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2023年9月

2023年9月15日 (金)

「世界の食卓から社会が見える」岡根谷実理

岡根谷実理 著
大和書房(312p)2023.04.15
2,090円

料理本というと、得てして「美味しい」とか「珍しい食材」といった視点で完結してしまうものだが、著者は世界各国の一般家庭に滞在し、一緒に料理をつくり、食べることで食材や料理についての話を聞き集めるという活動を続けている。その視点は個人から徐々に社会や歴史へと広がり、食を起点とする課題や文化を深堀りしている。著者は自身を「世界の台所探検家」と称し「料理は社会を知る入口でしかない」と語っている様に、家庭の料理から現地を知り、そして世界の動きが見えてきた時に、大きな達成感が得られると言っている。まさにフィールド・ワークの神髄といえる。本書で語られる、各国の料理から見えて来る課題は「政治」「宗教」「地球環境」「食の創造性」「伝統食の課題」「気候」「民族」と多様さが面白い所である。

ただ、私もテレビで各種のニュースを横目で見ながら、日々食事をしているものの、食材の一つ一つに思いを馳せて食べている訳でもなく、「美味い」か「不味い」かが重要で、口にしている食べ物とニュースを結び付けて考えることもそう多くない。そんな生活の中で本書を読んだ結果、少しでも食べ物から世の中を見るルーティンが生まれてくれば著者の狙いは達成できたということなのだろう。食を取り巻く幾つかの課題について、初めて知ったという面白さとともに、そう言われてみればという再確認の事柄もあり、それらをビックアッブしてみた。

食と政治の関係では、メキシコのタコスを取り上げて、1991年の北米自由貿易協定締結に従ってアメリカからの強い要請による、遺伝子組換(GM)や除草剤使用のとうもろこし輸入の影響を描いている。加えて、スーダンではイネ科のソルガムという穀類の粉で「アスイダ」という練り粥、日本で言えば「蕎麦がき」的料理がほぼ毎日食卓に登場する主食だが、一方、町ではコッペパンが沢山売られているという。スーダンは乾燥地域なので小麦は栽培できないのだが、1980年代からアメリカの「余剰農産物処理法」によって輸入が拡大するとともに政府の補助金もあり、パンが安価な代替主食になっていった経緯がある。しかし、補助金の打ち切りやウクライナ戦の影響を受けて値上げが続いているという。輸入に依存した食のリスクが顕在化して、国民の混乱が有るという。自給率の重要性が再確認されるとともに、アメリカの食料輸出戦略の負の部分がいろいろな分野で出てきていることも判る。

食と宗教については食戒律(コーシャ)がメインテーマである。イスラエルのマクドナルドではチーズバーガーは販売されていない。それは、コーシャの基準に「同じ料理で乳製品と肉の両方は使わない」とあるのも、聖書に書かれている「子山羊をその母の乳で煮てはならない」という言葉に起因しているという。このように各宗教が色々な食戒律を持っているが、各国航空会社が提供している特別機内食のリストが紹介されている。見ると、ANAは中国南方航空や大韓航空とともに11種類の特別機内食が選択可能な一方、エールフランス、アメリカン、ルフトハンザは6~7種となっている。選択種類の多さにも驚くが、アジア系と欧米系の差についても理由が知りたいという好奇心が湧いてくる。

食と地球環境について、ボツワナのティラピア(淡水魚)の高い養殖効率から将来のタンパク源確保の将来性を評価している。また、メキシコのアボカドは紀元前から栽培されており、現在も全世界の30%の生産で世界一を誇っている。日本で消費されるアボカドの90%はメキシコからの輸入である。しかし、問題は栽培のための水の確保だという。アボカド1kgの収穫に1981リットルの水が必要とされ、これはバナナの2倍、トマトの10倍である。このため国内の限られた栽培地確保のために森林伐採が進み、環境危機が叫ばれていると指摘している。

