「敗者としての東京」吉見俊哉
吉見俊哉 著
筑摩書房(320p)2023.02.17
1,980円
歴史に関する本を読むときは、著者の育った時代を前提とした上で読むことが大切だと思っている。著者の吉見は1957年生まれと言うから、私より10才若い世代。社会学、都市論を専門としている学者で、「近代史」「地政学」「東京」といったキーワードでの多くの著作がある。本書は東京という都市を三つの歴史的事象を「占領」という概念でとらえ、敢えて「敗者」からの視線で東京を描き直してみようという試みだ。その「占領」とは、1590年の家康による江戸開府、1868年の薩長による江戸城無血開城、1945年のアメリカによる第二次大戦後の進駐である。
一般的に、東京と言えば「勝者」「成長」「巨大都市」のイメージが強い。しかし、江戸から東京、関東大震災、東京空襲、戦後復興、東京オリンピックという単純な成長主義的な見方だけでは、ポスト成長期である現在の東京を考えると見過ごしてしまうものが多すぎると指摘している。世界的に見れば長い歴史の中で多くの都市が外部勢力により「占領」され、先住者文明を粉々に破壊して、過去の記憶は不可視化されていることも多い。それに比べると東京は「占領=破壊」でなく、新しい要素が付け加えられて都市として変貌してきたことを特徴としている。そんな東京を描く方法論として、「判官贔屓」的な思考を含んだ広義の「敗者」の視点から東京という都市を読み解く必要性を指摘している。
江戸は武蔵野台地の東崖が東京湾に突き出たところに造られ、大小の川が流れ込み、複雑な地形が形成されていた。縄文期は集落も多く作られ、弥生期(4C後半)には渡来人が進出し、鉱山技術、牛馬の飼育、水運技術などを活用して武蔵秩父を拠点とした「秩父平氏」として500年を超えて江戸に君臨していた。しかし、源頼朝によって権力基盤を徐々に崩されていき、15世紀に太田道灌により留めをさされている。この「敗者」たる「秩父平氏」一族は「豊島氏」、「葛西氏」、「江戸氏」、「喜多見氏」、「丸子氏」、「六郷氏」、「飯倉氏」、「渋谷氏」などが各地を所領としていたことから、「敗者」の記憶を多くの地名で現在も辿ることが出来ることに驚くばかりである
江戸を占領した家康はまず、飲料水の確保のために井の頭池からの水供給路として神田上水を掘削する。また、物流を確保するために、小名木川・新川といった水路を造営した。最大の工事は神田川を御茶ノ水付近で迂回させ、水路を掘削して隅田川に合流させた。この工事で神田山を削り取った土は日比谷の入江を埋め立てに使われ、霞が関・日比谷・有楽町・丸の内は陸続きとなった。こうしてほぼ現代の東京の地形が出来上がっていく。家康の占領は、江戸を戦闘による死の時代から、都市基盤整備を進める建設の時代転換させていることが良く判る。
明治維新(1868)の薩長による占領で徳川慶喜は江戸を無血開城したものの、自身は大正期まで生きている。維新の真の「敗者」とは薩長に対して徹底抗戦した会津などの東北諸藩や彰義隊を始めとして、無宿人・貧民とともに産業化の中で搾取されてきた女工だったとしている。この中で、戊辰戦争で敗者となった旧幕臣敗者知識人たちの生き様に注目している。それは「敗者は垂直統合型の日本社会での栄達を諦め、その自閉から抜けだすことで、越境的な知の担い手になる」としている。例えば会津の山本覚馬もその一人である。鳥羽伏見の戦いに敗れ、幽閉されて失明する。それでも彼は口述で議院制度、貨幣制度、学校制度などについてまとめ、新政府にとっても貴重な意見になったという。釈放後は京都の復興に参画するとともに、同志社の設立など横断的な活躍をしている。
ただ、彰義隊は上野寛永寺に謹慎した徳川慶喜を守るために結成されたものの、慶喜自身は早々に水戸に逃れ、残された彰義隊は上野、谷中、根津、千駄木を戦場として一日の戦いで滅亡する。そして上野は維新後に英霊を弔うこともなく、公園や勧業博覧会会場として利用され、文明開化のシンボルとなる施設が作られていった。「勝者」西郷像を知る人は多いが、そのすぐ後方にある彰義隊の慰霊碑を知る人は少ない。
