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「玉音」放送の歴史学/気候変動と「日本人」20万年史/金閣を焼かなければならぬ/キトラ・ボックス/騎士団長殺し/境界の発見/金融史の真実/[銀河鉄道の夜]フィールド・ノート/記者たちの関西事件史/きことわ、苦役列車/菊とポケモン/木村伊兵衛のパリ/9条どうでしょう/キメラ ――満洲国の肖像/旧石器時代の型式学/霧のむこうに住みたい/北朝鮮に消えた友と私の物語

2023年11月16日 (木)

「よこまち余話」木内 昇




木内 昇 著
中公文庫(320p)2019.05.25
726円

木内昇(のぼり)という名前は書籍広告でときどき見ていた。タイトルからして、時代小説の新しい書き手のひとりなんだろうな、と思っていた。このところ時代小説からは興味が遠ざかっている。そんなとき、読み手として信頼する友人から「『よこまち余話』を読んだ?」と、この本を勧められた。

不思議な読書体験だったなあ。確かに過去を題材にしているけれど、ジャンル小説としての時代ものとは違う。エンタテインメントではないし、かといってシリアスな小説でもない。そういうジャンル分けで言えば、幻想小説やSFのような要素もあわせもっている。でもそれらのどこにも属さず、それらの間(あわい)にひっそりと佇んでいる。そのひっそりした気配が外側のジャンルだけでなく内側の小説世界、言葉のすみずみにまで立ち込めているのが素敵だ。

話は17編の短編からなっている。時代も場所も、しかとは分からない。時は明治の末から大正あたり(文中に、新しく人造絹糸ができたとある)。場所は東京。ひとつだけ現実にある地名として「弥生坂」が出てくるから、本郷か根津あたりだろうか。狭い路地の両側に立つ十二軒の長屋が舞台。路地の一方の端から石段を上ると天神様の社(やしろ)があり、もう一方の端はお屋敷の土塀に突き当たり、塀沿いに歩くと表通りに出る。

長屋の一軒に住む魚屋の息子、家業を継いだ十代の浩一と小学生の浩三の兄弟が狂言回し。長屋の端には、三十代半ばで楚々としたお針子の齣江(こまえ)がひとり暮らしで、向かいにはトメさんというおしゃべりでおせっかいな老婆がやはりひとりで住んでいる。トメさんはいつも齣江のところに入り浸っている。糸屋が注文された刺繍糸を齣江のところに届けたり、魚屋のおかみさんが齣江のもとに愚痴を言いにきたり、なんだか落語の人情噺か寅さん映画のような、小さな出来事がつづく日々の暮らしで小説は幕を開ける。そのまま短篇がいくつか進行する。

これは世話物の世界なのかと思っていると音無坂を歩く浩三の、道に落ちた自分の影が、いきなり浩三に話しかける。「おまえには、ゲンジツだけだな」。「しかし中には知らんほうがいいことだってあるんだぜ。突き詰めると、酷(むご)いだけだ」。でも、その一篇ではその後なにも起こらない。

次の一篇。兄の浩一がトメさんの長屋へ頼みごとにいくと、婆さんは留守。ふっと部屋に上がり開いた押し入れを見ると、押し入れの壁に小さな丸窓が開いている。窓の向こうの座敷に日本髪で白粉を塗った若い女人がいて、大きな目で浩一を睨んでいる。浩一は鳥肌が立ち、恐怖にかられて悲鳴を上げる。「兄ちゃん、なにしてんだよ」。弟の声で浩一は我に返る。午後、齣江の長屋に入り浸っている浩三は齣江に聞く。「『あのさぁ。トメさんはここじゃ一番古くからいるんだろう? …どっから来たのか、知ってる?…』」。齣江の答えはない。「『じゃあさ……齣さんはどっから来たんだい?』しばらく待ったが答えはなかった」。夜。トメさんは花見のために仕立てた小袖に手を通して、押し入れの丸窓の向こうに呟く。「『久方ぶりに仕立ててみたんだ。もっともあんたの頃のようにはいかないけど』」。窓の向こうの若い芸者は微笑んでいる。「『今年は花を見に行くよ。もうそろそろ、散る様も楽しめるよう腹を括らないといけないからね』」。

「雨降らし」の一篇では、正体不明の男が路地に現われ一軒一軒の門口で鈴を鳴らして店賃を集めていく。男が現れると必ず雨が降るので、長屋の住人は男を「雨降らし」と呼んでいる。同じ短篇のなか、天神様の境内で演じられる薪能で、浩三はシテの周りに同じ装束を着た何人ものシテが舞っている幻を見る。舞が終わると、周りにいたシテはシャボン玉のように弾けて消えてしまう。「音のしない花火にも似た、鮮やかで儚い光景だった」。現実に戻った浩三が周囲を眺めると、トメさんは足ばやに長屋に戻ろうとし、齣江は涙を拭いている。浩三が齣江に声をかけようとしたとき、「『やめておけ』と、影に遮られた。…『ここに集った誰のことも、放っておいてやるんだ』」。

