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2023年11月

2023年11月16日 (木)

「日本語の発音はどう変わってきたか」釘貫 亨

釘貫 亨 著
中央公論新社(264p)2023.02.20
924円

著者は1954年生まれ。専門は「日本語学」、著作は「古代日本語形態変化」などが紹介されている。「日本語学」とか「日本語形態変化」という言葉に初めて接して、具体的な内容や研究手法もよく判らないまま本書を手にしたのは、帯のキャッチコピーの「羽柴秀吉はファシバ フィデヨシだった!」という言葉に引きつけられたから。

音声学では発音の再現を「再建」という言葉を使うとのことだが、本書は奈良時代(8世紀)から江戸中期(18世紀)における日本語発音の再建研究の現状と手法を説明しており、文献資料(万葉集や源氏物語絵巻等)の重要さと共に日本語音韻学だけでなく各国音韻学の成果も生かしつつ再建して行く大変さを理解させてくれる。また、表意文字としての漢字、表音文字としての平仮名、片仮名、そしてローマ字(アルファベット)を組み合わせて日常文を表現している日本語についても、なんでこんな複雑な言語になってしまったのかを知る楽しさもある。

現代の私たちは五十音(あいうえお)によって母音は5つと理解している。しかし、奈良時代は「い(i)」と「ゐ(wi)」、「え(e)」と「ゑ(we)」、「お(o)」と「を(wo)」に区別した発音がなされていたため、8母音だった。こうした「ゐ」とか「ゑ」は今となっては、店の名前などでしか出会わない存在である。音の再建の重要な資料が万葉集(万葉仮名)である。万葉仮名は中国の音読みを参考にして日本語音節(おおむね50音の一つ一つ)に漢字を当てたもの。当初は人名や地名といった固有名詞に使い、その後動詞などにも使って、8世紀には漢字だけで日本語の文が書けるようになったという。万葉仮名でハ行の子音は「波」「比」「布」「倍」「保」の漢字が当てられているが、中国唐代ではこれらの漢字は上下の唇を合わせた破裂音で「pa-pi-pu-pe-po」に近い発音だったという。こうした中国音韻学と万葉仮名からの推論が鍵。

次の変革期は平安時代で、ハ行の破裂音は緩くなり「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」と変化して行くとともに、手紙を書く時などは、「以」を「い」のように万葉仮名を崩して平仮名を生成して書くことが主流になっていく。そして表音文字の完成形として平仮名「いろは歌」四十七文字が確立した。万葉仮名と違って平仮名は一字が一音に対応するので書き手の筆記速度は大きく改善し、枕草子、源氏物語をはじめとして総て平仮名で書かれている物語や日記が多く残っている。その特徴としては地の文と会話文の表現差や切れ目がなく書かれていて、現代の我々が読んでもなかなか読み難い文章である。

また、漢字を訓読するときの万葉仮名の「伊」の偏をつかって「イ」と表現する片仮名が成立したものの、漢文読み下しのための訓点(符号)として使われていたこともあり、美的鑑賞の対象にもならず書としての存在感もほとんどなかった。

鎌倉時代になると文章の書き方は大変革を起こす。平安の源氏物語絵巻は総て平仮名で書かれていたが、藤原定家が書写校訂した源氏物語定家本は漢字を組み合わせて句点、読点を付した上で会話を括弧で括るという、まさに読み易さの革命を起こしている。こうした定家の活動は王朝風の文や和歌の綴りの混乱への対応でもあった。源氏物語定家本の漢字混入は注釈であるとともに文意理解の補強になっている。現代の我々が接している古典文はこの定家の文章体裁である。こうした定家の仕事も見方を変えると「原典尊重」の視点から批判が出てもおかしくなさそうであるが、著者は復古と革新の両面から前向きに評価している。

もう一つ日本語音声の記録の重要な資料として著者が挙げているのはイエズス会宣教師が残したローマ字の記録である。日葡辞書(1603)として刊行されているが、これによるとハ行音は「f」で表現されている。「ハ行音」は「鳩fato」「光ficari」というように両唇摩擦音で表記されていることから、本書の帯の「ファシバ フィデヨシ」がこれか。

