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ウソをつく生きものたち/内モンゴル紛争/ウェブスター辞典あるいは英語をめぐる冒険/「美しい」ってなんだろう?/運命の一瞬!

2022年8月17日 (水)

「ウソをつく生きものたち」森 由民

森 由民 著
緑書房(176p)2022.05.16
1,980円

本書のタイトルを見た時、一瞬「人間」の話だと思ったが、動物たちが生きるため、子孫を残すために様々に進化してきた様子を紹介している一冊。著者の森は「動物園ライター」と自称しているように、生物学を学び各地の動物園や水族館を取材してその特徴や楽しみ方をメディアに発信している。また、映画や小説などに登場する動物に対する見方や表現について批評をするといった活動をしており、単なる動物好きという一言では片付けられない、生物学と日常の動物達を結び付けている人といえる。

「ウソをつく」という言葉に囚われてしまうと、言葉の定義の迷路に入り込んでしまうが、私は動物が「ウソをつく」ことはないという理解をしていた。逆に言えば「ウソをつく」のはヒトの特徴で同種の相手(人間同士)を騙したりする悪賢さがヒトのヒトたる所以という理解だ。しかし、本書を読み進むと多様な生物が進化して行く中で身に付けていった「擬態」「警告色」「鳴き声まね」等の特徴は「ウソ」というよりは「知恵」であり、進化の面白さを再認識させられた。ページをめくりながら、捕食する側、捕食者から逃げる側の各々の立場からの進化の結果を読み通してみると、知っているつもりの知識や理解が断片的であるということも判らせてくれる。そうした生き物たちの「知恵」とは、自身を守る「擬態」・「偽死」について、捕食者側の「擬態」、「托卵」や「鳴き真似」、そして、同種生物間の騙し合い、ヒトとイヌの特別なコミュニケーションなどがテーマになっている。生物学の学び直し的読書としてもなかなか興味深い一冊である。

自らを守るための「擬態」として、「ウリ坊」の縦縞模様は草むらに隠れてキツネなどの肉食動物から身を隠しているのだが、あの縦縞模様の擬態はマレーバクの子やダチョウ、ヒクイドリ、エミューの雛などにも見られる一般的な「擬態」とのこと。また、「狸寝入り」についても述べられている。狸は敵に遭遇すると「偽死」といわれる、突然死んだようになる。これも狸だけでなく、アナグマやオボッサムで見られる反射的な行動であり、「死んだふり」ではなく、ショックを受けると身体が固まり呼吸や脈拍まで遅くなるというカモフラージュの一種。しかし、なぜそうするかは、「偽死」により敵が驚いて逃げてくれればラッキーということのようだから、なにやらギャンブル的であるので成功確率も知りたいところである。

また擬態と言っても身体の一部だけをまねるパターンもある。一番多いのは「目玉模様」。蝶や蛾、カエルの仲間、魚類にも目玉模様が認められるが、本物の目や頭が攻撃されると致命傷になることから、捕食者からの攻撃を急所から外すという効果がある。捕食者の錯覚を誘い、攻撃を急所から外すという効果があると聞くと進化の意味の深さを感じる。

人間は果物を選ぶときその色で選ぶ。同じように果物を食べる鳥や霊長類の色彩の識別能力は高い。蜂はまわりに溶け込むカモフラージュではなく、黄色と黒の縞模様で「自分は針を持った危険な存在」であることを蜂の捕食者である鳥類にアピールする「警告色」で攻撃と防御の姿といえる。

カラスの「黒」もまた、警告色の一つ。日本をはじめ世界各地でいろいろな鳥料理はあるが、カラスを食する文化はないという事実。また、捕食者であるワシやタカもカラスを積極的には狙わないということを考えると、「警告色」は全ての動物に対して等しいメッセージを発信しているという事なのか。また、毒を持った蝶と同じ姿に進化した「無毒」の蝶のような擬態もある。しかし、こうした「警告色」をもつ無毒の生き物たちがその姿に進化する過程で、捕食者たちがその模様は「毒」と知るためには常に幾つかの個体が捕食されることが必要である。生き物にとって進化の有利・不利の判断基準は種にとってではなく、個体にとって有利か不利かによって決定される。もう少しその議論を進めると、仲間の為に犠牲になるような性質を持つ個体と他の個体の犠牲を上手く利用して生き残る性質を持つ個体を比較すると、種としては後者の特性が優位というのも厳しい現実である。