小説のなかで、ときどき『花伝書』の言葉が引用される。『花伝書』を書いた世阿弥が完成させた能の形式に夢幻能がある。夢幻能の主役(シテ)は、現実に生きている人間ではなく、死んだ男や女の霊。霊であるシテと現実の人間(ワキ)の対話で舞台がなりたっている。小説のなかでは天神様の境内で能が演じられるが、どうやら長屋のある路地そのものが夢幻能の舞台であるらしい。SFふうに言えば、路地では彼岸と此岸の空間と時間がねじれて接しており、その通路がどうやら長屋の押し入れにある、らしい。路地には人間と彼岸の存在が一緒に住んでいる、らしい。正体不明の雨降らしは彼岸と此岸が接する場所の管理人である、らしい。

むろん、作者はそんなことは一言も説明しない。明治の東京の小さな路地のささやかな日常と、そのなかに現われる一瞬の幻を淡々と描写しているだけだ。路地に響くいろんな音や、空気の湿り具合や、石段脇の銀杏の繁りに囲まれて、中学校へ進学したいという浩三の願いや、齣江へのほのかな少年らしい思慕がいとおしい。齣江も浩三を「浩ちゃん」と呼んで可愛がる。

小説の後半になって、ひとりの男性が登場してくる。中学校に進学した浩三の先輩である遠野さん。浩三が仲良くなった遠野さんを路地へ連れてくると、雨降らしもいる。長屋から顔を出した齣江が浩三と一緒にいる遠野さんを見る。「『あ……』齣江がなにかを云った。口は動いていたが、言葉は聞こえない。うまく声にならなかったのかもしれない。息を整え、今一度口を開こうとした。そのとき、雨降らしが彼女の腕を強く掴んだのだ。そうして耳元で囁いた。『そこから先は、御法度です』」。

次の一篇で浩三はトメさんから、天神様の能に遠野さんを連れてくるよう命じられる。自分の影が浩三に語りかける。「『能には行っても、彼らに踏み込んじゃあ駄目だ』『彼岸の世界に関われば、酷いことになる』」。能が始まる直前、トメさんは浩三を外へ連れ出して齣江と遠野さんをふたりきりにする。その翌日、トメさんは長屋から姿を消した。トメさんという老婆がいたことを、長屋の誰もが覚えていない。

これ以上書くとネタバレになってしまうので、このへんでやめよう。といって、この小説は最後まで読めばすべてをきれいに説明してくれるわけではない。逆に、読み終わってもわからないことだらけと言ってもいい。説明しないことで物語に余韻をもたせ、読者にあれこれ想像させる。

やがて来る未来で、齣江と遠野さんはどうやら結婚して幸せな日々を送ったらしい。でもそれなら、齣江が彼岸から路地へと姿を見せたのはなぜなのか。さまざまに想像できるけれど、いずれにせよ「死」が介在していることは確かだろう。それがどのようなものであったかは、作者はかすかな手がかりさえ与えてくれない。

ただ全編が柔らかな日本語で書かれたこの小説のなかで、「国力」とか「時世」といったいかめしい漢語が数カ所だけ出てくる。そうした漢語が気になるのは、現在に生きるわれわれはその後のこの国の歩みを知っているからだろう。ただ、そういった時代の流れはまだこの小説のなかに押し寄せていない。今の読者から見れば束の間の、あたたかい陽だまりのようなこの路地の空気と長屋から聞こえてくる「浩ちゃん」の呼びかけに、しばし耳を澄ませていたい。(山崎幸雄)

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2023年9月15日 (金)

「『玉音』放送の歴史学」岩田重則

岩田重則 著
青土社(300p)2023.06.26
2,640円

毎年のことだが、8月に入ると過去を振り返り、広島・長崎の原爆被災や空襲・引揚などの記事が新聞の紙面を埋める。その悲惨さを再認識するとともに、太平洋戦争の開戦から終戦に至るまでの国家の責任について考えさせられる。本書の冒頭で、太平洋戦争終結は明治維新と現在(2023年)の中間点となると書かれてい、その表現に少し違和感を覚えた。何代かの祖先から両親・自分へと生き継いできたその時代で、各々が様々な思い出を積み上げて時間を過ごしてきた。しかし、戦後生まれの私としては明治の一年と戦後の一年を同じ時間意識で振り返ることは難しいことに気付かされたということだろう。

著者の岩田重則は1961年生まれ。祭祀、火葬、墓制といった視点からの民俗学の研究者である。本書は明治から現代までの時間軸の中で「玉音放送」に焦点を当てて昭和20年8月15日の終戦は何だったのかを再確認するための一冊である。今までも多くが語られて来たが、戦中の歴史は事実もあれば情報の操作で生まれた誤解もある。本書では民俗学の手法でもあるフィールド・ワーク的に、内閣情報局をはじめとした軍官の文書、全国の新聞をはじめとしたメディアの報道記事比較、入江相政、木戸幸一など政治・宮中に係わった人々の日記にはじまり、作家や庶民の日記などを引用しながら、事実の断片を集めて歴史の隙間を埋めて行くことで8月15日の全貌を描き出している