食の創造性という観点では、ベトナムや台湾などでみられる代替肉料理と宗教との関係について探っている。肉を食べないがタンパク質は摂取するというのなら、わざわざ大豆で作った代替肉をたべずに大豆食品を食べれば良いというのももっともだ。「人間は肉に似せたものを何故食べるのか」と問い掛けている。日本でも精進料理に「うなぎもどき」が有ったりする。台湾やベトナムでも精進料理として鶏の丸焼きをかたどった料理があるという。著者がベトナムの尼寺に行ったのが仏誕祭(花祭り)で参拝者に料理がふるまわれていた。その中にエビのような人参や肉無しの肉まんがあったので、尼僧に理由を聞くと「私たちは肉を食べたいとは思わない。野菜を野菜として食べていれば穏やかでいられる。肉に似せた精進料理を作るのは参拝者のため」とのこと「僧からの優しさの贈り物」と著者は見ている。

現代日本の代替肉料理はどう考えればいいのか。単なる我慢の結果と言うのでは趣旨が違うようにも思える。

伝統食についての課題について、旧ソ連邦のモルトバは農業国だが、伝統的に各家庭で自家製のワインを作っている。また、家で搾ったミルクでチーズを造っている。客に自家製のワインとチーズでもてなすのが礼儀とのこと。まさに伝統食ということなのだろう。ここで見えて来る問題は、国民のアルコール摂取量はワイン換算で170本/1人で世界一位。これに統計に入っていない自家製ワインが加わると途方もない量になるとみている。この国の全死因の26%はアルコール関連で世界平均の5倍という。文化と伝統を取り締まることはできないが、悩ましい課題である。

と民族の観点では、イスラエルからパレスチナに移動して行く旅で国境を越えると風景は一変して石造りの家々と古い街道が続く。パレスチナで訪問した家庭では多様な食べ物を作ってくれたが、必ず出て来るのが自家製のオリーブの塩漬けで、漬け汁にレモンが皮ごとはいっていてサッパリとした味わい。食後、散歩に出ると道の両側に大きな樹が生えている。案内してくれた人が「オリーブの木が生えてると、そこはパレスチナ人の土地だと判る」と言う。何故と聞くと、「オリーブの木は地中深く根を張り、簡単には抜けない。木質も硬く、切り倒すのも一苦労。だからパレスチナ人が昔から住んでいた土地にはオリーブの木が残っている。いまはイスラエルでも」

美味しいか美味しくないかだけでなく、料理の成り立ちを理解することで、我々が生きている社会を見ることが出来る。そんな思いが著者をかき立ててきた様だ。そして、2018年から2022年にかけて著者が旅してきた体験が本書のベース。それも、著者が切り取った世界の見方の一つでしかないことから、刻々と変化する時代であるからこそ、読者が新たな「料理の向こう側」を見たならば、是非教えてほしいという一言も添えられている一冊。(内池正名)

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「イラク水滸伝」高野秀行

高野秀行 著
文藝春秋(480p)2023.07.30
2,420円

ノンフィクション作家である高野秀行のモットーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かないことを書く」だそうだ。それがどんなものかは彼の著書を並べてみれば、おおよそ見当がつく。『幻獣ムベンベを追え』『謎の独立国家ソマリランド』(講談社ノンフィクション賞)『辺境メシ』『幻のアフリカ納豆を追え』。大学(早大)の探検部出身という経歴をつけ加えれば、梅棹忠夫、本多勝一、船戸与一、西木正明といった探検部出身の学者、作家、ジャーナリストの書くものに連なることも推測できる。

『イラク水滸伝』はイラク南部、ティグリス川とユーフラテス川の合流点に広がる広大なアフワール(湿地帯)を舞台にしている。「水滸伝」とタイトルにあるのは、こんな理由からだ。アフワールと呼ばれる湿地帯は、昔から戦いに負けた者やマイノリティ、山賊や犯罪者が逃げ込む場所だった。迷路のように水路が入り組む湿地帯には、馬も大軍も入れない。そんな状況が、町を追われた豪傑たちが湿地帯を根拠に宋朝と戦う『水滸伝』を思わせるから。

