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イラク水滸伝/石を放つとき/増補版 1★9★3★7/石の虚塔/イベリコ豚を買いに/怒り(上・下)/池波正太郎の東京・下町を歩く/1968/1Q84/遺稿集/命の詩 : 月刊YOUとその時代/いとしいたべもの/一号線を北上せよ陰謀の日本中世史/イラクの小さな橋を渡って/池袋ウエストゲートパーク、少年計数機、骨音

2023年9月15日 (金)

「イラク水滸伝」高野秀行

高野秀行 著
文藝春秋(480p)2023.07.30
2,420円

ノンフィクション作家である高野秀行のモットーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かないことを書く」だそうだ。それがどんなものかは彼の著書を並べてみれば、おおよそ見当がつく。『幻獣ムベンベを追え』『謎の独立国家ソマリランド』(講談社ノンフィクション賞)『辺境メシ』『幻のアフリカ納豆を追え』。大学(早大)の探検部出身という経歴をつけ加えれば、梅棹忠夫、本多勝一、船戸与一、西木正明といった探検部出身の学者、作家、ジャーナリストの書くものに連なることも推測できる。

『イラク水滸伝』はイラク南部、ティグリス川とユーフラテス川の合流点に広がる広大なアフワール(湿地帯)を舞台にしている。「水滸伝」とタイトルにあるのは、こんな理由からだ。アフワールと呼ばれる湿地帯は、昔から戦いに負けた者やマイノリティ、山賊や犯罪者が逃げ込む場所だった。迷路のように水路が入り組む湿地帯には、馬も大軍も入れない。そんな状況が、町を追われた豪傑たちが湿地帯を根拠に宋朝と戦う『水滸伝』を思わせるから。

アフワールの民の抵抗に手を焼いたフセイン政権は、流れ込む水を堰き止めて湿地帯を乾かし、水の民は移住を余儀なくされた。でもフセイン政権が崩壊した後、堰がこわされ湿地帯が半分くらい復活しているという。しかも、アフワールとその周辺でシュメール人が世界最古の都市文明を築いたメソポタミア遺跡群が世界遺産に登録された。高野が「アフワールへ行こう」と思ったのは、こうしたニュースを耳にしたからだった。

でも、困難がいくつかあった。一つはイラクの政治的混乱。この旅を企画した当時、IS(イスラム国)と政府軍が戦闘を繰り広げていた。その後も治安はいいとはいえない。もうひとつはコロナ。そもそもイラクへ入国できなくなった。

結論を言えば、高野はアフワールを昔ながらの船で旅するという当初の目的を達することはできなかった。この本はその経過報告というか、まずアラビア語イラク方言を学び、人脈をたどってアフワールに行き、元反政府ゲリラの親玉に会い、湿地を復活させようとするリーダーと親しくなり、船をつくり、水の民の生活に触れ、伝統的な刺繡布の謎を追い、完成した船を水路に浮かべて漕ぎ、といったもうひとつの旅の報告になっている。著者も言うように、「不運の連鎖」と「悪あがき」に満ちた「蛇行と迷走」は、本来の目的だった船旅よりたぶん面白いものになった。

高野は、東京の大学院に留学していたハイダル君にアラビア語を習い、それだけでなくバクダードで彼の兄の家に滞在し、アフワールへの旅にはハイダル君自身が通訳兼ガイドとして同行してくれることになった。チームは高野と、彼の師匠格、東京農大探検部OBで環境活動家・冒険家の山田高司(隊長)。

水滸伝を名乗るからには、豪傑が登場しなければならない。ハイダル君のコネクションでまず会えることになったのが、「湿地帯の王」と呼ばれるカリーム・マホウド。フセイン政権時代は反政府ゲリラ活動を率い、米軍侵攻後は占領軍の「暫定統治委員会」のメンバーになったが、あまりに荒っぽくて政治に向かず、現在はティグリス川沿いの町、アマーラで暮らしているという。彼はフセイン時代に投獄され、そこでコミュニストの仲間になった。自らも湿地民の氏族であるカリームは湿地帯とそこに住む民についてこんなふうに説明してくれた。

「アフワールは……ノアの洪水以来、何も変わっていない。そこは昔から『マアダン』という人たちが住んでいる。元の意味は『水牛などの動物を飼う人』の意味だ。と同時に、ギルガメシュの時代から“体制と戦う者”つまりレジスタンスのことも意味する。アフワールには馬や象が入れないから、強い権力に抵抗するのに適した場所だったのだ」