「玉音放送」とは、大日本帝国憲法で規定された天皇の大権で、戦争終結を「聖断」し、それを公文書「詔書」を公布、臣民(国民)に向けて「命令」するという昭和天皇の権力発動だった。しかし、多くの日本国民は「聖断」と「玉音放送」を権力発動だという受け止め方ではなく、逆に天皇による恩恵であるかのような「共同幻想」が国民の中に生まれていたと著者は指摘している。この原因を君主制における「権威」の存在としている。日本で言えば「万世一系」「三種の神器」といった根拠によって天皇の「権威」は創出されている。明治維新前から徳川側と薩長側はともに天皇の「権威」を掌握することが権力奪取の必要条件であると理解していた。その「権威」を大日本帝国憲法で「天皇は万世一系の統治権を持ち、国・国民を統治する」と成文化するとともに、「無答責」として法的に天皇は問責されることは無いとされていて、「神聖」と表裏一体の考え方で成り立っている。しかし、戦争を開始することも終結させることも天皇の大権であることから、その責任とは何なのかについて戦後語られて来た歴史も忘れてはいけないと思う。

太平洋戦争も開戦から2年半が過ぎ、転換点となった1944年のサイパン陥落(7月7日)、東条内閣総辞職(7月18日)、グァム島玉砕(8月21日)と続く中で戦争終結派が徐々に形成されていったと著者は見ている。その一人であった近衛文麿元総理の日記では「速やかに停戦すべしというのは、ただただ国体護持のためなり。昭和天皇は最悪の場合、退位だけでなく、連合艦隊の旗艦に召され、艦と共に戦死いただくのが我が国体の護持」とまで語っている。また、東久邇宮は「東条に最後まで責任をとらせる方が良い。そのためにも総辞職させない」と述べているのを読むと、国体護持と戦争責任論が戦争終結派のなかで渦巻いていたのが良く判る。

1945年となり、本土空襲など戦局が追い詰められて行く中、昭和天皇は1945年6月22日に東郷外相との面談記録の中で「速やかに戦争を終結させる」と発言したとされる。これが「終戦」についての天皇の初めての言葉のようだ。以後終戦までの2ヶ月を時系列で見ると、7月26日に連合国からポツダム宣言が発せられ、8月6日広島に原子爆弾が投下される。軍は即日、物理学者の仁科芳雄を広島に派遣し原子爆弾であることを確認しているが、内閣情報局は8月7日午後に朝日、毎日、読売や同盟などのマスコミ各社を集めて「今までの爆弾とは違うようだが情報が無いので通常の都市爆撃として報道する様に」と指示している。

8月9日長崎への原爆投下。同日最高戦争指導会議が開催され、鈴木総理大臣が国体護持を条件としてポツダム宣言受諾を提案したものの、阿南陸軍大臣が反対したため合意に達せず、昭和天皇は「米英軍に対して勝算なし」としてポツダム宣言受諾を聖断した。8月10日は「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下・・」という微妙な言い回しをした受諾文を連合国に伝える。対して国内では「徐々に国民をポツダム宣言受諾に誘導する」という戦術でボツダム宣言を伝えることは無かった。

8月12日に連合国側から返答があり、その中で国体に関しては「占領解除後の国家形態は日本国民の決定による」と言うものだった。これを前提に、8月14日天皇が召集した最高戦争指導会議+閣議で昭和天皇は「戦争継続は無理。国体については疑義もあるが、この回答文を通して先方は相当好意を持っていると解釈する」として受諾を聖断する。

8月14日午後11時に受諾詔書は公布され、同時に外務省から連合国に英文の通知文として送付されている。国内向けの詔書の骨子は「開戦は自衛のためであり、アメリカが原子爆弾を使用し日本国民だけでなく世界文明の破壊が予想される、歴代天皇に謝する術もないことから、国体護持のもとポツダム宣言を受諾する」というもので国民や戦没者に対する謝罪も天皇としての責任にも言及することは無かった。一方、連合国向けの英文には「原子爆弾」と「国体護持」に関する記載はなく、ポツダム宣言をそのまま受諾して武装解除と戦争終結文書に調印することを約束している。こうした二重規範の中で「玉音放送」が実施される。

玉音放送は14日午後11時25分から宮内庁で録音され、翌15日正午から放送された。そして予定通り放送終了後、街頭で新聞は販売され「8月15日の宮城前で御詔勅を拝し、陛下お許し下さいませ。我ら足りませんでした」という同文の記事が複数の新聞に掲載されていることからも、情報局からの情報管理・原稿提示があったことが判る。そして、このシナリオの締めくくりは、8月16日発足の東久邇内閣による所信表明演説であった。その中で「陛下に対し奉り、誠に申し訳なき次第」と昭和天皇への懺悔を繰り返した。そして、戦争終結に至った「責任」について記者から問われると、敗因にすり替えて「戦力の急激な低下・原子爆弾の出現・ソ連の参戦・国民道徳の低下」を挙げている。権力と責任を隠し、権威を前面に出して「一億総懺悔」を語っている。「国体護持」プロパガンダの最終稿である。