江戸元禄期の文芸復興で、僧侶であり歌人でもあった契沖は仮名遣いの説明原理として使われてきた「いろは歌」に変わり、「五十音図」で説明した。また、古事記の近代的注釈を世に出した本居宣長は音訓研究の中で提唱した和歌の字余りからみた音声の再建が取り上げられている。例えば額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮も叶ひぬ今は漕ぎいでな」という和歌は「5-7-5-7-8」という字余りに読めるが、このア行音節の字余りの発音としては単独母音「い」を省略して発音していて、「今は漕ぎでな」と7音リズムだったとしている。素直に納得出来る説明だし、面白い視点だと思う。

こうした時代を通して、音読みの歴史も興味深い視点だ。例えば「行」という漢字を音読みで「こう・ぎょう・あん」、訓読みで「おこなう・ゆく」等と我々は使い分けて読んでいる。この様に、一つの漢字を日本人が複雑に読むことに中国人は驚くという。特に音読みの複数の読み方を「漢字の重層化」と言うようなのだが、各層は呉音(3~6世紀)、漢音(6~8世紀)、唐音(13世紀)として日本に入って来た。ただ、本家中国だけでなく、朝鮮、ベトナムでもこうした重層音は残っていない。なぜ日本にだけ重層音が残ったのかについて、呉音は仏教(僧侶)、漢音は律令制度(貴族)、唐音は禅宗といった別々の集団の中で伝承された結果と著者は見ている。

また、日本漢字音の特徴は音節が母音で終わることにある。一方、各国言語では子音で終わる語が多くある。英語の「CUP・káp」は日本では「カップ・kappu」と母音終わりに変化させる。このように明治以降片仮名で転写して表現してきた。日本人の英語下手の原因として発音のまずさが挙げられているのも、こうした片仮名イングリッシュで耳と目に刷り込まれているからと指摘している。

個人的に言えば日本語の多様性の一面として、中国の固有名詞の多くを漢字表記して日本語音で発音している。これで中国の歴史文化を学び、語って来た。以前の職場で各国の技術者と仕事をする中に中国の技術者たちも居た。ITの仕事関係の会話を英語でする際はお互い問題ないが、食事をする等の日常会話の中で中国の歴史や地名を語ろうとすると発音が判らないというジレンマに陥る。中国のことをそう知っている訳でもないアメリカ人が固有名詞(地名・人名)を音で覚えているので会話は成立する。一方、書けるし、それなりに知識のある日本人は中国語発音を知らないために会話が成立しない。「論語」は中国語でどう発音するのか? 「ルゥンイー」を知らなければ論語から名付けられた私の名前も伝えることはできない。

そんなことも考えながら、日本語の複雑な歴史を発音という視点からの説明とともに、グローバルに見ても異質な日本語体形を再認識させてもらった一冊だった。(内池正名)

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「よこまち余話」木内 昇




木内 昇 著
中公文庫(320p)2019.05.25
726円

木内昇(のぼり)という名前は書籍広告でときどき見ていた。タイトルからして、時代小説の新しい書き手のひとりなんだろうな、と思っていた。このところ時代小説からは興味が遠ざかっている。そんなとき、読み手として信頼する友人から「『よこまち余話』を読んだ?」と、この本を勧められた。

不思議な読書体験だったなあ。確かに過去を題材にしているけれど、ジャンル小説としての時代ものとは違う。エンタテインメントではないし、かといってシリアスな小説でもない。そういうジャンル分けで言えば、幻想小説やSFのような要素もあわせもっている。でもそれらのどこにも属さず、それらの間(あわい)にひっそりと佇んでいる。そのひっそりした気配が外側のジャンルだけでなく内側の小説世界、言葉のすみずみにまで立ち込めているのが素敵だ。

話は17編の短編からなっている。時代も場所も、しかとは分からない。時は明治の末から大正あたり(文中に、新しく人造絹糸ができたとある)。場所は東京。ひとつだけ現実にある地名として「弥生坂」が出てくるから、本郷か根津あたりだろうか。狭い路地の両側に立つ十二軒の長屋が舞台。路地の一方の端から石段を上ると天神様の社(やしろ)があり、もう一方の端はお屋敷の土塀に突き当たり、塀沿いに歩くと表通りに出る。