カリームだけでなく、アフワールの民に話を聞くと、ノアの洪水とかギルガメシュとかシュメールとか古代と現代とがごく自然に、当たり前のようにつながっている。カリームに会えたことは、高野たちにとって幸運なことだった。アフワールに限らないが、いまこの国は強盗が出没し、外国人は拉致されかねない。危険があるかもしれないとき、高野たちは「カリームに食事に招かれたよ」と告げる。「旅行者が誰かの世話になるとその地域では世話した人の『客(ゲスト)』と見なされる。そして客が被害を受けるというのは『主人(ホスト)』にとってこの上ない屈辱なのだ」。もしこのあたりでカリームの客である高野たちが襲われた場合、カリームが恥辱をそそぎに襲ってくる可能性を誰もが想像する。「だから彼の客であることをアピールすれば、一定の抑止力にはなる」。

高野はさらに伝手をたどって、アフワールでの活動に全面的に協力してくれることになるもうひとりの「豪傑」に出会う。環境NGO「ネイチャー・イラク」の長、ジャーシム・アサディ。アフワールの湿地民出身で、大学を卒業して水資源省に入り水利専門の技術者となった。フセイン政権崩壊後はアフワール復興事業の現地責任者になり、治水工事を指揮している。「大胆な治水工事を計画実行する能力と統率力、驚くほど広いネットワーク、国籍や身分や素性に関係なく、自分を頼ってきた人は誰でも最大限に面倒をみようという親分肌、そして個人の自由を無視した権力を忌み嫌い、自分が納得できないことには徹底して反対し戦う、反骨にして異能の人でもあった」「彼らこそが新世紀の『水滸伝的好漢』なのではないかと思う」。

ジャーシム宋江(と高野は水滸伝の主人公になぞらえて呼ぶ)の「客」となった高野たちは、彼の紹介でいろんな湿地の民に出会う。湿地の浮島(水面に出た葦の上に刈り取った葦を重ねて「島」にする)に小屋掛けして住む家族。「浮島は彼の土地なのかと訊くと、『いや、誰が使ってもいい』との答え。ジャーシム宋江が笑った。『アフワールに私有地なんてない』」。さらに、水牛を飼って移動生活する「マアダン」(現代イラクでは差別的に使われるという)の人々。原始キリスト教成立直後に生まれたマンダ教という宗教を信じ、湿地帯で船大工を生業に二千年間ひっそり暮らしてきたマンダ教徒。

高野たちは彼らから話を聞き、伝統的な船タラーデを注文して建造に立会い、水牛のミルクを寝かせてつくるゲーマルという食品(「絹ごし豆腐のような重みがあって、うっとりする香りと旨味」)の作り方を見学したり、アザールと呼ばれる刺繍布の織り手を訪ねたりしている。最後には完成したタラーデを湿地に浮かべて漕いでみる(カバー写真)。文章に写真やスケッチも加えて、そのひとつひとつの行動の報告がこの本の核をなしている。未知と謎を探求する冒険譚であり、地誌や民族誌でもあり、イラクという国の「混沌」を旅する読みものとして面白い。

同時に、西洋的な近代国家の常識や物差しでは測れないイラクの内側に少しだけ触れられる。われわれがイラクについて知っているのは、多数派のアラブ人シーア派と少数派のアラブ人スンニー派、それにクルド民族の対立といった程度だけど、この本にも出てくるように民族も宗教も多種多様な人びとが暮らしている。また氏族の力が大きい社会であることも、高野たちが氏族の有力者の「客」となることで安全を担保することからわかる。そうした民族・宗教・氏族の異なるいろんなグループが民兵組織をつくり武器を持っているから、われわれの目には「混沌」としか映らない。高野たちが最終的にアフワールの船旅をあきらめたのも、いくつもの氏族が、時に対立し武装している地域を誰の庇護も受けない外国人が旅することの困難さからだった。

実際、「ネイチャー・イラク」のジャーシムが、本書の取材後にバクダード郊外で(どうやら親イラク民兵組織に)拉致された。二週間後に解放されたが、誰が何の目的で拉致したのか、ジャーシムも高野に多くを語らない。彼は今もアフワールに戻れていないという。

