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2022年9月16日 (金)

「刑期なき殺人犯」ミキータ・プロットマン

ミキータ・プロットマン 著
亜紀書房(336p)2022.07.23
2,640円

本書は、両親を射殺したものの、「心神喪失」で「責任能力なし」と判断されて司法精神病院に送り込まれ、30年を過ごしている男の記録(ノンフィクション)である。著者のミキータ・プロットマンは精神分析医であるとともにノンフィクション作家。現在も米国メリーランド大教授で、州の刑務所や司法精神病院で収容者との読書会を主宰している。本書の主人公ブライアン・ベクトールドもこの読書会に参加した一人。著者が本書を書くにあたって、ブライアンは自身の記憶を語り、精神科医のカルテや裁判の録音記録などを提供している。司法精神病院収容の意味を問うとともに、精神病の診断の曖昧さや病院内の運営上の問題を提起してい一冊である。

この事件の重要な視点として、家庭環境にまず焦点が当てられている。ベクトールには、三人の姉と一人の兄が居た。母親は夫からのDVや育児ストレスから精神病院に入院経験があり、姉の一人は学習障害、兄はコンビニ強盗に加わり未成年犯罪矯正施設に送られた経験がある。両親は子供達が問題を起こすと精神科クリニックで治療手段をとってきた。ブライアンも精神科医のカウンセリングで「家庭内の孤立」と「自殺のリスク」の指摘とともに「不定形鬱」と診断されている。兄弟達の話では、父親の日常的な暴力とあざけりが原因だったとしている。ただ、精神科医やカウンセラー達は父親の博士号を持つ学歴、ウエスティング・ハウスなどの企業での職歴、そして対応の上手さなどから父親に対しては好印象を持っており、子供達の問題原因は母親の資質と性格にあると判断してきた経緯がある。

こうした、家庭崩壊がこの犯罪の原因であるのだが、社会としてこうした家庭に対して積極的に対応出来るのか、すべきなのかの議論も必要なのだろうと思う。

ブライアンは19才でマリワナやコカインの常習化が始まり、販売目的でのコカイン所持の疑いで警察に検挙され保護観察処分を受けている。この時は「統合失調型パソナリティー障害と複数の薬物障害」と診断され、大学は中退して両親のもとに戻り、親子三人の生活を始める。この頃からブライアンの妄想は強くなり、ブライアンはショット・ガンを保有した。そして、1992年2月、22才のときに一階で怒鳴る父親の声に驚き、父を撃ち、そして母を撃った。ブライアンは10日間、車で逃走したが、警察に自首する。裁判での精神鑑定報告書では「犯人は実家に他の惑星から来た工作員が侵入した。自分は常に自分を騙そうとして来る悪魔と戦っていると信じている。精神疾患、特に妄想型の統合失調症を患っており犯行時には、犯罪性を認識する能力が無くなっていた」として「責任能力は無く、メリーランド州の司法精神科施設であるパーキンス病院に収容する」という判決となった。

このように「心神喪失状態のため無罪」となったケースでは精神病院施設に収容され、社会に復帰しても危険がないと判断されるまで被告はその病院を退院出来ない。

パーキンス病院でブライアンの歴代担当医師は、彼は継続して統合失調症であり、「ある意味宗教的な妄想であり、ブライアンにとっては自分が悪魔に憑りつかれていたと考える方が、自分の両親を殺したという事実に向き合うより容易だった」と推測していた。グループセラピーなどの状況から「自分を守ることに徹しており、治療上の人間関係も上手くいっていない。自分の犯した犯罪と、それを引き起こした精神病に付き合う事が必要」と考えられていた。彼のカルテの「妄想に加えて、到達不可能な治療目標を自分で設定している」という表現も彼が抗精神薬の投薬拒否を続けていたこと関連している。