長屋の一軒に住む魚屋の息子、家業を継いだ十代の浩一と小学生の浩三の兄弟が狂言回し。長屋の端には、三十代半ばで楚々としたお針子の齣江(こまえ)がひとり暮らしで、向かいにはトメさんというおしゃべりでおせっかいな老婆がやはりひとりで住んでいる。トメさんはいつも齣江のところに入り浸っている。糸屋が注文された刺繍糸を齣江のところに届けたり、魚屋のおかみさんが齣江のもとに愚痴を言いにきたり、なんだか落語の人情噺か寅さん映画のような、小さな出来事がつづく日々の暮らしで小説は幕を開ける。そのまま短篇がいくつか進行する。

これは世話物の世界なのかと思っていると音無坂を歩く浩三の、道に落ちた自分の影が、いきなり浩三に話しかける。「おまえには、ゲンジツだけだな」。「しかし中には知らんほうがいいことだってあるんだぜ。突き詰めると、酷(むご)いだけだ」。でも、その一篇ではその後なにも起こらない。

次の一篇。兄の浩一がトメさんの長屋へ頼みごとにいくと、婆さんは留守。ふっと部屋に上がり開いた押し入れを見ると、押し入れの壁に小さな丸窓が開いている。窓の向こうの座敷に日本髪で白粉を塗った若い女人がいて、大きな目で浩一を睨んでいる。浩一は鳥肌が立ち、恐怖にかられて悲鳴を上げる。「兄ちゃん、なにしてんだよ」。弟の声で浩一は我に返る。午後、齣江の長屋に入り浸っている浩三は齣江に聞く。「『あのさぁ。トメさんはここじゃ一番古くからいるんだろう? …どっから来たのか、知ってる?…』」。齣江の答えはない。「『じゃあさ……齣さんはどっから来たんだい?』しばらく待ったが答えはなかった」。夜。トメさんは花見のために仕立てた小袖に手を通して、押し入れの丸窓の向こうに呟く。「『久方ぶりに仕立ててみたんだ。もっともあんたの頃のようにはいかないけど』」。窓の向こうの若い芸者は微笑んでいる。「『今年は花を見に行くよ。もうそろそろ、散る様も楽しめるよう腹を括らないといけないからね』」。

「雨降らし」の一篇では、正体不明の男が路地に現われ一軒一軒の門口で鈴を鳴らして店賃を集めていく。男が現れると必ず雨が降るので、長屋の住人は男を「雨降らし」と呼んでいる。同じ短篇のなか、天神様の境内で演じられる薪能で、浩三はシテの周りに同じ装束を着た何人ものシテが舞っている幻を見る。舞が終わると、周りにいたシテはシャボン玉のように弾けて消えてしまう。「音のしない花火にも似た、鮮やかで儚い光景だった」。現実に戻った浩三が周囲を眺めると、トメさんは足ばやに長屋に戻ろうとし、齣江は涙を拭いている。浩三が齣江に声をかけようとしたとき、「『やめておけ』と、影に遮られた。…『ここに集った誰のことも、放っておいてやるんだ』」。

小説のなかで、ときどき『花伝書』の言葉が引用される。『花伝書』を書いた世阿弥が完成させた能の形式に夢幻能がある。夢幻能の主役(シテ)は、現実に生きている人間ではなく、死んだ男や女の霊。霊であるシテと現実の人間(ワキ)の対話で舞台がなりたっている。小説のなかでは天神様の境内で能が演じられるが、どうやら長屋のある路地そのものが夢幻能の舞台であるらしい。SFふうに言えば、路地では彼岸と此岸の空間と時間がねじれて接しており、その通路がどうやら長屋の押し入れにある、らしい。路地には人間と彼岸の存在が一緒に住んでいる、らしい。正体不明の雨降らしは彼岸と此岸が接する場所の管理人である、らしい。

