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鳥獣戯画研究の最前線/地元を生きる/司馬江漢「東海道五十三次」の真実/証言 沖縄スパイ戦史/「湘南」の誕生/贖罪の街(上下/親鸞と日本主義/じーじ、65歳で保育士になったよ/醤油 (ものと人間の文化誌 180)/主権なき平和国家/ジャズメン死亡診断書/〆切本/ジャズを求めて60年代ニューヨークに留学した医師の話/自然の鉛筆/昭和を語る– 鶴見俊輔座談/書物の夢、出版の旅/司馬遼太郎 東北をゆく/地震と独身/純粋異性批判/社会の抜け道/ジャズ昭和史/『昭和』を送る/従軍歌謡慰問団/神道はなぜ教えがないのか/社会を変えるには/『諸君!』『正論』の研究/疾走中国/時間の古代史/自由生活 上・下/新 13歳のハローワ

2024年1月15日 (月)

書評「ブック・ナビ」の移転について。

書評「ブック・ナビ」は、2024年1月より、

下記サイトに移転しました。

今後とも、よろしくお願いいたします。

http://www.book-navi.com/

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2023年2月15日 (水)

「植物考」藤原辰史

藤原辰史 著
生きのびるブックス(238p)2022.11.30
2,200円

冒頭で、まずひとつの疑問が提出される。ほとんどの人間は、自分たちを植物より高等なものだと思っていないだろうか、と。なぜなら、人間は植物を食べられる。でも植物は人間を食べられない。人間は植物を素材に家をつくり住むことができるが、逆はできない。同様に、人間は植物の繊維を使って衣服をつくること、植物を育て、刈り取り、料理することができるが、植物は人間をそのようにはできない。

でも、本当にそうだろうか、と藤原は問う。植物は人間がいなくても生きていけるが、人間は植物がなくては生きていけない。「二酸化炭素と光で糖を合成できる人間が生まれないかぎり、植物の生存条件はそのまま人間の生存条件である」。それなのに、なぜ私たちは人間が食べたり、住んだり、着たり、育てたりできることを、植物は「できない」と表現するのか。本当は「できない」ではなく、植物はそういうことを「する必要がない」のではないのか。

著者の藤原辰史は、20世紀前半の農業史、食の思想史を専門とする研究者。『給食の歴史』『ナチスのキッチン』などの著書がある。本サイトでも、第一次世界大戦後のドイツの飢餓をテーマにした『カブラの冬』を取り上げたことがある。素材として農業や食物を扱うが、あくまで社会科学の著作。この本は、藤原が「人文学」の立場から改めて「植物とはなにか」を考えたものだ。

藤原はまず「根」「花」「葉」「種」といった植物のパーツを取り上げながら、「植物性」あるいは「人間の植物性」といったことを考える。例えば「根」。

「根が生える」という表現があるように、根を持つ植物は一般的に動かないものと考えられている。でも植物は本当に動かないのか、と藤原はここでも疑問を提出する。ガジュマルのように気根を垂らして文字通り動く植物もあるが、そうでなくても、根は地中で活発に「動いて」いる。どこに豊かな土があるかを探って動き回り、ネットワークを張り巡らし、水や養分を吸収し、地上に出ている茎を支える。葉や花も太陽を求めて「動く」。私たちが植物を動かないと考えるのは、植物の遅い動きや反復される微細な動きを「動き」と捉える訓練がなされていないからだ。

藤原は、根に関連して「人間の植物性」をこんなふうに考えている。植物の根と似た動きと働きをする人間の器官として、腸内の輪状ヒダや腸繊毛がある。口から胃を経て消化酵素や腸内微生物の働きで腸内を通過していく食物は、いわば土壌である。その土壌に輪状ヒダや腸繊毛という根を張り、そこから養分を取り込む。「人間も含めた動物は、消化器官やそれに類するものに『根』を生やして、口から肛門までの消化器官を通り抜ける土壌から栄養を吸い取る『動く植物』である。……また、肺胞にまるでケヤキの木の枝のように毛細血管を張り巡らし、酸素を取り込み、二酸化炭素を捨てる、肺に枝を伸ばした『動く植物』でもある。人間と植物の食べる、または、呼吸するという行為にはそれほど大きな違いがあるだろうか」。

そんなふうに「根」だけでなく「花」や「葉」についても、植物には「知性」があると主張するステファノ・マンクーゾや、植物だけが地球上の基本要素によって自分の世界を築き上げたという哲学者、エマヌエーレ・コッチャを引用しながら論じている。でも、本筋だけでなくちょっと脇道にそれたところも、いかにも食と農の思想史を専門とする藤原らしくて面白い。

例えば、近代社会の根源には「移動の自由」という考え方がある、という。近代社会は人間に移動せよ、動け、休むなと養成しつづけてきた。「根」を退化させることで経済活動の活性化を図ってきたともいえる。そのため、人びとは根っこを抜かれる感覚、場所を移動することの恐怖の感覚を忘れてきた。世界には「根無し草」として差別されてきた人びとがいる。ロマがそうだし、かつてナチスはユダヤ人をそのようなものとして見た。私たちは植物の「根」を考えることで、権力によって強制的に移動させられたり隔離された人びとの心の入り口に、ようやくたどりつくことができる、と。

また例えば世界史上の重商主義は、植物を視点にすると次のように表現できる。重商主義というのはヨーロッパで消費される熱帯植物と、そこで生産される毛織物など工業製品とが、熱帯地域とヨーロッパとの間で交換される物流のことである。初期段階でポルトガルは、熱帯アジアに商業拠点を置き、現地の商人からそれを購入しヨーロッパで売却することで利益を得た。それは植物の属地的、環境決定的な性質に即した人間行動だった。しかしイギリスなど後発国は植民地をつくり、アフリカからの奴隷を労働力としてプランテーションを運営した。だがプランテーションという人工的空間で単一植物を栽培しはじめると、「雑草」や「害虫」など「排除すべきもの」が生まれ、それを退治するために一層多くの奴隷を必要とする。「人間の、人間や自然に対する権力や暴力の発現の背景に、植物を自分のものにしようとする飽くなき欲望があったことを、あらためて確認しておきたい」。