こうした診断はブライアンの自覚とは大きくかけ離れていた。そして、長年改善できないギャップにある種の諦めがブライアンに生まれてきた。ブライアンは暴力的に脱出すれば、逮捕時に射殺されるか、悪くても刑務所へ◯◯されることで、この施設での意味のない生活に終止符を打てると考えた。1999年に病院スタッフを人質にして病院から脱走を果たしたが、警察に銃撃されて取り押さえられた。この脱走事件の裁判で暴行罪と武器の不法所持で有罪となったが、裁判長は「この件において刑務所での懲役刑を科すことは犯人の動機に沿う形になるので、18年の執行猶予と病院施設へ送り返す」とした。そして、2005年に再度、配管部品を武器にして病院からの脱出を試みて失敗する。こうして、現在に至るまでこの病院施設の収容は続いている。

2013年に著者はこの施設で患者向けの読書会を主宰し始めた。ブライアンは第一回から参加していたという。このとき彼はこの施設に20年以上収容されていたことになる。著者はブライアンとのコミュニケーションの中で共感できたことは、「私は両親を殺した」とありのままの事実を語ったことと、「犯行時は重度の精神病だったが、20年前から妄想型統合失調症ではないと確信している」という点だった。この著者の確信はブライアンを勇気づけたに違いない。

入所して22年が経った2014年にパーキンスはメリーランド州保険精神衛生局に対し、不法入院の訴訟を起こした。弁護士を付けず自身で弁護をした。検察側は1999年と2005年の脱走事件を示し、ブライアンの暴力の歴史、子供時代の問題行動、薬物歴、犯罪歴、そして精神病院施設での診断歴を示して、病院の判断の正統性を示した。陪審員は「満場一致で表決出来なかった」ことから判事の判断となり、ブライアンは敗訴した。

本書を読んでいると普段接する事の少ない言葉も多く、正しく理解しているかは不安であったし、再確認させられた点も多かった。精神病は客観的な数値で診断することが難しいことや、医師と患者の相性といった要素の具体的な例を示されると、その対応の難しさは想像に余りある。また、司法精神病院とは精神病を回復させるために入院する場所だが、一生をここで終える患者も多いという事実にも疑問を持たざるを得ない。加害者を措置入院させるのは治療のためなのか、社会から隔離するためなのか、親族の都合なのか、そもそも精神病とは何か、という疑問が湧いてくる。

日本の最高裁の判例では「心神喪失」とは精神の障害により弁識能力(良いことと悪いことの識別)や制御能力(行動をコントロールする能力)を欠いている状態をいうようだ。精神障害とは、統合失調症や躁うつ病だけでなく、知的障害や飲酒による酩酊なども含まれている。つまり、裁判所は精神障害という生物学的要素と弁識・制御といった心理的要素の両面から責任能力を判断しているということだ。

しかし、「無罪」と「罰しない(刑の執行をしない)」という区別も良く考えると曖昧なものである。殺人の動機が「信念」か「妄想的心神喪失」かは、表裏一体なのではないか。その線引きは曖昧であり、自分は精神病ではないと法的に説得することも難しそうだ。モヤモヤ感の残った一冊であった。(内池正名)

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2022年2月17日 (木)

「ケルト人の夢」マリオ・バルガス=リョサ

マリオ・バルガス=リョサ 著
岩波書店(538p)2021.10.27
3,960円

小説を読む愉しみのひとつに、「いま・ここ」を離れた過去・未来の異空間に拉致され、いっとき登場人物になりきって喜び怒り哀しみ楽しむ経験を与えてくれることがある。子どもなら誰も冒険ものや探偵小説、あるいは少女小説でそんな我を忘れる全身体験をしているけれど、大人になってからそうしたカタルシスを味わわせてくれる小説にめったにお目にかからない。その稀な小説に出会った。マリオ・バルガス=リョサの『ケルト人の夢』。