アフワールの民の抵抗に手を焼いたフセイン政権は、流れ込む水を堰き止めて湿地帯を乾かし、水の民は移住を余儀なくされた。でもフセイン政権が崩壊した後、堰がこわされ湿地帯が半分くらい復活しているという。しかも、アフワールとその周辺でシュメール人が世界最古の都市文明を築いたメソポタミア遺跡群が世界遺産に登録された。高野が「アフワールへ行こう」と思ったのは、こうしたニュースを耳にしたからだった。

でも、困難がいくつかあった。一つはイラクの政治的混乱。この旅を企画した当時、IS(イスラム国)と政府軍が戦闘を繰り広げていた。その後も治安はいいとはいえない。もうひとつはコロナ。そもそもイラクへ入国できなくなった。

結論を言えば、高野はアフワールを昔ながらの船で旅するという当初の目的を達することはできなかった。この本はその経過報告というか、まずアラビア語イラク方言を学び、人脈をたどってアフワールに行き、元反政府ゲリラの親玉に会い、湿地を復活させようとするリーダーと親しくなり、船をつくり、水の民の生活に触れ、伝統的な刺繡布の謎を追い、完成した船を水路に浮かべて漕ぎ、といったもうひとつの旅の報告になっている。著者も言うように、「不運の連鎖」と「悪あがき」に満ちた「蛇行と迷走」は、本来の目的だった船旅よりたぶん面白いものになった。

高野は、東京の大学院に留学していたハイダル君にアラビア語を習い、それだけでなくバクダードで彼の兄の家に滞在し、アフワールへの旅にはハイダル君自身が通訳兼ガイドとして同行してくれることになった。チームは高野と、彼の師匠格、東京農大探検部OBで環境活動家・冒険家の山田高司(隊長)。

水滸伝を名乗るからには、豪傑が登場しなければならない。ハイダル君のコネクションでまず会えることになったのが、「湿地帯の王」と呼ばれるカリーム・マホウド。フセイン政権時代は反政府ゲリラ活動を率い、米軍侵攻後は占領軍の「暫定統治委員会」のメンバーになったが、あまりに荒っぽくて政治に向かず、現在はティグリス川沿いの町、アマーラで暮らしているという。彼はフセイン時代に投獄され、そこでコミュニストの仲間になった。自らも湿地民の氏族であるカリームは湿地帯とそこに住む民についてこんなふうに説明してくれた。

「アフワールは……ノアの洪水以来、何も変わっていない。そこは昔から『マアダン』という人たちが住んでいる。元の意味は『水牛などの動物を飼う人』の意味だ。と同時に、ギルガメシュの時代から“体制と戦う者”つまりレジスタンスのことも意味する。アフワールには馬や象が入れないから、強い権力に抵抗するのに適した場所だったのだ」

カリームだけでなく、アフワールの民に話を聞くと、ノアの洪水とかギルガメシュとかシュメールとか古代と現代とがごく自然に、当たり前のようにつながっている。カリームに会えたことは、高野たちにとって幸運なことだった。アフワールに限らないが、いまこの国は強盗が出没し、外国人は拉致されかねない。危険があるかもしれないとき、高野たちは「カリームに食事に招かれたよ」と告げる。「旅行者が誰かの世話になるとその地域では世話した人の『客(ゲスト)』と見なされる。そして客が被害を受けるというのは『主人(ホスト)』にとってこの上ない屈辱なのだ」。もしこのあたりでカリームの客である高野たちが襲われた場合、カリームが恥辱をそそぎに襲ってくる可能性を誰もが想像する。「だから彼の客であることをアピールすれば、一定の抑止力にはなる」。

高野はさらに伝手をたどって、アフワールでの活動に全面的に協力してくれることになるもうひとりの「豪傑」に出会う。環境NGO「ネイチャー・イラク」の長、ジャーシム・アサディ。アフワールの湿地民出身で、大学を卒業して水資源省に入り水利専門の技術者となった。フセイン政権崩壊後はアフワール復興事業の現地責任者になり、治水工事を指揮している。「大胆な治水工事を計画実行する能力と統率力、驚くほど広いネットワーク、国籍や身分や素性に関係なく、自分を頼ってきた人は誰でも最大限に面倒をみようという親分肌、そして個人の自由を無視した権力を忌み嫌い、自分が納得できないことには徹底して反対し戦う、反骨にして異能の人でもあった」「彼らこそが新世紀の『水滸伝的好漢』なのではないかと思う」。

