍とも重なっている。小生が抗がん剤治療、寛解、間もなく連れ合いが発症、看病、介護という時期に青山真治はどのように病気と闘っていたのか、という同志的(?)関心もあった。

日記は20年9月、青山が病院から退院したところから始まる。本書はタイトルからわかるように日記の続編「Ⅱ」で、未読の「Ⅰ」にはそのあたりの事情が書いてあるのだろうが、どうやらアルコール依存からくる低血糖と、呑んでは吐くを繰り返して倒れたらしい。日記には、体力を回復するために自転車に乗り、朝粥を自分でつくるリハビリ生活のなかで、一日の多くの時間をすさまじいまでの「勉強」に費すさまが記されている。勉強の中身は映画(DVD)と音楽(レコード、CD)と読書。その勉強のなかから映画の新しい企画が生まれ、途中からシナリオも書きはじめる。その合間に痛みや発作や呼吸困難が来るのだが、それをやりすごすと、またすぐに映画と音楽と本に戻る。600ページ近い本書のあらゆるページから発されるその気力とエネルギーは、同じくがんを経験した身からすれば信じがたい。

「お粥と自転車と読書と写経(と称して、谷崎『春琴抄』の書き写し)と(ジョン・)フォードと(ラオール・)ウォルシュ、これらによって一日は完璧な形で費やされ、これこそ望んでいた生活である」

「かつて『モノクロホークス全部』や『39年までのフォード全部』『溝口全部』『小津全部』『ムルナウ全部』は成功したものの、それ以降企画倒れに終わることもしばしばで『モノクロルノワール全部』も『モノクロウォルシュ全部』も途中挫折、『ドライヤー全部』は目下『奇跡』一本きり、『西部劇以外のアンソニー・マン全部』も最初の一本のみで空振りもいいとこ。そこに『サーク全部』が足枷として乗ってくる。どれも一度は見ているとはいえ。いい加減一本化してグッと締めていきたい」

ここに挙げられている監督の映画はすべて古典だけど、絨毯爆撃のように次々にDVDを鑑賞する。旧作だけでなく、新作を見に映画館にも出かけて、そのコメントがまた青山らしい。見たのはペドロ・コスタ監督の『ヴィタリナ』。

「超ド級の大傑作だと自信を持って言おう。見事なほど的確な、というか私の好みなのだろうが、初めてデジタル撮影を称賛できた。九割がたナイター(ナイトシーン)といっていいと思うが、時折這入るデイシーンがこれまた何とも絶妙な時間の光を狙っていて、そうした光と影の推移を見ているだけで満足できる。いや、そうではなく映画とは元来そういうものである筈で、話などあってもなくてもどうでもよろしい」

「光と影の推移を見ているだけで満足できる」「話などあってもなくてもどうでもよろしい」とは、青山真治の映画の特質を見事に言い表している(別の日に彼は「因果律にまみれた現在の日本映画」という言い方もしている)。もっとも、それが青山映画のスタイルであるのは確かだけど、でも平凡な映画ファンとしては、映画はああなってこうなる因果律のあるストーリーも大事な要素でしょ、と言ってみたくもなる。

映画や音楽もそうだが、読書も何かに関心が向くと関連本が次々に気になり、購入してしまう(寡作の映画監督として毎月のアマゾンの払いはどのくらいだったか、心配してしまう)。退院直後は新しい企画に関する歴史本に関心が向いている。

「午前中から午後にかけて読書。歴史関連本読了。岩倉具視関係なのだが、あまり知りたいことを知れなかった。というかほぼ知っていることばかりだった。……読まねばならない本が多すぎるとか言っていたら岩波文庫『太平記』全六巻などというものが届いてしまった。もうちょっとこの辺でいい加減にやめておきたい」

新企画にからんだ歴史への関心は、さらに柳田国男、宮本常一、網野善彦へと続く。読書だけでなく、古典を一文字一文字書き写す「写経」は谷崎から漱石「こころ」、一葉「たけくらべ」(「この躍動感。この生命力。写しながらひたすら感動」)へと続く。だけでなく、大学で英米文学を専攻したからか「翻訳と原書の見比べがここしばらく最も夢中な趣味になりつつあり」、あげく「趣味の翻訳」に手を伸ばす。訳すのはフォークナー「サンクチュアリ」。