そうした認識の延長上で、藤原は「緑」という言葉にも違和感を感ずるという。ふつう、「緑」という言葉はソフトで、環境にやさしいように響くが、あらゆる植物を一緒くたにした「粗雑な」使い方、例えば「この地域は緑が多い」とか「緑ゆたかな住宅地」などと人びとが言うとき、「緑」という響きに「何か人種主義的な、あるいは暴力的なもの」を感じてしまう、というのだ。また、この本自体もその危険を持つが、植物と人間を比較したり比喩的に語ったりすることにも「自己警告を発しなくてはならない」。人間世界を植物世界に安易に喩えると、不必要な人間は「雑草」になり、植物を食い荒らす「害虫」は、化学的な農薬をかけられ「駆除」されなければならない、ということになりかねない。

農薬ということでは、枯葉剤についても藤原は厳しく言及している。動物が生存しない世界でも植物は生存できるが、酸素をつくりだす植物が生存しない世界で動物は生存できない。枯葉剤は農薬を濃縮したものだが、それだけでなく製造過程の不純物として猛毒のダイオキシンが含まれていた。枯葉剤それ自体も、ナパーム弾の使用など高熱の状態でダイオキシンに変化する。ヴェトナム戦争では枯葉剤によって山野が死に絶え、多くの奇形児が生まれた。枯葉剤は薄めて除草剤として使われることで人々が受ける印象もその恐ろしさを薄めてしまうが(逆に言えば、除草剤の恐ろしさに気づくべきだろう)、太陽エネルギーを生命のエネルギーに変換できる唯一の存在である植物を殺すものとして、枯葉剤の罪は大きい。「兵士が亡くなっても草が生えるかぎり、つぎの世代の人間たちは生きる基盤を得る。しかし、夏草も土壌微生物も同様に死に絶えてしまった場所は、もはや跡さえも残らない。そんな植物さえも死に絶える生命全般の根源的な死を、私たちの時代は経験したのである」。

本書はウェブ連載をまとめたもので、まだ試論というか、ラフスケッチといった趣の本になっている。でも、植物という視点からものを見るとき、今まで自分が見ていたものがまったく違う見え方をする、そんな刺激的な指摘がそこここに散りばめられている。近年の社会科学全体が、ヨーロッパ中心、あるいは特権的な人間中心に発達し、その外側に想像力が及ばなかったことへの反省から変化してきている、そんな潮流に属するのだろう。いずれ本格的な人文学の植物論が生まれることを楽しみにしたい。(山崎幸雄)

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2022年7月16日 (土)

「地元を生きる」岸政彦、打越正行、上原健太郎、上間陽子

岸政彦、打越正行、上原健太郎、上間陽子 著
ナカニシヤ出版(444p)2020.10.20
3,520円

本サイトで取り上げる本は新刊を中心にしているけれど、ときどき古い本にすることもある。新刊を2冊くらい読んでもこれという本に出会わなかったとき、新刊ではないがどうしても書いておきたい本に出会ったとき。本書は後者に属する。京都の小出版社から刊行されており、新刊のとき見逃したらしい。先日、沖縄復帰50年関連の書籍広告が新聞に出ていて、そこで目に入った。

著者グループの一人である岸正彦の本は、このサイトで『はじめての沖縄』(新曜社)を取り上げたことがある。社会学者で、沖縄から本土へ就職した若者や、沖縄戦と戦後の生活についての聞き取りを長年つづけている。最近は小説家としての評価も高い(おまけにジャズ・ベーシストでもある)。打越正行と上間陽子という2人の名前にも覚えがあった。本書のサブタイトルは「沖縄的共同性の社会学」だが、それに2人の著書のタイトルを加えるとこの本の姿がおぼろに見えてくる。打越の著書は『ヤンキーと地元──解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(筑摩書房)、上間のが『裸足で逃げる──沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)。

1960年代生まれの岸と、70年代生まれの打越と上間、80年代生まれの上原健太郎という世代の異なる研究者たちが集まって、「沖縄における『地元』──つまり『沖縄的共同性』──というものが、さまざまな人びとにおいてどのように経験され」ているかをフィールドワークしたのが本書である。その際、聞き取りをする相手について岸は「安定層」(琉球大学や本土の大学を卒業し公務員など安定した仕事に就いている人)を、沖縄出身の上原は「中間層」(多くが高卒でサービス業で働く人)を、打越と上間は「不安定層」(地域社会から排除され、建築業の末端や夜の街で辛うじて生計を立てている人)を対象にした。

聞き取りをする上で4人が取り入れた視点があり、それは「階層とジェンダー」だという。なぜなら「沖縄は階層格差の大きな社会」であり「ジェンダー規範の強い社会」でもあるからだ。言い換えれば沖縄内部では貧富の格差が激しく、男は男同士の、また男女間での濃密な関係が時に理不尽な抑圧や暴力を伴うことがある社会だ、ということだろう。

「沖縄的共同性」というのは、たとえば県が作成した文書ではこんなふうに表現されている。「沖縄はユイマールをはじめとする助け合いの精神を有しており、人と人とのつながりや地域の課題等を共有し、協働で解決を図りながら生活を営んできました」(「沖縄21世紀ビジョン基本計画」)。この本の聞き取りは、そんな「一枚岩的な共同体のイメージ」を抜け出して、沖縄社会内部の格差と分断を明らかにする。4人の筆者が行った聞き取り調査のなかから、印象に残った語りを拾いだしてみようか。

「それが沖縄的だったかどうかすらもうよくわかんないですけどね。/…例えばNHKの『ちゅらさん』とかですよね、そういうのに出てくる状況みたいなのはほぼ無いですね」──1964年生まれ、琉大卒の公務員。那覇とその郊外の都市部で育った彼の語りを岸たちは「共同体から距離化する語り」と呼ぶ。