ジャーシム宋江(と高野は水滸伝の主人公になぞらえて呼ぶ)の「客」となった高野たちは、彼の紹介でいろんな湿地の民に出会う。湿地の浮島(水面に出た葦の上に刈り取った葦を重ねて「島」にする)に小屋掛けして住む家族。「浮島は彼の土地なのかと訊くと、『いや、誰が使ってもいい』との答え。ジャーシム宋江が笑った。『アフワールに私有地なんてない』」。さらに、水牛を飼って移動生活する「マアダン」(現代イラクでは差別的に使われるという)の人々。原始キリスト教成立直後に生まれたマンダ教という宗教を信じ、湿地帯で船大工を生業に二千年間ひっそり暮らしてきたマンダ教徒。

高野たちは彼らから話を聞き、伝統的な船タラーデを注文して建造に立会い、水牛のミルクを寝かせてつくるゲーマルという食品(「絹ごし豆腐のような重みがあって、うっとりする香りと旨味」)の作り方を見学したり、アザールと呼ばれる刺繍布の織り手を訪ねたりしている。最後には完成したタラーデを湿地に浮かべて漕いでみる(カバー写真)。文章に写真やスケッチも加えて、そのひとつひとつの行動の報告がこの本の核をなしている。未知と謎を探求する冒険譚であり、地誌や民族誌でもあり、イラクという国の「混沌」を旅する読みものとして面白い。

同時に、西洋的な近代国家の常識や物差しでは測れないイラクの内側に少しだけ触れられる。われわれがイラクについて知っているのは、多数派のアラブ人シーア派と少数派のアラブ人スンニー派、それにクルド民族の対立といった程度だけど、この本にも出てくるように民族も宗教も多種多様な人びとが暮らしている。また氏族の力が大きい社会であることも、高野たちが氏族の有力者の「客」となることで安全を担保することからわかる。そうした民族・宗教・氏族の異なるいろんなグループが民兵組織をつくり武器を持っているから、われわれの目には「混沌」としか映らない。高野たちが最終的にアフワールの船旅をあきらめたのも、いくつもの氏族が、時に対立し武装している地域を誰の庇護も受けない外国人が旅することの困難さからだった。

実際、「ネイチャー・イラク」のジャーシムが、本書の取材後にバクダード郊外で(どうやら親イラク民兵組織に)拉致された。二週間後に解放されたが、誰が何の目的で拉致したのか、ジャーシムも高野に多くを語らない。彼は今もアフワールに戻れていないという。

高野は「あとがき」で取材を終えた後のことも書いている。アフワールはいま、ティグリス川上流にトルコが大規模なダムをつくったために再び深刻な水不足に見舞われている。水牛とともに暮らすマアダンはユーフラテス川に避難したという。

「今後アフワールは一体どうなるのか。水が減り続け、フセイン政権時代のように、湿地帯は乾燥した荒野と化し、湿地民と水牛は水を求めてイラク各地を彷徨うのだろうか。/別の可能性もある。湾岸諸国あるいは中国やイランといった国が資本と技術を投じて、アフワールを巨大観光地化することも私は想像してしまう。/いずれにしても、それは従来のアナーキーにして多様性に富んだ湿地帯の姿ではないであろう」

その意味で、高野も自負するように、この本はいままた岐路に立たされている巨大湿地帯の現時点での貴重な記録になるかもしれない。ともあれ、最後は水滸伝らしいフレーズで締めくくられる。「ジャーシム宋江だって、言っていたではないか。『湿地帯の将来は暗い。でも今日は楽しもう!!』と」。(山崎幸雄)