音楽への興味はバンドをやっていたこともあって、素人の域を超えている。「レコ屋巡りギター屋巡り。渋谷の街があちこち変わっているのに驚く。……レコ屋もギター屋も心和む数少ない空間」。レコードやCDを聴くだけでなく、ラジオの「バラカン・ビート」と「山下達郎 サンデー・ソングブック」がお気に入り。がんを告知された後は、それまであまり聴いていなかったらしいジャズ、それもオーネット・コールマンやジョン・コルトレーンのフリージャズのすべての盤を聴きはじめる(「フリーにロマンは、心はない。というより心をなくすための音楽である」)。

こんな映画や小説や音楽への関心は、それぞれが別個のものではない。青山のなかで、ひとつにつながっている。例えば1970年代の映画『北国の帝王』(ホーボーを主人公にした痛快アクション映画だった)から新作『ビーチ・バム』へとつながる人名や作品を列挙したこんな一文。

「アメリカの『自由』が大恐慌以後そのオルタナティブなラインとしてスタインベックからフォード『怒りの葡萄』を生み、一方でウディ・ガスリーからディランに繋がり、もう一方でエリック・ホッファーやネルソン・オルグレンやビートに、つまりケルアックへと流れ、彼に『ジェフィ・ライダー物語』を書かせ、そこからさらに例えばジャームッシュの諸作へと至る、いわばアウトサイダー文化の大きな潮流となり、この国に存在しないそれをあえて考えるなら『寅さん』が末席を濁す感じかもしれないが、それが現在、ホーボーたちを地の果てマイアミでルノワールや小津と出会わせ、もしくは七福神と出会わせ、bumとしての達磨さんや布袋さんや恵比寿さんのコスプレをマコノヒーにさせ、鯛の代わりに白い子猫を抱かせて船の先に乗せたのがつまり『ビーチ・バム』だ」

青山真治は何を見ても、読んでも、聴いても、その刺激によって脳内でこんなふうに彼だけの曼荼羅図が渦巻いているらしい。

とはいえ病気は容赦なくやってきて、がんが発覚する。「全身が痛み、食べても痛み、ダウン」(21年4月)。「内視鏡検査。喉の痞えは食堂に潰瘍ができたせいで、幅二センチほどの膨らみがある。薬物治療で大丈夫」(5月)、「化学療法。一種類め、これはかなり強いもので割と副作用も重いらしい。続いて二種類め。46時間かかる。一種類めの終わり頃に放射線治療」、「第二の薬を入れる際、刺さった針からその周辺を急激な激痛に見舞われる。それを境に次々と薬の副作用が繰り出され、前後不肖」。

その後も「完全寛解とは言い難い状況」(10月)で入退院を繰り返し、鎮痛剤で痛みを抑えながらの化学療法がつづく。「病院へ。転移再発の可能性」(12月)。年が明けて1月。「病院へ行くと、どうやらよろしくない状況、明日入院と即決」。「一日の覚醒時間の三分の一を占める間歇的な嘔吐感」。2月。病院へ。「おかみさん(女優のとよた真帆)、来たる。三者面談、というか通告。シビア」。「胃瘻を設置する」。3月。「来るべくして来た結果が報告された。三回投与された抗がん剤は効果なし、余命半年以下。秋から想定はしていたのでそれほどの驚きもショックもなかった、お互いに穏やかに事実を認め、受け入れ、真穂(おかみさんの本名)は家に帰り、私は冷静に同僚たちへの報告の手紙を書いた」。

がんを病んだ以後も「勉強」は続いている。その最後の日々に記された、記憶に残る言葉をいくつか引いてみる。

「もうどこにも出かけることはせず、この世の『耻』と『疵』と『痛苦』とともにあるために、森の礼拝堂のような場所で集中すべきなのだろう」
「鎮痛剤を服用して良き読書良き映画鑑賞良き音楽鑑賞をして誰にも読ませるでもないものを書いていればそれで満足な余生を送りたいと思う」
「然るべき瞬間に然るべき位置に『霊性』が映り込んでいることが演出の主眼であって、それ以外はそんなに重要ではない」
「霊性とは、宇宙の中の生命の自覚である。とりあえず、それだけで良い」
「世界をドミニク・サンダのように清廉に感じてもいる」

この本を読みながら、青山真治のスタイルをまねて何本かの彼のDVDを集め、見直したり、初めて見たりしていた。20年ぶりくらいで見た『Helpless』『EUREKA ユリイカ』『サッド ヴァケイション』の「北九州3部作」はいま見ても新鮮で、地方都市を舞台にざらざらした時代感覚に引き込まれる。珍しく他人(荒井晴彦)の脚本で撮った『共喰い』はドラマとしての完成度が高い。はじめて見た『こおろぎ』は海外の映画祭に出品されたきり、国内では公開されなかった。製作サイドのトラブルらしいが、内容も斬新というか大胆というか、いろんなことが説明されずに放り出されている。「話などどうでもよろしい」「光と影の推移だけで満足できる」という青山の言葉を文字通り体現した作品。とはいえ、光と影に敏感な監督だけに青山は女優をきれいに撮る。この映画の鈴木京香はなんともなまめかしい。