むろん、作者はそんなことは一言も説明しない。明治の東京の小さな路地のささやかな日常と、そのなかに現われる一瞬の幻を淡々と描写しているだけだ。路地に響くいろんな音や、空気の湿り具合や、石段脇の銀杏の繁りに囲まれて、中学校へ進学したいという浩三の願いや、齣江へのほのかな少年らしい思慕がいとおしい。齣江も浩三を「浩ちゃん」と呼んで可愛がる。

小説の後半になって、ひとりの男性が登場してくる。中学校に進学した浩三の先輩である遠野さん。浩三が仲良くなった遠野さんを路地へ連れてくると、雨降らしもいる。長屋から顔を出した齣江が浩三と一緒にいる遠野さんを見る。「『あ……』齣江がなにかを云った。口は動いていたが、言葉は聞こえない。うまく声にならなかったのかもしれない。息を整え、今一度口を開こうとした。そのとき、雨降らしが彼女の腕を強く掴んだのだ。そうして耳元で囁いた。『そこから先は、御法度です』」。

次の一篇で浩三はトメさんから、天神様の能に遠野さんを連れてくるよう命じられる。自分の影が浩三に語りかける。「『能には行っても、彼らに踏み込んじゃあ駄目だ』『彼岸の世界に関われば、酷いことになる』」。能が始まる直前、トメさんは浩三を外へ連れ出して齣江と遠野さんをふたりきりにする。その翌日、トメさんは長屋から姿を消した。トメさんという老婆がいたことを、長屋の誰もが覚えていない。

これ以上書くとネタバレになってしまうので、このへんでやめよう。といって、この小説は最後まで読めばすべてをきれいに説明してくれるわけではない。逆に、読み終わってもわからないことだらけと言ってもいい。説明しないことで物語に余韻をもたせ、読者にあれこれ想像させる。

やがて来る未来で、齣江と遠野さんはどうやら結婚して幸せな日々を送ったらしい。でもそれなら、齣江が彼岸から路地へと姿を見せたのはなぜなのか。さまざまに想像できるけれど、いずれにせよ「死」が介在していることは確かだろう。それがどのようなものであったかは、作者はかすかな手がかりさえ与えてくれない。

ただ全編が柔らかな日本語で書かれたこの小説のなかで、「国力」とか「時世」といったいかめしい漢語が数カ所だけ出てくる。そうした漢語が気になるのは、現在に生きるわれわれはその後のこの国の歩みを知っているからだろう。ただ、そういった時代の流れはまだこの小説のなかに押し寄せていない。今の読者から見れば束の間の、あたたかい陽だまりのようなこの路地の空気と長屋から聞こえてくる「浩ちゃん」の呼びかけに、しばし耳を澄ませていたい。(山崎幸雄)

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「羊の怒る時」江馬 修

江馬 修 著
ちくま文庫(320p)2023.08.10
924円

「関東大震災の三日間」という副題のあるこの本の著者、江馬修という名前はプロレタリア文学の作家として名前だけ知っていた。でも冒頭の「序」を読むと、江馬がマルクス主義者になったのは本書を「書き終える頃から」で、それまでは田山花袋らの自然主義に影響を受け下層階級の人々を描く小説家で、世間では「人道主義作家」と呼ばれていたようだ。

江馬は本書を「小説」と呼んでいるが、現在の呼び方で言えば「ノンフィクション」あるいは「記録文学」と言うことになろうか。震災の2年後に刊行されたが、その後忘れられ、1989年に小出版社から復刊された。広く人々の目に触れるのは、ちくま文庫に収録された今回が初めてかもしれない。

本書には震災の「第一日」から「第三日」まで、「その後」と時系列に沿って江馬の体験が書かれているので、本を読んでの感想というより、このなかで朝鮮人(初版では「×××」の伏字)関係の記述を順を追って拾い出してみたい。作品の評価とは別に、それがこの本からいちばん学ぶべきところだと思うから。

1923(大正12)年9月1日、江馬は新宿郊外、初台の自宅に家族といた。このあたりからは、代々木の谷をはさんで練兵場(現在の代々木公園)の草原があり、明治神宮の森が広がっているのが見える。ここは「郊外」で、神宮の森の向こうを江馬は「東京」と記している。激しい揺れの後、一家は家の前の空き地に飛び出した。隣にはI中将の家がある。練兵場の彼方、明治神宮の森の上、新宿方面に黒煙と火の手が上がるのを、空き地に集まった近所の人々が不安と緊張でながめている。