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「夜は歌う」キム・ヨンス


キム・ヨンス 著
新泉社(320p)2020.2.15
2,530円

韓国文学セレクションと題された一冊。本書を書店の書棚で手に取りそのまま買ってしまったのは、舞台が旧満洲国だったから。旧満洲国については以前から興味があって、研究者の著作からノンフィクション、小説、漫画まで、目につくとつい読みたくなってしまう。最近では小川哲『地図と拳』や、本サイトでも取り上げた平山周吉『満洲国グランドホテル』がある。その興味の源をたどっていくと、子供のころ近所の友だちの家に遊びに行くと、釣竿職人のおやじさんが満洲国に駐留した元兵士で、竿をしならせながら「♫ここはお国を何百里 離れて遠き満洲の」と「戦友」を歌い満洲の話をしてくれたことにたどりつく。

この『夜は歌う』がほかの「満洲もの」と違うのは、奉天(瀋陽)や大連といった都市部でなく朝鮮半島とソ連との国境地帯(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州)延吉周辺(当時の呼び方では間島─カンド─)を舞台にしていること、そして主人公が朝鮮半島からやってきた朝鮮人であることだろう。時は1932年。満洲国が成立した年であり、現在の韓国や北朝鮮は大日本帝国に併合されて朝鮮民族の国家がない時代。だから、小説では日本と日本人が敵として重要な役割を果たす。

あらかじめ言っておくと、といってこれは反日小説じゃない。小説には二人の日本人が登場するが、二人は若き主人公の人格形成に大きな影響を与える。彼らは愛憎入り混じった複雑な関係にある。

小説は「民生団事件」と呼ばれる歴史的出来事を素材にしている。日本軍と戦う抗日遊撃隊のなかで、500人をこえる朝鮮人が朝鮮人によって粛清された事件だ。この小説は2008年に韓国で発表されたが、当時、韓国でこの事件はほとんど知られていなかったらしい。キム・ヨンスは安重根や朝鮮戦争など歴史的な素材をいくつもの小説に仕立てているようだが、日韓の資料を使ってこの小説を完成させた。

物語は「僕」の一人称で語られる(以下、「 」ははずす)。自分は何者なのか、どう生きるべきかといった成長物語である一方で、韓流ドラマみたいな波乱万丈のストーリー。僕、金ヘヨンは朝鮮半島の南部、慶尚道生まれで詩が好きな青年だ。工業高校を出て運よく満鉄に測量士として採用され、鉄道敷設の調査で間島の龍井(ヨンジョン)にやってくる。満洲国建国直後の間島には40万近い朝鮮人が住んでいた。僕は満鉄で二人の日本人に出会う。ひとりは大連の満鉄調査部にいる西村。西村は東京帝国大学在学中に共産党に入党し地下活動していたが検挙され、獄中で転向。出所後、詩人として活動したが心中事件を起こして生き残り、満洲にやってきた。もうひとりは、僕のいる測量班を警護する中隊の中島中尉。彼はどうやら石原莞爾の信奉者らしい。その一方、ハイネの詩を口ずさむ「浪漫主義者」。中島は僕にこう言う。

「俺はおまえが気に入った。…自分を卑しいとは思っていないようだ。…いままで人を殺したことはあるまい? だが満洲にいるかぎり、お前のようなやつもいつかは人を殺す日が来る。その日が来たらまた話そうじゃないか。果たして死ぬとはどういうことなのか。…死があるからこそ生きるのが素晴らしい、それが分かれば充分だ。だから犬死にしやしないかと体を震わせて怯えるくらいなら女を愛せ」

その言葉どおり、僕はソウルの梨花女子専門学校を卒業したピアニスト、李ジョンヒと出会い、恋に落ちる。僕は中島にもジョンヒを紹介し、三人で酒を飲む間柄になる。が、僕がジョンヒに求婚した直後、ジョンヒは死に、僕は拘束される。彼女が殺されたのか自殺したのか判然としないが、実はジョンヒは抗日組織の一員で、情報を取るために僕と中島に近づいたのだった。そのことを知って、僕は「話を聞く前にいた明るい世界から永久に追放されたような気分だった。僕の向かった所は、信じられるものなど何もない暗い世界、自分すらも信じられない夜の世界だった」。

