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2023年3月15日 (水)

「歩く江戸の旅人たち」谷釜尋徳

谷釜尋徳 著
晃洋書房(206p)2020.03.30
2,090円

著者の谷釜は体育科学やスポーツ史が専門分野で、本書は「旅=歩行」という視点から歴史上の人物の移動能力を分析するとともに、具体的なルート(旅程)や天候などを文献から読み解くことで、近世日本で歴史に名を残している人達がどのように旅をしたのかを具体的に描き出している。日記や覚書などで旅の記録を残している松尾芭蕉、伊能忠敬、吉田松陰、勝海舟の父親の勝小吉などを取り上げており、人物像を掘り起こすだけでなく当時の社会インフラについても明らかにしている。

そもそも、日本人にとって「歩行」とは何だったのか。近世日本では貝原益軒などが「同じ場所に長く座らずに、毎日少しでも身体を動かすこと」などと「歩行」の養生的意義は語られているのだが、江戸の実社会では健康目的で歩くという習慣は少なかったようで、近世の庶民の歩行の旅は「養生」のためではなく「移動手段」に他ならないということだ。著者が近世日本の庶民の道中記40編を分析した結果、旅人の一日の平均歩行距離は35kmという数字が示されている。旧五街道を歩いてきた私の感覚でいうと、江戸期の人達が草鞋などで歩いていたのにこれだけの距離を歩けるというのは、旅行をする人達は健康だったということなのだろう。

近世の旅の基本は日の出の明け六つから歩き始め、日の入りの暮れ六つまでに目的地に着くというもの。夏冬の差はあるが平均12時間くらいと思われる。また、本書では嘉永3年(1850)に出版された「改正増補大日本国順路明細記大成」に記載されている宿間距離に従って距離を計算している。現在も旧街道を歩こうとすると、旧道が残っているところもあるが、道路の改修や川の渡し場の廃止による道の変化、峠越えの道などの整備などから、我々は近世と全く同じ道を歩くことができない場所も多い。当時の実距離を推定するのも今となってはなかなか難しいことなのだ。また、私は知らなかったのだが、「早見道中記」(文化2年・1805)や「旅行用心集」(文化7年・1810)といった旅人が持って歩けるハンディタイプの本が出版されていて、宿場間の距離、人馬の賃金、神社仏閣、名所・名物などが記載されており、まさに「地球の歩き方」の江戸版「日本の歩き方」である。旅ビジネスが庶民の娯楽として成り立っていた証左でもある。

「おくのほそ道」の旅は、芭蕉46才の元禄2年(1689)3月27日に江戸を出立し、8月21日に大垣に到着している。ただ、「おくのほそ道」は文学作品であり旅程の正確な日時とルートが明確に記載されている訳ではない。芭蕉の歩行を科学的・計量的に考えて行くには精度に欠けるということで、同行した弟子の曽良が淡々と書き綴った備忘録的な「曽良日記」から歩行実績を分析し、二人の行動内容を客観的に確認している。この旅の日数は140日。途中76日程各地に逗留しているので、移動日は半分以下の64日という旅だ。ここから移動日の歩行距離の平均は35km、最大距離は一日50kmを超えているという。天候の悪さに影響されずに移動距離を確保していたという健脚ぶりを示している。この数字を眺めていると、逗留日数の多さもいささか驚くが、それも土地の豪商や豪農の旦那衆と俳句の会を開き贅沢三昧の逗留をして、前後の移動も馬を出してもらったりしていたのではないかと勘ぐってしまうのだが。

伊能忠敬は50才で隠居して長男に家督を譲り、寛政7年(1795)に江戸に移り住み、本格的に天文学、暦学を学んでいる。江戸から蝦夷地までの長距離を測量して正確な地形の把握といった学術的な観点からだけではなく、当時北方には時折ロシア船が侵入していたことから、海防のためにも精度の高い地図の必要性は高まっていた時代だ。幕府からの金銭的支援(20両)を得て測量が行われている。この旅の総経費は100両と言われているので80%は自腹ということを聞くと幕府の本気度にいささか疑問が残るのは私だけではないだろう。この第一次測量だけが歩測によるもので、それ以降の測量には方位板など機器が使われ始めている。伊能忠敬は歩行記録だけでなく、毎日の気候、宿泊地、訪問地点などが詳細に記録されている。この江戸から蝦夷地の往復は寛政12年(1800)の4月19日から10月21日まで行われ、往復共に同一ルートを歩いていることも、本書で取り上げている他の「旅行」とは大きく違うところである。180日の内、逗留日を除くと110日だったので、3117kmの総距離からすると実質歩行は一日平均29kmである。著者は着物の丈から伊能の身長を推測し、現在のウオーキングの歩幅の目安「身長X0.45」という前提から伊能の歩幅を69cmと推定している。この旅は歩測であることから歩幅が唯一の尺度であり、それを一定に保つ歩行が要求される。そのための負荷が多かったことは想像に難くないが、かなりのスピードで歩いていることに驚かされる。旅装は、公的な旅であったこともあり、羽織を纏い、脇差を帯刀していた様だが羅針盤などに影響を与えない様に本物の刀を避けて竹光だったというから、体裁は整えつつも科学的な対応もまたしっかり考えていたことが判る。こうしてみると伊能忠敬の旅はまさに「仕事」だと再認識させられる。

吉田松陰は嘉永3年(1850)、20才のときに長州藩に許されて、北は青森から南は長崎まで5年の間に旅をしている。本書では、嘉永4年(1851)12月14日から翌4月5日の140日間で江戸、水戸、白河、会津から日本海側に入り新潟、秋田、青森から盛岡、仙台、日光と廻って江戸に戻った旅である。移動距離は徒歩で2125km、河船(185km)、海船(319km)と推定されている。12月15日の赤穂義士志に合わせて江戸を出発したいという気持ちが強く、通行手形が藩から発行される前に出立するという暴挙にでている。この「脱藩・亡命」の罪を背負ってまでの旅の意図は私にはなかなか理解出来ないところである。140日間の77日は歩行に費やし、一日平均28km、最長は52kmというペースで歩いているが、季節的に積雪もあったであろう旅でも一日毎の歩行ペースに大きなブレは無いというところも特徴的である。松陰が宿泊した旅籠の記録では「松陰は食事も普通にて、別に好みもこれ無く、ただ器械的に箸より口へ移すまでにてこれ有り」との事だから、旅の中ではまさに土地の産物を食べ、異文化を堪能していたという事なのだろう。これもまた、旅を続けられる力の一つと言える。