江馬が代々木の谷へ様子を見にいくと、知人である朝鮮人学生の鄭君と李君の下宿先の家がつぶれ、二人が屋根の下から大家の奥さんと赤ん坊を助け出す場面に出くわした。「朝鮮の問題については常に深い同情をもって対していた。随ってこれらの若い朝鮮の若い学生たちから信頼されることは、自分にとって一種の喜びであり幸福であった。とは言え、また、言い難い苦痛であったとも告白しなければならない。何故ならば、彼らの友達として自分の余りに無力であることが痛いくらい自覚させられたから」。朝鮮人学生の知り合いがあり、彼らに深い同情を寄せている。それが地震が起きたときの江馬の朝鮮人への思いだった。

やがて外出していたI中将夫妻が帰ってくる。I中将が近隣住民のリーダー的な存在になって、彼を中心にグループがつくられる。第1日目の夜、在郷軍人がやってきて、「火事のため監獄を開放して囚人を逃がしたそうだから警戒するように」と言い残して去る。

2日目の午後、I中将が「耳に挟んできたんだが、混乱に乗じて朝鮮人が放火して歩いてると言うぜ」と江馬に伝える。新宿まで様子を見に行ったI中将の息子が、「朝鮮人を二人、大騒ぎして追っかけているのを見ましたよ」と言う。「一人は石油缶を路地に置いて、マッチを擦っている所を見つけられたんだそうです」。近所の住人のひとりT君が、「本当ですかね、朝鮮人が一揆を起して、市内の至る所で略奪をやったり凌辱したりしているというのは。だから市内では、朝鮮人を見たら片っぱしから殺しても差支えないという布令が出たと言ってましたがね」と噂を伝える。

ちょうどそのとき、学生服を着た学生が新聞紙で包んだ重そうなものを片手に持って通りすぎた。江馬は思わず「朝鮮人!」と呟いてしまう。「一切が明らかにされた(注・デマであることが分かった)今でさえも、そしてあんな際に最も理性を失わなかったと自信している自分でさえも、あの時学生の手にあったものが石油か爆弾では無かったかというような気がふっとする事がある。人間の心の惑乱の恐ろしさよ!」。

江馬が子供のために菓子を求めて歩いていると、地震と火事から逃れてきた人々が、いたるところで朝鮮人について憎悪と興奮をもって語っているのを目撃する。朝鮮人らしい学生が群衆に囲まれ殴られているのも目撃する。殴打が激しくなり、江馬は「無暗に殴らないで、早く警察に渡してしまえ」と怒鳴る。「自分は正気を失った群衆よりは、警察の方を信じていたのだった」。

知り合いの学生である李君が、友人のいる本所が火事で焼けたので探しに行くと言う。江馬は自分が目撃したことを話して止めようとするが、李君は「何も悪いことはしていないので怖いことはない」と言って出かけてしまう。李君はそれきり帰ってこなかった。

I中将が言う。「きゃつらはかねてから事を計画して、こんな折を狙っていたのかな」。白シャツを着た自転車の男がこう叫んで去って行った。「朝鮮人が三百人ばかり暴動を起こしてこちらへやってくるから、男子は皆武装して前へ出てください。女と子供は明治神宮へ避難させてください」。住民が木刀やスポーツ用の投槍やピストルを手に集まってくる。江馬は妻や子供に「行かないで」と泣かれて家に閉じこもる。「遠く原の方面にあたってわっわっという喚声がもの凄く響いた。つづいて銃声が二、三発……『暴徒がやってきたんでしょうか』と妻が怯えた声で聴いた。『さあ、そうかもしれない』。三百人からの暴徒が手に手に武器や爆弾をもって、原を横切り、谷を伝ってこちらへ襲来してくる様が、まざまざと目に見える気がした」。