生き物が擬態する率の変化は、捕食者の数によることが判っている。動物園などで捕食者のいない環境で飼育すると、世代を重ねるにつれて擬態個数は減少して行くという。擬態する進化とはかなりエネルギーがかかるので対価が無ければ変化して行かないという事か。

捕食者が無害の物に擬態するのは「羊の皮を被った狼」の言葉どおり。オコゼは海底の岩に擬態し、ワニガメはピンク色の舌をひらひらさせてミミズの様に見せて近寄ってくる小魚を捕獲する。鳴き声によるコミユニケーションは擬態の観点からの他の種の鳴き声を真似することがある。代表的なものとしてモズは10~20種の小鳥の鳴き声をまねて、小鳥たちを誘い、捕獲するという。「百舌鳥(もず)」の語源がそこにあるというのも納得である。

また、蟻の巣の中で異種昆虫(アブラムシ等)が「蟻客」と呼ばれる形で巣に共生するという。アブラムシはある種の麻薬物質を分泌して蟻に与えた対価として、蟻の巣の中で地中の植物の根を栄養素として取り入れるとともに、アブラムシを捕食する昆虫から守ってもらっている。まるで反社とのつきあいのようである。
 
こうした擬態の様々な進化を読んでいて、最も戦略的な擬態はカッコウの托卵だと再認識させられた。カッコウは交尾後に托卵できそうな巣を探し、宿主が排卵をして巣を離れたすきに元の卵を一つ巣から放り出して自分の卵を一つ産み落とす。ここまでは知識として知っていたが、カッコウの腹の白地に黒い模様は一見猛禽類のハイタカに似ているので、宿主がハイタカと錯覚して混乱する中で排卵するという。また、カッコウの卵は宿主の卵より1~2日早く孵化する。これはカッコウが体内抱卵といって体内で準備をすすめ、排卵から孵化までの時間を短くする仕組みを持っている。そして、他の卵より早く孵化したカッコウのヒナは孵化前の卵を巣の外に落とすという。単に他の鳥の巣に卵を産み落とすといった単純な話ではないことが良く判る。ここまで読んで、カッコウにとっての托卵とは「カッコウ自身の渡りの時期を早める」と説明されると、人間の感性で考える限界があることも理解出来る。

ヒト以外で同種の個体同士でだまし合いをする例がいくつか提示されている。たとえばカケスは食べきれなかった餌を地中に埋めるが、たまたま他のカケスに見られていたと思うと埋めた場所を変えるという実験結果があるようだ。また、チンパンジーの群れで仲間を騙すケースなどいろいろ提示されている。人間だけが「ウソをつく」わけではなさそうだ。

長い時間を共に過ごしてきたヒトとイヌの「共生」が最後のテーマである。イヌはヒトの指さしを理解出来るようにヒトの「情動」を理解するし、逆にヒトはイヌの「情動」を読み取る力を身に付けている。蓋をした容器に餌を入れてオオカミに与えると、ずっと自力で蓋を取ろうと苦闘する。一方イヌは途中で実験者と容器を交互に見て、ヒトの助けを求めて来る。こうした洗練された「ヒトとイヌの収斂進化」の結果が現在のヒトとイヌの関係を成り立たせている。そのイヌとオオカミの違いについての指摘が気になった。オオカミはつがいを中心とした家族の絆が強いが、イヌはつがいの絆を喪失しているという。それは進化なのだろうか。

「イヌよ、それでお前は良かったのか?」と聞きたくなってしまうのだが。(内池正名)

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2021年5月16日 (日)

「内モンゴル紛争」楊 海英

楊 海英 著
ちくま新書(224p)2021.01.10
880円

本書のタイトルである「内モンゴル紛争」という言葉から、何を思い浮かべるだろうか。中国の民主化や少数民族問題をめぐって香港や新疆ウイグル、あるいはチベットのニュースに接することはあっても、中国国内に暮らすモンゴル人についての情報はほとんど入ってこない。新聞の外報面に小さく報道されることがあるのかもしれないが、大方の人には何のイメージも浮かばないだろう。