遺作となった『空に住む』(2020)でもそれは変わらない。外部から持ち込まれた企画らしく、映画の出来は必ずしも満足のいくものではなかったかもしれないが多部未華子が美しい。殊にラストショット、タワマンの窓辺で彼女が空に向かって伸びをするバストショットは、「世界をドミニク・サンダのように清廉に感じてもいる」という言葉とシンクロしていると思われた。このショットが遺作の最後の画面だったことに、本書を読んだ後では深く納得する。(山崎幸雄)

| | コメント (0)

「敗者としての東京」吉見俊哉

吉見俊哉 著
筑摩書房(320p)2023.02.17
1,980円

歴史に関する本を読むときは、著者の育った時代を前提とした上で読むことが大切だと思っている。著者の吉見は1957年生まれと言うから、私より10才若い世代。社会学、都市論を専門としている学者で、「近代史」「地政学」「東京」といったキーワードでの多くの著作がある。本書は東京という都市を三つの歴史的事象を「占領」という概念でとらえ、敢えて「敗者」からの視線で東京を描き直してみようという試みだ。その「占領」とは、1590年の家康による江戸開府、1868年の薩長による江戸城無血開城、1945年のアメリカによる第二次大戦後の進駐である。

一般的に、東京と言えば「勝者」「成長」「巨大都市」のイメージが強い。しかし、江戸から東京、関東大震災、東京空襲、戦後復興、東京オリンピックという単純な成長主義的な見方だけでは、ポスト成長期である現在の東京を考えると見過ごしてしまうものが多すぎると指摘している。世界的に見れば長い歴史の中で多くの都市が外部勢力により「占領」され、先住者文明を粉々に破壊して、過去の記憶は不可視化されていることも多い。それに比べると東京は「占領=破壊」でなく、新しい要素が付け加えられて都市として変貌してきたことを特徴としている。そんな東京を描く方法論として、「判官贔屓」的な思考を含んだ広義の「敗者」の視点から東京という都市を読み解く必要性を指摘している。

江戸は武蔵野台地の東崖が東京湾に突き出たところに造られ、大小の川が流れ込み、複雑な地形が形成されていた。縄文期は集落も多く作られ、弥生期(4C後半)には渡来人が進出し、鉱山技術、牛馬の飼育、水運技術などを活用して武蔵秩父を拠点とした「秩父平氏」として500年を超えて江戸に君臨していた。しかし、源頼朝によって権力基盤を徐々に崩されていき、15世紀に太田道灌により留めをさされている。この「敗者」たる「秩父平氏」一族は「豊島氏」、「葛西氏」、「江戸氏」、「喜多見氏」、「丸子氏」、「六郷氏」、「飯倉氏」、「渋谷氏」などが各地を所領としていたことから、「敗者」の記憶を多くの地名で現在も辿ることが出来ることに驚くばかりである

江戸を占領した家康はまず、飲料水の確保のために井の頭池からの水供給路として神田上水を掘削する。また、物流を確保するために、小名木川・新川といった水路を造営した。最大の工事は神田川を御茶ノ水付近で迂回させ、水路を掘削して隅田川に合流させた。この工事で神田山を削り取った土は日比谷の入江を埋め立てに使われ、霞が関・日比谷・有楽町・丸の内は陸続きとなった。こうしてほぼ現代の東京の地形が出来上がっていく。家康の占領は、江戸を戦闘による死の時代から、都市基盤整備を進める建設の時代転換させていることが良く判る。

明治維新(1868)の薩長による占領で徳川慶喜は江戸を無血開城したものの、自身は大正期まで生きている。維新の真の「敗者」とは薩長に対して徹底抗戦した会津などの東北諸藩や彰義隊を始めとして、無宿人・貧民とともに産業化の中で搾取されてきた女工だったとしている。この中で、戊辰戦争で敗者となった旧幕臣敗者知識人たちの生き様に注目している。それは「敗者は垂直統合型の日本社会での栄達を諦め、その自閉から抜けだすことで、越境的な知の担い手になる」としている。例えば会津の山本覚馬もその一人である。鳥羽伏見の戦いに敗れ、幽閉されて失明する。それでも彼は口述で議院制度、貨幣制度、学校制度などについてまとめ、新政府にとっても貴重な意見になったという。釈放後は京都の復興に参画するとともに、同志社の設立など横断的な活躍をしている。