夜、江馬が外へ出るとI中将以下、住民が木刀などを手に集まっている。皆が額に手拭いを巻き、「初」と問われたら「台」と答えるのが合言葉。「相手が三百人と言ったところで朝鮮人じゃないか。一人残らず低能か、なまけものだよ」、恐怖にかられたT君が高い声でしゃべりつづけている。

三日目。江馬は本郷に住む兄一家の安否を確かめるために出かけた。途中、朝鮮人らしき学生3、4人が10人ばかりに取り囲まれている。「ぶっ殺してしまえ」。乱闘が始まった。「自分は目をそらして、あわてて壱岐坂を登って行った。心で自分をこう罵りながら。『卑怯者!』」。帝国大学正門から森川町へ抜けようとしたところで江馬は検問に会った。「顔つきが朝鮮人くさいね」「君が代が歌えるか」。なんとか検問を抜けたが、蕎麦屋のおかみさんに「あなたはどこへ行くんですか」と詰られる。無視していると後ろから、「朝鮮人かもしれないぞ。捕まえてやれ」と男の声がする。姪っ子と出会って言葉を交わし後ろを振り返ると、棍棒やバットを持った男3人が「安心したというよりも、がっかりしたように」立っていた。

兄の家で互いの無事を確かめていると、在郷軍人がやってきた。「朝鮮人が避難者の風をして、避難者に化けて我々の中に交っている事が発見されました。気をつけてください」。兄の家を出て帰る途中、江馬は電信柱にこんなビラを見る。「町内に朝鮮人三百人ばかり潜伏中なれば各自警戒せらるべし」。

初台の家に帰ると、自警団が結成されている。在郷軍人が自慢話でもするようにしゃべっている。「富ヶ谷で朝鮮人が十二、三人暴れたんです。私もよく知ってる騎兵軍曹が馬上から一人の朝鮮人を肩から腰へかけて見事袈裟斬りにやっつけたと言いますよ」。職人らしい若い男が火事装束に大刀を抜身にしてどなっている。「主義者でも朝鮮人でも出てくるがよい、片っぱしから斬って捨ててやるから」。

夜、在郷軍人が通りがかり、そこの坂を7人の朝鮮人が抜刀を振り回して通ったと「滔々と」「上手な話しぶり」で「雄弁」に語った。江馬はその坂へ行って見張り番の者に尋ねたが、そんな事実はなかった。「夜警の退屈まぎれに、そして人々の過敏にされた心を脅かす興味につられて心なきものがいかにこの種の有害な風説を振りまいて歩いたことだろう。そして人々はいかに単純にそれを信じた事だろう」。

「その後」の章では、4日目以降の出来事が語られる。地震の日の朝から都心に出ていた知り合いの学生、蔡君が1週間ぶりに帰ってきた。蔡君は初台へ帰る途中、群衆に囲まれて殴られ、自ら「警察へ連れていってくれ」と叫んで大塚で留置場に入れられていた。留置場には他にも朝鮮人がいて、群衆は警察に押しかけ朝鮮人を出せと騒いだ。警察は5日目あたりから朝鮮人を解放しはじめたが、蔡君は家まで遠いので「もう2、3日辛抱したほうがよい」と言われたのを無理に帰ってきたという。

江馬は蔡君を自宅にかくまうことにした。「一週間を経過しても、朝鮮人に対する一般の疑惑と昂奮はなかなか鎮まらなかった」から。「自警団は(避難者も加わって)賑やかなものになっていた。……彼等は震災と朝鮮人に関するそれぞれの土産話を持ち寄ってきた。退屈な夜警の中で人々は喜んで熱心に耳を傾けた」。夜警の途中、朝鮮人がいると情報が入ると、人々は勇んで駆けつけた。それはロバだったり、白い立て札だったりした。……

関東大震災時の朝鮮人虐殺について、これほど臨場感のある文章を読んだのははじめてだった。もともときちんとした調査がなされていないから、犠牲者の数すら数百人から数千人まで諸説あるし、公的な記録も少ない(先日、松野官房長官がこの問題で「政府内で記録が見当たらない」と述べたが、少数ながらあるようだし、殺害の罪を問われた者の裁判記録もある)。