本書を読んで、私なりに気になった点を取り上げてみると、

1点目は、昭和天皇独白録の中で、8月12日の皇族会議で朝香宮が天皇に「国体護持が出来なければ戦争を継続するのか」と質問したところ、「私(天皇)は勿論だと答えた」と記されている点である。戦争終結の聖断は国体護持の為であり、国体護持が連合国から認められなければ本土決戦も辞せずとの決意だ。国民の生命を守る為でも、平和のためでもないと言い切っている。

2点目は、御前会議・最高戦争指導会議のあり方である。支那事変期(1938年)から太平洋戦争終結までの8年間で15回開催されている中で、天皇の発言があった会議はたった2回である。加えて、最後の会議(8月14日)だけが天皇による召集で、残り14回は大本営・内閣の召集である。御前会議とはまさに担がれた権威によって運営されていたことが判る。

3点目は、広島原爆被爆者の原民喜が玉音放送を聴いた感想として「もう少し早く戦争が終わってくれていたら」と語っているのが心に刺さる。7月26日のポツダム宣言に対して、その受諾を連合国に通知したのは8月10日。広島への原子爆弾投下の5日後の事である。あと一週間早く聖断してくれていたら、20万人の命が奪われることはなかった。

著者はいろいろな事実を二者択一的な正誤と解釈するよりも、そうした事象を歴史の記憶として留める意味を語っている。確かに、今だからこそ多くの断片的な情報も集めて俯瞰することが出来る。その時点では全てを見て考え、行動出来る訳ではない。加えて情報も時として事実であるかのように無差別に流れて来る。それは現在の我々が直面している状況と同様かも知れない。ポツダム中尉で終えた親父に「玉音放送」をどう受けとめたのかを聞いてみたかったと今更ながらに思う、そんな個人の無力感もある8月という季節だ。(内池正名)

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2022年6月19日 (日)

「気候変動と『日本人』20万年史」川幡穂高

川幡穂高  著
岩波書店(227p)2022.04.15
2,200円

著者は地質学を学び、東京大学大気海洋研究所の所長などを歴任。現代の炭素循環に関する知見を古気候学や古環境学に生かしながら、水環境を含めた地球表層環境の進化と人間社会への影響を研究している。本書の骨格となっている日本の2万年間の気温復元もこうした研究の成果。

現代(1950年代~)を「アントロポセン(人新世)」と呼ぶことが近年提唱されている。過去46億年の間は気候変動が人間社会に影響を与えてきた。しかし、この「人新世」では人類が気候変動、環境破壊、生態系の変化等を引き起こす主役になった時代ゆえの命名らしい。本書ではそうした現代からの目線で、過去の気候変動と社会変化の関連を分析している。特に、縄文時代初期からの2万年間に絞っては、各種データから気温復元を行い、この間に10回の大規模な寒冷期があったことを明らかにし、その時代の社会現象との関連を示している。記載も詳細で、学生時代に習い覚えた歴史年代もいささか朧げで、年表をひっくり返して時代確認をしながらの読書となった。言訳的ではあるが、年代記載形式も「XXXX年前」と「紀元前X世紀」といった多様さも読み手からすると難しくしていたと思う。

ホモサピエンスの最古化石は19万5千年前のものだが、これが本書のタイトルの「20万年」に対応する。「巨大な脳を持ち」、「二足歩行する」新人類のホモサピエンス(知恵のある人)は旧人のネアンデルタール人と共存しながらも、気候変動の中で生き延びた。日本にホモサピエンスが到達したのは対馬ルートで4万5千年前頃という。

狩猟採集時代は居住地周辺に食料を求め、食べ尽すと居住地を移動していったが、農耕を行うようになると、定住生活をして、さらに交易で離れた場所からも食料を調達するようになる。特に水稲栽培では寒冷化による収量低減が大きいことを考えると、気候変動の中で一番大きな影響は食糧不足であり、著者が指摘する人口の推移が重要な視点となる。

こうした変化の原因を探るために、気温を2万年に亘って復元している。東京湾や陸奥湾、広島湾などの堆積物試料を採取し分析、グリーンランドに残された氷の分析、樹木の酸素や水素同位分析から都市ごとの気温や降水量を復元している。また、人骨の同位体分析から当時の食事内容を推定、貝塚に残されている残存物の分析(貝の炭酸カルシュウムがアルカリ性のため土壌水が中和されて試料が保存されやすいという)等々、科学的分析が数多く紹介されているが、同時に分析機器の精度向上などもあり、過去の定説が書き変わっていく時代でもある様だ。

日本の2万年の気温復元による10の寒冷期の特徴と時代状況の中で興味を惹かれた点を以下の通りまとめてみた。

第一寒冷期は縄文文化が始まった時代。そして約1万数千年の間で徐々に温暖化してゆき、石鏃や縄文土器など、狩猟生活の画期的な技術革新をもたらした。縄文土器は煮炊き用に使われたことから、食料の殺菌や利用食材の拡大など縄文人の健康に大きく貢献した。縄文人の寿命は15才まで生きた人の平均余命は男で16.1年、女は16.3年と推計数字が紹介されている。現代より50年短い寿命のようだ。