高野は「あとがき」で取材を終えた後のことも書いている。アフワールはいま、ティグリス川上流にトルコが大規模なダムをつくったために再び深刻な水不足に見舞われている。水牛とともに暮らすマアダンはユーフラテス川に避難したという。

「今後アフワールは一体どうなるのか。水が減り続け、フセイン政権時代のように、湿地帯は乾燥した荒野と化し、湿地民と水牛は水を求めてイラク各地を彷徨うのだろうか。/別の可能性もある。湾岸諸国あるいは中国やイランといった国が資本と技術を投じて、アフワールを巨大観光地化することも私は想像してしまう。/いずれにしても、それは従来のアナーキーにして多様性に富んだ湿地帯の姿ではないであろう」

その意味で、高野も自負するように、この本はいままた岐路に立たされている巨大湿地帯の現時点での貴重な記録になるかもしれない。ともあれ、最後は水滸伝らしいフレーズで締めくくられる。「ジャーシム宋江だって、言っていたではないか。『湿地帯の将来は暗い。でも今日は楽しもう!!』と」。(山崎幸雄)

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2021年2月17日 (水)

「石を放つとき」ローレンス・ブロック

ローレンス・ブロック 著
二見書房(504p)2020.11.26
2,750円

20代から30代にかけて、ハードボイルド小説にはまったことがある。1970年代、映画で『ロング・グッドバイ』とか『チャイナタウン』とか新しいタイプのハードボイルドが公開されて、そこからハンフリー・ボガートなんかの古典を見るようになった。その流れで、当然のことながら映画から小説へと関心が広がってゆく。ハメットやチャンドラーを読みながら、同時にネオ・ハードボイルドと呼ばれた1970~80年代の新しいハードボイルドにも惹かれた。

ハメット、チャンドラーのタフなヒーロー像に比べると、ネオ・ハードボイルドの主人公はヴェトナム戦争のトラウマを抱えていたり、ヘビー・スモーカーで肺がんの恐怖におののいたり、心に傷を負った主人公が多かった。そんなネオ・ハードボイルドの探偵たちのなかで、いちばん共感でき、その後何十年にもわたってつきあうことになったのがローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ。元刑事でアルコール依存の無免許探偵だ。

ニューヨークの安ホテルをねぐらに、夜な夜ななじみのバーで酒を飲みながらツテを頼りの怪しげな依頼に応える。ジャズと映画が好きで、何作かの例外を除いて暴力に訴えることもしない。ネオ・ハードボイルドの一方の人気者、マッチョで美食家の探偵スペンサーに比べると、どちらかというと地味で、ぱっとしない。誰もが認めるスカダーものの最高作『八百万の死にざま』は映画化されたけど、こちらも華の少ないジェフ・ブリッジス(好きな役者だけど)がスカダーを演じていた。

このシリーズで何より魅力的なのはスカダーが歩き回るマンハッタンの街の描写と、そこで対面する相手との会話の妙。もっともストーリー的には大した謎も複雑なプロットもなく、ミステリーとして見れば物足りない。というよりニューヨークを舞台にした、例えばアーウィン・ショーみたいな都会小説のミステリー版と考えるほうがいいのかもしれない。

このスカダー・シリーズ、2006年の『すべては死にゆく』までは途切れずに新作が出たのだが、それ以後はぐっと時間があくようになった。2015年に『償いの報酬』、それから5年ぶりに出たのが本書『石を放つとき(原題:A Time to Scatter Stones)』。表題作は160ページほどの中編で、ほかにアメリカで『夜と音楽と』のタイトルで刊行された11篇のスカダーもの短篇が収められている。

ハメットやチャンドラーの探偵はいつまでもタフで歳をとらないけれど、ネオ・ハードボイルドの探偵は作者とともに歳をとり、環境も変わってゆく。スカダーもアルコール依存を克服し、元高級娼婦のエレインと暮らすようになり、パソコン探索が得意な若いアフリカ系ストリート・キッズの助手もできた。そんなふうに、なにがしか作者の生活感覚が投影されているのがネオ・ハードボイルドの魅力でもある。