時は20世紀初頭。舞台はアフリカのコンゴと南米のアマゾン、そしてアイルランド。西洋列強による植民地支配が地球規模で展開されていた時代だ。主人公は実在の人物で、イギリスの外交官ロジャー・ケイスメント。アイルランド(ケルト人)の血を引く彼は、英国領事として赴任したコンゴとアマゾンでヨーロッパ人による先住民の残酷な支配を告発して歴史を動かす役割を果たした。が、後にアイルランドの英国からの独立運動に参加して反逆者となり、捕えられて絞首刑となる。

言うまでもなくバルガス=リョサは1970年代に世界に衝撃を与えたラテン・アメリカ文学ブームを牽引したひとり。ペルー出身で、後にスペイン国籍を取得している。本書は彼がノーベル文学賞を受けた2010年に刊行された。綿密な取材による事実に基づきつつ奔放な想像力でディテールを埋めた、なんともスケールの大きな小説だ。

物語はロジャーが英国領事時代のコンゴ(あるいはアマゾン)と、アイルランド独立派のイースター蜂起にからんで逮捕された獄中とが同時進行する。

当時、コンゴはベルギーの、というよりベルギー国王レオポルド二世が個人所有する植民地だった。国王は「文明と、キリスト教と、自由貿易」をもたらすために兵士や民兵を送り込んだが、ヨーロッパ中から集められた彼らにはごろつきやならず者、犯罪者、一攫千金を狙う冒険者が多かった。彼らは「村落を焼き、略奪を行ない、先住民を撃ち殺し、鞭で打ち据え」といった所業を行く先々で繰りひろげた。若きロジャーはアフリカを文明化するという理想を信じて国王のために働いていたが、やがてその過酷な現実を知ることになる。後に英国領事としてコンゴに赴任したロジャーは、政府に虐待のレポートを提出するためコンゴ川を遡って村々を訪れる。バルガス=リョサの筆は、まるで読者がコンゴ(あるいはアマゾンの密林)の現場に立ち会ってでもいるようなリアリティに満ちている。

「瞼を閉じると、目のくらむようなつむじ風のなかに、背中、尻、脚に小さな毒ヘビに似た赤い傷痕が残る黒檀のような体が、繰り返し現れる。子どもや老人の切断された腕の傷口、残っているのは皮膚と頭蓋骨だけでまるで生気も、脂肪も、筋肉も抜き取られてやつれ果てた、死体のような顔。痛みよりも、そんな目に遭ったことがひきおこした深い自失を表すうつろな目あるいはしかめっ面だけ。それはいつも同じで、ロジャー・ケイスメントがノートと鉛筆とカメラを持って足を踏み入れたすべての村落や片田舎で何度となく繰り返されてきた光景だった」

この現実はコンゴの次に赴任したアマゾンでも変わらなかった。「自分がだんだん正気を失いつつある気がするよ」、と彼はアイルランドの従妹に手紙を書いている。やがてロジャーのなかで、ひとつの疑問が浮かんでくる。「コンゴと同じくアイルランドも植民地ではないか?…イギリス人はアイルランドを侵略したのではなかったか」。このときからロジャーは、大英帝国の外交官として働きながらアイルランド独立を夢みる、矛盾に引き裂かれた男として生きることになる。

小説のなかで同時進行する獄中は、その十数年後。既に第一次大戦が始まっている。アイルランド独立派はイギリスに対して蜂起を計画し、ロジャーは独立派として英国の敵国ドイツから武器を故国に送ろうとして失敗、逮捕された。アフリカやアマゾンのすさまじい搾取を告発した有名人で元英国外交官のロジャーをどう扱うか、英国政府は揺れている。獄中の彼を従妹や独立派の友人や神父が訪れる。彼らとの、そして看守「シェリフ」との対話がロジャーの過去と現在を浮き彫りにする。