第二寒冷期は「8200年前のイベント」と言われている。グリーンランドの氷の分析から地球規模で気温が3.3度下落した時期で、北海道ではサハリン系の石刃鏃などの石器群が出現していて、石器の精密度が大きく進化している。

第三・第四の寒冷期は「4200年前のイベント」と呼ばれている時期で、三内丸山集落の開始と崩壊に対応する。もともと縄文人は少数で狩猟生活をして居場所を転々としてきた、しかし三内丸山に見られるように、移動生活を捨てて1000年以上に亘って、定住の地で熟練した技術を持ち、交易をし、森の管理をする生活を継続させていた。採取農業から「半栽培」農業が開始されていることから、新しい縄文の農業が見えて来る。陸奥湾の堆積物解析によると、栗の「半栽培」が行われていたことも判っている。堆積物の中の栗やアカガシの花粉の量から判断して、自然の森林の栗の比率を大きく超えていることや、栗花粉の遺伝子の多様性が極端に少ないことなど、三内丸山の人達は栗林を里山の様に管理しながら収穫していたと考えている。そして地球規模で寒冷化した「4200年前イベント」の影響を受けて、この地は放棄され、少人数に分散して移住生活にもどったと著者は見ている。その後、この地に人が戻って来たのは実に3000年後の平安時代だった。

第五寒冷期は紀元前10世紀の弥生文化前期で、日本の水稲栽培の開始時期でもある。佐賀県菜畑遺跡出土の弥生式土器に付着した炭化米の放射性炭素年代が紀元前10世紀のものとされ、それまで教科書では弥生文化の開始年代を紀元前4~5世紀とされていたものが、訂正されている。

第六寒冷期は弥生中期で環濠集落に住み、共同生活をおこない社会の階層化が進んだ時代大陸からの移住の増加とともに、鉄器は紀元前4世紀頃日本にもたらされた。この頃は寒冷期のピークで争いも多発した。日本の吉野ケ里遺跡などのように防御施設に守られた集落へと変化して行く。鉄器は銅、青銅に比べて強度があることから、狩猟道具や農耕道具として生産効率を上げてきた。一方、この頃の人骨は受傷人骨が多く出土していることから、対人の武器として鉄器が所持され始めた時期でもあった。

第七寒冷期は古墳時代への移行期で世界的にも181年のタウポ火山の噴火によって地球規模で異常気象が多発して寒冷化が進んだ。日本書紀にある倭国の大乱も2世紀後半に発生しているが飢饉による社会不安がトリガーになったといわれている。

その後は倭国が統一国家を形成して行く時代となり、比較的温暖な期間となる。古墳造営が多く行われたが、大仙陵古墳は16年間、2000人が専従し、1万5千個の埴輪が作られるという巨大国家プロジェクトで、漢人の知恵と鉄製道具、製陶技術が必須であった。

第八の寒冷期は古墳時代から飛鳥時代の貴族政治へ移行していく。隋や唐による朝鮮半島侵攻により混乱し、百済などから多くの移民が流入した。その後、飛鳥から奈良時代は温暖化して、農業生産も増大し、律令制度が定着して行く。しかし、平城京(710年)の建設など、この時代は初めて都市型の環境汚染が始まったとされる。土壌に含まれる土器片から鉛汚染の状況分析結果が紹介されている。奈良時代後期(8世紀後期)では1200PPM以上という高い鉛濃度を示している。これは飛鳥時代の100倍で、現在の環境基準値をも上回っている。平城京の建物は朱に塗装されていて、その原料に辰砂(硫化水銀)が使われていたことが原因である。また、この時期には奈良県の木材は切り尽くされ、建物建造のための木材は兵庫県から運ばれている事実からも環境への影響も大きかったことが判る。

第九の寒冷期は平安末期。平安初期(820年頃)は過去3000年間での最温暖期で、当時の代表的な構造物である寝殿造は壁もなく、部屋の仕切りはすだれ、床は板敷、冬でさえ素足で暮らしていたという。しかし、徐々に寒冷化が進み、人口も750万人から平安後期には700万人、鎌倉時代に600万人と減少して行った。これらの時代は「自然災害の発生は、為政者の不徳の為す所」という考えがあり、こうした気候変動は政変に繋がって行った。

第十の寒冷期は江戸の武家社会が近代へ移行する時代。特に18世紀末から19世紀にかけて、天明・天保の大飢饉が発生し、人口は各々100万人減少し、幕府は対応出来ず社会転換を促したとされる。ちなみに、天保の夏の気温は過去3000年間で最も低かったと分析されている。

平均気温が1~2度下がり、数十年継続する気候を「極端な寒冷期」と呼んでいるが、この気候状況が旧体制を崩壊させ新体制の導入の原動力となり、不可逆的な変化を起こすと考えている。日本における2万年間の10の寒冷期の内、この「極端な寒冷期」は平安末期の貴族政治から武家政治に変化したことと、江戸末期の武家政治から近代国家への変革期となった二つの時期。