そうしたものとは別に、この本は江馬という作家が自分の眼で見たもの、体験したことがそのまま書かれていることに意味がある。江馬は朝鮮人が殺された現場を直接見たわけではない。けれども、朝鮮人が暴動を起こしたという流言がどんなふうに広がり、地震と火事に打ちのめされ逃げまどった人びとが不安にかられ、武器を手に自警団をつくり、怪しげと見える者を片っ端から追いかける、その集団の「空気」がリアルに記録されている。朝鮮人の知り合いを持ち、彼らに同情を寄せる江馬ですら危うくその空気に飲み込まれそうになる。そうかもしれないと思う。そこから出てくるのは、さてお前はこの状況におかれたらどのように振る舞うか、という問いだろう。(山崎幸雄)

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「測る世界史」ピエロ・マルティン

ピエロ・マルティン  著
朝日新聞出版 (288p)2023.06.20
2,420円

人類は生きるために、そして世界を知るために様々なものを測って来た。我々が日常的に道具を使って測っているものとは、物差しによる「メートル」、時計による「秒」、秤による「グラム」、気温計や体温計による「温度」、枡による「リットル」と言ったところである。普段の生活でアンペアや明るさを測っている人は居ないだろうし、明るさの「カンデラ」と言われると理屈としては判ったつもりになっているだけ。物質量単位の「モル」にいたっては「何それ?」といった感じではある。

著者のピエロ・マルティンはイタリア人で物理学(熱核融合)を専門とする大学の教授。EUの国際研究プロジェクトの責任者であるとともにメディアを通しての情報発信を活発に行って科学の普及に努めているという。それだけに、様々なエピソードを詰め込んで読者の「測る」ことへの興味の観点を広げるとともに、一般人から見ると変人とも見られる物理学者たちを学術的視点からと人間的視点の双方から紹介することで理解を深めてほしいという思いも伝わってくる。そして、本書で取り上げている7つの世界基準の単位は科学の進化の為には必須であるとともに、説明と検証のための共通化の歴史が語られている。つまり、「生活や歴史」として人類が測ってきた体験の側面と、「物理科学」としての複雑な方程式が登場してくる理論の側面の両方を描いている。従って、手に取る人の知識差や興味の視点の違いによっても楽しみ方は違ってきて良いのだろうと思う。

本書はあのビートルズと医療機器の関係を語ることから始まっている。EMI(Electric and Music Industries)社は1960年代初頭に結成早々のビートルズのレコーディングを行った会社。その時点でビートルズが将来世界を席巻するバンドになるとはEMIの誰もが思っていなかった。また、この時期にEMI社の医学機器部門ではコンピーターによる断層撮影技術の開発、実用化に成功した。これで同社のエンジニアは1979年のノーベル賞を受賞し、この測定分析技術は医学の進歩に大きく貢献した。そこで、著者の指摘は、ビートルズは音楽の革新に対し貢献しただけではなく、彼らの演奏活動から生じた収益がCTスキャンの実用化への大きな後押しになったと指摘している。こうした逸話を各所にちりばめながら本書は進んで行く。

最古の測定遺物として、一年間の月の満ち欠けの記録を彫り込んだ4万年前のマンモスの牙が発見されているという。また文明の黎明期には人間の身体が長さの測定の道具で、肘の端から中指の先までは肘(キュビット)という単位で広く使われていた。聖書でもこの単位はノアの箱舟の大きさを表現しているし、エジプトでもこの単位で基準石を作り、ピラミッドの建設でも活用し底辺約230mの大ピラミッドを誤差10cm以内という精度で完成させている。ローマ時代になると道路などの長い距離の測定はマイルが使われた。これは1000歩というラテン語に由来する名称だが、この時代の一歩は一方の足が地面を離れてから、その足がまた地につくまでを言っているので、現代の二歩に相当すると説明されている。街道歩きをしてきた私としては歩数測定基準も違いが有った事に面白さを感じる。