釈放され、満鉄を辞めた僕はいっとき阿片に溺れるが、龍井の写真館に住み込んで養生することになる。写真館を手伝っている娘、ヨオクは抗日組織の連絡員。僕とヨオクは互いに好意を持つようになり、抗日の遊撃区である彼女の村に行ったとき、村は日本軍の討伐隊に襲われヨオクは右脚を失う。日本軍の手先ではないかと疑われていた僕も、以後は信頼を得て抗日組織の村(ソビエト)で、ジョンヒと高校の同級生であるコミュニスト、朴トマンと行動を共にすることになる。また、満洲国と協力して間島に朝鮮人特別自治区をつくろうと運動する「民生団」を主導する朴キリョンとも知り合う。

当時、間島の抗日組織にはいくつもの集団があった。中国人主体の救国軍、朝鮮独立を目指す朝鮮人主体の独立軍、土匪系の山林隊、中国共産党系の遊撃隊。共産党系については注釈がいる。かつて秘密裏に朝鮮共産党が結成されたが日本の度重なる弾圧で壊滅し、コミンテルンも一国一党の原則から朝鮮共産党を認めず、間島の朝鮮人コミュニストは中国共産党に合流することになった。しかしもともと「民生団」に所属した者が多い朝鮮人コミュニストは、共産党中央によって民族主義者として糾弾されることになる。日本軍の討伐を逃れた遊撃隊のなかで、ある夜、二人の朝鮮人コミュニスト、朴キリョンと朴トマンは互いを民族主義者とののしり、朴キリョンは朴トマンに向けて銃を発射する。それはまだ始まりにすぎなかった。

「『1933年の夏、遊撃区にいた朝鮮人共産主義者とは誰か』。それに対する正しい答えはない。彼らは朝鮮革命を成し遂げるために中国革命に乗り出す、という二重の任務を負っていた。彼らは中国救国軍が日本軍に敗退したあとも最後まで闘った、強硬で勇敢な共産主義者であり、国際主義者だった。同時に、民生団の疑いをかけられひどい拷問を受けても、絶対に自分の正体を明かさない日本軍の手先でもあった。誰も、彼ら自身でさえ、自分が何者なのかわからなかった」

物語はさらに転々し、最後、僕と中島中尉は再会して対決することになる。その後の歴史を考えれば、結末はおのずと明らかだろう。国を失い、国を離れ、旧満洲の地で日本軍と戦う朝鮮の男たち女たちと触れ合いながら、最後までどこか傍観者的インテリの姿勢を崩さなかった「僕」は、中島中尉の言葉に導かれてある行為に出る。そのことによってはじめて、「僕」は死んでいったジョンヒやトマン、また中島の「夜の世界」に正面から向き合うことができるようになったのだろう。

この時代、列強の侵略に抵抗する思想としてコミュニズムは輝いていた。一方、スターリンや毛沢東に象徴される内部の暴力的な権力闘争、粛清の芽も抱え込んでいた。その両者に引き裂かれながら、東アジアの片隅で戦い、死んでいった無名の朝鮮人群像。キム・ヨンスは歴史に埋もれた、そうした存在を蘇らせた。悲劇的な物語にもかかわらず、全体が暗いトーンでなく、恋愛や友情も絡んだ青春ものの趣もあるので読後感は意外に爽やかだ。

われわれには馴染みの薄い地域の忘れられた歴史を扱った小説だけど、巻末に綿密な注があり、最初はわずらわしいけれど丹念に読んでいくと、おおよその背景が理解できるようになっている。橋本智保訳。(山崎幸雄)

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「『玉音』放送の歴史学」岩田重則

岩田重則 著
青土社(300p)2023.06.26
2,640円

毎年のことだが、8月に入ると過去を振り返り、広島・長崎の原爆被災や空襲・引揚などの記事が新聞の紙面を埋める。その悲惨さを再認識するとともに、太平洋戦争の開戦から終戦に至るまでの国家の責任について考えさせられる。本書の冒頭で、太平洋戦争終結は明治維新と現在(2023年)の中間点となると書かれてい、その表現に少し違和感を覚えた。何代かの祖先から両親・自分へと生き継いできたその時代で、各々が様々な思い出を積み上げて時間を過ごしてきた。しかし、戦後生まれの私としては明治の一年と戦後の一年を同じ時間意識で振り返ることは難しいことに気付かされたということだろう。