2020年6月、内モンゴル自治区で秋の新学期からモンゴル語教育を縮小し、中国語教育を大幅に増やすことが通達された。従来、小学校ではモンゴル語と中国語が併用されていたが、道徳の授業を中国語で行い、中学高校ではモンゴル語以外の授業をすべて中国語で行うという内容だった。これに対し多くのモンゴル人は母語が失われると反発し、自治区の各地で抗議デモが起きた。子供たちは授業をボイコットし、自殺して抗議する教員や公務員も出たが、170人以上が逮捕され、2週間ほどで鎮圧されたという。

著者の楊海英は内モンゴル自治区オルドス高原生まれのモンゴル人。日本語と文化人類学を学び、現在は静岡大学で教えている。この本には「危機の民族地政学」とサブタイトルがつけられ、著者が提唱する「民族地政学」の視点から内(南)モンゴルの現在が読み解かれている。この本は歴史的な記述ではないけれど、頭の整理のため興味を惹かれたところを時間軸に沿って並べてみよう。モンゴル人はいま、モンゴル国、中国、ロシア(ブリヤート自治共和国など)に分かれて暮らしているが、そうなった理由については日本も大きく関係してくる。

内モンゴルは地政学的に見れば内陸アジア、あるいは中央ユーラシアの一員と位置づけられる。内陸アジアあるいは中央ユーラシアとは、東は満洲平原からモンゴル高原を通り、西の黒海沿岸とトルコのアナトリア平原まで、ユーラシア大陸の多くを占める地域をいう。この地には古くからいろんな遊牧民族、6世紀にはテュルク(突厥)が興り、キタイ(契丹)が興り、さらにチンギス・ハーンのモンゴルが興って中央ユーラシアを支配した。現在もテュルク・モンゴル語を話すこの地の遊牧民はチンギス・ハーンの子孫であるとの誇りをもち、共通した文化と文明を持っている。

17世紀に満洲から清朝が興ってモンゴル人はその支配下に入った。長距離の移動を伴う遊牧は禁止され、定住化が進んだ。そうしたモンゴル人社会の停滞にとどめを刺す二つの出来事が起こった。ひとつはモンゴル高原南西部を襲ったイスラム系回民の蜂起。反乱を鎮圧する力を持たない清朝は曽国藩ら漢人軍閥に鎮圧を任せてその膨張を容認する。長城のすぐ北に暮らしていた著者の一族も回民に追われて北へ避難したという。その後には、やはり回民に追われた漢人が定住するようになった。いまひとつの出来事は金丹道の反乱。金丹道は漢人の秘密結社で、満洲人とモンゴル人を暴力で追い出そうとした。その結果、内モンゴル東部は漢人が住む農耕地となった。金丹道の反乱は中国の視点では「満洲清朝に対する貧しい農民の蜂起」だが、著者は「漢人の秘密結社がモンゴル人を追い出して草原を占領しようとした民族間紛争」と断ずる。

19世紀末、モンゴル高原ではモンゴル人対漢人、漢人対回民、清朝対西欧列強という三つ巴の対立が渦巻いていた。そこへ登場するのがロシアと日本。ロシアはユーラシア大陸を南下し、新興の大日本帝国と衝突した。内モンゴル東部のモンゴル人は日本側につき、馬隊を結成して日本軍とともに戦った。一方、外モンゴルのモンゴル人はロシア軍の一員となり、やはり騎兵として戦った。

日露戦争の結果、内モンゴル東部は日本の勢力圏に組み込まれる。ゴビ草原以北(外モンゴル)のモンゴル高原はロシアの勢力圏となった。その後、満洲国が成立し、内モンゴルのモンゴル人は満洲国のなかで独自の騎馬軍団をもち、将来の独立建国を夢見た。「日本の力で中華民国からの独立が可能だ、とモンゴル人は理解したからである」(このあたりの事情は日蒙混血青年を主人公にした安彦良和の傑作『虹色のトロツキー』にもうかがえる)。ゴビ草原以北のモンゴル人はロシアの支援を受けて独立した。「新旧二つの帝国の出現により、南北モンゴルの分断が一層決定的となったのである」と著者は言う。

