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世界の食卓から社会が見える/戦争は女の顔をしていない/世代の昭和史/世界史を変えた独裁者たちの食卓(上)/戦争と平和 ある観察/世界史を大きく動かした植物/「線」の思考/生命式/戦争育ちの放埓病/世界まるごとギョーザの旅/セカンドハンドの時代/戦争まで/戦艦大和ノ最期/絶筆/戦後入門/セロニアス・モンクのいた風景/千本組始末記/拙者は食えん! /戦後腹ぺこ時代のシャッター音/『世界地図』の誕生/全国フシギ乗り物ツアー/戦略の本質/世界のすべての七月/戦争が遺したもの/青春の終焉

2023年9月15日 (金)

「世界の食卓から社会が見える」岡根谷実理

岡根谷実理 著
大和書房(312p)2023.04.15
2,090円

料理本というと、得てして「美味しい」とか「珍しい食材」といった視点で完結してしまうものだが、著者は世界各国の一般家庭に滞在し、一緒に料理をつくり、食べることで食材や料理についての話を聞き集めるという活動を続けている。その視点は個人から徐々に社会や歴史へと広がり、食を起点とする課題や文化を深堀りしている。著者は自身を「世界の台所探検家」と称し「料理は社会を知る入口でしかない」と語っている様に、家庭の料理から現地を知り、そして世界の動きが見えてきた時に、大きな達成感が得られると言っている。まさにフィールド・ワークの神髄といえる。本書で語られる、各国の料理から見えて来る課題は「政治」「宗教」「地球環境」「食の創造性」「伝統食の課題」「気候」「民族」と多様さが面白い所である。

ただ、私もテレビで各種のニュースを横目で見ながら、日々食事をしているものの、食材の一つ一つに思いを馳せて食べている訳でもなく、「美味い」か「不味い」かが重要で、口にしている食べ物とニュースを結び付けて考えることもそう多くない。そんな生活の中で本書を読んだ結果、少しでも食べ物から世の中を見るルーティンが生まれてくれば著者の狙いは達成できたということなのだろう。食を取り巻く幾つかの課題について、初めて知ったという面白さとともに、そう言われてみればという再確認の事柄もあり、それらをビックアッブしてみた。

食と政治の関係では、メキシコのタコスを取り上げて、1991年の北米自由貿易協定締結に従ってアメリカからの強い要請による、遺伝子組換(GM)や除草剤使用のとうもろこし輸入の影響を描いている。加えて、スーダンではイネ科のソルガムという穀類の粉で「アスイダ」という練り粥、日本で言えば「蕎麦がき」的料理がほぼ毎日食卓に登場する主食だが、一方、町ではコッペパンが沢山売られているという。スーダンは乾燥地域なので小麦は栽培できないのだが、1980年代からアメリカの「余剰農産物処理法」によって輸入が拡大するとともに政府の補助金もあり、パンが安価な代替主食になっていった経緯がある。しかし、補助金の打ち切りやウクライナ戦の影響を受けて値上げが続いているという。輸入に依存した食のリスクが顕在化して、国民の混乱が有るという。自給率の重要性が再確認されるとともに、アメリカの食料輸出戦略の負の部分がいろいろな分野で出てきていることも判る。

食と宗教については食戒律(コーシャ)がメインテーマである。イスラエルのマクドナルドではチーズバーガーは販売されていない。それは、コーシャの基準に「同じ料理で乳製品と肉の両方は使わない」とあるのも、聖書に書かれている「子山羊をその母の乳で煮てはならない」という言葉に起因しているという。このように各宗教が色々な食戒律を持っているが、各国航空会社が提供している特別機内食のリストが紹介されている。見ると、ANAは中国南方航空や大韓航空とともに11種類の特別機内食が選択可能な一方、エールフランス、アメリカン、ルフトハンザは6~7種となっている。選択種類の多さにも驚くが、アジア系と欧米系の差についても理由が知りたいという好奇心が湧いてくる。

食と地球環境について、ボツワナのティラピア(淡水魚)の高い養殖効率から将来のタンパク源確保の将来性を評価している。また、メキシコのアボカドは紀元前から栽培されており、現在も全世界の30%の生産で世界一を誇っている。日本で消費されるアボカドの90%はメキシコからの輸入である。しかし、問題は栽培のための水の確保だという。アボカド1kgの収穫に1981リットルの水が必要とされ、これはバナナの2倍、トマトの10倍である。このため国内の限られた栽培地確保のために森林伐採が進み、環境危機が叫ばれていると指摘している。

食の創造性という観点では、ベトナムや台湾などでみられる代替肉料理と宗教との関係について探っている。肉を食べないがタンパク質は摂取するというのなら、わざわざ大豆で作った代替肉をたべずに大豆食品を食べれば良いというのももっともだ。「人間は肉に似せたものを何故食べるのか」と問い掛けている。日本でも精進料理に「うなぎもどき」が有ったりする。台湾やベトナムでも精進料理として鶏の丸焼きをかたどった料理があるという。著者がベトナムの尼寺に行ったのが仏誕祭(花祭り)で参拝者に料理がふるまわれていた。その中にエビのような人参や肉無しの肉まんがあったので、尼僧に理由を聞くと「私たちは肉を食べたいとは思わない。野菜を野菜として食べていれば穏やかでいられる。肉に似せた精進料理を作るのは参拝者のため」とのこと「僧からの優しさの贈り物」と著者は見ている。

現代日本の代替肉料理はどう考えればいいのか。単なる我慢の結果と言うのでは趣旨が違うようにも思える。

伝統食についての課題について、旧ソ連邦のモルトバは農業国だが、伝統的に各家庭で自家製のワインを作っている。また、家で搾ったミルクでチーズを造っている。客に自家製のワインとチーズでもてなすのが礼儀とのこと。まさに伝統食ということなのだろう。ここで見えて来る問題は、国民のアルコール摂取量はワイン換算で170本/1人で世界一位。これに統計に入っていない自家製ワインが加わると途方もない量になるとみている。この国の全死因の26%はアルコール関連で世界平均の5倍という。文化と伝統を取り締まることはできないが、悩ましい課題である。