独房の「現在」でロジャーは、死刑判決が下った彼に恩赦の請願が認められるか否か、生と死の狭間で揺れている。一方、回想のなかに現れるアイルランドや家族の記憶は美しい。なかでも印象に残るのは、カトリックだった母の肖像。彼女は「ほっそりした体つきの女性で、歩くというよりは空中を漂うかのようであり、目と髪の色は明るく、滑らかきわまりない手が自分の巻き毛に絡んだり入浴中にその手で自分の体が愛撫されたりすると、彼は幸福な気持ちに満たされた」。

この母をはじめとして、なんとも個性的な人物が次々に登場するのもこの小説の魅力のひとつ。高名なアフリカ探検家で「(先住民の)知能は君や私よりワニやカバに近い」と公言するスタンリー。割り当てられた量のゴム樹液を持ってこなかった先住民を「気晴らしのために」石油の染み込んだ大袋に詰め火を放つ遊びに興ずるゴム農園のチーフ、ビクトル・マセド。はじめロジャーを売国奴と軽蔑するが、やがて心を開いて息子を失った悲しみを告白する看守の「シェリフ」(本書の登場人物はほとんど実在するが、これはバルガス=リョサが創作した人物らしい)。

なかでも心に残るのは、同性愛の性向をもつロジャーの前に現れるノルウェーの金髪の美青年、アイヴァント・クリステンセンだろう。ニューヨークの路上で出会い、一目で気に入ったロジャーは彼を「ヴァイキングの神」と呼び、助手としてアイルランド独立派の会合に同行する。が、アイヴァントは裏でイギリスの諜報機関に通じ、ロジャーの行動はすべて筒抜けになっていた。それがロジャー逮捕の原因となる。

ロジャーは20世紀初頭に苛烈な植民地支配を告発して世界史を動かした人物だけど、バルガス=リョサは彼を英雄としてだけ描いていない。むしろ彼の弱みや判断の間違いをも含めて、ロジャー・ケイスメントという矛盾に満ちた人間の丸ごとの姿に迫っている。

僕たちはこの長大な小説を読みながら、緑濃い密林と瀑布の風景に見惚れ、拷問機にかけられる先住民の身になって恐怖し、航行不能の川を遡るため船体を先住民に牽かせて山越えする光景に驚嘆し(映画『フィッツカラルド』!)、殺されかねない奥地のゴム農園で残虐な白人チーフとひとり対峙するロジャーにはらはらし、独立という「ケルト人の夢」に邁進すると同時に「美貌のヴァイキング」に惹かれてゆく姿に人間が否応なく選んでしまう選択を思う。

ロジャー・ケイスメントの存在は長らく歴史のなかに埋もれていたらしい。同性愛が強いタブーだった当時、ロジャーがアフリカやアマゾンで若い先住民に声をかけたことを記した秘密日記をイギリス情報部が断片的に宣伝に利用したことは、アイルランド人をも困惑させた。彼は墓碑も十字架もないままロンドンに埋葬され、彼の遺骸がアイルランドの地に帰るのは性意識に世界的な変化があった1960年代を待たなければならなかった。

そんな「英雄と殉教者は抽象的な典型でも完璧さの見本でもなく、矛盾と対照、弱さと偉大さからなる一人の人間」の姿を、この小説は余すところなく味わわせてくれる。年末から正月をはさんで一カ月、まるで歴史のなかに自分が紛れ込んだような読書だった。

蛇足。読後、友人と、これ映画で見たいよね、という話になった。あれこれ名前を挙げた末に決まったのは、こんな「夢の映画」。

主役のロジャー・ケイスメントにベネディクト・カンバーバッチ。
ロジャーが告発する虐待の責任者ペルー・アマゾン・カンパニー社主にハビエル・バルデム。
ロジャーが惑う美青年アイヴァントにティモシー・シャラメ。
回想シーンの母にアイルランド系のシアーシャ・ローナン。
そして監督には『アギーレ 神の怒り』『フィッツカラルド』とアマゾン舞台の映画2本を撮った御大ウェルナー・ヘルツォーク。
どんなもんでしょう? 見たいなあ。(山崎幸雄)