1945年、内モンゴルと満洲国はソ連とモンゴル人民共和国の連合軍によって解放された。著者の父もモンゴル軍の将校を暖かく迎え、新しい国づくりのために昼夜働いたという。しかし現実には米英ソによるヤルタ協定でゴビ草原以南のモンゴルを中国に引き渡すことが決まっていた。「当事者不在の形で、他人によって民族の分断と国土喪失が決定されたのである」。日本軍の侵略に由来する戦後の民族分断は朝鮮半島だけでなく、モンゴルでもあったことは覚えておこう。

中華人民共和国成立後もモンゴル人の苦難は続いた。人民公社が成立して、内モンゴルには漢人の移民が押し寄せた。草原は一面の農耕地となったが、無理な干拓のためにそれらの地は砂漠化が進んだ。1960年代の文化大革命では、二つの「原罪」があるとして多くのモンゴル人が犠牲になった。「原罪」のひとつは、満洲国時代に対日協力したこと。もうひとつは、解放に際しモンゴル人民共和国との統一合併を求めたこと。著者の調べによると、このとき34万人が逮捕され、2万8000人が殺害されている。このことは著者の『墓標なき草原』(岩波書店、第14回司馬遼太郎賞)に詳しい。

現在では内モンゴルに多くの工業都市が建設され、鉄鋼業やレアアースの産地となっている。著者の一家が暮らしていた草原でもガス田が発見されて掘削され、たくさんの家畜がガス田の垂れ流す汚水を飲んで死んでいった。2008年、著者の両親は140年暮らした草原を離れフフホト市に移り住んだ。漢人の入植は続き、今ではモンゴル人の8倍以上になっているという。モンゴル人は自治区内でも少数派になった。漢人は資金力に物をいわせ草原の使用権を買い取って広大な農場を経営し、モンゴル人が安い労働力として働いている。

話をユーラシア世界に戻せば、ソ連が崩壊したことによって中央ユーラシアのテュルク系諸民族は独立することになった。「ユーラシア世界で、自主独立権を喪失し、代々住み慣れた草原を他人に奪われたのは、内モンゴルのモンゴル人と東トルキスタンのウイグル人、それに世界の屋根に暮らすチベット人だけとなったのである」

著者はこの中央ユーラシアの未来について、二つの視点を提供している。一つは、モンゴル人の遊牧民としての広大なネットワーク。現在、モンゴル人が暮らすのはモンゴル国を中心に、南は中国の内モンゴル自治区、北はロシアのブリヤート自治共和国(シベリア東部)、カルムイク自治共和国(カスピ海北西岸)にまたがる。国家を超えるこうしたネットワークは、現実性や具体性はともかく、ユーラシアを横断する「大モンゴル国再建の思想」ともつながってくる。

いまひとつは、「チベット仏教文化圏」。チベット仏教は本家チベットだけでなく、かつてモンゴルや清朝がチベット仏教を受容した結果として、モンゴル国、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区の一部、旧満洲、シベリア南部に広がっている。信者数は3000万人ほどだが地域的な広がりが大きく、民族問題が先鋭化している地域でもある。中国がチベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマの動向に神経質なのは、「チベット仏教文化圏は、分離独立につながる危険な民族地政学圏にあたる」からでもある。

こうやって内モンゴル自治区がたどった道をおさらいして、モンゴルとモンゴル人について知っていることがあまりに少ないのに我ながら驚く。それは大方の日本人も同じだろう。「内モンゴル」「外モンゴル」という呼び方自体(本書では「南モンゴル」「北モンゴル」と併用)、これは中国から見た表現であり、日本人は漢籍や中国を通してモンゴルを見てきたのだと著者は指摘している。後書きには「旧植民地の人びとが何を考え、どんな状況下にあるのかを宗主国の市民に伝えようとして、本書は書かれた」とある。そして「内モンゴル人は過去も現在も、そして将来も決して『中華民族の一員』ではない」と結ばれる。

強烈な民族意識と、それを地球規模で俯瞰してみせる姿勢に貫かれた一書。モンゴルやモンゴル人といえば、今もシルクロードとかチンギス・ハーンとか満洲の広野とか、自らの夢やロマンを託す対象であることがつづいているけれど、そうではなくリアルな眼で裸の現実を見ることを教えてくれる。それが著者の言うように旧宗主国の市民としての義務でもあるだろう。(山崎幸雄)

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2020年8月17日 (月)