次に博徒と呼ばれていた「敗者」の中から有名人も現れてくる。その一人が清水次郎長である。その次郎長の人生を文章にしたのが天田愚庵である。彼は旧磐城平藩士の息子だったが戊辰戦争で両親を失った後、山岡鉄舟との知遇を得て、次郎長の養子となるという「敗者」の人生を辿る。かれは「東海遊侠伝(次郎長一代記)」(1884年)を書いた。三代目神田伯山が講談として、広沢虎造は浪曲で語ったことから、時代の敗者たる無宿人を全国区の人気者に押し上げて行った。また、明治初期に貧民窟といわれ「長屋の一部屋に複数の家族が居住して」生活する地域も多くあったが、こうした人々を1890年代徳富蘇峰の国民新聞を始めとする複数のジャーナリズムが積極的に取り上げている。
産業化が進み、東京では滝野川に官主導で1872年(明治5年)に士族の子女の救済のために紡績工場が設立された。その後、隅田川沿岸に造られた鐘淵紡績は明治20年の創設時は351名だったが、大正期には5000人規模に膨れ上がる。しかし、こうした工場の労働賃金条件の悪さから女工たちの逃避が続き、多くの工場で争議が起きている。そんな状況を細井和喜蔵がルポルタージュ「女工哀史」(1925年)で書いて脚光を浴びる。細井自身が紡績工場の下級職工、結婚している相手も女工であり、彼らの体験を自らの言葉としてまとめたものだった。
現在の我々がこうした弱者の状況について時代を越えて理解するための記録として読むことが出来るのも、当事者の言葉と共に、それを記述する人の存在が不可欠であったことが良く判る。天田を始めとしたジャーナリストの多くが戊辰戦争の敗者であったし、細井が貧しい職工であったことなども偶然ではないのだろう。
最後の占領については、著者のファミリーヒストリーを辿る事で「敗者」としての東京を描いて見せている。著者は母親の死後に戸籍謄本をとり、母、祖母、曾祖父、おじ(暴力団組長の安藤昇)についてその生き様を詳細に描いている。この様に、両親や祖父母の世代が中心で有った戦前・戦後時代を考える際には、家族の生き様を辿って体感していくことで彼らが呟いていた言葉の意味を再確認する良い機会になるはずである。加えて、戦後の思想家達の活動として鶴見俊輔の「自分は決して勝者にはならない」という思いと「思想の科学」での活動を紹介したり、ジャズを始め、映画、小説を語り、現代で言えばサブカルチャー的な領域での植草甚一に代表される「脱領域」的な知的活動ももう一方の「敗者」の極として評価している。まさに、「敗者は弱者ではなく、占領者の眼差しを受け入れながら、人々がしたたかな敗者として振る舞ってきた姿を示している」という著者の考えに納得する。
福沢諭吉は「やせ我慢の説」を書き、かっての主君であった徳川慶喜が水戸に逃れ責任を果たさなかったことを問うている。一方、第二次大戦の敗戦で連合国に無条件降伏したものの、最高責任者である天皇は東京裁判で訴追されることは無く、「敗者」は膨大な戦死者と民間人死者、そして生き残った国民、引揚者などであった。そうした状況を著者は「米国の占領は大日本帝国の劇的な崩壊と裏表であるが、敗戦前の秩序や意識が維持されたことが、戦後日本が本当の意味で『敗者』になり切れなかった」として、これからの日本を考える際に「敗者」としての深い目線が欠落することを危惧している。
第二次大戦の敗戦は両親の世代の歴史だ。私の父の生き様を振り返って見ると、彼は、「同期の仲間達の1/3が戦死した。死んだ仲間の為にも生き残った自分は頑張って生きなければならない」と語っていた。そこには生き残ったことの「希望」や「感謝」ではなく、生き残ったことによる「責務」を果たすために仕事に邁進していた戦中派が居たように見えてならない。(内池正名)
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