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2019年12月16日 (月)

「下戸の夜」本の雑誌編集部下戸班編


本の雑誌編集部下戸班 編
本の雑誌社(192p)2019.06.25
1,760円

文学者、評論家、芸能人、サラリーマンなどが描いた「下戸」と「酒」についての文章を集め、「酒を飲まない我等は毎夜、何をして、何を想うのか」をテーマにして「酒はなくても人生は進む」と啖呵を切りつつ、酒の無い夜を過ごす下戸の生態を炙り出すという、かなりマニアックな企画本である。

かく言う私も下戸であり、家系的にも酒が強い人は少ないし、乾杯の一口はお付き合いするが、そのあとは酒は飲まない状態である。団塊の世代のサラリーマンとしては酒を強要するお客様も居なかったし、会社も外資系で仕事優先のストイックな社風だったのも幸いし、さしたるハンデキャップを感じたこともあまりない。

振り返れば、酒を飲んで感情開放度が上がり暴言や乱暴な所作が有ったとしても「酒が入っていたので」という言い逃れを批判がましく思っていたこともあるが、逆に心底自分を解放することが出来ない下戸の自分を残念に思うことはあった。どちらにしても些細なことと言えば些細なことである。そうした心理面を除き、金銭的には会合は全て「割り勘負け」であることは致し方ないとはいえ、生涯損失の累計はかなりの額になるのではないか。そんな、下戸である私が本書を読んで見たくなるのもまさに「下戸の夜」の過ごし方の典型かもしれない。

本書では、まず、下戸であることのメリットが挙げられている。

夏目房之助は祖父の夏目漱石同様に下戸だとのこと。得したこととして、素面だとカラオケを歌っても音程が気になって仕方がないが、ちょっと酒を舐めただけで楽しくカラオケが歌えるというもの。適当に感覚を鈍くさせるという事の様だ。同時に彼は飲まなくても酒の席に参加することは楽しいという感覚の重要性を語っているのだが、織田作之助の場合も同様で、「作之助は酒のみではありませんでしたが、そのかわり酒を飲まなくても、つねに酔っているようなところがありました。生活感情が通常の人間とはひと調子もふた調子も違っていた」と紹介している。

私も酒を勧められて断るときに「結構です。普段から酔った状態なので」と開き直って対応しているので、織田の感覚は良くわかる。まあ、そうした多少開き直り的メリットとは別に、ポジティブな「後天的下戸」の意見として「スパッと酒を止めて6年。良かったことは『夜の時間』が格段に長くなったこと。・・寝る前にちょっとした何かをやる精神的時間的な余裕が生じた。夜の時間が倍になったくらいのカルチャーショックだった。・・・そして、好きな本を読む、録画してあったTVを見る」という言葉が真っ当な下戸のメリットなのかと思う。

次は、下戸ならではの特に「夜の時間の潰し方」に関する話題である。

「珈琲と、本と、そして無駄話を愉しむ喫茶店」として、神保町古書街にある眞踏珈琲店が紹介されている。ここは深夜までの営業にも関わらず、アルコール抜きの面々が静かに本を読み、語り合うという空間とのこと。これはこれで腑に落ちる時間の使い方だ。

加えて、パフェに関する、作り方、素材、名前の付け方等をかなりマニアックに熱く語られている。私はあまり食べたことが無いので、こうした領域を真剣に追求している人が居るという事に驚くばかりである。その他、表参道の「裏道」を夜の雑踏の中をさ迷い歩くという楽しみ方を提唱している人や、夜の神社仏閣を訪れて、そこに出没する猫の写真を撮る人など、読み進んで行くと「下戸」とは関係なくディープな趣味の世界が展開されていく。