著者の岩田重則は1961年生まれ。祭祀、火葬、墓制といった視点からの民俗学の研究者である。本書は明治から現代までの時間軸の中で「玉音放送」に焦点を当てて昭和20年8月15日の終戦は何だったのかを再確認するための一冊である。今までも多くが語られて来たが、戦中の歴史は事実もあれば情報の操作で生まれた誤解もある。本書では民俗学の手法でもあるフィールド・ワーク的に、内閣情報局をはじめとした軍官の文書、全国の新聞をはじめとしたメディアの報道記事比較、入江相政、木戸幸一など政治・宮中に係わった人々の日記にはじまり、作家や庶民の日記などを引用しながら、事実の断片を集めて歴史の隙間を埋めて行くことで8月15日の全貌を描き出している

「玉音放送」とは、大日本帝国憲法で規定された天皇の大権で、戦争終結を「聖断」し、それを公文書「詔書」を公布、臣民(国民)に向けて「命令」するという昭和天皇の権力発動だった。しかし、多くの日本国民は「聖断」と「玉音放送」を権力発動だという受け止め方ではなく、逆に天皇による恩恵であるかのような「共同幻想」が国民の中に生まれていたと著者は指摘している。この原因を君主制における「権威」の存在としている。日本で言えば「万世一系」「三種の神器」といった根拠によって天皇の「権威」は創出されている。明治維新前から徳川側と薩長側はともに天皇の「権威」を掌握することが権力奪取の必要条件であると理解していた。その「権威」を大日本帝国憲法で「天皇は万世一系の統治権を持ち、国・国民を統治する」と成文化するとともに、「無答責」として法的に天皇は問責されることは無いとされていて、「神聖」と表裏一体の考え方で成り立っている。しかし、戦争を開始することも終結させることも天皇の大権であることから、その責任とは何なのかについて戦後語られて来た歴史も忘れてはいけないと思う。

太平洋戦争も開戦から2年半が過ぎ、転換点となった1944年のサイパン陥落(7月7日)、東条内閣総辞職(7月18日)、グァム島玉砕(8月21日)と続く中で戦争終結派が徐々に形成されていったと著者は見ている。その一人であった近衛文麿元総理の日記では「速やかに停戦すべしというのは、ただただ国体護持のためなり。昭和天皇は最悪の場合、退位だけでなく、連合艦隊の旗艦に召され、艦と共に戦死いただくのが我が国体の護持」とまで語っている。また、東久邇宮は「東条に最後まで責任をとらせる方が良い。そのためにも総辞職させない」と述べているのを読むと、国体護持と戦争責任論が戦争終結派のなかで渦巻いていたのが良く判る。

1945年となり、本土空襲など戦局が追い詰められて行く中、昭和天皇は1945年6月22日に東郷外相との面談記録の中で「速やかに戦争を終結させる」と発言したとされる。これが「終戦」についての天皇の初めての言葉のようだ。以後終戦までの2ヶ月を時系列で見ると、7月26日に連合国からポツダム宣言が発せられ、8月6日広島に原子爆弾が投下される。軍は即日、物理学者の仁科芳雄を広島に派遣し原子爆弾であることを確認しているが、内閣情報局は8月7日午後に朝日、毎日、読売や同盟などのマスコミ各社を集めて「今までの爆弾とは違うようだが情報が無いので通常の都市爆撃として報道する様に」と指示している。

8月9日長崎への原爆投下。同日最高戦争指導会議が開催され、鈴木総理大臣が国体護持を条件としてポツダム宣言受諾を提案したものの、阿南陸軍大臣が反対したため合意に達せず、昭和天皇は「米英軍に対して勝算なし」としてポツダム宣言受諾を聖断した。8月10日は「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下・・」という微妙な言い回しをした受諾文を連合国に伝える。対して国内では「徐々に国民をポツダム宣言受諾に誘導する」という戦術でボツダム宣言を伝えることは無かった。