他の8つの寒冷期について、「気候変化は社会を直接支配する」ということよりも「食料確保や生業といった人間社会に作用して、技術革新や移住を介して人間社会に働きかけている」という前向きにとらえている。ただ、現代は「極端な気候変動の温暖化版」と捉えていて、「20万年前にホモサピエンスがアフリカで誕生し、自らの知恵で文明を発展させてきたが、現代こそ「知恵のある人=ホモサピエンス」を我々が実践することを求めている」という著者の言葉は「提言」というより「期待」ということだろう。

本書では、多くの視点からの分析や推論がパズルのように語られていく。理解力を駆使しつつも、自分なりの知的刺激が得られればそれで良し、といった開き直りが必要な読書だった。(内池正名)

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2021年1月17日 (日)

「金閣を焼かなければならぬ」内海 健

内海 健 著
河出書房新社(228p)2020.06.20
2,640円

タイトルの「金閣を焼かなければならぬ」とは、小説『金閣寺』のなかで、主人公溝口が苦悩と彷徨の果てに「突然私にうかんで来た想念」として三島由紀夫が書き記した言葉だ。本書には「林養賢と三島由紀夫」とサブタイトルがつけられている。林養賢は1950年に金閣に火を放った、この寺で修行する21歳の青年僧。三島は、事件に想を得てその6年後に『金閣寺』を発表した。

精神科医である著者は後書きで、医者になったあと『金閣寺』を読み返して「犯人は未発の分裂症であり、それ以外にはありえぬと直感した」と書く。後にこの事件を調べはじめて、判決が確定し服役した後に養賢が分裂病を発症したことを知る。以来、「この二人の男のことについて書き残さねば」と思い、それから二十数年後に本書が刊行された。

内海は『「分裂病」の消滅』『さまよえる自己』などの著書をもつ精神科の研究者で臨床医。現在は東京芸術大学の教授・保健管理センター長を務めている。だからこれは精神科医の目でもって林養賢が起こした事件と三島の小説を解読した、なんともスリリングな本になっている。なお分裂病は現在では統合失調症と呼ばれるが、内海は、分裂病と呼ばれた当時のこの病をとりまく雰囲気を肌で知ってもらうために、あえて分裂病の名を採用したと書いている。

本書の前半では、林養賢の内面と行動が追跡される。事件を起こすまで、養賢には犯行を予兆させるような言動はまったく見られなかった。が、関係者の証言によると、養賢はその1年ほど前から憂鬱にとらわれていた。知的青年が憂鬱にとらわれるのは近代社会で一般的な現象だが、症状が現れる前の分裂病の前駆期に見られることもあるという。また同時に周囲から性格が変わったように見られ、大学の成績が急降下したのも分裂症の前兆であり、これらのことから内海はこの時期の養賢が前駆期にあったのは間違いないと判断している。

分裂病の前駆期にある者がたどる一般的な経過は、「内包された狂気」が社会や他者といったフレームにぶつかって幻覚や妄想といった「症状」を呈し、そこではじめて分裂病と診断される。ところが、稀に特殊な状況や偶然の重なりによっていくつものフレームをすりぬけ、病気が顕在化する前に「狂気のポテンシャルは極大にまで充満し、不意にカタストロフへとなだれ込む」ことがある。その典型が自殺や殺人だが、そうした行為には動機がない。「徹底的に『無動機』である」と内海は記す。養賢もそうだった。

犯行後、養賢は放火した理由を問われて「無意味にやりました」と答えている。だが人は、ある行為にいたった原因や理由が明らかにされなければ心理的に納得しがたい(という病をもつ)。事件の因果関係を明らかにする起訴状は「美に対する嫉妬、美しい金閣と共に死にたかった」と養賢の陳述を記している。もっとも彼は、その動機も「本当といえば本当、本当でないといえば本当でない」と述べているのだが。

分裂病前駆期の養賢が示した「狂気のポテンシャル」について、内海はさらに「超越論的他者」「存在の励起」といった言葉を使って密かな病の進行を解読しているが、そこに分け入るとややこしくなるので、ここでは触れない。結論として内海は、日常的な意味の連鎖から切り離された養賢が、己のなかの自分ではない何者かから「何かをなさねばならぬ」という督促を受けて焦燥し、「動機や理由によって回収できないところに迷い出てしまった」結果が金閣への放火だったと書く。

一方、公判で明らかにされた「美に対する嫉妬」という言葉に恐らくインスパイアされたのが三島由紀夫だった。本書の後半では、小説『金閣寺』とそれを書いた三島の精神のあり方が解読される。

内海は、三島に生涯にわたって憑りついた宿痾は「離隔」だったと言う。平たく言えば現実感の希薄さ、日常的な現実に対し生きているリアリティを感じられないということだろう。多彩な現実を経験する前に言語表現を学び早熟な文学少年として出発した三島にとってリアリティは言語空間のなかにのみあり、現実は色褪せたものとしか映らなかった。

内海によれば、『金閣寺』は現実に対し「離隔」を感じて生きざるをえない主人公溝口が金閣放火という犯罪に至る道行を描いた、意識空間のなかの小説である。金閣はその「離隔」を象徴するものとして現れる。