と民族の観点では、イスラエルからパレスチナに移動して行く旅で国境を越えると風景は一変して石造りの家々と古い街道が続く。パレスチナで訪問した家庭では多様な食べ物を作ってくれたが、必ず出て来るのが自家製のオリーブの塩漬けで、漬け汁にレモンが皮ごとはいっていてサッパリとした味わい。食後、散歩に出ると道の両側に大きな樹が生えている。案内してくれた人が「オリーブの木が生えてると、そこはパレスチナ人の土地だと判る」と言う。何故と聞くと、「オリーブの木は地中深く根を張り、簡単には抜けない。木質も硬く、切り倒すのも一苦労。だからパレスチナ人が昔から住んでいた土地にはオリーブの木が残っている。いまはイスラエルでも」

美味しいか美味しくないかだけでなく、料理の成り立ちを理解することで、我々が生きている社会を見ることが出来る。そんな思いが著者をかき立ててきた様だ。そして、2018年から2022年にかけて著者が旅してきた体験が本書のベース。それも、著者が切り取った世界の見方の一つでしかないことから、刻々と変化する時代であるからこそ、読者が新たな「料理の向こう側」を見たならば、是非教えてほしいという一言も添えられている一冊。(内池正名)

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2023年1月15日 (日)

「世代の昭和史」保阪正康

保阪正康 著
毎日新聞出版(224p)2022.10.05
1,760円

著者の保阪正康は昭和14年(1939年)生れ。評論家・ノンフィクション作家として活動し、ライフワークは本書の原点ともいえる「昭和史講座」と題して、多様な世代の昭和体験と思いを集めた同人誌で2004年の菊池寛賞を受賞している。

歴史を世代に区切って語るというのは、社会科学方法論としては違和感があるし、世代として括られてもその中には多様な歴史観が存在するという認識は私だけではないだろう。しかし、保阪は世代論として歴史を考える意味として「自分の世代が持っている、価値観や社会観の確認」「それぞれの世代が持っている社会的事件とその影響力」「世代間を繋ぐ言葉と心理を支える基盤」「戦争体験とその教訓の継承」の四点を挙げている。

本書ではサブタイトルにある様に「戦争要員世代: 大正11年(1922)~大正13年(1924)生れ」と「少国民世代: 昭和5年(1930)~昭和10年(1935)生れ」に焦点を当てて昭和を描いている。人生に影響を及ぼす社会的事件とは、幼少期から青年期に遭遇したイベントや教育を通して刻み込まれた体験が成人し熟年になっても良かれ悪しかれ生き様に影響を与えているという考え方だから、昭和を世代論として語るキーワードは「太平洋戦争」ということになる。保阪は昭和史の語り部と言われる半藤一利の思いを引き継いでいきたいと言っているが、その半藤が昭和5年生まれの「少国民世代」であることも偶然ではないのだろう。

「戦争要員世代」は太平洋戦争で最も戦死者の多かった世代であるとともに、学徒出陣の世代で「きけわだつみのこえ」に代表される戦没者の手記も一番残されている。そうした記録や、生き残った同世代の人々からの話を聞き、保阪は「戦争に直面することで、死を受け入れる以外にない時代にめぐり合わせた」世代と表現している。

学徒出陣と聞くと、昭和18年に行われた神宮外苑の学徒出陣壮行会を記録映像とともに思い浮かべるのだが、陸海軍で10万人の学徒兵が兵役につき、その内1万5千人が戦死しているという数字を示されると、今更ながらに彼らの無念さが偲ばれる。

「戦艦大和の最後」を書いた吉田満(大正12年生)は「我々を戦地に駆り出そうと迫る暴力に対し、苦しみながらも受け入れたのは、歴史の流れが逆戻りを許さぬ深さまで傾いていることを知ったからである。先輩や戦前派の人達は戦後いろいろ釈明を試みているが、結局は彼らの責任で長期戦に進み、戦火に身をさらしたのは彼らではなく、我々の世代だった」としている。また、司馬遼太郎(大正12年生)は自分達の前の世代の国の指導者を批判しているものの、彼は昭和史を書くことはなかった。その理由を司馬は「精神衛生上悪い」という言い方をしていたという。それだけ自らが体験した時代を文章化すると登場する人々を許せない気持ちが強くなり、客観的にはなれないということのようだ。

こうした「戦争要員世代」を死地に向かわせたのは、太平洋戦争開戦時の総理大臣だった東条英機に代表される「戦争を動かした先行世代」である。

東条は明治17年生(1884)で、同年生まれには海軍の山本五十六、自由主義者だった石橋湛山、反翼賛の政治家三木武吉などが名を連ねる。保阪は、これらの人々の生き様を描きながら、何故、戦場体験の無い陸軍官僚の東条が突出したのかが重要な視点と語っている。陸軍士官学校からは東条の前後にも有能な人間が出ている。例えば一期前の永田鉄山は軍事テロ(暗殺)に会わなければ東条の時代は無かったとも言われる人材だ。保阪は政治に対して軍が増長した理由を、天皇と直結した軍こそが国の主権を持ち、反対論には「統帥権干犯」という烙印を押すことで排除していったこと。また、具体的な威圧としてはテロとクーデターによる政権獲得手法がまかり通っていたことを挙げている。永田鉄山の暗殺にはじまり、5.15事件、2.26事件と続く軍政の歴史そのものである。もし、「永田が殺されていなかったら」という仮説の意味はともかくとして、保阪は「永田が軍の責任者であったら、少なくとも学徒が特攻として遺書を書くことは無かった」と言い切っている。