本書で紹介された人々の旅の歩行について読んでみると、総じて健脚、天候や地形によってあまり変化しない歩行に気付かされる。ただ、この時代の旅を支えるインフラやこの時代ならではの困難の特徴を挙げると、最大の困難は地形より関所だったが「宿の案内に従い、関所の下なる忍び道を出ずる。暗くしてまことに安らかならぬ細道なり」とあるように宿屋による関所抜けの手引きもビジネスとして常態化していたことも明らかである。中山道木曽の脇往還や東海道新居の女街道といわれたように関所の迂回路は各地にあった。こう考えると、幕府による人の移動管理は形骸化していたことも良く判る。一方、時代と共に荷役業者や為替業などが定着し整備されていくことで旅の需要拡大に対する社会システム全体が成立し、近代化に向けて変化して行く江戸の姿が見て取れるのも重要な点だと思う。

私の五街道の旅は、一人旅で、初めての土地を歩くことに楽しみを感じていたことを考えると、本書で取り上げられている旅では吉田松陰の異文化を求めて歩いている姿に近い様に思えてきた読書だった。(内池正名)

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2022年6月19日 (日)

「あの胸が岬のように遠かった」永田和宏

永田和宏 著
新潮社(318p)2022.03.25
1,870円

本書のサブタイトルは「河野裕子(かわの・ゆうこ)との青春」。永田和宏に河野裕子という名前は現代短歌に興味がある人なら誰でも知ってるだろうけど、そうでない人には馴染みがないかもしれない。永田と河野はともに歌人、そしてふたりは夫婦でもある(あった)。永田は歌人であるとともに細胞生物学の研究者で、京都大学教授などを経て現在はJT生命誌研究館館長。歌人として宮中歌会始の選者も勤める。

河野裕子は1969年、23歳で戦後生まれとして初めて角川短歌賞を受賞。その後、永田と結婚し2人の子を育てながら精力的に歌を発表し短歌の賞を「総なめしてきた」(永田)が2010年、乳がんで死去した。

……と、略歴を記しても何を語ったことにもならない。ふたりはお互いを詠んだ相聞歌をたくさん残しているので、それらを集めた『たとへば君』(文春文庫)からいくつかを抜き出してみる。

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか─河野
あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年─永田
(ふたりが出会ったころの歌)

君は今小さき水たまりをまたぎしかわが磨く匙のふと暗みたり─河野
なにげなきことばなりしがよみがえりあかつき暗き吃水を越ゆ─永田
(収入も乏しく、子育てをしていたころ)

何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない─河野
待ち続け待ちくたびれて病みたりと悲しき言葉まっすぐに来る─永田
(河野にがんが見つかったころ)

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が─河野
たつたひとり君だけが抜けし秋の日のコスモスに射すこの世の光─永田
(河野が死の前日に詠んだ歌と永田の挽歌)

河野の死後、永田は妻・裕子の10年にわたる闘病を記した『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の10年』(新潮文庫)を刊行している。『あの胸が岬のように遠かった』はそれに次ぐもので、時期を遡って1960年代後半、ふたりが出会ったころを回想したもの。「はじめに」で永田が書くところによると、河野の死後、彼女の実家で遺品を整理していたら若き日に河野と永田がやりとりした300通を超す手紙と、河野の十数冊の日記帳が出てきた。この本は、その手紙と日記帳を引用しながら「出会いからの、どこかとことん熱く、波瀾ばかりだったような気のする、ある意味とても恥ずかしい青春の記」である。

河野の日記は、彼女の歌と同じようにひたむきで、そのときそのときの感情をぐいぐいと自ら追い込み、突き詰めて読む者に迫ってくる。例えばこんな具合に。

「ああ なんということになってしまったのだろう
抱きしめ合った 抱きあげられた
あのひとの てのひらの中に ほおを埋めながら
狂おしくうめいて そうして
ああ
私たちは 一体どうしたというのだろう
言ってはならぬことを言ってしまった
傷つけてしまった また ひとりを。
ふたりの人を 愛していると
そのために こんなに つらいと」

河野裕子の熱心な読者なら、河野が永田と出会ったとき、それ以前に出会い、愛してしまった男性が既にいたことを知っているだろう。河野の初期の代表作とされる「たとへば君」の一首は、その時期に詠まれている。そこで呼びかけられている「君」が永田なのか、もうひとりの男性なのか。歌は歌それ自体独立したものだから、背後の事情などどうでもいいことではあるけれど、河野の歌に惹かれる身として気になるところではある。永田自身、「『たとへば君』の君は私なのか、と問われるとにわかに私だとは言い切れない気もする」(『たとへば君』)と書いている。そのあたりの事情が、河野の日記と手紙を追うことでつまびらかにされている。

誰のものであろうと、20歳前後の若い時代に書かれた日記を読むという体験は、なんとも心苦しく、胸が痛む。そして著者ばかりでなく、読むほうも「恥ずかしい」。それは、日記が他人に読まれることを前提にしていないからというだけでなく、往々にして読み手の若い時代の似たような出来事や感情が眠っている記憶を刺激し、呼び覚ましてしまうからでもあろう。河野や永田と同世代が書いた日記として、かつて『青春の墓標』とか『二十歳の原点』といった、自死した若者の書き残したものが刊行されたことがあった。河野の日記や手紙を追いながら、はるか昔のことになるこの2冊を読んだ時のざらざらした感覚が生々しく思い出された。

そしてこの2冊の本の著者が自死したのと交錯するように、河野と永田がほぼ同じ時期にそれぞれ自殺未遂を起こしたことが明かされている。恋愛(結婚)と就職(研究)と歌と親子関係(家)と予期せぬ妊娠と、さまざまな事情に追い詰められてのものであったらしい。

でも、この本を青春の息詰まる重苦しさから救っているものがふたつある、と思う。ひとつは、時間という癒し。この本が執筆されたのは、河野が日記や手紙を書いてから50年後。永田はすでに70代になっている。その時間が、「波瀾ばかり」の時代を回想する永田の筆に穏やかな距離感を与えている。例えば、河野が永田には告げずもうひとりの男性と会っていたことを記す日記を引用しながら、こう記す。「東京でNと一緒だったことは、彼女はもちろんひと言も言わなかった。……いかにも幸せな瞬間として書かれているのが、いまとなっては微笑ましい。もちろん腹が立つわけもなく、こんな小さな秘密も、何となく孫娘の行状を見ているような気さえしてくるのである」