「俺ら、資金もないし、じゃあどうやって居酒屋スタートするかっていう話になったときに、じゃあ、俺たちは資金もないから、人脈だなってことになって。じゃあその人脈を活かして、居酒屋をやる前になんかやろうぜってなって」──1985年生まれ、専門学校卒の若者が地元の同級生ら3人と居酒屋を立ち上げ、地縁血縁のネットワークで商売を広げていく。上原が聞き取った「中間層」に属するジュンのこの語りは「共同体に没入する実践」と呼ばれている。

「達也にーに(兄)から、仲里かー、ってから。すぐらったんよふーじー(殴られたんだよー)。はーってから。誰によ? よしきにーににくるされた(暴行を受けた)って言ってるわけよ。まじでねって、引き合わんねえ。もういいよー、辞めようってから、他の仕事やろう。俺も達也にーにのこと好きだから。だから要は、友だちがこんなってやられたら引き合わんさ。俺もこれで辞めたのに。バカみたいだなあって」──中卒、30代。元暴走族で、族仲間が多く働く建築現場で「しーじゃ(兄)」と「うっとぅ(弟)」の上下関係が時に暴力を生み、仲間が離合集散を繰り返す。この章の筆者・打越は自らバイクに乗って暴走族の一員となり、「パシリ」役を勤めながらこの集団と長年つきあってきた。そんな研究者と研究対象の関係を超えたつきあいがあってこその語りが紹介されている。

「帰るおうちがあって、逃げれる場所がある、で、みんなに会いたいときに会えるし、なんか、そんなのがあるから、いまは別に苦しくもないし……いまが楽しいし、逃げなくてよかったな。……現実から。……自分が、なんかこの仕事(注・風俗の仕事)をしてしまったら、なにも考えなくてすむ、っていうのがあって、この短時間のあいだに、とりあえずこの人としゃべって、まあ、そういうことして、終わればいいんだ、っていう自分の中でこれが逃げ道になってしまってて……。だけどいまはこうやってやることがちゃんとあって、毎日仕事行って、帰ってきて『疲れたぁ』っていうのも、たまにはいいなって」──暴力をふるう父親のいる複雑な家庭から逃げ、民宿を転々しながら暴力と隣り合わせの風俗の仕事をし、打ち子兼恋人に金をまきあげられ、その後、ようやく空き家になっていた実家に戻り仕事を始めた春菜の語り。上間が担当している。

本書に先立って上梓された上間と打越の2冊の本の意味を、岸はこう評している。「上間陽子は沖縄社会のなかで排除されると同時に縛り付けられる若い女性たちの過酷な世界を描き、打越正行はその女性たちに暴力をふるうような男たちの、それはそれでまた過酷な世界を描いた。そうすることでこの二人は、これまでの沖縄的共同性についての私たちの『語り方』を、永遠に変えてしまったのだ」

4人の調査から浮かび上がるのは、助け合いの精神に富み地縁血縁の強い「沖縄的共同性」と言われるものを、必ずしもひとくくりでは語れないということだろう。その内実は複雑で多様だ。本土に住む私たちはともすると沖縄を、本土では失われたものをこの地に仮託して、おじいおばあを核にした共同体の強い絆が残り、ノロやユタに象徴される伝統的な信仰が生き、青い空と海、南国のゆるい時間のなかでゆったり生きる、といったステレオタイプで捉えがちだ。でもこの本は、そんな紋切り型で沖縄を見るのはもうやめよう、と言っている。

戦後すぐの沖縄は基地に依存した輸入経済でなりたっていた。だから本土のようには製造業が育たず、主に零細企業からなる第三次産業に偏るかたちで発展してきた。沖縄の県民所得は今も全国最下位であり、有効求人倍率、非正規雇用率、離職率、完全失業率いずれも全国最低クラス、また地域内の不平等性を示すジニ係数も全国最低クラスとなっている。年間収入1000万円以上の世帯は沖縄全体の2.1%に過ぎないが、400万円未満の世帯は64.1%を占めている(2014年)。こうした数字を背景に、岸たちの調査は沖縄社会の多様性や複雑さ、「ある種の『分断』」を描き出した。「私たちは、沖縄の貧困や格差が、かなりの程度『人為的に』作られたのではないかと考えている」と記す。

もちろん本書で紹介されている調査はそのまま一般化できるものではない。岸たちも書いているように、「小さな、ささやかな、断片的な記録」にすぎない。でもこうした「生活の欠片たち」を通じて「私たちなりのやり方で沖縄社会を描こうと思う」と、岸は控えめながら強い確信をもってこの本の意図を語っている。『断片的なものの社会学』(朝日出版社)という素晴らしい著書を持つ岸らしい。

上間と打越が執筆した「不安定層」の男女の語りは、ほとんどの読者にとってたぶん初めて見る沖縄の底の底で、すごい迫力で読む者に迫ってくる。それに上原の「中間層」と、岸の「安定層」の語りを加えて、この本は沖縄社会の構造を、彼らなりのスタイルで描き出そうとしたものだろう。貧困と暴力を再生産する負の側面も持つ沖縄的共同性。そこから意識的に離脱する者があり、そのなかで生きる者があり(それが多数派だろう)、そこから排除されると同時に縛り付けられる者もある。そんな像がおぼろげに見えてくる。

この調査は2012年に始まり2016年には原稿がほぼ出来あがっていたが、そこから刊行まで4年かかった。刊行を止めていたのは岸で、「私は、自分自身が『ナイチャー』の社会学者として、沖縄の内部の『複雑性』を描き出すような本を出版することを、深く迷い、恐れ、悩んでいました」。でもその間に沖縄の多くの人から背中を押され、刊行を決めたという。

本書はあくまで聞き取りの記録、「エスノグラフィー」であり、そこから見えてくる範囲内で沖縄社会内部の構造が語られている。その外にある戦後沖縄の歴史や政治、アメリカや本土との関係については触れられていない。ただ岸はそのことについて、ひと言だけ書いている。「私たち日本人は、一方で『共同性の楽園』のなかでのんびりと豊かに生きる沖縄人のイメージを持ちながら、他方で同時にその頭上に戦闘機を飛ばし、貧困と基地を押し付けている」。本書は、そんな本土の人間の矛盾、あるいは見て見ぬふりを私たち自らが理解する最初の一歩になるはずだ。(山崎幸雄)