終戦とともに、この「戦争要員世代」は戦いの時代を振り返り、その教訓を語り始める。そのひとりが鶴見俊輔(大正11年生)である。彼はハーバード大学に留学し、昭和17年に帰国し海軍で米軍のラジオ放送を傍聴する情報戦に携わった。戦後教壇に立つとともに、戦時中の共産党・社会主義者の翼賛化や自由主義者のファシズム化について研究し昭和34年にあの大作「転向」を世に出している。それは「裏切り」を暴くのではなく、「間違いの中にある心理を掬い上げる」という考えで活動家・政治家・知識人たちの行動分析をしている。また、遠藤周作(大正12年生)は戦時中もカトリック教徒として過ごし、戦後「海と毒薬」に代表される、日本人の倫理観について批判的に考察している。兵役に就いていた評論家の村上兵衛(大正12年生)は「天皇の戦争責任」を論じ、「裕仁天皇は終戦をもって退位すべきだった」という指摘もする。同時に保阪は明治・大正・昭和・平成の天皇の戦争観をまとめる中で、昭和天皇が終戦後に強い言葉で自省していることも村上の論と合わせ読むことで太平洋戦争と天皇との関係を考える上で大きなポイントだったことを再認識させられる。

平成天皇は生前退位の会見で「自分の代に戦争が無かったことを喜びとする」と述べているが、政治的発言と指摘される恐れもあるが、まさに本音なのだろう。

「戦争要員世代」の日本国憲法に対する思いも論点として取り上げられており、渡辺恒雄(大正15年生)と財界の品川正治(大正13年生)の話を対比して問題提起をしている。渡辺は令和2年のNHKスペシャルで日本国憲法について「非軍事憲法」という言い方をして「戦争を認めない前提でこの憲法を平和憲法とするための努力(改憲)が必要」と語っている。一方、品川は中国戦線に送り込まれ、昭和21年4月に上海からの復員船で帰国する。上陸を待つ船内に新聞が届けられ、そこには前日に公表された日本国憲法が掲載されていた。部隊の兵士を前にして品川が憲法を読み上げて行くと、第9条を読み上げたところで全員が泣いたという。品川は「戦争を始めるのも人間。止めるのも人間。お前はどっちだ」と問い続けた戦後と回顧している。こうした兵士にとって日本国憲法は平和憲法と言えるのだろう。渡辺と品川の意見の相違が有っても共通の「非戦争」という意味では同じ土俵と保阪は考えている。しかし、こうした議論もロシアのウクライナ侵攻を目の前にすると「平和」の確保のための物理的な「努力」が必要という事も良く判る。

次に「少国民世代」について、小田実(昭和7年生)、野坂昭如(昭和5年生)、本田靖春(昭和8年生)などの声を集めている。この世代にとっての太平洋戦争とは、集団疎開、勤労動員、兵役(満蒙開拓青少年義勇軍・海軍特別年少兵)といった戦争体験であり、戦後の教育の大転換の影響が大きい。この世代の心理形成は「全ての言論・事象を疑う」「現実は不変ではない」「権力は事実を捏造し国民を欺く」といった、ある種のニヒリズムが根底にあるとしている。

この世代は戦時下の皇国少国民教育から戦後民主主義教育という大転換の中で屈折した思いを語る人が多い。映画監督の篠田正浩(昭和6年生)も学校が再開されたとき歴史の教師が「申し訳ない授業をした。許してくれ」と頭を下げたという。そして、昭和21年1月に天皇の人間宣言で天皇自身が教育の過ちを認めた事で、「真実は何かを自分で確認しようと覚悟した」と言っている。半藤は「昭和20年の東京空襲で真っ黒になった焼死体を見ながら、戦争を賛美してきた大人たちの無責任さや不条理を感じ、もう生涯『絶対』と言う言葉は使わないと考え生きてきた」と語り、「八紘一宇」「挙国一致」といった四字七音の言葉に振り回されたことから、プロパガンダに通じる言葉に敏感になったという。また、半藤は日本国憲法下の自衛隊についても、単なる軍隊への嫌悪感ではなく、国内に向けた暴力化(クーデター等)の危険性も注視しており、「平和」を語るにあたって軍事力を論理的に考えて行く重要性を示している点は注目したい。

本書の中心にある「戦争要員世代」は、私にとっては両親の世代である。父は大正9年生れで、昭和17年9月に大学を卒業し、就職している。昭和18年には召集で予備士官学校に入り新潟の新発田連隊に配属されてポツダム中尉で終戦を迎えた。終戦で銀行に復帰したものの、昭和22年には、政府の「公職適否審査委員会事務局」に出向を命じられ、20代後半でいわゆる公職追放の審査事務に携わっている。その時、自身の父親や伯父たちを追放処理するという運命に向き合いながら、どう気持ちの辻褄を合わせていたのかについて父は私に語ったことは無い。ただ、父は「子供の頃からの仲間達は1/3位戦死した。彼らの為にも生き残った俺は頑張らなくてはいけない」と話していたが、それが父の戦後を生きるモチベーションだったと思う。

母は大正13年生れで、女子大に在学中で神宮外苑の学徒出陣壮行会に送り出す側で参加していた。東条が挨拶している、あのニュース映像に写っているという話を母から聞いたことがある。

両親からもう少し当時の話を聞いておけば良かったなと思うこともあるが、戦時中のことに対しては二人とも話したがらなかったし、けして楽しい時代ではなかったということだろう。(内池正名)

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2022年10月18日 (火)

「世界史を変えた独裁者たちの食卓(上)」クリスティアン・ルドー

クリスティアン・ルドー 著
原書房(209p)2022.07.25
2,200円

著者のクリスティアン・ルドーはフランス人の作家でパリのエリゼ宮で働くシェフたちを描いた作品や、各国のリーダーと食事をキーワードとしたテレビドキュメンタリー番組制作をしてきたというから、そうした活動の集大成が本書ということなのだろう。

「何を普段食べているものを聞けば、どんな人間なのかが解る」という言葉から本書は始まる。食べ物(料理)は個人の願望、社会的地位、育ち方などの象徴であるし、民族という観点で考えれば国の歴史もそこから辿ることも出来る。ただ、「元首や独裁者が公邸で食事をするときはけして一人ではないので、彼らの胃袋はもはや自分一人のものではない。独裁者の食事・宴会の場は血まみれの悲喜劇の舞台」と著者が言っている様に、我々一般人が仲間と楽しく食事を分かち合うという状況とは全く異なる食事環境だということに気が付かされる。本書は中国の毛沢東、中央アフリカ共和国のボカサ、ドイツのヒトラーを取り上げているのだが、独裁者たちの食事の小話を取りまとめているものではなく、食卓という切り口から独裁者たちの生きた時代と国家の状況を広く俯瞰して見せているとともに著者の独特(フランス人的)な視点も面白い所である。