ただ、彰義隊は上野寛永寺に謹慎した徳川慶喜を守るために結成されたものの、慶喜自身は早々に水戸に逃れ、残された彰義隊は上野、谷中、根津、千駄木を戦場として一日の戦いで滅亡する。そして上野は維新後に英霊を弔うこともなく、公園や勧業博覧会会場として利用され、文明開化のシンボルとなる施設が作られていった。「勝者」西郷像を知る人は多いが、そのすぐ後方にある彰義隊の慰霊碑を知る人は少ない。

次に博徒と呼ばれていた「敗者」の中から有名人も現れてくる。その一人が清水次郎長である。その次郎長の人生を文章にしたのが天田愚庵である。彼は旧磐城平藩士の息子だったが戊辰戦争で両親を失った後、山岡鉄舟との知遇を得て、次郎長の養子となるという「敗者」の人生を辿る。かれは「東海遊侠伝(次郎長一代記)」(1884年)を書いた。三代目神田伯山が講談として、広沢虎造は浪曲で語ったことから、時代の敗者たる無宿人を全国区の人気者に押し上げて行った。また、明治初期に貧民窟といわれ「長屋の一部屋に複数の家族が居住して」生活する地域も多くあったが、こうした人々を1890年代徳富蘇峰の国民新聞を始めとする複数のジャーナリズムが積極的に取り上げている。

産業化が進み、東京では滝野川に官主導で1872年(明治5年)に士族の子女の救済のために紡績工場が設立された。その後、隅田川沿岸に造られた鐘淵紡績は明治20年の創設時は351名だったが、大正期には5000人規模に膨れ上がる。しかし、こうした工場の労働賃金条件の悪さから女工たちの逃避が続き、多くの工場で争議が起きている。そんな状況を細井和喜蔵がルポルタージュ「女工哀史」(1925年)で書いて脚光を浴びる。細井自身が紡績工場の下級職工、結婚している相手も女工であり、彼らの体験を自らの言葉としてまとめたものだった。

現在の我々がこうした弱者の状況について時代を越えて理解するための記録として読むことが出来るのも、当事者の言葉と共に、それを記述する人の存在が不可欠であったことが良く判る。天田を始めとしたジャーナリストの多くが戊辰戦争の敗者であったし、細井が貧しい職工であったことなども偶然ではないのだろう。

最後の占領については、著者のファミリーヒストリーを辿る事で「敗者」としての東京を描いて見せている。著者は母親の死後に戸籍謄本をとり、母、祖母、曾祖父、おじ(暴力団組長の安藤昇)についてその生き様を詳細に描いている。この様に、両親や祖父母の世代が中心で有った戦前・戦後時代を考える際には、家族の生き様を辿って体感していくことで彼らが呟いていた言葉の意味を再確認する良い機会になるはずである。加えて、戦後の思想家達の活動として鶴見俊輔の「自分は決して勝者にはならない」という思いと「思想の科学」での活動を紹介したり、ジャズを始め、映画、小説を語り、現代で言えばサブカルチャー的な領域での植草甚一に代表される「脱領域」的な知的活動ももう一方の「敗者」の極として評価している。まさに、「敗者は弱者ではなく、占領者の眼差しを受け入れながら、人々がしたたかな敗者として振る舞ってきた姿を示している」という著者の考えに納得する。

福沢諭吉は「やせ我慢の説」を書き、かっての主君であった徳川慶喜が水戸に逃れ責任を果たさなかったことを問うている。一方、第二次大戦の敗戦で連合国に無条件降伏したものの、最高責任者である天皇は東京裁判で訴追されることは無く、「敗者」は膨大な戦死者と民間人死者、そして生き残った国民、引揚者などであった。そうした状況を著者は「米国の占領は大日本帝国の劇的な崩壊と裏表であるが、敗戦前の秩序や意識が維持されたことが、戦後日本が本当の意味で『敗者』になり切れなかった」として、これからの日本を考える際に「敗者」としての深い目線が欠落することを危惧している。

第二次大戦の敗戦は両親の世代の歴史だ。私の父の生き様を振り返って見ると、彼は、「同期の仲間達の1/3が戦死した。死んだ仲間の為にも生き残った自分は頑張って生きなければならない」と語っていた。そこには生き残ったことの「希望」や「感謝」ではなく、生き残ったことによる「責務」を果たすために仕事に邁進していた戦中派が居たように見えてならない。(内池正名

| | コメント (0)

« 2023年5月 | トップページ | 2023年7月 »