いまひとつは、切迫した河野の文章に時に滲みでるユーモア。大学を卒業し中学の国語教師になった河野が永田に送った戯れ文の手紙「夜半のめざめ物語」など、部分しか引用されてないが全文を読みたくなる「パロディ風物語」だ。当時のふたりの歌をパロディに仕立てあげる才には感心してしまうが、ここで引用するには長すぎるので、ふたりが忙しくて会えなかった時期、手紙を書いても返事の来ない永田に宛てた別の手紙の一節を書き写してみよう。

「あなたは十一月のプラタナスの木の 一番上のはっぱみたいにとおい。
……私みたいに自家発電も充電もできる仕組みになっていると 時々メーターに故障がおこって、さわっただけであなたなんか感電死させる位 平気なんだから
私はまたガタピシして来て、おしりが痛くて 二日も寝ているわよ
おしりに注射三十本位打った。あしたもよ。痛くて少し泣いたけど。
あなたがいてくれるといいと思ったけど、きっと私が泣いていた頃には、いい気持で昼寝なんかしてたんだろうし。
どうせあなたは ひややっこなんだから」

いきなりの「ひややっこ」に笑ってしまう。先に引いた、「病院横の路上を歩いていると、むこうより永田来る」と詞書(ことばがき)のある歌、「何といふ顔してわれを見るものか 私はここよ吊り橋ぢやない」。なぜ「吊り橋」なのか。読者はもちろんのこと、詠まれている当の永田も解釈しがたいと語る、とはいえある種のおかしみをもって心に残る言葉が自ずから──絶えざる修練に裏打ちされて、自ずから滲み出ると感じられるように──生まれてくる、そんな言葉の感覚に通ずるような気がする。

この本には、河野が日記帳に書きつけたが歌集には収録されなかった歌も紹介されている。だからこれは彼女の歌の拾遺集としても読むことができる。河野がこの時期につくった歌は、いま読むと古風な、と言いたくなるほど端正なものが多くて、素人目にも完成度が高い。

60年代後半、大学は騒然としていて、その空気を取り込んで歌にした歌人も多かったけれど、河野はそこから一歩身を引いて、ひたすら自分自身の内側に目をこらしている。その自分自身の感覚の海には、高校時代から歌をつくりはじめたという彼女が親しんだ古典から近代にいたる歌の数々が溶けこんでいる。そんな言葉と風土の蓄積の豊かさを背負っているとはいえ、ここに流れる感受性や選ばれる言葉はまぎれもなく同時代同世代のものだ。ちなみに評者は河野の一歳年下、永田とは同年の生まれ。河野が日記や手紙に記す言葉ひとつ(喫茶店「らんぶる」とか「機動隊」とか)で瞬時に半世紀以上前の時空に連れていかれ、喜怒哀楽もつれあったあの時代を追体験することになる。そんな読書だった。(山崎幸雄)

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2022年3月17日 (木)

アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?

カトリーン・マルサル 著
河出書房新社(288p)2021.11.16
2,310円

著者のカトリーン・マルサルは1983年生まれのスウェーデン出身のジャーナリスト。特に経済、女性問題について発言してきた女性。原書は「Who cooked Adam Smith’s dinner?」と題され2015年の刊行。30才そこそこで本書を世に問うたと考えると大胆な発想と切り込んでいくパワーにも納得がいく。

アダム・スミスに始まる経済学は「国富論」(1776)に代表されるように、国民一人一人の利益追求が国の全体効率に繋がるという考えで、それを支えるのは「Invisible Hand(見えざる手)」という自然均衡概念である。それを簡潔に示した例として本書のタイトルにもなっている話は、「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のお陰ではなく、逆にいえば対価をもってそれらを手に入れるのも利己心があるからだ」というもの。この言葉に対して著者は「アダム・スミスは食べている肉を焼いてくれた人を見落としている」と鋭いツッコミをいれているのだ。経済循環を考えた時に肉屋と食べる人を繋ぐ部分、いわゆる「家事」全般はアダム・スミス以降の経済学でも視野に入れられることがなかった。利益を求めない貢献、子供を生む、子供を育てる、家族の食事を作るといった活動は経済の視点からは無視されるということであり、国家のGDPに含まれることもない。こうした点を経済学の不十分さとして著者は論じている。

経済活動を考える際に、人の行動をモデル化するために過去からいろいろな例が示されて来た。その一つがロビンソン・クルーソーである。無人島に流れ着き、ルールも法律もない純粋な自己利益だけで生活し、制約は時間と資源の量だけ。彼は生産者でもあるとともに消費者だから、物の価値は需要と供給によって純粋に決定される。このように経済モデルは理想(欲望)を目指し有限な資源の配分を選ぶことで「調和と均衡」が図られる。そこに「善意」も「愛」も入る余地はない。まさに著者が非難する、伝統的な経済学の世界であることは間違いない。こうした状況を変革しようと挑戦した女性としてナイチンゲールを取り上げている。ナイチンゲールはクリミア戦争(1853)の時イギリスから38名のボランティアとともに黒海に向かい、野戦病院で看護活動を通して兵士の死亡率を大幅に引き下げた。その詳細な活動記録を残したうえで、統計学者でもあった彼女は統計データを駆使して看護のあり方や看護師に対する待遇改善を政府に求め続けた。しかし、社会はそのナイチンゲールを「白衣の天使として、男性が必要とする女性の形に歪めて行った」という見方をしている。ここでも「愛情」や「ケア」は賞賛されたものの、社会を変革するには至らなかった。

19世紀、20世紀と社会の豊かさは手にしてきたものの、貧困を無くすより格差を広げたというのが著者のもう一つの主要な指摘。そうした格差が隠されてしまう仕組みの一つがGDPの算定の仕方だ。同じ種類の労働でもGDPに含まれたり含まれなかったりすることがある。「男性が雇っている家政婦と結婚すると、GDPが減る」とか、「高齢の母親を老人ホームに入れるとGDPは増加する」といったケースだ。ただ、依然として家庭内の無償労働についてカナダの推計ではGDPの40%程度が隠れているという数字を聞くと、いささか驚かされるとともに、人間の活動成果として測定する手段の必要性は理解出来る。

また、男女間の所得格差を提起している。第二次大戦後、女性の平等が叫ばれる中で、「女性は自由で孤独で競争心の強い人間になれる」と言われ始めるが、経済の観点で言えば「女性は家事をしなければならず疲れることで、仕事の効率が下がるとともに、時間の制約もあるので低い賃金となる」とか、逆に「女性は賃金が安いので家事をやらざるを得ない、男女どちらかが家事をするなら賃金の安い女性にやらせた方が損失は少ない」といった堂々巡りが続いた。しかし、考えてみれば「髪結いの亭主」ではないが、女房の方の賃金が高ければ、男は家事に専念できる。そう考えると男女の二元論ではなく、人によると思うのだが、例外的事例でしかないのも事実。