次のテーマは「下戸の主張」として、日々の鬱積した思いが語られている。その原因の多くが、酒飲みから上から目線でものを言われることへの反論だ。

その典型として、「『お酒を飲まない人』のことを世の中は『お酒を飲めない人』と規定する。『コーラを飲まない人』を『コーラが飲めない人』とは言わない。この一点だけでも、お酒ってだいぶ偉そうである」とか、「最初から炭水化物を頼むと『なんでそんなもの頼んでいるんだ』といった雰囲気になる。それが出来れば割り勘負けしない。そして、支払いの計算などは下戸が面倒を見ているのだが、酒飲みはそれさえも覚えていない」と言った声である。

確かに下戸は飲み会の席で仲間の面倒を見ていたり、我慢していることがあるのは否めない事実である。それでも、酒の効用として、下戸の人で酒を飲めたらという思いになった娘さんの話しが紹介されている。父親とちょっとした仲違いをした娘さんは「何年もろくに会話をしていない父とどうやって話をするか。今更、父と仲良くできないという不必要な恥を捨てるにはお酒の力を少しだけ借りたい」というのも切実な声だ。

最後は「下戸とカルチャー」と題して、文学・文壇の下戸話や、映画における酔っぱらいについて考察している。作家の名前を挙げられてみると、意外に下戸が多い事に気付かされる。たとえば尾崎紅葉、夏目漱石、菊池寛、武者小路実篤、江戸川乱歩、広津和郎といった面々である。「下戸が支える文学賞」という話には驚かされた。それは、下戸の菊池寛が率いる文芸春秋社で、直木三十五、芥川龍之介という二人の作家の名前を冠した文学賞がつくられた。その直木も芥川も下戸であったことと、初期の両賞の選考委員の人達、小島政二郎、佐藤春夫、瀧井孝作、川端康成、宇野浩二、片岡鉄平などは皆下戸だった。それが、必然であったと言う理由は、選考委員は沢山の作品を読まなければならず比較的時間のありそうな人が選抜されたからという。まさに「下戸の夜」に小説を読みふけることが出来るからこそ選考委員に選ばれたと言うのだ。それも良い様な、悪いような。

加えて、下戸が主役のブックガイドやらジンジャーエール研究、アルコール血中濃度の段階による酔っぱらい観察ガイドなども載せられている。本書全体としては、まあ下戸としての溜飲を下げる効果もあれば、無理やりそこまで言わなくても良いのではないかと言う複雑な気分が残る。

下戸の漱石は本書でも色々な形で語られているが、「吾輩は猫である」の最後が紹介されている。「吾輩」は迷亭などが飲んでいた宴席に残っていた酒を舐めて踊りだしたくなる。そして、気が付くと水瓶に落ちてもがいても沈むばかり。そして、考える。

「もうよそう。勝手にすればいい。…次第に楽になってくる。…不可思議の太平に入る」

こうした「太平」を人に与えうる酒の力はすごいと思う。下戸の自分がそこに至らない悔しさは有る。そんなことを考えながら、近所のコーヒー豆屋で挽いてもらったマンデリンをドリップでゆっくりと淹れている。こうしてコーヒーを飲みながらの読書で夜は更けて行く。この「太平」もかなりのものだと思っているのだが。(内池正名)

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2017年12月17日 (日)

「『元号』と戦後日本」 鈴木洋二

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鈴木洋二 著
青土社(302p)2017.08.22
2,052円

今上天皇の退位に関する皇室会議の報道を聴きながら、この原稿を書いている。平成という時代はどんな時代であったのかを語る場が多くなるはずだ。同時に来年、2018年が明治維新から150年であることを声高に語る人達もいる。歴史を「元号」で語る意味は多くの側面を持っている、その一つの切り口を本書は提示している。著者の鈴木洋二は昭和55年生まれ、歴史社会学を専門とする社会情報学博士。東京大学のHPを見てみると、「メディアやコミュニケーションに関わる社会現象・文化現象、そして情報社会における諸問題を「社会情報」という視点から学際的に分析する新しい学問」とある。