第一章は毛沢東。長江で水浴びをしている毛沢東のデップリとした体形から始まる。1950年代の大躍進政策の失敗で全国民が飢饉状態でやせ細っていた中で、あの世界の注目が集まった肥満体映像を思い出すことが出来るのも我々団塊の世代の特権だろう。

毛沢東は湖南省の堅実な生活を送る父のもとで育ち、教師をしながら28才で湖南省の共産党代表になっている。地位が上がって行っても食事については地元料理(豚の角煮や羊のシャブシャブ)だけで充分満足していたものの、お気に入りの唐辛子は「真の共産主義者の鉄の意志を鍛えるもの」といった食を通しての政治的視点も忘れずに語っていたという。

大躍進政策で人民公社・大食堂といった制度を導入して農作物や鉄鋼製品の増産を図るが、技術的な未熟さから失敗を重ねた結果、20世紀最悪といわれる飢饉をもたらし1500万人以上の餓死者を出した。人民が飢餓に苦しんでいる厳しい状況が伝えられると毛沢東は「肉を断って粗食に甘んじる」と宣言して、「英雄的菜食主義」と宣伝させた。実際は肉の変わりに「武昌魚」といわれる長江産の新鮮な魚を食べ、ウミガメのスープを楽しんでいたということから、人民とはかけ離れた食生活だったことは歴然としている。

その後、文化大革命を通して国家中枢に君臨したが、世界各国の元首が北京を訪れても公的な宴会の場に毛沢東が出席することは無く、周恩来がホストを務めていた。「革命は客にご馳走をふるまう事ではない」という毛の言葉はけして比喩だけでなく、こうした現実の外交行事でも筋を通していたということなのだろう。

二人目の独裁者はジャン・ベデル・ボカサ。彼はフランスから1960年に独立した中央アフリカ共和国で軍事クーデターを起こして1966年大統領に就任している。ヨーロッパ各国はアジアやアフリカに多くの植民地・属国を持っていたが、第二次大戦後には各国が独立している。こうした独立国家にとって旧宗主国との関係は感情論を含めて多くの歴史的問題をはらんでいた。ボカサの父親はフランスの人種差別に異議を唱えたことから見せしめで処刑され、悲嘆にくれた母親はその7日後に自殺している。そんな体験を持っていても、彼は宗主国のフランス軍に入隊し25年間の軍歴を全うしたうえでフランスを第二の祖国として考え、独立後も二重国籍を維持していたという男だ。

大統領ボカサは郷土料理であるキャッサバの葉と肉のグリルで済ませるという位だったから、食に対する欲は強くなかった。そんな大統領の性格もあり、この国の公式レセプションでは形式はともかく、供されるアフリカ料理やフランス料理の味に対する各国要人たちからの評価は圧倒的に低かったという。

こうした中でボカサは「終身大統領」という民主主義とは相いれない立場に就き、さらに皇帝となって戴冠式を行うに至った。まさに茶番でしかないのだが、この戴冠式典ではクリストロフ社の銀のカトラリーやリモージュの皿などが使用され、フランス産の6万本のワインやシャンパンが運び込まれ国家の年間予算の1/4に当たる金額が消費されたという。

そんなボカサも、数年後にクーデターで失脚。フランスに亡命したが母国に残された公邸の冷蔵庫に人肉が保管されていたというシヨッキングな報道がなされた。この話に元料理人は、アフリカ各国からの賓客に食べてもらうための物であったという説明をしている。

フランス人からみたボカサの印象はばかげた戴冠式とこの人肉食の噂に集約されていて、ボカサを道化師のように馬鹿にしているのだが、ボカサが消費した金はほとんど旧宗主国のフランスに流れ込んでいるというのも忘れてはいけないと思うし、何故そこまでしてまで旧宗主国から認めてもらいたかったのかは理解出来ない。

三番目の主人公はヒトラーである。彼が敗戦を目前にして過ごしていたベルリンの地下要塞には大量に貯蔵された高級食材、お菓子、シャンパン、煙草などがあり、戦況悪化に対する不安を紛らわすことに役立っていたと聞くと、身体を維持するための食材と言うよりも心を維持する嗜好品ということなのだろう。「わが闘争」における自らの描写の要点は、ウイーンの美術学校に入学出来ず、雑役夫や売れない画家として暮らした5年間の空腹に耐えた事。そして、第一次大戦の兵役で規則正しい生活パターンを身に付けたという「苦労の体験」と「真面目な学び」の両面を示すことでドイツ再生のリーダーとしての正統性を示している。「労働者に仕事とパンを」というのはナチ党の公約だが、ヒトラーが仕事もなく飢えた原因は「ユダヤ人」ではなく自らの才能の無さによるものであるし、無思慮な生活の結果であるという著者の冷静な指摘は的を射ている。

「ヒトラーは煙草を吸わず、酒を飲まず、肉も魚も食べず、女にも手を出さない」と言われていたように彼は快楽主義とは無縁だった。こうした行動をとった原因として、ヒトラーは自分の外見が理想的なアーリア人という審美基準(肥満でないスマートさ)に近づけようとしていたと著者は見ている。

そんなヒトラーの食卓は彼の二つの顔を映し出す鏡だった。第一は「食事時間の不規則性、食事を共にする人同士の交流という社会的機能を奪い、ヒトラーの自らを称える演壇になっていた」というもの。もう一つの鏡には「気遣いと礼節に満ちており、特に若い女性に対しての礼節と父親のような温情に溢れた」ヒトラーがいる。

しかし、お気に入りの栄養士の女性に対する「人種純正証明書」の例外発行命令の話などを読むにつけ、この独裁者の自己中心的な温情に辟易とさせられるとともに、ホロコーストを生み出したのは「怪物」ではなく「人間」だったことを忘れるべきではないという著者の主張も納得出来る。