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2021年4月18日 (日)

「司馬江漢『東海道五十三次』の真実」對中如雲


對中如雲 著
祥伝社(307p)2020.09.30
1,980円

東海道五十三次と言えば広重というのがまあ一般的な感覚だろう。以前、旧東海道を歩き続けていた時に宿場に差し掛かると広重の版画の絵柄を思い出し、あの時代の雰囲気を感じ取ったり、面影を探したりするのも楽しみの一つだった。それだけに、広重の「東海道五十三次」には元絵があり、司馬江漢という絵師が書いたという話には驚いたものである。司馬江漢(1747~1818)とは江戸後期の絵師として浮世絵、中国画、銅版画(エッチング)、油絵と多様な画風の作品を残し、同時に地動説を日本で初めて文献に取り上げるなど自然科学者としても活躍した人物である。

30年前、著者の對中(当時伊豆高原美術館館長)のところに、江漢の「東海道五十三次」と題された五十五枚の画からなる画帖の鑑定依頼が有ったことが発端である。最初にその画を見た時の印象を「洋画とも日本画とも言えぬ見慣れぬ画風で、東海道の道筋が写真的に描かれており、絵柄は広重の「東海道五十三次」に類似していた」と著者は書いている。そして、1995年に江漢「東海道五十三次」が広重版画の元絵であるという説を発表した結果、「広重の五十三次は盗作」という刺激的な見出しをつけてマスコミが取り上げたこともあり、冷静な議論がなされた様には思えなかったと思うのは私だけだろうか。その後も著者の研究は続き、技術的な分析結果などを踏まえて本書では「元絵論争に最終決着」というサブタイトルを付けている様に、「仮説」から「真実」へと一歩前進させるための一冊である。

本書の前半は「図版解説」と題して、二人の作品(五十五枚)を宿場毎に見開きページに並べて詳細な説明している。ざっと見ただけでも、過半の絵柄は酷似しているのは一目瞭然であり、初めて見る人はその相似性に驚くはずである。江漢の五十五枚の絵は縦長の肉筆画。遠近法で陰影を施した洋風画で、自ら調合した絵具を使った水彩画。順番は広重とは逆で、京都から東海道を下り江戸までを描いていている。江漢自身はこれらの画に「日本勝景色富士」と名付けており、「東海道五十三次」と名付けたのは後の所有者である。生涯三回東海道を往復している江漢にとって最後の旅である文化9年(1812年)の旅程のスケッチが元になって、文化10年(1813)から文化15年(1818)に作成されたと推定されている。一方、広重の「東海道五十三次」は天保4年(1833)に始まり、好評だったこともあり翌年には全五十五枚の浮世絵がセットで刊行されている。

偽物が多いと言われる江漢の絵だけに、「東海道五十三次」が彼の真作であることを次の様に示している。

遠近法を駆使した構図など西洋画の技法を活用していたのは広重以前では江漢だけである。広重の版画より江漢の絵は実景に忠実であり、江漢の絵を元絵にして広重の版画はつくれるが、広重の版画を元にして江漢の絵を描くことはできない。

また、黄色絵具は50年単位程で新しい材質の絵具が開発されているため時代検証の指標にされているが、江漢の絵で使われている黄色の絵具を分析した結果は鉛と錫を含む「レッドティン・イエロー」が検出された。この黄色絵具は18世紀半ばにヨーロッパで使用ピークを迎えたものだが、それが日本にもたらされたとすると江漢の時代に合致する。サインや印などを含めた幾つかの考証が本書のポイントの一つである。

次に、江漢が活用した西欧の絵画技法や科学的成果の知見について紹介している。まず、江漢は日本で初めて油絵(蝋画)を描いただけでなく、銅版画(エッチング)を天明3年(1783)に制作しており作品は数点現存しているとのこと。しかし、エッチング制作に欠かせない硝酸は、ヨーロッパから長崎経由で入手するしかなかったが、懇意であった幕府御殿医の桂川甫周経由で手に入れたか、オランダ人の江戸宿泊所である日本橋長崎屋で入手した可能性もあると指摘している。江漢は長崎の出島や日本橋長崎屋への出入りをしていたが、それは平賀源内に同伴することから始まったようである。江漢にとって日本橋長崎屋は新しい科学技術や思想に接することの出来る重要な場所であり、多くの文献や道具を手に入れた場所でもあった。

江漢が作画の為にもっとも活用した道具は「カメラオブスキュラ」と呼ばれる写真鏡で、一眼レフカメラからシャッターや絞りを除いたようなもので「箱の中に硝子の鏡を仕掛け、山水人物の映像を写し、画ける器」と言われている。これはダヴィンチが「モナリザ」の背景を描くのに使ったとか、フェルメールが使っていたと言われるもので、点描や遠近法にその絵の特徴が出ると言う。「真を写さざれば絵画にあらず」という考えの江漢の作画を支えた技術であったことは間違いない。著者はこうした江漢を次の様に表現している。

「江戸時代に「カメラオブスキュラ」の実用性に注目した一人の絵師がいた。男は自然科学者の目を持ち、技術者の腕を持っていた。その絵師は自らそれを作り、東海道の宿場風景、そして富士を再現するのに、それをフル活用して五十五枚の画帖にした。そして、「我が国始りて無き画法なり」と豪語した。・・・・オランダ自然主義絵画の科学性と静謐さ、中国画の神妙、狩野派の風雅、浮世絵の持つ大衆性、それらを集大成したもの・・・それが江漢「東海道五十三次」なのである」