三島は執筆に当たって事件の記録を丹念に調べ、起こった出来事は忠実に踏襲しているが、事を起こした養賢本人には思い入れや関心をほとんどもっていない。とはいえ、養賢も三島と共通する「離隔」を現実に対し感じていたから、「彼らが邂逅するポイントがあるとすれば、まずはそこになる」。その一点で二人は接近したのだが、養賢の内面に無関心だった三島の手になる主人公溝口の「離隔」は、現実の犯罪者・養賢のそれでなく作者・三島のものとなっている。

養賢の金閣放火が動機なき狂気の激発だったように、小説『金閣寺』においても動機は書かれていない。書かれているとすれば、貧困や怨恨といった対人的社会的なものでなく、意識内部で完結した動機である。三島を苦しめてきた「離隔」とは、内海によれば「ナルシシズム的宇宙に内包されている現実感の希薄さであり、その世界の外への通路が閉塞していることである」。その内的宇宙を内海は球体に見立て、「ナルシシズムの球体」と呼ぶ。「金閣はこの球体そのものである。その伽藍の中に溝口=三島は捉え込まれている」。その閉塞を突破するためには、「金閣を焼かなければならない」。

実際にはジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』やカフカの『審判』を引きながら、もっと精密な議論が展開されているけれど、大筋を取り出すとそういうことになる。そして内海はこう結論づける。「養賢が兇行のあと、うわごとのようにその行為を名指した『美への嫉妬』、三島はこの事後の表象から入り、兇行の真理に裏側から到達した」。「自分自身のナルシシズム的世界の究極を志向することにより、対極にいる養賢に、行為の一点で邂逅し、真実を穿ったのである」

小生は世に数多ある三島論や『金閣寺』論を読んだことがないので、内海のこの解読がこれまでの三島理解の中でどんな場所を占め、どのように評価されるのか、まったく分からない。でも内海の論が、連綿と積み重ねられた文学世界の三島評価でなく、その外の世界から来た視点と方法で書かれていることは確かだろう。といって小生、精神医学についても素人なので、その世界からの評価も分からないのだが。

内海は、分裂病という病に接するときは「メタフィジカルな感性とでもいうべきものが要請される」と書いている。常識的な意味での了解が及ばないところから患者に接しなければならないのだから、その言葉は理解できる。その「メタフィジカルな感性」は、分裂病を理解する鍵として「超越論的他者」「存在の励起」といった言葉を使っていることからもうかがえる。しかも、こうした言葉が単に学術的な概念でなく、深い専門知と長い経験が縒りあわさったものとして出されていることで、読む者に深い納得をもたらす。内海が「三島の妖刀のごとき筆の恐ろしさ」と書く、そのまごうかたなき傑作(本書に触発され40年ぶりに読み返した)の秘密を垣間見たと実感できる年末年始の読書だった。(山崎幸雄)

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2019年1月18日 (金)

「恐怖の男」ボブ・ウッドワード

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ボブ・ウッドワード 著
日本経済新聞出版社(536p)2018.11.30
2,376円

『恐怖の男(Fear:Trump in the White House)』を読んでいた去年12月、マティス米国防長官の辞任が報道された。シリアから米軍を撤収させる、とのトランプ大統領の決定に抗議し辞表を提出したという。追い打ちをかけるように、トランプはこれが事実上の解任であることを記者たちに明かした。ちょうどティラーソン国務長官がトランプを「あの男はものすごく知能が低い」と会議の席で発言し、やがて辞任していくくだりを読んでいたので、本の世界と現実が直につながった気分になった。

本書を読み終えての最初の感想は、「そして誰もいなくなった」。本書では主な登場人物がいっとき活躍したかと思うと次々に辞めていく。ティラーソンだけでなく、プリーバス大統領主席補佐官。バノン大統領首席戦略官。ポーター大統領秘書官。ヒックス広報部長。スパイサー報道官。フリンとマクマスター、二代の国家安全保障問題担当大統領補佐官。セッションズ司法長官。コーン国家経済会議(NEC)委員長。ブレナンとポンペオ、二代の中央情報局(CIA)長官。コミー連邦捜査局(FBI)長官。まだまだいる。

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2017年11月22日 (水)

「キトラ・ボックス」 池澤夏樹

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池澤夏樹 著
KADOKAWA(320p)2017.03.25
1,836円

個人的な読書の傾向でいえばそのほとんどがノンフィクションで、小説やミステリーを読むことはあまりない。著者の池澤に対しては文学者・詩人・小説家といった分野のイメージが強く、最近であれば、河出書房新社の世界文学全集に続いて日本文学全集30巻の個人責任編集を行っているが、そうした統合的・企画的な仕事の印象がある。彼は若い頃にはミステリーの翻訳も手掛けていたようだが、まずは池澤とミステリーという取り合わせに惹かれて本書を手にした。