食卓の風景の主役は人と料理だが、自分でその風景を客観的に語る事は難しい。当たり前の様に食べている料理も、母親から作り方を教わっただけで、どんな時代を紡いで出来ているのかも知識として持っている訳でもない。ただ、人は食べなければいけないので日々の食卓は家族や仲間との重要な空間である。

一方、通常の公的な会食の場であれば、政治的やビジネス的視線が交錯しながらも文化や伝統といった基準が一定に保たれている空間が形成されて、談笑しながらの会食を通してお互いの狙いを伝えていくことになる。しかし、その席の中心人物が独裁者だとすればその人間の政治的思惑と自己中心的個性だけが際立って食卓の目的さえも意味を失っていくということは容易に想像できる。それは本書でも示されている様に、最早食事の為の場ではない。

ただ、本書のような視点からの分析の対象として面白そうな、近代日本の指導者・元首たちが見当たらないのも寂しいものではあるが。(内池正名)

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2022年9月16日 (金)

「戦争と平和 ある観察」中井久夫

中井久夫 著
人文書院(210p)2015.08.20
2,530円

中井久夫の訃報に接した。8月8日、肺炎で死去。88歳だったという。新聞記事には、中井が精神科医で統合失調症の専門家であること、阪神淡路大震災に遭って地域の精神科医の連携に奔走し、その後につくられた兵庫県こころのケアセンターの初代センター長に就任したことが記されている。また専門的な著作のほかに、ギリシャの詩人カヴァフィスの翻訳やエッセイを残したこともつけ加えられている。

中井久夫が残した多くの専門的著作はハードルが高いけれど、阪神淡路大震災に際しての活動記録や、ととりわけ1990年代から折々に刊行された10冊近いエッセイ集は本を、読むことの醍醐味を味わわせてくれた。明晰な文体、この人ならではの斬新な視点から受ける刺激は、比類のないものだった(本サイトでも『「昭和」を送る』を取り上げている)。

訃報を聞いて、そういえば一冊、積んだまま未読の本があったな、と思い出した。それが本書。2015年に刊行されている。中井の著作を集成した『中井久夫集』(みすず書房)全11巻が刊行されはじめたのが2017年で、本書はエッセイとしては中井の最後の単行本ということになる。

テーマはふたつ、戦争と震災。刊行された2015年は戦後70年、阪神淡路大震災20年に当たるから、そのことも意識されているだろう。中心になるのは、タイトルと同じ「戦争と平和 ある観察」と題された60ページほどの文章。軍人の家系に生まれた中井が、小学生として体験した太平洋戦争を核として20世紀の戦争と平和を、「生存者罪悪感」「願望思考」「認知的不協和」「安全保障感」、また「過程」と「状態」といった彼らしいキーワードを駆使して、人類はなぜ戦争を埋葬できないのかが考察されている。

これらのキーワードは中井が精神医学の研究者として使ってきた言葉だろうが、それを専門外の歴史に応用してみせた感がある。彼自身、エッセイの最後で「そもそも私がこのような一文を草することは途方もない逸脱だとわれながら思う。しかし、一度は書かずにおれなかった」と記している。そのように中井に書くことを強いたのは、「戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない」と書くように、体験とそれに裏打ちされた「観察」を言葉にして次の世代に伝えなければという危機意識だったろう。

本書の構成が面白いのは、この抽象度の高いエッセイの後に「戦争と個人史」「私の戦争体験」と個人的な事柄にふれた2本を配し、この3本を前提にして歴史学者・加藤陽子と対談した「中井家に流れる遺伝子」が置かれていることだ。中井久夫が記す戦争と平和への「観察」について、私にはあれこれ言うだけの能力に欠けている。そこで、いかにも中井久夫だなあと感心してしまったところをエピソードふうに二、三、紹介してみる。

小学生の中井は、天皇は神であるとか「天壌無窮」「神州不滅」といった言葉に疑問を抱いた。そのきっかけは、「天体と宇宙」という本を読んで「宇宙的な規模からものをながめる」習慣がついたからだという。そこから、「天皇を神だというときアンドロメダ星雲を支配しているわけはなかろうと考えていました」となる。それに対して加藤は、「ふつう、天皇陛下もお手洗いにいくだろう、といったところから、天孫降臨、現人神はおかしい、という疑念からはじまるわけで。星雲ですか!」と応答している。「こういうところが、先生の、他の追随をゆるさない部分ですね」。

もうひとつ中井らしかったのは、太平洋戦争に敗れた日本の戦後改革を考えるのに古代日本を参照していること。これにも驚かされた。「戦後の改革は、千三百年以前の変化に似ている。それは白村江の敗戦後の変化である。この敗戦を機に『倭国』は部族国家集合体であることをやめて、『日本』となり、唐に倣った位階制の存在を強調して中央集権官僚国家を発足させ、大使・留学生を派遣して唐主導下の平和に積極的に参加した」。

これに対し「慧眼です」と応じる加藤も面白い。白村江を考えた人がもう一人いる。それが昭和天皇だというのだ。「(敗戦1年後に天皇主催で開かれた茶話会で)天皇はこう言う。今回の戦争では負けてもうしわけない。けれども、日本が負けるのは今回がはじめてではない、白村江の戦いがあった七世紀にも負けている。それを考えれば、日本が今後進む道は明らかだ。白村江で負けて以降、日本は国風文化といわれる文化の花を咲かせた。今後の日本は平和国家、文化国家の道を歩めばよいと、昭和天皇は述べていますね」。

本書の後半には災害についての2本のエッセイと、神戸の元書店主で被災者支援の文化活動を行っている島田誠との対談が収録されている。ここでもまた、いかにも中井久夫、と思えたエピソードを拾ってみよう。

阪神淡路大震災に遭った中井は精神科の患者をケアするネットワークづくりに奔走していた(その経験は患者のみならず被災者の心のケアに関する手本として、後の新潟中越地震、東日本大震災に大きく生かされた)。その記録は彼の編書『1995年1月・神戸』(みすず書房)に詳しいが、夜を日に継ぐ活動の一方で彼はこんなことを考えている。