二人の「東海道五十三次」の大きな違いがあるとすると、広重の版画は庶民が喜ぶ娯楽作品であり、まずは売る事を目的にして作られている。一方、江漢は作品を公開する意図はなく、それだけに寓意性を表現していると著者は見ている。例えば、宮宿では、江漢は勤皇思想の江漢は尾張徳川家の祀場である熱田神宮を描かずに神明造りの神社(伊勢神宮の外宮)を精密に描いている。こうした表現の狙いを著者は多面的に分析して見せているのも面白いポイントだ。

平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵とも交流を持ち、東海道の旅の中で大名、旗本、勅使だけが使える宿場の本陣に泊まっていることも、江漢がただの町絵師では説明がつかないという指摘ももっともである。江漢の墓所は巣鴨の慈眼寺であるが、この寺は水戸徳川の菩提寺でもあり、以前の本堂の天井画は江漢が描いていたという。こうした水戸藩との深い関係(水戸藩隠密説)を始め、京都公家の中山愛親を始め開明派大名達との交流があったという江漢の活動の根底は「自分の祖国がヨーロッパと比較して、あまりに遅れていることにため息が出るような思い」に始まる「憂国」こそ、すべてのキーワードではなかったかというのが著者の考えである。

江漢を変わり者の絵師として捉えていては真実にたどり着かないという思いが著者には強い。科学者としてまた思想家として江漢を捉える必要性を語っている。

「上天使将軍、下士農工商に至るまで、皆もって人間なり」(春波楼筆記)という江漢の平等論は福沢の「学問のすすめ」の60年前のことである。ドナルド・キーンに「歴史上の人物で一人だけ会えるなら、司馬江漢を選ぶかもしれない」と言わしめた男だ。江漢という人物の全貌はまだまだ明かされていないのだろう。また、江漢自身が隠密だったとしたら隠していることが有るのかもしれない。人間としてまだまだいろいろな視点で深堀して行く余地があるのだろう。

一方、元絵が江漢の画帖だったとしても、広重が表現した「東海道五十三次」の宿場風景や人物たちの輝きは不変である。私は広重の「東海道五十三次」が好きであることは、本書読了後も変わらない。(内池正名)

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2020年9月18日 (金)

「証言 沖縄スパイ戦史」三上智恵

三上智恵 著
集英社新書(752p)2020.02.22
1,870円

1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との戦闘で、日本軍の主力部隊が南へ南へと追い詰められ、集団自決など住民を巻きこんだ凄惨な戦いが本島南部で繰り広げられたことはよく知られている。

でも、島の北部でどんな戦闘があったのかは、あまり知られていない。僕自身も知らなかった。もちろん北部にも日本軍はいたが、それだけでなく陸軍中野学校から40人以上の将校・下士官が送り込まれ、徴兵前の島の少年を組織して「秘密戦」と呼ばれるゲリラ戦を展開した。この本は、少年兵として戦った人たちなど30人以上に話を聞いてまとめた、その戦いの記録だ。そこには米軍との戦闘だけでなく、スパイの疑いをかけられて殺された住民の話など、生々しい証言がいくつも出てくる。

著者の三上はジャーナリストであると同時にドキュメンタリー映画の監督で、2018年に『沖縄スパイ戦史』(大矢英代と共同監督)を完成させた。本書の前半は、主にその映画のためのインタビューを活字化したもの。映画の完成後、それ以外の元少年兵の証言、陸軍中野学校出身の隊長の生涯、またスパイ虐殺の被害者側・加害者側双方の証言を追加取材して700ページ以上の大部な新書にまとめあげた。

「少年ゲリラ兵たちの証言」と題された第1章では21人の元少年兵の体験が語られる。1944年9月、中野学校出身の村上治夫中尉と岩波壽中尉が沖縄に降り立ち、島の中・北部で「護郷隊」と呼ばれるゲリラ軍を組織しはじめた。召集されたのは、1000人ほどの地元の15、6歳の少年たち。スパイ・テロ・ゲリラ戦・白兵戦の技術を教え込まれ、米軍が上陸した後、後方を攪乱する戦闘の前線に放り込まれた。

軍服を脱ぎ住民のふりをして米軍が占領した飛行場にもぐりこんで捕虜になり、燃料のドラム缶の数や位置を報告して、後に爆破する。松並木や橋をダイナマイトで爆破し、米軍の前進を妨害する(米軍はあっという間にブルドーザーや仮鉄橋で修復した)。夜間に停めてある戦車を爆破する(失敗)。やがて護郷隊が陣取る山に敗走する日本軍も合流し、組織としてまとまった部隊から戦闘意欲を失った敗残兵まで入り乱れての戦いになった。

「僕は監視役だから全部見えるわけだよ。……もう戦意喪失してる兵隊もいて、下士官たちが、貴様らーとぶんなぐって戦わせようとしたけど、動けないものも多かった。彼らが飯盒を並べて飯を炊こうとして煙を出すもんだから、迫撃砲がど真ん中に飛んできて、バーンと、30人全員吹っ飛んで、一瞬で手や足が木の枝にぶら下がってるわけ。もう地獄の風景。肉も骨も、恩納岳は木が生い茂ってて深いから外に飛び散らないでみんな木に引っかかるわけ。見たくなくても見てしまう。人間は首絞められて死んだ方がずっとまし。恩納岳の神様も、あれは……きつかったと思うよ。あんなの見た人はやっぱりおかしくなるよ」

こんな戦闘を経験した多くの元少年兵が、戦後はPTSDに苛まれた。その一人は「兵隊幽霊」と呼ばれ、座敷牢に閉じ込められた。また日本軍にとって軍隊内の苛めはどこまでもついてまわる組織悪だが、護郷隊も例外ではなかった。中国戦線から帰った在郷軍人が下士官として少年たちを訓練したが、その一部にはひどい苛めをしたり、飢えのなかで食料を独占したりする者がいた。彼は戦死したことになっているが、戦いの最中に後ろから撃たれたといい、「殺した人も島の人、殺された人も島の人」と元少年兵は語る。さらに、退却するときに負傷して動けない兵を殺したという話も多くの少年兵が語っている。