20世紀に入り、女性は相続権、就職、借金、同一賃金など、様々なジェンダー間の平等な権利を手に入れようと活動してきたが、一方、競争を前提とする社会に進出した女性の前に立ちはだかったのは、男を前提とした社会規範であり、それにより女性は男と女の双方の規範を負担する必要が現実であり、男はありのままの自由を認められていても、女はありのままの自由は得られていないという。要すれば男社会に女を混ぜ込んだだけでは平等は達成されないという見方だ。ただ、第二次大戦後、ボーヴォワールが唱えた女性解放思想の代表作「第二の性」というタイトルにも「何故、女性は第二?」という意見を述べているが、そこまで言わなくてもという気もする。

これだけ歴史を積み重ねてきた経済学は何故リーマンショックを予測出来なかったのか。

そして、「経済学は抽象的な架空の条件ばかり分析していて、目の前の大事な問に向き合っていない。自然の恵みを利用して人々が必要を満たし、人生の喜びを享受するやり方を研究する科学であってほしい」と著者は問い掛けている。しかし、生身の人間は常に「合理的」で「利己的」に行動するわけではない。実際の人々はいろいろな予測結果やメディアの情報に左右されながら行動する。単純化された理論上の経済人は本当の人間と違うのは当たり前のことで、本当の人間は良く言えば複雑、別の言い方をすれば非合理的な動きをする。社会活動の全てを予測することは不可能であり、社会科学の限界として理解しておくべきだと思う。

本書を読みながら、学生時代の教科書アダム・スミスの「国富論」、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」、サミュエルソンの「経済学」、マルクスの「資本論」などが思い出された。あくまでそれらの著作には学問として接してきた限界からだろうか、著者のような読み方をしていなかった自分に気付かされる点も多かった。また、それも時代の為せる業だろうか。一方、実際の金融市場で活動する投資家たちが数字に踊らされている場面に直面したことが有る。15年程前、上場会社の経営に係わっていた時、或る女性の株主から「御社の株価動向についての見解は」といった質問に受け答えしていた。すると彼女の最後の質問は「ところでこの会社は、何をしてる会社?」と聞かれて驚いたことがある。この株主は「株価」と「その推移」だけに興味が有り、社員たちが苦労して何を作っているかとか、どんな商品・サービスでお客様から評価されているかなどは一切関心がない様子だった。そして、株価が上がれば利ザヤ稼ぎで株は売るのだろう。しかし、こうした株主も資本主義を支える投資家の一人ではあるのだが。

「男」として普段気にしていない観点がいろいろ出て来た。そうした意味では新たな発見があり、時として納得の出来ない部分もありつつ、楽しく読み終えた。(内池正名)

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暁の宇品

堀川惠子 著
講談社(392p)2021.7.5
2,090円

著者の堀川惠子は、次々に話題作を発表しているノンフィクション作家。本サイトでも以前『永山則夫 封印された鑑定記録』を取り上げている。その堀川は広島で生まれ育った。彼女が本書を書くことになったきっかけは、「人類初の原子爆弾はなぜ広島に投下されなくてはならなかったか」という疑問だった。第二次大戦末期、アメリカは原爆投下候補地を何度か検討しているが、広島はその都度候補地の筆頭に挙げられている。アメリカ国立公文書館に残された議事録には、最終的に広島が選ばれた理由について「重要な陸軍の乗船基地」だったとある。広島沖にある日本軍最大の輸送基地、宇品(うじな)のことだ。この港には陸軍の船舶司令部が置かれていた。

本書は陸軍船舶司令部の3人の司令官の足跡を主にたどっているが、それは取りも直さず船舶輸送、つまり日本軍が軽視した兵站という視点から太平洋戦争を見なおすことになる。陸軍船舶司令部という部門は、戦地へ陸軍の兵を運ぶとともに、補給と兵站を一手に引き受けていた。司令部周辺には人馬の食料を調達する陸軍糧秣支廠、兵器を生産する陸軍兵器支廠、装備品を生産する陸軍被服支廠などがあり、これらの任務に従事した人員は民間の船員や軍属を含め30万人以上に及ぶ。「太平洋戦争とは輸送船攻撃の指令から始まり、輸送基地たる広島への原子爆弾投下で終わりを告げる、まさに輸送の戦い“補給戦”だった。その中心にあったのが、広島の宇品だったのである」

本書の軸となる登場人物は、陸軍で「船舶の神」と呼ばれた田尻昌次中将。一般向けの戦史にほとんど登場することのないこの人物の遺族を訪ねた著者は、ここで不遇の軍歴に終わった田尻が13巻の「自叙伝」を残していたことを知る。未発表のこの資料と田尻の著書、田尻がつくった制度から生まれた船舶将校・篠原優が著し防衛研究所の書庫に眠っていた手記が本書の柱となっている。

陸軍大学校を出た田尻は、宇品で船舶司令部の前身である陸軍運輸部、次に東京の参謀本部船舶班、再び宇品の陸軍船舶司令部と、一貫して陸軍の船舶輸送部門を歩んだ。陸軍が初めて育てた船舶輸送の専門家だった。

田尻が宇品にやってきとき、陸軍船舶司令部は「船と船員を持たない海運会社のようなもの」だった。それにはこんな歴史がある。世界中ほとんどの国の軍隊で、海上輸送は海軍の役割になっている。ところが日清戦争を前に陸軍が部隊の輸送を海軍に頼んだところ、海軍からそれはわれわれの任務ではないと断られた。陸軍はやむをえず民間船をチャーターして兵や物資を運ぶことにした。船舶徴傭(ちょうよう)と呼ばれるこのやり方が、実に太平洋戦争が終わるまで続くことになる。

参謀本部船舶班と宇品の司令部で田尻が手掛けた任務は次のようなものだ。まず、軍事用舟艇の開発。日清日露では敵がいない場所への上陸だったから手漕ぎボートのような舟で上陸できたが、田尻は敵が抵抗するなかで上陸できる舟、外付けエンジンで自走できる鉄舟を開発した。大発動艇(大発)と呼ばれるこの舟は、後に上海事変で威力を発揮し師団規模の敵前上陸に成功する。他にも小発動艇(小発)、装甲艇(攻撃能力の高い舟)、舟艇母艦(大発を大量に搭載できる輸送船)などを彼は技術者とともに開発している。

次に田尻が手掛けたのは船舶工兵の育成。日本軍は兵や物資の輸送・陸揚げを民間人に頼っているが、どうしても上陸作戦の専門部隊が必要になる。その専門家を育成して各師団に配置した。ほかにも宇品港を整備したり、海軍と共同作戦のための委員会をつくるなど、対立することの多かった海軍と良好な関係を築いてもいる。