「私は、こうした災害の中で、非差別者に対して暴行があるのかないのかが、戦後五〇年をどう見るかの試金石であるだろうと考えていました。在日韓国・朝鮮人に対して日本人はどういうことをするだろうか、もし暴行があれば私はどう行動するだろうか、と考えて、それなりの覚悟もしていたのですが、後で在日の人に聞くと、強い不安があったけれどまちに出るとそんな不安はすぐ消えたと言っています」

もうひとつ。震災後数か月はあった「みんなが優しくなって、共感できるような」「共同体感情」の行方。あの一体感は消えてしまったのか。中井は、あれは「みんな無理をしている」のだから永続しないと述べつつ、最近、フェリーに乗るための車列で大変な待ち時間があったときの体験を語っている。

「その間、喧噪もなく、割り込む車もなく、整然としていました。これは、日本が持っている最後の含み資産だな、と思いました。/人間の社会性、共同体というものは、必要に応じて出て来るものだという感じが新たにしましたね。不必要なときに出てきたらこれはセンチメンタリズムだし、権力で強制するとか、雰囲気で強制することになると、不自由な社会になる。ふだんはシラケている自由があっていいわけです」

人間の社会性は必要に応じて出てくるものだ、という柔らかな認識は、いかにも臨床家だった中井にふさわしい。ただ戦争にせよ震災にせよ、この本での中井の穏やかな語りの背後に、長年の読者としては戦後70年たったこの国の行く末への、中井の不安と心配を否応なく感じてしまう。中井の死という事実によって、その感が一層強められているのかもしれないが……。本書の構成は編集者的な視点からすれば、正直に言って完成度は必ずしも高くない。でもそれを分かった上で中井が刊行を決めたのは、彼のそうした不安や心配と無縁でなかったのではないかとも思う。

最後に個人的なことを。中井さんには、40年ほど前にお目にかかったことがある。『分裂病と人類』(東京大学出版会)という大胆な仮説を本にした数年後のこと。私は『朝日ジャーナル』編集部にいてこの本に刺激され、「<ノマド>の誘惑」という特集を企画してインタビューをお願いした。中井さんは神戸大学医学部の教授で現場の医師でもあったが、忙しいなか休日に神戸の自宅で取材に応じてくださった。

2時間ほど、遊動社会における兆候への敏感さと農耕定住社会の強迫性といったことを、関西弁(神戸弁?)の匂いのあるしゃべりで教えてもらった。背後にあるのは現代の強迫的な社会に対する「観察」である。「ただ、強迫性全部が敵(かたき)ではない。新幹線が気が向いたとき発車するんじゃ困るでしょう? 僕は一方を肯定して一方を否定してるんじゃない。もっぱら兆候性だけに惹かれていったら破滅ですから。なんでも一本鎗でやったら病気になりやすいってことですかね」と、このときも中井さんは、こちらの性急な質問をなだめるように答えている。

帰り際、刊行されたばかりの限定版『カヴァフィス全詩集』(中井訳)をいただいた。今も書棚にこの本を見るとき、中井さんのあの温厚な笑顔を思い出す。(山崎幸雄)

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2021年10月17日 (日)

「世界史を大きく動かした植物」稲垣栄洋

稲垣栄洋 著
PHP研究所(224p)2018.06.18
1,540円

『世界史を大きく動かした植物』というタイトルに惹かれてこの本を手にとった。腰巻きに踊る「植物という視点から読み解く新しい世界史」「一粒の小麦から文明が生まれ、茶の魔力がアヘン戦争を起こした」という惹句も、なにやら魅力的だ。植物が人類の進化に大きくかかわってきたであろうことは容易に理解できる。頭の中では、以前読んだ『銃・病原菌・鉄』(本書の参考文献のひとつでもある)の植物版というイメージで読み始めた。

本書は植物学者である著者が、世界史を大きく動かしたであろうと考える植物をいくつかピックアップして、それぞれについて解説をしている。コムギ、イネ、コショウ、トウガラシ、ジャガイモ、トマト、ワタ、チャ、サトウキビ、ダイズ、タマネギ、チューリップ、トウモロコシ、サクラの14点がそれだ。

植物ごとに章立てをしていて、記述内容には濃淡があり、ここでは比較的世界史寄りの記述が多い植物を中心に紹介してみたい。

コムギの章には、「植物の種子は保存できる・・・保存できるということは、分け与えることもできる。つまり、種子は単なる食糧にとどまらない。それは財産であり、分配できる富でもある」という記述がある。実は「植物は富を生み出し、人々は富を生みだす植物に翻弄された」(はじめに)というのが、本書の大きなテーマの一つでもある。

例えば、コショウである。コショウは今でこそ多くの香辛料や調味料の陰に隠れて目立たない存在だが、「その昔、コショウは金と同じ価値を持っていたと言われている」。なぜか? 古来、ヨーロッパでは家畜の肉が貴重な食糧であったが、肉は腐りやすいので保存できない。ところが、香辛料があれば良質な状態で保存できる。「香辛料は『いつでも美味しい肉を食べる』という贅沢な食生活を実現してくれる魔法の薬だったのである」

コショウの原産地は南インドであり、ヨーロッパの人々にとっては手に入りにくい高級品であった。陸路をはるばる運ぶしかなく、どうしても高価になる。インドから海路で直接ヨーロッパに持ち込むことができれば、莫大な利益が得られる。そこで、スペインやポルトガルの船団が地中海の外側に船を繰り出し、これが「大航海時代」の始まりとなった。植物が世界を「大きく動かした」ことになる。

コショウを求めてインドを目指したコロンブスは、1492年アメリカ大陸に到達した。そこで出会ったのはコショウならぬトウガラシであった。トウガラシは辛味が強くヨーロッパ人には受け入れられなかったが、ポルトガルの交易ルートによって、アフリカやアジアに伝へられていった。インドやタイ、中国などに無理なく受け入れられたのは、「栄養価が高く、発汗を促すトウガラシは、特に暑い地域での体力維持に適していた」からだという。

半世紀後、トウガラシは日本にも伝わり、中国経由だったことから「唐辛子」と名付けられた。一方、韓国には日本から伝わったことから、韓国の古い書物には「倭芥子」と記されている。日本ではそれほど広まらなかったが、韓国ではトウガラシの食文化が花開いて現在にいたる。