『石を放つとき』のマット・スカダーは、すっかり年老いている。『すべては死にゆく』でも老いは忍び寄っていたが、今回の小説でのスカダーは数ブロックも歩けば膝に痛みが出る、まぎれもない老人だ。足で歩き人と会うことが武器である探偵稼業など務まりそうもない。そんな年老いた男が、なんとか事件を解決するのが本作。

スカダーのパートナーのエレインは、売春婦をしていたことのある女性の集まり「タルト」に参加している。そこで知り合った若いエレンが、かつての客にストーカーのようにつきまとわれているとスカダーに相談するところから話が動き出す。

……と、ストーリーを追っても仕方がない。小生この久しぶりのスカダーものを、昔読んだやり方で読んでみた。というのは、舞台になった都市(この場合はニューヨーク)の地図を手元に用意して、街路の名前や公園、建物など固有名詞が出てきたらひとつひとつ確認していくこと。最初は小説を読むリズムが寸断されて面倒なのだが、やがて主人公はいまこの街路を左に曲がったんだな、とか映像が脳内に立ちあがってくる。昔スカダーものを読んだとき、ニューヨークには旅行者として短期間行っただけの経験で映像も断片的だったけど、その後一年間暮らすことになったので、たいていの場所はおよそ見当がつく。しかもスカダーが歩き回るのは主にマンハッタンのミッドタウンとダウンタウンで、そこは小生がよく行っていた場所でもあり、どんぴしゃりで風景が分かるシーンもある。

スカダーとエレインが住むアパートメントは西57丁目の9番街と10番街の間。セントラルパークの南西角にあるコロンバス・サークルから更に南西へ400メートルほど行ったところにある。繁華街に近いけど閑静な一帯。

ストーカー男をつきとめるため行動を開始したスカダーは、まず地下鉄でダウンタウンへ行く。ローワー・イーストサイドの警察装備品店で警棒を買おうとするが、市警の身分証を持たないスカダーは芝居の小道具を求める客に間違えられ、バルサ材の警棒を勧められて失敗。「銃の展示即売会に行けば、AR15を持ち帰り、何十人もの小学生を手当たり次第に撃ち殺すこともできる。……しかし、ニューヨークに住んでいるかぎり、ニューヨーク市警の身分証明書を見せることができなければ、木の棒を手に入れることは許されない」

仕方なくバワリーに向かったスカダーは、キッチン用品卸売店で代用品として肉たたき棒を買う。「その界隈は昔は簡易宿泊所と酒場ばかりだった」とスカダーはかつての悪臭と騒音を回想するが、その後ジェントリフィケーションと呼ばれる再開発で高級化し、小生が滞在したころにはバワリーはシックなホテルや新しい美術館ができてお洒落なスポットに変わりつつあった。次にスカダーはブロードウェイ18丁目に向かい、スポーツ用品店でバックパックを買う。腹が減ったのでダイナーを探すが「現在、絶滅危惧種になりつつある」ので見つからず、仕方なくタイ料理店でパッタイを食べる……と、そんな具合。

本筋とはあまり関係ないこういうところが楽しいのだ、スカダーものは。そして肝心の本筋は、大した謎も二転三転する展開もなく、あっさり解決してしまう。最後にスカダーとエレイン、エレンの長い会話があり(おまけのようなオチもあり)、このシリーズのもうひとつの楽しみ、ユーモアあふれる心地よい会話を読む者に堪能させて終わる。ローレンス・ブロックのミステリーは、ハードボイルドというジャンル・フィクションの決めごとをきちんと守りつつ、同時にいつもその枠を少しはみだして風俗小説(無論いい意味での)としての魅力をそなえているのがいい。

蛇足。ハードボイルドを読むといつも思い出す言葉がある。斎藤美奈子さんの、「ハードボイルドは男のハーレクインロマンスだ」というもの。男にとってはなかなか痛い真を穿っていて、うまいこと言うなあ、と感心してしまった。以来、この手の小説は小生のなかでギルティ・プレジャー、なにがしか後ろめたさを伴った愉しみと化している。(山崎幸雄)

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2018年9月23日 (日)

「陰謀の日本中世史」呉座勇一

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呉座勇一 著
角川新書(344p)2018.3.10
950円