「ウェブスター辞典あるいは英語をめぐる冒険」コーリー・スタンパー

コーリー・スタンパー 著
左右社(360p)2020.04.13
2,970円

著者のコーリー・スタンパーはアメリカの伝統的な辞書出版社であるウェブスター社で辞書編纂者として活躍してきた言語学の専門家である。本書は知ることの少ない辞書編纂者の仕事の内容を楽しさや苦労話とともに紹介しつつ、言語としての英語固有の世界を書き綴っている。その説得力の源泉は、彼女の体験からの説明と言葉に関する小ネタ(トリビア)を示すことでこの特殊な世界を感情豊かに伝えているところにある。我々の家庭には何種類かの辞書が有る。しかし、身近な辞書という書籍がどう作られているのかはあまり知られていないというのが本書を読んでも良く判るはずだ。

著者は当初医師を目指ししていたものの、進路を文学に変えて大学卒業。ウェブスター社の辞書編纂者の求人に応募したという。その求人条件とは、正式に認可された大学で学部を問わず学位を受けていること、英語が母語話者であることの二点で、スペシャリストとしての辞書編纂者として仕事を始めて、専門職としての教育や実践で遭遇した色々な課題、語釈の書き方、用例の探索、文法上の解釈議論、読者からの質問への返信対応などが詳細・厳密に語られているところが辞書編纂者らしいところ。

英語を他言語と比較しながら、その歴史や特徴が語られているのは興味深く読んだ。

15世紀まではイギリスの公文書はラテン語かフランス語で書かれていたが、16世紀にヘンリー5世が突然英語を公用語に定めたのもイギリスの国家としての自信の確立だったのだろうし、印刷機の出現が言語の標準化の推進に寄与したことも忘れてはいけない視点だ。

一方、識字率の向上とともに「正しい文法」が自国語を話す人のために作られ、コミュニケーションの質だけでなく、礼儀作法を補強するものとして存在した。しかし辞書編纂者としての著者は「文法」として成文化されてきたルールを支えているのはあくまで「理想」であって、「現実」ではないという意見。別の言い方をすれば、辞書が扱う「文法」は「正しい文法」ではなく「使われている文法」ということだ。

従って辞書編纂者は本、広告、新聞、個人の手紙など、広範囲に事例を集めてくる。黙々と資料を読み続ける姿から「8時間座って本を読むという退屈な仕事」と表現しているほど。

広範な資料からメモをとり、用紙に書き写して、語釈や引用のネタを集めて行くという辞書作成プロセスは18世紀のサミュエル・ジョンソンが「英語辞典」で初めてやり始めた手法だという。この方法は以降の全ての辞書の制作現場で採用されていった。しかし、現代はコンピューター用語、科学技術用語、医学用語など先端的領域では続々と新しい言葉が生まれ続けているし、インターネット上には語源さえ定かでない言葉があふれている。同時に、言葉は時代の変化で語源とは異なった意味で再定義されたり、使う人によって受け止め方が変わるといった状況が多くなっているだけに、こうした手法が今後とも編纂作業の中核たりうるのかはいささか疑問がある。

「American Dream」という言葉が最初に使われたという文章を紹介しながら、そこで使われている意味を聞かされると、また違った感慨がこみ上げてくる。そして著者は言語体系を川に例えて「それはひとつの流れに見えても、川は数多くの独立した流れから出来ていて、その一つでも変わったなら生態系から水流まで全体に変化が及ぶ。そして、川はどこにでも望むところに向かって流れて行く」とその壮大さを表現している。

標準と非標準という視点で、「Nuclear(核)・ニュークリア」という言葉の発音からの人物評価が紹介されている。それはジョージ.W.ブッシュ元米国大統領がこの言葉を「ヌーキャラー」と発音することで、彼は「無教養な南部の白人男」と烙印が押されたという。しかし、こうした非標準発音だけでなく、使用する言葉自体が時代と共に人種差別や性差別の波に晒されている。「Nude(肌色)」という色彩の言葉に内在している人種差別問題、「Marrige」と言う言葉の語釈として同性婚を認めつつある現代ではどう記載すべきなのか等、時代とともに言葉は意味を変えていくという特性には注意が必要なのだろう。こうした変化は英語が母国語でない日本人にとってなかなか判りづらい部分である。