ジャガイモの原産地は、南米のアンデス山地である。コロンブスが新大陸を発見して以降、16世紀にヨーロッパに持ち込まれた。もともとヨーロッパには「芋」はなく、ジャガイモの芽や葉などに毒が含まれていて、めまいや嘔吐など中毒症状を起こすことなどから、当初は「悪魔の植物」と呼ばれていた。主にドイツで普及して、今ではヨーロッパ料理に欠かせない存在になった。豊富にとれたジャガイモは、保存が効き、冬の間の家畜(主にブタ)のエサにも利用されて、多くのブタを一年中飼育できるようになって、ヨーロッパに肉食を広める要因になった。

アイルランドでは18世紀には主食となるほどに普及したが、1840年代にジャガイモの疫病が流行し、大飢饉が発生した。当時イギリスの対応は冷たく、100万人にも及ぶ多くの人々が、故郷を捨て新天地のアメリカを目指すことになる。イギリスとアイルランドの確執は、このときから始まったのかもしれない。「このとき移住した大勢のアイルランド人たちが、大量の労働者として、アメリカ合衆国の工業化や近代化を支えたのである」

ワタは「世界史を大きく動かした植物」の中でも出色の存在であろう。ワタの主要な原産地はインドである。「17世紀になって、イギリス東インド会社がインド貿易を始めると、品質の良いインドの綿布がイギリスで大流行することになる」。18世紀後半には蒸気機関の出現により、手間のかかる機織りの作業が機械化され、大工場での大量生産が可能になった。これが「産業革命」である。

「産業革命」はいいことばかりではない。材料となる大量の綿花が必要になり、19世紀には、もはやインドだけでは足りなくなり、イギリスは新たなワタの供給地をアメリカに求めた。アメリカにはワタを栽培するのに必要な広大な土地はあったが、十分な労働力はなかった。そこで、アフリカから多くの黒人奴隷がアメリカに連れて行かれたのである。アメリカから綿花がイギリスに運ばれ、イギリスから綿製品や工業製品がアフリカに運ばれ、アフリカからは大勢の黒人奴隷たちがアメリカに連れて行かれた。「このようにして常に船に荷物をいっぱいにするための貿易は、三角形のルートで船が動くことから三角貿易と呼ばれている」。そして奴隷制などをきっかけとして1861年南北戦争が勃発する。

ワタと並んでチャもまた世界史に大きく影響を与えた植物の一つだ。チャは中国南部が原産の植物だ。仏教寺院で盛んに利用され、宋代には日本からの留学僧たちによって抹茶が日本に伝えられた。一方、ヨーロッパには長い海路でも傷みにくい紅茶が出荷されるようになった。はじめにオランダへ、次いでイギリスへと伝わった。アメリカ大陸にはすでにオランダから紅茶が伝わっていたが、その後イギリスの植民地に変わったことで、イギリスとアメリカの間にチャを巡る騒動が勃発する。1773年の「ボストン茶会事件」がそれだ。そして1775年には独立戦争に発展する。

イギリスで紅茶が普及すればするほど、大量のチャを清国から輸入しなければならず、代わりに大量の銀が流出していく。この貿易赤字を解消するため、「イギリスは、インドで生産したアヘンを清国に売り、自国で生産した綿製品をインドに売ることで、チャの購入で流出した銀を回収するという三角貿易を作りだしたのである」。そして、1840年にはイギリスと清国都の間でアヘン戦争が勃発する。この間、1823年にはイギリスの探検家がインドのアッサム地方で中国とは別種のチャの木を発見する。こうして、インドはチャによって経済を復興していく。

世界三大飲料として紅茶、コーヒー、ココアが挙げられるが、いずれもカフェイン含んでいる。「植物が持つカフェインという毒は、古今東西、人間を魅了してきた。そして、カフェインを含むチャもまた、人間の歴史を大きく動かしてきたのである」

植物は本来、昆虫や鳥、動物などを介して種子を広く散布してきたが、本書を読むと、人類もまた植物を世界中に広めることに大きく貢献してきたことがよくわかる。著者は「人類は長い歴史の中で、自分たちの欲望に任せて、植物を思うがままに利用してきた。そして、物言わぬ植物は、そんな人間の欲望に付き従ってきた。・・・はたして、植物たちは人間の歴史に翻弄されてきた被害者なのだろうか? 私は、そうは思わない」(おわりに)と述べている。著者は、実は、植物こそが人間を利用してきたのではないかと言いたかったのかもしれない。

全体的には、雑学的な要素も多く、面白く読めた。ただ、個別の植物ごとに章分けしたことで、植物の特性に関する記述が中心で、肝心の「世界史を大きく動かした」という視点が希薄な章が散見された点が少々残念な気がした。

なお、21年9月に新たにコーヒーの章を追加、タイトルも『世界史を変えた植物』と改題して文庫化(PHP文庫)されている。(野口健二)

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2020年12月18日 (金)

「『線』の思考」原 武史


原武史 著
新潮社(256p)2020.10.15
1800円+税

「線」の思考とは何だろう? と疑問を出しておきながら、さっそく答えを言ってしまえば、ここでいう「線」とは交通路、具体的には鉄道のことを指す。たとえばある特定の地点は「点」であり、特定の地点(皇居とか国会議事堂とか)について考えることは「点」の思考ということになる。一方、「点」より広い地域や領域(東京とか、日本とか)は「面」であり、それらの地域や領域について考えるのが「面」の思考ということになる。でも「点」と「面」の中間には「線」がある、と著者は言う。「点」と「点」を結ぶことで「線」(街道や海上航路、近代の鉄道)が成り立つが、「線」は「点」や「面」と共通するものを含みながら、「線」独自の文化や思想を生み出すこともある。

そんな前置きを振っておいて、著者は北海道から九州まで八つの鉄道路線に乗りながら、その沿線に広がる「地域に埋もれた歴史の地下水脈」を探ろうとした。原は『大正天皇』『皇后考』などで知られる近代政治思想史の研究者であり、同時に『鉄道ひとつばなし』の著書をもつ鉄道マニアでもある。この本は、彼の本業と趣味(?)の二つの面を結びつけたもの。といっても堅苦しい研究書でなく、鉄道に関するうんちくや駅弁についても書く読みものになっているのが楽しい。