8月12日に連合国側から返答があり、その中で国体に関しては「占領解除後の国家形態は日本国民の決定による」と言うものだった。これを前提に、8月14日天皇が召集した最高戦争指導会議+閣議で昭和天皇は「戦争継続は無理。国体については疑義もあるが、この回答文を通して先方は相当好意を持っていると解釈する」として受諾を聖断する。

8月14日午後11時に受諾詔書は公布され、同時に外務省から連合国に英文の通知文として送付されている。国内向けの詔書の骨子は「開戦は自衛のためであり、アメリカが原子爆弾を使用し日本国民だけでなく世界文明の破壊が予想される、歴代天皇に謝する術もないことから、国体護持のもとポツダム宣言を受諾する」というもので国民や戦没者に対する謝罪も天皇としての責任にも言及することは無かった。一方、連合国向けの英文には「原子爆弾」と「国体護持」に関する記載はなく、ポツダム宣言をそのまま受諾して武装解除と戦争終結文書に調印することを約束している。こうした二重規範の中で「玉音放送」が実施される。

玉音放送は14日午後11時25分から宮内庁で録音され、翌15日正午から放送された。そして予定通り放送終了後、街頭で新聞は販売され「8月15日の宮城前で御詔勅を拝し、陛下お許し下さいませ。我ら足りませんでした」という同文の記事が複数の新聞に掲載されていることからも、情報局からの情報管理・原稿提示があったことが判る。そして、このシナリオの締めくくりは、8月16日発足の東久邇内閣による所信表明演説であった。その中で「陛下に対し奉り、誠に申し訳なき次第」と昭和天皇への懺悔を繰り返した。そして、戦争終結に至った「責任」について記者から問われると、敗因にすり替えて「戦力の急激な低下・原子爆弾の出現・ソ連の参戦・国民道徳の低下」を挙げている。権力と責任を隠し、権威を前面に出して「一億総懺悔」を語っている。「国体護持」プロパガンダの最終稿である。

本書を読んで、私なりに気になった点を取り上げてみると、

1点目は、昭和天皇独白録の中で、8月12日の皇族会議で朝香宮が天皇に「国体護持が出来なければ戦争を継続するのか」と質問したところ、「私(天皇)は勿論だと答えた」と記されている点である。戦争終結の聖断は国体護持の為であり、国体護持が連合国から認められなければ本土決戦も辞せずとの決意だ。国民の生命を守る為でも、平和のためでもないと言い切っている。

2点目は、御前会議・最高戦争指導会議のあり方である。支那事変期(1938年)から太平洋戦争終結までの8年間で15回開催されている中で、天皇の発言があった会議はたった2回である。加えて、最後の会議(8月14日)だけが天皇による召集で、残り14回は大本営・内閣の召集である。御前会議とはまさに担がれた権威によって運営されていたことが判る。

3点目は、広島原爆被爆者の原民喜が玉音放送を聴いた感想として「もう少し早く戦争が終わってくれていたら」と語っているのが心に刺さる。7月26日のポツダム宣言に対して、その受諾を連合国に通知したのは8月10日。広島への原子爆弾投下の5日後の事である。あと一週間早く聖断してくれていたら、20万人の命が奪われることはなかった。

著者はいろいろな事実を二者択一的な正誤と解釈するよりも、そうした事象を歴史の記憶として留める意味を語っている。確かに、今だからこそ多くの断片的な情報も集めて俯瞰することが出来る。その時点では全てを見て考え、行動出来る訳ではない。加えて情報も時として事実であるかのように無差別に流れて来る。それは現在の我々が直面している状況と同様かも知れない。ポツダム中尉で終えた親父に「玉音放送」をどう受けとめたのかを聞いてみたかったと今更ながらに思う、そんな個人の無力感もある8月という季節だ。(内池正名)

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