外資系会社での体験で言うと、海外出張して公式の講演スピーチをするときには言語表現に気を使っていたと思う。特にインターネットの時代では、一過性の形で各国の社員がそのスピーチを聞くというだけでなく、何か月もその映像音声が社内のHPで開示され続ける。従って、色々な文化の人達がその言葉を聞いて少なくともネガティブに捉えられないようにしなければならないのだが、私には充分な英語表現力が有るわけではない。止む無く、内容を原稿にして、NYの本社でスタッフ(アメリカ人とフランス人)にこの言葉づかいから、宗教的・文化的に避けるべき言い方になっていないか見てほしいと言って渡した。翌朝、彼らからの答えは「日本人らしい英語でいいんじゃないか!」というものだった。そうか、「上手い英語」ではなく「日本人らしい英語」なのかと微妙な感覚を覚えたことが有った。

「辞書の改訂版で例文が断片的で違和感を感じるとすると、それは印刷時代の遺物である。活字印刷では一字でも増えれば頁を跨ぐことになるため、それを避けるために改訂版では新語を加えると同時に既掲載語の文例などから無理に文字を削ることがある。その結果である」という著者の指摘が目についた。

その文章を読みながら、私は50年以上前、学生時代に岩波国語辞典第二版の制作時にバイトをしたことを思い出していた。第二版が出版されたのは1971年1月で、私がバイトをしたのは1968年だが、新しく取り入れる言葉の語釈と引用について編集者のメモから原稿用紙に清書し字数を確定したり、採用候補の言葉の語釈を他社の辞書で確認したりしていた。当時は活字印刷だったので、新しい言葉の行数、字数の調整とともに既掲載の言葉の字数調整をして頁単位、折丁単位の版組影響を最適化するのが編集者の腕の見せ所であったと思う。しかし、そうした熟練の技も1970年代半から導入されて来たコンピューター写植システムでは、改ページなど気にせず注記も思いのまま増やすことが出来ることから、編纂者のスキルも変化していった。

また、このバイトの経験から、社会人になっても役に立つことがあった。それは岩波の編集部の人から岩波国語辞典の語釈の特徴として教わったのが、「この辞書は世界で初めて右と左の絶対定義をしている」というものだった。「舟を編む」でも紹介されていた様だが、それは「右 : この辞書を開いて読むとき、偶数ページのある側」というもの。編集者の得意気な顔を見ながら、学生の私は「右も左も判らずに辞書を引く人間に、奇数や偶数は判らないだろう」と思ったが口には出さずに我慢した。ただ、同時に「プロの仕事では、素人には判らないだろうがプロはここまでやるんだという、数%かの自己満足(遊び)が仕組まれている」という理解をした。「数%の遊び感覚」の必要性は、その後の私の仕事の指針の一つになった。

思えば、言語と辞書という二つの領域は私にとって多くの思い出を含んでいる領域であった。懐かしさと苦労がふと蘇ってくる読書になった。内池正名)

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2008年11月 4日 (火)

「『美しい』ってなんだろう?」 森村泰昌

Utukusii 森村泰昌著
講談社(?p)2002.11.20

1,575円

森村泰昌を一言で語ることは難しい。ある種の芸術領域のリーダーだと思うが、他に比較対象がないだけに、その森村による「中学生以上の全ての人」向けの美術指導書というコンセプトが想像しがたいというのが本書を手にしたときの実感。 理 論社から出版されている「よりみちパンセ」というシリーズの中の一冊である。小学生四年生以上で学ぶ漢字にはすべてルビが振ってあるので、小学校高学年か らの読者を想定しているようだが、内容は大人も十分楽しめる。このシリーズでは小倉千加子の「オンナらしさ入門(笑)」や森達也の「世界を信じるためのメ ソッド、ぼくらの時代のメディア・リタラシー」等。手にしたくなるような既刊が並んでいる。

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2008年11月 3日 (月)

「運命の一瞬!」 おもしろ世紀末総研

Unmei おもしろ世紀末総研 編
青春出版社(250p)1998.3.1
476 円

一瞬でまとめた数々の逸話
これも多くの渉猟を経て作られた書。シンクロニシティ(共時性、意味ある偶然の一致現象)にあまり拘らずに、人々のでくわした様々を一挙収録、それでも 他書と同一部分が多いので、それ以外といくらかユニークな所を・・・。表題の「運命の一瞬」は統一題で、すべて「・・・一瞬」でまとめられて全6章立て。

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