呉座勇一といえば、『応仁の乱』が50万部のベストセラーになった若い歴史研究者として名高い。書店で本書を見つけたとき、ははん、『応仁の乱』が売れたんで編集者が柳の下を狙って語りおろしてもらい、お手軽につくった新書かな、と考えたのは当方、元単行本編集者として自然な反応だろう。タイトルも「陰謀」だし……。著者の呉座もそう思われることを懸念したらしい。これはそのような本ではないと「あとがき」で弁明している。本書は『応仁の乱』と同じ時期に構想された。でも『応仁の乱』が予想外に売れて仕事が次々に舞いこみ、執筆が思うように進まずこのタイミングになってしまった、と。

小生、『応仁の乱』を読んでない。応仁の乱といえば、「十余年、無駄な(1467)戦争応仁の乱」と年号を覚えただけ。室町幕府の将軍後継をめぐって将軍家と家臣が二手に分かれて争い、身内同士の対立と裏切りで十数年続いた内乱、という高校教科書程度の知識しかない。読書好きの友人に、「どう? これ読んで応仁の乱が分かった?」と聞いたら、「うーん、やっぱりよく分かんない」の答え。そうか、じゃあ読むこともないか、と手を出さなかった。

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2016年4月19日 (火)

「増補版 1★9★3★7」辺見 庸

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辺見 庸著
河出書房新社(408p)2016.03.20
2,484円

この本のタイトルは「イクミナ(逝く皆)」と読ませるらしい。1937、つまり昭和12年という年号は以前から気になっていた。というのは昭和史に関する本やエッセイを読むとき、1937年は社会の空気が戦争に向かって雪崩をうって傾斜していった年だった、と複数の体験者がそろって指摘していたからだ。

この年7月、盧溝橋事件が起こり日中戦争が始まった。もっとも、人々にとって戦争はまだ遠い外地の出来事で、戦争はすぐに終わると楽観的な空気が流れていた。しかし10月に国民精神総動員運動が始まり、新聞やラジオ、映画などメディアが動員され、全国津々浦々の町内会まで組織されて兵士への慰問、勤労奉仕、節約などが呼びかけられた。戦争は、一気に身近なものとなった。11月に日本軍は上海に上陸、中華民国の首都だった南京まで侵攻して大虐殺を引き起こす──そういう年だったのだ。

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2014年12月17日 (水)

「石の虚塔」上原善広

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上原善広 著
新潮社(287p)2014.08.12
1,620円

戦後日本の考古学を俯瞰すると、1947年の群馬県岩宿遺跡の発見により大きく進歩した一方、2000年に発覚した旧石器発掘捏造事件によって、その権威も信用も大きく毀損してしまった。本書は、この二つの事象を連続した一つの物語として在野の研究者や学者達の行動や発言を詳細に描き出し、まさに「石に見せられた者たちの天国と地獄」の60年間に亘る物語を創りだしている。

著者は1973年生まれというから、団塊の世代の子供達といった世代にあたり、2010年に「日本の路地を旅する」で大宅壮一ノンフィクション賞を受け、その後も活発に著作を発表している。しかし、考古学を取り上げたのは本書が初の試みであるようだ。本書が対象としているのは考古学そのものではない。したがって、旧石器の遺跡写真が掲載されているわけでもなければ、石器の形式学的図表が示されているわけではない。考古学という学問領域の舞台に立った多くの人々を、まさに群舞のように描いて見せた作品である。

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2014年7月16日 (水)

「イベリコ豚を買いに」野地秩嘉

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野地秩嘉 著
小学館(253p)2014.03.31
1,620円

著者の野地秩嘉を知ったきっかけは、2003年頃に海外出張の折にJALの機内誌で目にした紀行文だ。ベトナム戦争時にサンケイ新聞特派員としてサイゴンに赴任していた近藤紘一が書いた「サイゴンから来た妻と娘」(1978年刊)をトレースする形でサイゴン・バンコック・パリを巡り、近藤と家族となったベトナム人母娘の足跡を辿ったもの。そこでの野地の表現する各地の空気感の精緻さと、人々に対する穏やかな目線が、近藤のそれと重なり、日本という小さな視点から解放されるような気分で読んでいたことを思い出す。野地はノンフィクション作家という枠をはるかに超えて「日本一のまかないレシピ」といった本までも手掛けていることもあり、てっきり本書は「イベリコ豚」を使って、自分なりのユニークなレシピで美味い料理を作ってみた、というものなのかと思っていた。ところが、読んでみれば、単なる「豚肉」ではなく「豚そのもの」をスペインまで買いに行き、行きがかり的に日本でハムの商品化を実践するという壮大な話なのだ。