そのように船舶の専門家として欠くことのできない田尻だが、日中戦争が泥沼化し、重要物資を東南アジアに求めようとする「南進論」が勢いを増してきた1939(昭和14)年、ひとつの事件が起こる。この年、田尻は陸軍中枢と政府に向けて「意見具申」を行なった。既に国家総動員法が施行されており、軍事が最優先されて民間船が徴傭され、国内の物資流通が圧迫されている。船が圧倒的に足りないのだった。田尻は具申書のなかで、日本の船舶輸送が置かれた危機的状況とその解決に国家的な対応が必要なことを、自らの任を超えて訴えた。「建軍以来、日本陸軍のアキレス腱であり続けた船舶の深刻な問題を白日の下に晒し、関係者に警鐘を鳴らそうとしたこの意見具申は、いわば爆弾だった」

その翌年、宇品の倉庫で原因不明の火災が起こり、田尻はその責任を問われる形で退職させられる。戦後のメモで田尻はこのことを「罷免された」と記す。その背後には、船舶の実情を知らずに威勢のいい「南進論」を唱える参謀本部の皇道派将校と、合理性に基づいて議論する田尻とはそりが合わないという事情もあったようだ。

本書の後半では、田尻が引退を余儀なくされた後の、対米英戦争に至る過程とガダルカナル戦が、船舶の視点から語られる。

1941(昭和16)年に入り、米英との戦争を視野に入れた参謀本部は、陸軍省に「物的国力判断」を作成させた。この時点で日本の船舶保有量は490万総トン。

開戦に踏み切った場合、陸海軍の徴傭船舶を250万総トンとすると、残った民需用船舶では「基本原料難きわめて深刻」「物資需給は逼迫」し、国力の低下は明らかだった。しかも輸送船は必ず攻撃されるから「損害船舶」が出る。これを報告は開戦1年目80万トン、2年目60万トン、3年目70万トンと見積もった。この時点で日本の新造船は年24万トンだから、輸送船舶は年々減ってゆく。「帝国の物的国力は対米英長期戦の遂行に対し不安あるを免れない」という結論は当然のものだった。

ところが5カ月後、8月の「国力判断」では「損害船舶」を1年目50万トン、2年目70万トンと低く見積もり、一方、開戦後に戦況が落ち着けば徴傭を解いて民需に回せるので「コレナラナントカナル」という楽観的な結論が導かれる。さらに9月の検討では、2年目以降の「損害船舶」は不明であるという理由からゼロと仮定され、民需が回復するという右肩上がりのグラフが作成された。また造船能力も1年目50万トン、2年目70万トン、3年目90万トンと見積もられた(実績は1941年で24万トン)。著者はこう書いている。「開戦を可能にさせるための“辻褄あわせ”がひたすら行われるのである。最初は遠慮がちに、最後はあからさまに――」

ガダルカナル島の悲惨な戦闘も、船舶の視点から見れば「絶海の孤島にどちらが先に戦力を集中させるかという“輸送の戦い”」だった。1942(昭和17)年8月、米軍が1万人以上の大兵力でガ島に上陸し、日本軍の飛行場を占拠したことから半年に及ぶ死闘が始まった。大本営はミッドウェイから帰国途上にあった一木支隊2000人を急遽、輸送船でガ島に向かわせた。ところがこの輸送船が石炭の旧式エンジンで速度が遅いため、支隊の半数を駆逐艦に乗りかえさせ先行上陸させた。しかし戦闘用の駆逐艦は多数の重火器を搭載できないため、部隊は小銃と機関銃、大隊砲2門の軽装備で米軍の圧倒的火力の前にほぼ全滅した。

その後の兵力投入も失敗したため、司令部は第二師団と戦車部隊、重砲兵部隊を投入することとし、6隻の輸送船からなる大船団を組んだ。しかし結果は制空権を握る米軍の攻撃に輸送船3隻が沈没、3隻は満身創痍となった。かろうじて陸揚げされた武器弾薬食料も輸送に必要なトラックやクレーンが皆無なため、多くが米軍の攻撃にあって燃えた。ガ島には食料がなく、しかも兵は食料を持たぬまま送り込まれた。飢餓に瀕した部隊に向け、武器食料を輸送するため11隻の輸送船団が組まれたが7隻が撃沈され、残った4隻のうち1隻は「擱座(座礁させ)、強行上陸」の命を受けた。「それはもはや特攻輸送と呼んでよかった」と堀川は書く。

その後もニューギニア海域では次々に輸送船が攻撃され、船員はここを「船の墓場」と呼んだ。田尻の後を継いだ2人の司令官は、新しく船舶をつくろうとしても資材なく、宇品はただ指令されたとおりに乏しい輸送船をやりくりし、船舶工兵を集めて送りだすしかなかった。宇品の代名詞ともいうべき大発と小発は、鉄鋼がないため木製やベニヤ製のものまで考案されるようになった。1944(昭和19)年に入ると、南方資源地帯と内地を結ぶ航路は途絶し、宇品は輸送基地としての機能を失っていった。代わりに命じられたのは特攻艇の開発。ベニヤ製で2人乗り、爆雷を積んで敵戦艦に突っ込むというもの。出撃した2288人のうち1636人が戦死している。この特攻艇については極秘とされ、戦後も長くその存在を封印されることになった。

現在にいたるまで、宇品の船舶司令部についての研究や著作はほとんどない。そのことは、戦前戦中だけでなく戦後になっても輸送や兵站の問題が重要視されなかったことを意味しているかもしれない。軍事だけでなく、周囲を海で囲まれたこの国はあらゆる経済活動に輸送や兵站の問題はついて回る。当時より遥かにグローバル化が進んだ現在で言うなら食料の自給やエネルギー問題、サプライチェーン網の確保といったことになろうか。未発表の資料を駆使して、これまで軽視されてきた視点から戦史に新しい光を当てた本書は貴重なものだ。

しかもこの本に書かれていることは決して過去の歴史じゃない。登場する中央や現場の軍人たちの言動を読んで、今もなんにも変わっちゃいないんだな、というのが正直な感想。森友問題での公文書改竄やら国交省の統計データ書き換えやら、輸入に頼るコロナワクチンや検査キットの不足やら、今のこの国の組織と人のありようが二重写しに見えてくる。ロシアのウクライナ侵略で第二次世界大戦後の世界秩序が大きく変わりそうな予感もあるこの時期、いろんなことを考えさせられる読書だった。今年度の大佛次郎賞受賞作。(山崎幸雄)