実は、ミステリーを読むのは疲れるという実感がある。登場人物の数が小説に比べて多いし、その立場や関係をしっかり覚えていなければいけない。また、情景描写や会話表現の中に巧みな形で謎解きのヒントが隠されてることもあって、丁寧に読まないといけないのがなかなかのプレッシャーだ。別の言い方をすれば、ミステリーは読者の勝手な読み方を許容しない。作者の計画通りに結論に到達する必要があるからだ。丁度、何枚もの地図を繋げてチェック・ポイントを確認して目的地に到達するのに似ている。そうした意味では小説とミステリーは根本的な違いが有るのだろう。

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2017年4月25日 (火)

「騎士団長殺し」村上春樹

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村上春樹 著
新潮社(第1部512p、第2部544p)2017.02.25
各1,944円

『風の歌を聴け』以来、村上春樹の長編はほとんど読んできた。群像新人賞を受けたこの小説が刊行されたのが1979年だから、ざっと40年になる。なんでこんなに長いあいだ飽きずに読んでこられたんだろうと考えると、同世代としての共感がいちばん大きかったように思う。小生は1947年生まれ、村上は49年、いわゆる団塊の世代に属する。それぞれの生きた道筋は違っても、いろんなことを同時代的に体験し同じ空気を呼吸してきた。そのことで、言葉以前に通ずるものがある、ような気がする。

村上春樹の初期の小説に流れていたのは喪失感と、にもかかわらず日々はつづく、という感覚だったと思う。『風の歌を聴け』は、東京の大学に在籍しているらしい「僕」が神戸に近い海沿いの町に里帰りして、なじみのバーで友人やガールフレンドととりとめない日々を過ごす小説だった。アメリカ西海岸ふうな舞台装置と、アメリカ小説から抜け出てきたような洒落た会話が新鮮だった。でも仲のよい友人と親しく会話をかわす「僕」の心の底に、どうしようもなく喪失感が流れているように感じられた。

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2016年5月18日 (水)

「境界の発見」  齋藤正憲

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齋藤正憲 著
近代文藝社(190p)2015.12.15
1,620円

本書のサブタイトル「土器とアジアとほんの少しの妄想と」とあるように、広域アジア(最西端のエジプトから最東端の日本・インドネシアまで)における土器の製造技術を地域ごとに比較・検証するという、土器・陶器好きにとってはなかなか興味深い一冊である。ただ、土器といっても考古学的な研究成果を描いているのではなく、現在、アジア各地域の人々が製造・作成する日常品としての土器が対象である。フィールドワークを通して現地での調査を行っており、必然的にその地での生活に接していくことから、結果として、比較対象は土器を超えて文化や食にまで広がっていき、そこから紡ぎだされてくる広域のアジア観を「境界」と「辺境」という概念を導入して構成しようとするものだ。

今まで多くの学者・知識人たちが提示してきたアジア観も紹介しつつ、自説、著者の言い方を借りると「妄想」、を提示している。土器を探し求めて歩き回る中で著者は自身のアジア観が常に修正を求められてきたと書かれているのが印象深く、体験や実感によって理論を随時見直していくというフィールドワークの価値がそこに示されていると言える。

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2014年6月15日 (日)

「金融史の真実」倉都康行

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倉都康行 著
筑摩書房 (237p)2014.04.07
842円

マクロ経済に関する本を手にするのは久しぶりだ。35年間の現場での仕事、10年間の経営の立場を通して、管理すべき数値は売上高、営業利益、顧客満足度、他社比成長率といった極めてミクロ的な指標を追いかけてきたこともその原因。当然、景況感とか市場動向、為替といった常識的な範囲でのマクロ指標に関する目配りもしていたものの、現場感覚で言えば「営業利益」こそ、自らが作り出した価値という分かりやすい達成感が組織の一体感を醸成していた。金融機関や投資家の方々が、企業価値とは経常利益や純利益だと言われるのはもっともではあるが、働いている人間にとっては自分の汗の結果こそ実感の源泉であった。そんな評者に対して、金融界に長く身を置いていた方から、読んでみたらと勧められたのが本書。「売上・品質・利益・競争」を卒業したからには、ゆっくりマクロ的視野で社会を見てみたらという助言なのであろう。

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2013年7月17日 (水)

「[銀河鉄道の夜]フィールド・ノート」寺門和夫

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寺門和夫 著
青土社(137p)2013.05.24
1,470円

「銀河鉄道の夜」は宮澤賢治作品の中で最も多くの人々に読まれてきた作品だろう。その物語を「科学の視点から謎を解く」というのが本書の狙いである。著者は1947年生れ、早稲田大学理工学部電気通信学科卒業の科学ジャーナリスト、一般財団法人日本宇宙フォーラム主任研究員と紹介されている。宇宙、DNAに関するものなど著作も多い。

賢治は28才(1924年)のときに「銀河鉄道の夜」を書き始め、37才(1933年)で死去するまで原稿に手を入れ続けたと言われている。死後、散逸した部分草稿が段階的に明らかになったこともあり、「銀河鉄道の夜」は第一次稿から第四次稿に区分されるというのが定説である。現在、確定稿とされている第四次稿は筑摩書房の「校本宮澤賢治全集」刊行(1972年)に際して、天沢退二郎と入沢康夫の研究によって確立されたもので、その経緯についても本書で詳しく紹介されている。

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