第2章では、護郷隊を率いた村上治夫中尉と岩波壽中尉の生涯が追跡される。ふたりとも沖縄へ来たとき23歳。村上は親分肌、岩波は沈思黙考型と対照的だが部下からの信頼は厚く、元少年兵たちから彼らの悪口はまったく聞こえてこない。そのひとり、村上治夫は大阪府出身。満洲での兵役を経て陸軍中野学校に入り、卒業直後に沖縄に派遣された。任務は護郷隊の結成・教育と住民の掌握。住民を掌握する要は、軍に協力させ、裏切り者を出さないこと。「住民を使った秘密戦を学んだ彼らが持ち込んだ構図、つまりスパイは常に周りから入り込むという恐怖を煽り、警戒させること。軍の機密を知ってしまった住民が米軍に投降すればこれも通敵=スパイ行為とみなすという価値観と密告の奨励」が村々にいきわたった。村上は第一護郷隊隊長として遊撃戦を戦ったが、途中から戦意を失った3~4000人の他部隊の兵士が陣地になだれこみ、敗残兵と住民の「始末」が村上を悩ませた。

やがて敗戦。村上が籠った山を下り米軍に投降したのはポツダム宣言受諾から5カ月後、1946年1月だった。戦後、元少年兵たちは戦死した隊員の慰霊祭を企画して村上を呼ぼうとした。村上にようやく沖縄への渡航許可が下りたのは1955年。それから2002年までの47年間、村上は一度も休むことなく沖縄に通いつづけ、元少年兵たちと戦死者を慰霊し、酒を飲み、カチャーシーを踊った。

村上と岩波が戦った「秘密戦」は沖縄だけのことではなかった。本土決戦に際しては全国に護郷隊と同じ「国土防衛隊」を組織し、陸軍中野学校の出身者を中心にゲリラ戦を展開する。そのための教育機関として中野学校に「宇治分校」がつくられた。第3章では、ここに学んだ岐阜の「国土防衛隊」の元教官と元少年兵の証言が収められている。沖縄で起きたことは、戦争がつづけば日本全国で起きるはずの事態だった。

本書の後半には、スパイ容疑で多くの住民が殺された事件と、住民を虐殺した3人の将校・下士官を巡る証言が収められている。

沖縄戦の末期、米軍は着々と北上してくる。村を逃げ日本軍とともに山へ避難していた住民のなかには、飢えて山を下りて生活しはじめる者、米軍に投降して収容所に収容される者も多かった。敗残兵が多く統制のきかない軍隊、米軍地域と日本軍地域を行き来する住民、飢餓と混乱のなかで軍民ともに疑心暗鬼にとらわれ、「スパイリスト」がつくられる。「命がけで食糧さがして、生きるために、生活するために精いっぱいなのに。早く山を下りた人はスパイなんだと、勝手に決めつけているわけさ。日本軍が、自分が生きるために」

この住民虐殺は、沖縄戦で聞き取り調査がいちばんむずかしい分野だと三上は言う。「踏み込んで言えば『手を下した日本軍』の中に、沖縄県民が含まれていることもあるからである。密告した人と、殺した人、殺された人の遺族が戦後も同じ集落に住み続けなければならない地域もあった」。それだけに証言をする人たちの口も重い。スパイリストに載せられた当時18歳の女性は、著者が四回目に会って話を聞いたとき、ようやく自分が夜、寝ているときに兵隊に踏み込まれ殺されかけたことを語った。

第5章では、住民を虐殺したことがはっきりしている3人の軍人について記述される。3人の戦後についてだけ紹介しよう。少なくとも7人の住民を殺した陸軍曹長は、復員後、遠縁の家に婿養子に入って製材所を立ち上げて成功した。家族には戦争で沖縄に行ったことを一言も言わず、70歳で亡くなった。

スパイとして本人だけでなくその家族も斬殺した海軍大尉は、記録では行方不明とも戦死とも書かれている。だが著者の調べでは、敗戦後も生き延び山に潜伏していたところを米軍に発見され収容された。けれども、その後の消息は同じ部隊の誰もが語らず、「行方不明」のまま封印されている。

スパイ殺害を自ら手帳に記録した海軍少尉は、山に籠っているところを米軍に発見され射殺された。その地区の村人は、村人と親しかった少尉ら12人を丁重に埋葬した。戦後、少尉の両親が沖縄を訪れて手厚く葬られていることに感激し、村人との交流がはじまった。両親は慰霊碑を建て、事あるごとに地区に寄付し、毎年、命日には必ず慰霊碑を訪れた。両親が亡くなってからも、少尉の妹やその子供と地区との交流は今もつづいているという。

陸軍中野学校に国内ゲリラ戦のための学校があったことからわかるように、軍は本土決戦のために「国内遊撃戦の参考」などのマニュアルを作成していた。ここでもスパイと疑われる者には「断乎たる処置」を取ると明記されている。別のマニュアルには民間人を「義勇隊」として組織することや、義勇隊が「不逞の徒」に「適切なる処置」をほどこすことも規定されている。

「もし半年でも終戦が遅れてこの教令のもとに『本土決戦』が始まっていたら、敵の攻撃による被害とは別に地域社会の中に不逞分子の処置が横行し、しかも軍人すら介入しない処刑も起きうる状況にあった。沖縄戦以上の悲劇が各地で起きていたことは明らか」と著者は記す。これは遠い歴史の彼方のことでも、沖縄という地域だけに起こった出来事でもない。日本国中どこでも起きる可能性があったし、もしかしたらこれからも起きるかもしれない。そういうものとして本書を読んだ。

三上が話を聞いた元少年兵はいま、90歳前後。戦後ずっと、仲間うち以外では口を閉ざしてきた。その重い口を開けた著者の誠実と粘りがこの貴重な記録を生み出した。(山崎幸雄)

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2019年9月15日 (日)