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2021年3月17日 (水)

「アナーキスト人類学のための断章」デヴィッド・グレーバー


デヴィッド・グレーバー 著
以文社(200p)2006.11.01
2,420円

近ごろ面白いと評判のテレビ番組「100分 de 名著」(NHK Eテレ)で、斎藤幸平(本欄で『大洪水の前に』を取り上げた)を指南役にマルクスの『資本論』をやっていた。マルクスの重要なキーワードを解説する斎藤に、それを自分の守備範囲に翻訳して受ける伊集院光の勘のよさにいつもながら舌を巻く。そのなかで斎藤は労働疎外に関連して、去年翻訳されたデヴィッド・グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事』(岩波書店)を紹介していた。

昨年9月に59歳で亡くなったグレーバーは人類学者にして活動家。2011年のウォール街占拠運動で重要な役割を果たし、「私たちは99%だ(We are the 99%)」というスローガンのアイディアを出したと言われる。『ブルシット・ジョブ』も読んでみたいけど、たしか我が書棚にもグレーバーの本があったなあと思って探したら出てきたのが『アナーキスト人類学のための断章(Fragments of an Anarchist Anthropology)』。しばらく前に買って積読状態だった。まずはこちらから読んでみよう。

日本の読者に向けた序文でグレーバーは、自分をアナーキストと規定している。人類学者でアナーキストとはどんな存在なのか。そしてアナーキスト人類学とは? 「断章」とタイトルにあるように、この本はまとまった著作というよりアナーキスト人類学のエッセンスを思いつくままスケッチしたパンフレット(『共産党宣言』のような)。そこから興味を引かれた部分を抜き出してみる。

まずグレーバーは言う。人類学とアナーキズムには親近性がある。なぜなら、「人類学者は現に存在する国家なき社会について何事かを知っている唯一の学者集団」だからだ。彼らは、世界には「自己統治的共同体」と「非市場的経済」が存在することを、そして国家が存在しないときに起こるのが、多くの人々が想定する事態(「人びとは殺し合うだろう」)ではないことをその目で見ている。

そう述べた上でグレーバーは、マダガスカルの小さな町でフィールド調査した経験を語る。その地域では地方政府が機能していなかったり、まったく姿を消したりしていた。でも無政府状態のなかでも人々は、うまくやっていた。「それはどのような制度的な規約や構造もなしに、共同体の合意を形成する作法であった」。住民は誰でも「NO」を言うことができる。誰かが「NO」と言えば、それまでの議論を捨てて「NO」と言った者を納得させる新しい条件を改めて考え出さなければならない。時間はかかっても、それを繰り返すことで、「大多数が少数をその決定に従属させることがない」合意が形成される。ただ、実際に「NO」が発動されることは稀だった。

こういう人類学の知見には、たいてい次のような反論が返ってくる。「それって近代化されてない国や部族の例だろう? 近代社会では通用しないんじゃないか」。それに対してグレーバーは、近代社会と「原始的」「部族的」社会の間に違いはないと説く。近代を生んだ西洋とは何ら特別なものでなく、人類史に根本的な断絶はない。「『原始的』などという状態は存在していないということ、『単純社会』とみなされているものは実際に単純ではないこと、時間から切り離され孤立して存在してきた者などいないこと、ある社会機構がより進んでいたり遅れていたりすることなどないこと」を強調している。

またいささか皮肉っぽく、こんなことも言っている。血縁関係を土台にした前近代社会と、市場や国家という制度の上に成り立つ近代社会とは常に区別されている。でもわれわれの「近代的」世界の社会問題は、たいてい人種と階級とジェンダーを巡って現われる。これって「血縁体系からくる問題」じゃないのかい?

アナーキズムと言えば、すぐに革命とかテロリズムといった言葉が連想される。でも、それも違うんだとグレーバーは言う。アナーキズムが理想とする国家のない社会は、革命のような短期的な大変動によって生まれるのでなく、世界規模での長期にわたる出来事にほかならない。それは必ずしも政府の転覆を目指すのではない。「『古い社会の殻の内側で』新しい社会の諸制度を創造しはじめるというプロジェクト」である。権力の目の前で自律的な共同体を造りだす試みこそ革命的行動と呼べるのだ。それに、と彼は言う。「権力との正面衝突は、ほとんどの場合、虐殺か、あるいは当初それに挑戦しようとした相手権力よりさらに醜い権力形態の形成に帰結してきた」。だからこそ「権力の統制から逃れる戦略」として「国境を越えた移動の自由」(真のグローバリゼーション)と「新たなコミュニティの構築」が求められる。

アナーキズムの基本原則は「自己組織化」「自由連合」「相互扶助」にある。それは、一定の理論体系ではなく、むしろ「ある信仰」、「生きやすい社会を築くためのよりよい社会関係があるという確信」にほかならない。自己犠牲的革命家がさらなる苦痛を生産するだけなのに対して、アナーキズムが強調するのは「快楽」や「祝祭」、「そこでわれわれが自由であるかのように生きることができる『一時的自律圏』の創造」である。

ほかにも、多数決民主主義は決定を少数者に強制する「力」を前提にして共同体を分断させるとか、アナーキズムの理論はマルクス系統のような「高踏理論(ハイ・セオリー)」でなく実践のための「低理論(ロー・セオリー)」だとか、合意形成には大人として振る舞うことが必要とか、面白い議論がたくさんある。

グレーバーが大切にしているのは、未来ではなく今現在ということ。来たるべき未来を先取りして、この瞬間に自由で平等で楽しくあるにはどうしたらいいか。そうでないとしたらその障害になっているのはなにか。その障害に仲間とともに立ち向かうことをアナーキズムと呼ぶ。そうした彼の姿勢の底にあるのは、人間は互いにケアしあう生き物であるという確信と楽観だろう。

アメリカにはグレーバーのような祝祭的アナーキストの系譜が連綿と存在しているようだ。本欄でも紹介した『グリニッチ・ヴィレッジにフォークが響いていた頃』の著者、ミュージシャンのデイヴ・ヴァン・ロンクは自由意志主義連盟に加わるアナーキストだった。本書をはじめとするグレーバーの翻訳者、高祖岩三郎の著書『ニューヨーク烈伝』(これも本欄で紹介した)はニューヨークのアナーキストやオートノミスト(自律主義者)などさまざまなラディカルの活動を追っている。