普段の生活で目にふれる「元号」は年号としての役割だけでなく企業名や大学名など「元号」と結びつく表象は極めて多いことに気付く。本書ではその「元号」を時代区分のインデックスという意味に限定して定義した上で、「戦後」との対応関係で「元号」がどのように機能しているのかを本書で掘り下げている。

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2016年7月19日 (火)

「化粧の日本史」山村博美

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山村博美 著
吉川弘文館(221p)2016.05.20
1,836円

電車に乗れば、混雑した車内で一心不乱に化粧をしている若い女性がいる。化粧が身だしなみであり、周りの人達に対しての気配りだとしたら、その工程を周囲の人達に見せてしまうというのは自己矛盾だろう。そんな、昨今の状況にいささか戸惑い、辟易としている中での化粧に関する読書に挑戦してみた。

本書はタイトル通り、古墳時代から現代にいたる日本において、化粧がどんな意味を持ち、時代と共にどんな変化をしてきたのかをまとめたもの。化粧とは夜眠る時には落としてしまうという一過性の行為の繰り返しということもあって、時を超えて物的資料が残っていることは少ないという。

従って、化粧に関する資料としては、文学、絵画、芸能、風俗といった各分野での断片的情報を集め、組み合わせることで化粧の歴史の全貌を描き出す必要がある。そうした、地道な作業の積み上げを必要としていることから、学問として注目度は低かった様で、その意味からも本書は「化粧の通史」として挑戦的な一冊といえそうだ。

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2015年11月19日 (木)

「検証 バブル失政」軽部謙介

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軽部謙介 著
岩波書店(432p)2015.09.26
3,024円

本書は1986年から1991年の所謂バブル期における、日本銀行・大蔵省・政府・そして海外を視野に公文書、未公開資料(オーラルヒストリー、手記)、直接のインタビュー等を通して「なぜバブル経済が生じ、崩れたのか」「誰が何を行い、または行わなかったのか」を時系列的かつ詳細にまとめたものだ。

著者の軽部謙介は1980年代後半に時事通信の大蔵省担当の記者だった経歴である。その意味ではその期間の現場に立ち会っていたという人間である。団塊の世代にとっては、バブル経済の発生から崩壊に至る時代はそれぞれの個人史を持っているはずだ。しかし、著者も「『これはバブルだ』と確信して毎日を過ごしていたわけでなく、狂乱や金満を正当化するさまざまな理屈を疑う事なく受け入れ、経済の底流で何が起こっているのかなどは視野の外だった」と書いているように、評者にとっても、金融機関の巨大システム開発プロジェクトのメーカー側の責任者として日夜翻弄されていた時期であり、投資目的の「株」や「土地」を持っていたわけでもないのでバブル経済の高揚感を実感することもなく、差し迫った危機感は希薄だったと記憶している。どちらかと言えば、バブル崩壊後の苦労のほうが生々しく記憶に残っているのだ。

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2014年1月15日 (水)

「ケネディ暗殺・ウォーレン委員会50年目の証言 上下」フィリップ・シノン

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フィリップ・シノン 著、村上和夫 訳
文藝春秋(428p、412p)2013.11.11
1,680円(上・下共)

著者フィリップ・シノンは元ニューヨーク・タイムズ記者。50年経った現在でも米国民の内50%近い人達が真相は明確でないと考えているジョン・フッツジェラルト・ケネディ(JFK)大統領暗殺事件。事件後、1964年に提出された大統領諮問委員会による「ウォーレン報告書」に対して問題提起する形で本書は作られている。上・下巻で840ページに及ぶ大著である。沢山のカタカナの人名が出てくる。サスペンス小説を読むようなつもりで本書を手にすると途中で投げ出したくなってしまいそうだ。