ローマに繋がる街道にはマイル標石が設置され、まさに「全ての道はローマに通ず」という権力の象徴でもあった。こうした測定基準によって「権力」と「信頼」を作り共同体社会が形成されていったことも良く判る。18世紀末のフランス革命によって6つの単位を定めた法律が施行された。長さのメートル、面積のアール、薪の体積(1立方メートル)ステール、液体容積のリットル、重量のグラム、通貨のフランである。その後、1875年にパリで17ヶ国が条約に署名して、以降の測定単位の国際協調の流れをつくり万国共通の測定単位が確立した。この国際条約が「メートル条約」と呼ばれたのも、ギリシャ語の「測定(メートル)」というが語源だという。

1960年にパリで第11回国際度量衡総会が開催され、宇宙を含めた測定空間の拡大に伴って国際単位が改定された。科学の進歩とともに測定精度を上げることが不可欠であるのは当然であるが、アインシュタインの特殊相対性理論で示した慣性で変化しない光の距離速度が基準となったことで、一つのゴールに到達したと言われているが、その測定基準は私の生活感からはかけ離れていったのも事実。

我々の生活で最も大きな影響を持つ単位は時間だと思う。アメリカ人物理学者のファインマンは「本当に重要なのはそれをどの様に定義するかではなく、どの様に測定するかだ」と言っているが、時間の測定はエジプト文明における大きな石柱の影を使って日中の時間や季節の変化を測定する日時計から始まる。ピサの大聖堂を訪れたガレリオはシャンデリアのリズミカルな揺れを見て、自分の脈拍を測りつつ振り子の当時性を発見したことから、1650年にオランダのハイヘンスによる振り子時計の実用化につながる。

そしてメトロノームが開発され、作曲家の意図したテンポを示す基準となった。ベートーベンは先端的な機器であるメトロノームを使用していた。彼のピアノソナタ第29番は一番の難曲と言われている。楽譜ではビアノソナタ第29番-106のテンポを138ビートと表記しており、とてつもなく早い演奏を要求していた。そのため、助手がメトロノームの操作を誤ったか、測定ビートの転写をまちがえたのではないかと言われているというエピソードが紹介されている。また、ダリの「記憶の固執(1931)」に描かれている液状化して垂れ下がっている時計は、時間は人間の主観的、個人的なものであり、アインシュタインの考えた時間の相対性を表現していると著者は解釈している。こうした時間の個人的な相対性は科学ではない、有限性の人生が心理に変えているという事からすると、測定単位の中の時間の特殊性は明らかである。

科学の進化の中で、原子の振動数を基に定められた時間基準では3億年で誤差1秒となったと。また、1875年に白金90%、イリジュウム10%の合金で作られたキログラム原器が一世紀の間に5000万分の1グラム減少したことが判明したため、2019年に重力の相対性理論と量子力学で定義されることになったと聞くと、もはや精度感覚は一人の人間としてはまったく実感できない。

一方、イングランドでは「1ポンド」は「100ペニー」。「1ペニー」は乾燥小麦32粒分という重量単位だった。このように重量単位は商業活動における必要性が高いため、多くの国で、リラ、ポンド、ペタ、マルタなどの様に重量単位だったものが通貨単位になっていったケースが多いというのも納得がいく。また、温度の測定単位は1848年に物体の可能な限り低い温度を絶対零度と設定しているケルビンという単位が採用されている。しかし、摂氏による温度表記が今なお我々生活の中で利用されているのは水の氷結が0℃、沸騰点の100℃という「シンプルさ」と「美しさ」とする著者の指摘はその通りで、基準の定義の妥当性もさりながら、測るという行為に対する我々の納得感が測定単位の定着に求められていると理解した。

しかし、読み終えてみると物理学の難しい方程式はともかくとして、そこから進化してきた科学技術の恩恵を十分に享受している自分に気付かされるのも事実である。自動車のナビ機能もGPS衛星との遠距離の通信や時間補正などが活用されて、誤差無く自分の移動状態を瞬時に表示してくれる。また人間ドックに行けばあらゆる検査は放射線や電磁波などを活用した機器によって測定が徹底的に行われる。日々そうした先進技術に囲まれて生活していることと、その原理を理解しているかは別問題として、本書の数式の部分は読み飛ばしても十分雑学的な楽しさ満載の一冊であった。(内池正名

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