「湘南」の誕生

Shounan_masubuchi

増渕敏之 著
リットーミュージック(288p)2019.02.28
1,728円

「湘南」という言葉はごく日常的な言葉として使われている。しかし、その言葉は多様なイメージを持っていることからその構成要素を分析して「湘南」を考えてみようというのが本書の狙い。著者は1957年生まれというから、私より10歳若い世代であることを考えると、「湘南」という言葉から受ける感覚の差はそれなりに大きいと想像できる。しかし、本書では歴史的経緯や、「湘南」を表現した多くのコンテンツを客観的に捉えることで、世代論として議論を狭めることはない。読者自身の「湘南」経験を本書が示す湘南イメージ全体の中に位置付けてみるという、双方向的な感覚が面白い読書になった。

湘南という地域名称の発祥から本書はスタートする。1669年、大磯に禅僧の崇雪が鴫立庵を構え、「著盡湘南清絶地」と石碑に刻んだことに因んでいるという見方。加えて、明治以降、文人たちが相模川を湘江と呼び、その南側を「湘南」と名付けて政治結社、病院、会社、村などに「湘南」を冠していったという歴史が紹介されている。

一方、相模川の東岸である茅ヶ崎や寒川などでは「湘東」という名称が橋や団体名に付けられていた等、歴史的な「湘南」の範囲については興味深い話が多く紹介されている。

そして、現在の行政上の区分や、自動車の「湘南」ナンバープレートの対象自治体、気象庁が使う湘南の範囲の間でも地理的相違があるが、いずれにも鎌倉、逗子、葉山は入っていない。一方、湘南の範囲に関するアンケート結果が紹介されているが、第一位は「茅ヶ崎から葉山まで」であり、「大磯から葉山まで」が第二位であるという結果を見ても湘南の定義の複雑さが良く判る。

明治以降の大きな変化は西欧文化の流入とともに海水浴保養が謳われ、御用邸や別荘地化が進み湘南文化の礎となった。この範囲は大磯から葉山までの海岸線であり、こうした開発を支えたインフラとして国府津までの東海道線の開通(1887年)、横須賀線の開通(1889年)は重要な要素であった。

こうした要素を踏まえて、著者は本書における「湘南」を「大磯、平塚、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉、逗子、葉山」としてその範囲を定義している。

この地域としての「湘南」の等質性を著者は以下の三つの構成要素で説明しようとしている。別荘文化に代表される「高級・富裕」イメージ。サーフィン、ヨット、海水浴といった夏と海に代表される「若者」イメージ。「爆走族・暴走族」に代表される「ヤンキー」イメージ。これらが重層的に組み合わされて湘南イメージが作られていったという仮説である。これらを湘南の発展や歴史的事象に加えて、文学、音楽、映像、マンガといった領域での湘南の表現の実態を描いている。

「湘南の音楽」という切り口では、自由民権運動の盛んな時代に演歌師として活躍した添田唖蝉坊やオッペケペ節の川上音二郎が茅ヶ崎に住んだところから著者は語るが、そう言われても「なるほど湘南」という感覚は希薄だ。しかし、戦前に上原謙が病気がちな息子の加山雄三の健康のために茅ヶ崎に転居したという逸話や、戦後の相模湾沿岸の米軍演習場や施設が作られて米国に代表される基地文化が湘南サウンドの創成に大きく影響したと見ている。

こうした歴史を踏まえて、「湘南サウンド」を、湘南育ちの若者を中心に発表された海やスローライフを主なテーマとした一連のライトミュージックと定義しているのだが、加山雄三とランチャーズ、ザ・ワイルドワンズの時代を経て、1972年に荒井由実が登場し、初期の作品の「天気雨」では直接的に湘南が登場する。八王子に住んでいた彼女と湘南を結ぶ相模線か重要なインフラであり、加えてTUBEも座間の出身で相模線の貢献を指摘しているのは鉄道好きの私としては拍手したくなるような分析である。

そして、サザンオールスターズが茅ヶ崎出身として1978年にデビューしたが、そのインパクトの大きさを考えるとサザンの持つ「湘南」イメージは圧倒的である。一方、堀ちえみや荻野目洋子といったアイドル達も楽曲として湘南を歌っているものの、湘南を表現するコンテンツはやはり自作自演のアーチストの持つ表現力の強さが裏打ちされているという事だろう。

「湘南の文学」として、1903年に発表された村井玄斎の「食道楽」が取り上げられている。村井は平塚に広大な敷地を持ち耕作をしながら、東京や大磯から著名人を招きまさに食道楽を堪能していた人間である。そして、大正期に入り、里見弴、久米正雄など多くの文士が本邸や別邸を構えて鎌倉文士と言われ、鎌倉を舞台とした多くの作品を発表していた。

戦後は1955年に石原慎太郎が葉山を舞台とした「太陽の季節」を、1964年立原正秋が鎌倉を舞台とした「薪能」といった名作が生まれる。その後、片岡義男の「スローなブギにしてくれ」、村上春樹の「村上朝日堂」などにも湘南が語られているとしている。ただ、私は「スローなブギにしてくれ」からは「湘南」というよりも、あの時代の「若者の切なさ」を感じていたというのが実感である。

「湘南の映像」という切り口として、まず1936年に松竹撮影所が蒲田から大船に移転したことが指摘されている。これを契機に俳優たちが鎌倉などに居を構えたり、大船の都市開発の進展なども湘南イメージの醸成の一翼を担ったと言える。

湘南を描いた映画としては「太陽の季節」や「若大将シリーズ」、黒沢明の「天国と地獄」など多くの映画作品が紹介されているが、その中で1971年の藤田敏八の「八月の濡れた砂」や1990年の桑田佳祐の「稲村ジェーン」が私としては印象深い作品である。この二作はともに主題歌が大きなインパクトを感じていたことを思い出す。

最後の視点は「湘南とマンガ・アニメ」である。「スラムダンク」や「ピンポン」「南鎌倉高校女子自転車部」といった作品のストーリーから「ヤンキー」と「湘南」の係わり合いを読み解いているのだが、私は1980年代以降のマンガやアニメについては知見もなかったが、唯一、イラストレイターのわたせせいぞうを取り上げていたところは共感できるところであった。1970年代に出逢ったわたせのイラストや作品には若い落ち着いた男女、海、車、空といった風景が独特な色彩感覚で描かれている。わたせの作品が持つイメージは私の湘南の感覚に重なり合うというのも事実である。