50年前といえば、16歳だった評者にとってJFK暗殺事件は非常にショッキングな出来事だった。遊説に訪れたテキサス州ダラスでオープン・カーに乗った大統領が白昼にライフルによって狙撃された。鳴り物入りで宣伝されていたTVの日米間衛星実験放送を11月23日(土)の朝9時から見てみると映し出された映像はまさにJFK暗殺のニュースだった。そして、事件二日後には犯人として逮捕されていたリー・オズワルドがダラス警察本部の地下一階でTVカメラに囲まれて生中継されている最中にダラスのストリップ小屋主人のジャック・ルビーによって至近距離から拳銃で射殺された。この二つの殺害映像によって事件の印象はより強烈に記憶されることになった。誰もがTVを通して世界で起こった生の映像に接することが出来るという時代の幕開けを象徴するような事件であった。

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2013年1月 9日 (水)

「検証 東電テレビ会議」朝日新聞社

Asahi_kensyou朝日新聞社 著
朝日新聞出版(336p)2012.12.07
1,470円

読みたくもあり、読みたくもなし、という相反する気持ちで本書を手にした。読みたいという気持ちは事実を知りたいということに尽きるのだが、読みたくないという気持ちは、テレビ会議に記録されている状況のドタバタ度合いがあまりにひどいようであれば福島を故郷とする人間には読み進むことの辛さがあるからだ。

この東電テレビ会議の映像・音声の記録の存在は広く知られていたが、開示に到るまで東電は常に消極的な姿勢をとってきた。「社員のプライバシーに係わる」という論理で説明されてはいたものの、それをはるかに上回る開示のメリットを誰もが直感的に考えていたと思う。日本だけでなく世界レベルで、チェルノブイリ以来のレベル7の原子力発電所の事故の原因や対応を検証し、再発防止策策定という一連のプロセスを確立するための貴重な記録であるということはゆるぎない。

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2011年7月14日 (木)

「原発のウソ」「隠される原子力 核の真実」小出裕章

Genpatu2小出裕章 著
「原発のウソ」
扶桑社新書(184p)2011.06.01
777円
「隠される原子力 核の真実」
創史社(160p)2010.12.12
1,470円

喩えは悪いけれど、福島第一原発の事故は「戦争」だと考えてみる。nuclearは日本語では「戦争」なら核兵器、「平和利用」なら原子力と訳すけれど、戦争であれ平和利用であれ、ウランの核分裂反応で激しいエネルギーを発生させる「核」の本質に変わりはない。そのエネルギーを爆弾として利用したのが原爆で、お湯を沸かす(それが原発でやっていることなんだね)エネルギーの制御に失敗して放射性物質を撒き散らし、核兵器と同じ(長期にわたってという意味では、より深刻な)被害をもたらしているのが福島の事態なのだから。

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2010年6月17日 (木)

「芸能の秘蹟」平岡正明

Geino

平岡正明 著
七つ森書館(248p)2010.05.10
2,100円

去年7月に脳梗塞で亡くなったこの本の著者、平岡正明に3度会ったことがある。最初の機会は小生が週刊A誌の書評欄を担当していた1978年のこと。コラムふうな著者インタビュー記事を書くために、『歌の情勢はすばらしい』(冬樹社)を出したばかりの平岡に会いに行った。当時、A誌書評欄の担当は小生ひとりで、どの本を書評に取り上げるかは外部の作家や評論家と相談するシステムになっていたが、著者インタビューについては自分の好きな本、好きな著者を選ぶことができた。だから、自分が読みたい本、会ってみたい著者の本をずいぶん取り上げた。平岡正明もそのひとり。当時、平岡正明のジャズ論に惚れこんでいた。初めて会った平岡正明は短髪、童顔ながら眼光鋭く、握りこぶしを脇に引いて「オス!」と空手の挨拶をされたのが印象に残っている(平岡は極心空手をやっていた)。『歌の情勢はすばらしい』は、山口百恵、矢野顕子、李成愛ら新しい歌謡曲の動きと第三世界革命論をつきまぜたエッセー集。日韓の歌について、第三世界の音楽について、平岡は陽気で明るく、よくしゃべった。

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