日本では僕の知るかぎり、グレーバーのように祝祭的な空気を漂わせるラディカルな書き手が少ない。アナーキズムの系譜が戦後ぷっつり切れているとか、マルクス系やフランス現代思想系の「高踏理論」の影響が大きいといった理由もあるのかもしれない。専門家でもなく活動家でもないこちとらとしては、でもグレーバーのような雰囲気をもつ物書きの手になるものを読むのは愉しい。この世界は今どこに向かっているのか、それを知る手がかりにもなる。彼の本格的な論考である『負債論─貨幣と暴力の5000年』もいずれ読んでみよう。(山崎幸雄)

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「あなたの中の動物たち」渡辺 茂


渡辺 茂 著
教育評論社(288p)2020.10.28
1,980円

著者は比較認知神経科学が専門、ハトはピカソ(キュビズム)とモネ(印象派)の絵を弁別認知出来るかという研究で1995年にイグノーベル賞受賞している。科学的に理解することの難しい領域を広く知らしめようとする努力と意欲は素晴らしい。

「ヒトだけが賢いのか」という本書のザブタイトルの通り、ヒトに固有の能力や機能と思われがちな「記憶力」「論理的判断」「道徳的行動」「自己認識」「美の認識」「脳の構造」などについて、多くの実験結果を紹介しながら動物たちの驚くべき能力を説明している。動物たちの各種認知能力をヒトと比較することで共通点や特異点を明らかにして、ヒトの「心」の起源を探るというのが本書の狙いである。

大昔、ヒトは自らを動物と区別することは無かったのではないかと著者は指摘している。そう言われてみれば、人が動物に変身する話はグリム童話を始めとして東西を問わず多いし、逆に功徳を積んだ動物が来世にはヒトに生まれ変わる話など幼児学習の一環として子供達に語り聞かせている。しかし、ヒトは生物界での優位性を自覚していき、生物界を三階層(植物→動物→人間)のボトムアップ概念で捉え、ヒトだけが心を持ち、動物たちは機械仕掛けに等しいと主張したのがデカルト。そして、19世紀になると科学として動物とヒトの連続性を提唱したダーウィンの進化論が世に出て、客観的にヒトを評価するスタートラインに立ったと言える。

長期の生物進化の系図を見ると、ハシゴの様な一本道ではなく、途中からいろいろな枝分かれをして進化していった。両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類など、外見からではその理論も理解し易いが、本書で語られている「認知」とか「心」と言われると、ヒトを頂点とする進化と思ってしまう自分がいることに気付かされるのは私だけではないだろう。比較認知学研究方法はヒトと近縁の動物の認知能力を調べることでヒトの心の進化の道筋を突き止めようとするものから、一部の鳥類と霊長類に見られる複雑な視覚機能など、まったく近縁でない種で類似した認知機能を持つ動物を調べて進化要因を解明していくという手法にまで広がって来たようだ。

そして、ヒトの認知機能を支える脳を三層構造として捉え、一番下に爬虫類の脳(反射脳)、その上に古い哺乳類の脳(情動脳)、一番上に新しい哺乳類の脳(理性脳)があるという定説が有ったが、これも現代ではヒトの脳は爬虫類の脳に何かを付け加えていったのではなく、ヒトの脳の一番上に大脳皮質があるように、爬虫類の大脳にも大脳皮質があることが判っている。つまり、ヒトはヒトの脳であり、ワニはワニの脳を進化させて行った。

こうした脳とは全く違った構造進化したのが昆虫の脳だという。昆虫は頭に大きな神経節を持っているが、それ以外の体節に神経節があって地方分権の様になっている。カマキリのオスはメスに頭を齧られても、問題なく交尾を続けられ、目的を達することが出来るという。これも、カマキリが獲得した能力と言われれば、それもまた進化である。

そもそもヒトの「記憶力」を測定する方法が何かあるのかと問われても、知能指数とかテストの点数と言った程度しか思い浮かばないのだが、著者は広辞苑をランダムに開いて、そのページ内の語彙で知っているものを数える。それを数ページ繰り返して、掲載されている語彙数に対して、記憶している語彙数の比率をサンプル的に計算把握する。因みに著者は78%だったようだ。この比率から、広辞苑全体25万語彙の内の記憶されている語彙は20万語と推論している。これは私もやってみようかと思ったが、78%より低かったりすると悔しい気もする。

イヌは、ヒトの音声語彙をどのくらい理解出来るのかの実験で1022語彙を弁別出来た例が示されている。また、貯食鳥のコガラは秋口に隠した餌を冬に餌を探し出しているのかの実験で、餌に同位元素で印をつけておいて、2-3ヶ月後に探させるとコガラは自分の貯蔵した餌を探し出すとともに、回収した場所には二度と探しに行かないという空間記憶能力の実験結果は驚くばかりである。

ヒトは明日の予定を考えて準備をしたりするが、動物も未来を予測して行動するのかという命題に、コウイカを使った実験で挑戦している。コウイカはエビやカニを食べるのだがエビの方が好きだという。コウイカをA・Bの二つのグループに分ける。朝は両グループにカニを与える。夜はAには必ずエビを与えるが、Bにはエビをやったりやらなかったりする。するとBは朝あまり好きでないカニを食べ続けるが、Aは朝食のカニを少なめに食べるようになるという。夕食のエビを楽しみに朝食を減らすという。本当かと思ってしまうのだが、疑問より面白さが先に立つ結果だ。

「論理的推論」も面白いテーマである。カラスは群れの中で順位づけをするが、総当たりで喧嘩する訳ではない。仲間の喧嘩を見ていて自分の順位を推論するという。例えばA,B,Cのカラスが居て、Cは「Bは自分より強い」という事を知っているとすると、AとBが喧嘩してAが勝った場合、CはAに対しても戦わずして服従の姿勢をとる。また、A,BがCにとって未知の個体の場合は、ABの喧嘩の結果に関わらず服従の姿勢はとらず、喧嘩を始めるという。

また、ヒトは手品で有るべきものが無くなったりすると物理的因果関係に反するのでこれを面白がる。チンパンジーも手品を見せると不思議そうにあるべきものを探すが、その手品を繰り返し見せると怒りはじめるとのこと。不合理を理解する能力は等しいが、その不合理を楽しむかどうかという感覚差は大きい。

だんだん複雑な認知の話になっていき、動物による共感や救援の例として、アリアナに落ちた仲間を助けたり、吸血コウモリが血縁の無い仲間に餌となる血を分け合う救援行動の説明を読んでいると、そうした能力をどうやって手に入れたのかだけでなく、ヒトを超えているのではないかと思ってしまう。そして、著者はだめ押しのように、「ヒトは『飢えた子供の写真』には共感するが『飢えた子供の統計数字表』には共感する度合いが低い」とヒトの共感度の低さを指摘する。