こう考えてみると「湘南」という地域イメージ、地域ブランドの形成とは各自治体の努力によって作られたものではなく、時代と人々によって自然と作られていったというのが著者の主張の大きなポイントであり、多くの自治体が現在進めている地域活性化の戦略のヒントになるだろうと言う主張もしている。「湘南」で終わらせることなくこうした分析から地域活性化のヒントが生まれてきてほしいと思うのだ。

私は1987年から1991年の4年間(年齢的には40代前半)平塚市八重咲町に住んでいた。村井玄斎の旧宅と道を隔てたところだ。10分も歩けば海岸。134号線をドライブして茅ケ崎や片瀬などのレストランを訪れたり、平塚海岸からの投げ釣りや花火大会を楽しみ、箱根駅伝の応援をしたりと、東京の下町育ちとしては束の間の湘南ボーイを体験した。そうして充分楽しい時間を過ごした思い出を蘇らせてくれた読書であった。(内池正名)

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2019年3月15日 (金)

「贖罪の街(上下)」マイクル・コナリー

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マイクル・コナリー 著
講談社文庫(上320・下320p)2018.12.14
各950円

ミステリーのシリーズものを読む楽しみは、なじみのバーで酒を飲むのに似ている。バーへの道筋の風景は、すっかりなじんでいる。扉を開け、まずはお気に入りの席が空いているかどうか目で確かめる。その席に座ると、バーテンダーが黙っていても自分のボトルをカウンターに置いてくれる。いつもの酒(ジャック・ダニエルズのソーダ割)が目の前に差し出される。そして気の置けない会話。すべての手順が決まりきって、すべてが心地よい。

ミステリーのシリーズものを読むのも、そんな安心感とともにある。なじみの主人公と、主人公を取りまく常連たち。彼らの関係性が時に発展し、時に停滞しながらも小宇宙をつくりだし、そのなかに浸るのが快い。でも読者というのは贅沢であり残酷でもあるから、長いことシリーズものを読んでいると、ある瞬間、その小宇宙になじみがあるからこそ飽きがくることがある。そんなふうにして、いくつのシリーズものと別れてきたことだろう。

ローレンス・ブロックの探偵マット・スカダーものは飽きがくるまえにシリーズ自体終わってしまったが、ロバート・パーカーのスペンサー・シリーズ、パトリシア・コーンウェルの検視官スカーペッタ・シリーズ……。ほかにもある。そんななかで、今も読みつづけているのがマイクル・コナリーの刑事ハリー・ボッシュ・シリーズだ。『贖罪の街』は、その最新作。

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2018年11月22日 (木)

「親鸞と日本主義」中島岳志

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中島岳志 著
新潮選書(304p)2017.08.25
1,512円

今年5月のブック・ナビで中島岳志の『超国家主義』を取り上げたとき、書店で同じ著者のほかの本もぱらぱらと立ち読みした。そのとき、『親鸞と日本主義』がどうやら『超国家主義』と対になる著作であるらしいことがわかった。研究者の書くものというよりノンフィクションのようだった『超国家主義』につづけてこの本も読みたくなったので、今月はちょっと古くなるが去年8月に刊行された『親鸞と日本主義』を取り上げることにした。こちらは、いかにも研究者の著作というスタイルが採用されている。

2冊とも明治から昭和前期にかけての超国家主義を素材とする。『超国家主義』は、近代化によって生まれた自我意識と立身出世の風潮や封建的家族関係の相克に悩む煩悶青年がテロリストとして転生する「テロリスト群像」といった趣きの本だった。彼らのなかには、日蓮の教えを独自に解釈して「国家改造」「昭和維新」を夢見た日蓮主義者が多くいた。

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2018年10月22日 (月)

「じーじ、65歳で保育士になったよ」高田勇紀夫

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高田勇紀夫 著
幻冬舎(306p)2018.08.30
1,404円

著者はIT業界という育児とは無縁の職場で定年まで活躍し、退職後に待機児童の問題を目の当たりにして65歳から保育士として働くことを決意したという。保育士の資格取得から、保育士としての体験とそこから得られた保育に関する提言を一冊にしたもの。

保育士の仕事の内容も、国家資格であることさえも知らなかったシニア男子が典型的な女性の職場に適応できるのかといった不安もかかえつつ「保育士になる」と決断させたのは、問題解決の一助として貢献したいという一念だったと著者は語っている。少子化や待機児童に関していろいろな立場の人達から問題提起がなされてきたし、ニュースにもなってきた。それに伴い、政府施策が華々しく発表されたものの、結果として問題解決に至ったという感覚はあまりない。そうした中で、問題を声高に語るだけでなく、保育士としての貢献だけに満足せず、課題を探り提言するという一連の活動は著者の意志の強さを感じる。

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2018年5月20日 (日)

「醤油 (ものと人間の文化誌 180) 」 吉田 元

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吉田 元 著
法政大学出版局(269p)2018.03.09
2,808円

古代から現代まで日本における「醤油」の歴史を辿っている一冊。加えて、アジア各国における「醤油類」の製造についても俯瞰していて、広範囲な醤油文化を描いている。技術に重点を置いた内容なので、詳細な醗酵のメカニズムや製造プロセスの説明など、読み手の興味によって、選択的な読書をしても良いと思う。醤油の歴史についての好奇心を満たしてくれる十分な内容になっている。

いうまでもなく、醤油は日本で愛されて来た発酵調味料。その理由として、温暖湿潤な気候に支えられた農耕文化のわれわれ日本人の食生活は穀物中心の植物性タンパク質を大量に摂取するため。塩に頼った味付けが必要だった。過去においては、こうした日本型の食生活の欠陥として動物性タンパク質の摂取不足と塩分の過剰摂取が指摘されてきた。最近はその日本食は健康食として世界からもてはやされているというのも皮肉なものである。要すれば、何事につけても過剰摂取やバランスの崩れが食生活として問題が有るという事なのだろう。

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