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2014年4月15日 (火)

「怒り(上下)」吉田修一

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吉田修一 著
中央公論新社(上284、下260p)2014.1.25
各1,296円

吉田修一には芥川賞を受けた『パークライフ』以来、都会に生きる男と女を主人公にした小説が多いけれど、『長崎乱楽坂』といった中上健次ふうなビルドゥングスロマンや『横道世之介』のようなユーモア青春小説、『太陽は動かない』や『路』みたいな企業小説と、ずいぶん多彩な作品をもっている。もっとも、どのジャンルの作品も典型的なジャンル小説でなく、いろんな枠組みを借りて結局は吉田修一の世界が展開されているわけだが。

もうひとつ、このところ吉田の小説で多いのが『悪人』『さよなら渓谷』といった犯罪小説だ。ここでも犯罪小説とはいえ、ミステリーのクライム・ノベルとは趣が異なる。犯人探しがテーマになっているわけではないし、『悪人』では主人公が殺人を犯した動機も心理もほとんど説明されない。主人公をとりまく人間たちの目や言葉を通して、かろうじて殺人犯の輪郭が浮かび上がるにすぎない。

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2012年5月14日 (月)

「池波正太郎の東京・下町を歩く」常盤新平

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常盤新平 著
KKベストセラーズ(221p)2012.02.09
840円

私は千駄木に10年間住んでいる。下町は結構ウォーキングなどで歩きまわっているけれど、その歴史や薀蓄について、それほど詳しいというわけではない。書店で「下町」という背表紙についつい反応してしまうのはそのためだろうか。今回、常盤新平「池波正太郎の東京・下町を歩く」を手に取った。本書は、随所に「鬼平犯科帳」「剣客商売」など池波の著書計13作品からの引用が散りばめられていて、他の下町案内とは一味違うつくりになっている。単なる下町散歩のガイド本としてだけでなく、池波作品のガイド本としても十分楽しめるというわけだ。

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2009年10月 9日 (金)

「1968(上・下)」小熊英二

1968 小熊英二 著
新曜社
1094p・下1014p2009.7.7、下2009.7.31
7,140 

以前、ブック・ナビで『<民主>と<愛国>』について書いたとき、小熊英二の本はどんどん厚くなる、次の本は1000ページを超えるかも、なんて書いたことがある。半分冗談のつもりだったけど、最新作19681000ページどころか、上下合わせて2100ページ。2冊重ねると厚さ11センチ、重さ2キロ以上にな400字詰め原稿用紙で約6000枚。れでも草稿を6割に縮たそうだ。最近の中身の薄い新書は400×250程度で1冊にしてしまうから、それで換算すれば24冊分になる! この大きさ重さの本を読むのは、脳細胞だけじゃなく身体的にも楽じゃない。老眼の小生、本を読むときは眼鏡をはずし、本を少し目に近づけるから、机に置いたのでは遠すぎる。仕方なく本を手首で支えることになるわけで、そうなると頻繁に左右に持ち変えないと手首が痛くなる。読書して腱鞘炎なんて笑い話にもならないもんな。

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2009年7月 9日 (木)

「1Q84」(Book 1・2)村上春樹

1q84 村上春樹
新潮社(
558p506p2009.05.30
1,890

去年、ニューヨークに滞在していたとき、通っていた語学学校の会話クラスにイタリアから来ている学生Aがいた。アメリカに来て3年になAは、ほぼ不自由なく英語をしゃべるけれど、授業に7割以上出席していないと学生ビザを維持できないので、そのためだけに学校に来ていた。流行の角ばった黒縁の眼鏡をかけ、髪を短くした伊達男のAは、レストランでウェイターの違法アルバイトをしながら労働ビザかグリーンカードを手に入れる機会を狙ってた。「ニューヨークにいられるなら何だってするよ」というのが口癖だった。会話クラスはAのようなレベルから僕のようにたどたどしい英語しかしゃべれない者までいろんなレベルの生徒が混在している。週2度の授業にA必ず遅刻してきて窓際の席に座り、他の生徒が苦労してしゃべっているのを黙って聞いていることが多かった。何か自分が口を出したい話題になるといきなり多弁になり、とてもシニカルな意見を口にする。

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