「美」が判るかというテーマでは、まさに著者のイグノーベル賞の受賞実験のハトによるピカソとモネの絵の識別実験である。ただ、ピカソの絵とモネの絵を識別させているだけではない。キュビズムの他の作家の作品と印象派の他の作家作品との識別、原色ではなくモノクロの画像での識別、画像を少しピンボケにしても識別するという。ヒトの絵画鑑賞や理解の能力と同等で、ハトは複数の情報を統合して絵画を認知していると著者は説明している。ただ、ヒトは事前に画像だけでなく言葉によって知識蓄積がされていることは大きな要素のはずだ。純粋に「美」の感性だけで識別をする訳ではない。心とは曖昧なものと言う著者の指摘は鋭い。美しい女性の写真(同一人物)を二枚見せられて、一枚はアトロピンという瞳孔を拡大せる目薬を滴下されている写真の場合、ほとんどの男は滴下された方の写真を選び、そして、選んだ理由を問われると説明出来ないというぐらい曖昧なのだ。

本書を読みながら、人間の認知能力の特徴を実感する以上に、動物たちの認知能力の多様さを再認識した。動物との違いが有るとすると、ヒトは生まれてから長い期間の学習を通してダウンロードされたアプリが多様であることにその理由があるという。そのアプリを作り、学習し、活用する支えが言語なのだろう。こうした遺伝子によらない情報伝達がヒトの認知能力の高さを支えている。身体的な意味での脳には得意不得意はあっても、ヒトの脳が一番高い所に有るわけではない。

それにしても、ヒトをヒトとしている根幹能力の言語を「正しく」使えない政治家の多さに辟易としながら、動物たちの頑張りに無条件に納得した読書だった。(内池正名)

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2018年2月21日 (水)

「アメリカ 暴力の世紀」ジョン・ W・.ダワー

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ジョン・ W・.ダワー 著
岩波書店(204p)2017.11.15
1,944円

この一年間、トランプ政権の政策運営を見ていると「アメリカ 暴力の世紀」という本書のタイトルにどうしても今日的な意味を思い浮かべてしまうのだが、本書原文の最終稿は2016年9月で、オバマ政権の最終局面までのアメリカを考察の対象にしていることは確認しておきたい。もっとも、日本語版の「はじめに」の執筆時期は2017年8月ということもあり、トランプ政権に対する著者ダワーの辛辣な評価とともに日本政府の対応についても読み応えのある文章になっている。

本書のタイトルは、ヘンリー・ルースが1941年2月に発表した論評「アメリカの世紀」をもじって「暴力」という形容詞を加えたものだが、1941年といえばアメリカは経済恐慌から脱却し、第二次大戦を前にして経済的や軍事的にも自信にあふれた時代だ。その後、良し悪しは別としてアメリカは対抗できる国が無い状態で存在してきた。その間「パックス・アメリカーナ」といった大袈裟な「言葉」で語られてきたアメリカとは何なのかを、冷戦、ソ連の崩壊、湾岸戦争、9.11といった事件と時代を継続・関連した事象として詳細に分析している。その手法は国防総省、CIA、軍の現場、政府の広範な資料やデータの引用で徹底して裏付けられており巻末の引用リストも圧巻である。

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2016年1月21日 (木)

「雨の匂いのする夜に」椎名 誠

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椎名 誠 著
朝日新聞出版(224p)2015.11.20
2,268円

椎名誠といえば、旅や食に関するエッセイがまず思い浮かぶ。それほど行動派作家としてのイメージが強いこともあり、「雨の匂いのする夜に」というタイトルを目にしたときに、その詩的な感覚と椎名とが結びつかなかった。「基本的に小説を書いて小説類の単行本が多いモノカキ人生だが、この『写真と文章』でつづる本書のようなものが作れるのがぼくには一番嬉しい」と語っているように、基本は「作家が旅をしている」という意識は強く持ちつつも、幅広い表現活動を楽しんでいる様子が見て取れる。日本国内に止まらず世界各国を歩き、そこに住む人々と語り合う時間を大切にしているということだろう。

本書は「アサヒカメラ」に連載されて来た「シーナの写真日記」というコラムで、コンパクトな文章とモノクロームの写真3枚をセットにして各地の旅を日記風にまとめたもの。2009年から2012年に掲載されたもののうち、日本の20ヶ所、アジアの9ヶ所、南米その他13ヶ所の旅が本書では選ばれている。カメラ雑誌として伝統的な「アサヒカメラ」の中でこの「シーナの写真日記」が一番長い連載と聞き、それはそれとして驚くべきことであるが、「旅に出たおりに、ふいに出合ったココロに迫る風景や、自分の記憶能力が殆んどないので写真に記憶を頼むような気持でシャッターを切って来た」との言葉からも判るように、写真が主体の旅行ではないので、事前に被写体や風景を想定していない。たぶん、歩みを止めて写真を撮ることはあっても、来た道を戻って写真をとることは無いと想像する。その意味では、まさに偶然に近い、一期一会の写真が載せられているということだろう。

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2012年3月 8日 (木)

「@Fukushima」高田昌幸編、「裸のフクシマ」たくきよしみつ

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「@Fukushima」
高田昌幸 編
産学社(456p)2011.12.31
1,785円

「裸のフクシマ」
たくきよしみつ 著
講談社(352p)2011.10.15
1,680円

福島第一原発の事故は「この国のかたち」を変えてしまう出来事、いや、変えたくない人もいるようだから、変えなければいけない文明史的な出来事だった。だから直後から事故に関して、あるいはどんな新しい「かたち」を目指すかについて、たくさんの本が出版された。そのうちの何冊かを読んでbook-naviで紹介したけれど、多くは専門家や社会科学系の研究者の手になるものだった。それぞれに刺激を受け説得力のあるものだったが、もっと生の福島の声も聞いてみたい。

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2011年6月 8日 (水)

「秋葉原事件」中島岳志、「ホームレス歌人のいた冬」三山 喬

Akiba中島岳志 著
朝日新聞出版(240p)2011.03.30
1,470円



Home三山 喬 著
東海大学出版会(272p)2011.03.23
1,890円

リーマン・ショックが世界中を駆け巡った2008年は、この国にとっても大きな転換点だったと言えるのではないだろうか。バブル崩壊から20年近く、以来、不況と低成長にあえいできた日本にリーマン・ショックが与えた影響は大きく、戦後冷戦構造のなかで覇権国・アメリカに随伴して成長してきたこの国の繁栄が終わったこと、今後、大きく成長することはなく長期的な縮小サイクルの過程に入ったことがはっきりした。「3.11」は、この国のそんな行く末をさらにダメ押しして、誰の目にも明らかにしてみせた。

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