たとえば「二つの『常磐』──『ときわ』と『じょうばん』の近現代」とタイトルを打たれた章。ここでは品川からいわきまでJR常磐線に乗っている。途中下車して訪れるのは日立駅の日立鉱山跡、内郷駅の炭砿資料館、湯本駅の常磐炭鉱跡と炭住跡につくられたスパリゾートハワイアンズ(旧常磐ハワイアンセンター)など。この常磐線には「ひたち」と「ときわ」という二本の特急が走っている。「ひたち」には旧国名の常陸と、明治期にできた日立という村名(後に日立製作所が生まれる)が二重にかけられている。「ときわ」は常陸と磐城という旧国名の頭文字を組み合わせた常磐(じょうばん)の訓読みであるとともに、万葉集などに出てくる古語で永遠を意味する常磐(ときわ)でもある。水戸市一帯には古来、「常磐(ときわ)」を冠した地名がたくさんある。水戸偕楽園にある常磐神社の名は、アマテラスの血統を継ぐ天皇の地位は永遠であるとする「水戸学のイデオロギーにふさわしい」、と著者は記す。

ところで明治後期に開通した常磐線は当初、旅客輸送より貨物輸送が主な役割だった。日立鉱山の銅と常磐炭田の石炭である。どちらも常磐線開通後に本格的に開発された。そのことに触れた上で著者は、路線名と特急名についてこう述べている。「『ひたち』が常陸から日立へと変わったことで、(政治的なイデオロギーと結びつきやすい)『ときわ』から『じょうばん』へと変わった常磐同様、日本資本主義の発展を象徴する経済的な響きをもつようになったと言えようか」

もうひとつ例を挙げてみよう。「『裏』の山陽をゆく」で著者はJR山陽本線の岡山から徳山までを列車に乗っている。山陽新幹線が開通した後、山陽に限らずどの新幹線も同じだが、並行して走る在来線は乗客数が減り、ローカル線と化している。それを原は「裏」と呼ぶ。その「裏」の山陽本線に沿った内陸部では、幕末から戦前にかけて民衆のなかから新宗教が相次いで生まれた。また戦前から戦後にかけて神道系の新宗教が沿線の山を聖地とした。

まず原は熊山駅で降り、熊山遺跡へ足を運ぶ。石積みのピラミッドのようなこの奈良時代前期の仏教遺跡を、大本教の出口王仁三郎はスサノオの陵と考え聖地とした。王仁三郎は自らをスサノオになぞらえ、琵琶湖以東はアマテラスが治めるが、以西はスサノオが治めると不敬な言葉を吐いた。次に原は北長瀬駅で下車し、黒住教本部を訪れる。黒住教は幕末に生まれ、アマテラスを奉ずる神道系の宗教。さらに金光駅で降り、金光教本部へ行く。金光教も幕末に生まれた神道系の新宗教。広島で一泊した原は山陽本線を乗り継ぎ、田布施駅へ行く。ここには、もと大本の信者だった友清歓真が脱退してつくった「神道天行居(しんどうてんこうきょ)」という教団の本部神殿と日本(やまと)神社がある。この駅には、もう一つの新宗教、天照皇大神宮教の本部もある。太平洋戦争末期、天照皇大神宮教の教祖である北村サヨは、アマテラスの名を冠しながらも「天皇は生神でも現人神でもなんでもないぞ」と不敬な言葉の数々を吐いていた。

これら新宗教の教団を訪ね歩いた原は、天照皇大神宮教本部の近くで育ち、皇太子裕仁(後の昭和天皇)暗殺を試みたテロリスト難波大助の生家も訪れたうえで、「裏」の山陽には「表」の山陽にはない近現代思想史の地下水脈が流れているという。「国家や天皇に忠誠を尽くすのか。それとも反逆するのか──『裏』の山陽である山陽本線の沿線には、その答えをめぐって苦闘した人々の痕跡が、いまもなお残っているのだ」

ほかにも、小田急江ノ島線にカトリック系の教団や学校が多いのはなぜかを考えたり、JR阪和線で古代と中世、近代が交錯するありさまを見たり、房総と三浦半島の鉄道を巡りながら日蓮の足跡を訪ねたり、本書のサブタイトルになっているように「鉄道と宗教と天皇と」について思いを巡らせている。

鉄道マニアの原は、途中下車しながら電車を乗り継ぐことそれ自体を楽しんでいるようだ。また駅弁を楽しみにしている。JR阪和線の無人駅、山中渓のホームで「小鯛雀寿司」(和歌山駅の駅弁)を食しながら、「この駅弁は、個人的に宮島口の『あなごめし』と並び、西日本の駅弁の双璧だと思っている」と書く。研究者としての問題意識を披歴していたかと思うと、すぐ後でこういうマニアの顔をのぞかせるのがこの本の面白さだ。

原のそんな鉄道マニアとしての姿(というか、声)を、十数年前に直接に聞いたことがある。著者の『昭和天皇』が第12回司馬遼太郎賞を受けたときのこと。たまたまその場に居合わせた。この賞は、選考委員会が開かれ受賞者が決まって数時間後に発表の記者会見が開かれる。だから受賞者が近くにいれば会見場に駆けつけられるが、遠くにいれば電話で受賞の声を聞くことになる。この年、受賞が決まった原は秩父にいて、会見は秩父からの電話だった。なんでも受賞の知らせを聞いたのは西武鉄道の特急レッドアローに乗っている最中だったという(原には『レッドアローとスターハウス』の著書がある)。受賞の知らせが鉄道に乗っているときに届いたことで喜びが倍になったようで、そんなエピソードをまず披露した弾んだ声が会場に響いたのを覚えている。(山崎幸雄)

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2020年3月15日 (日)

「生命式」村田沙耶香

村田沙耶香 著
河出書房新社(272p)2019.10.20
1,815円

芥川賞や直木賞の受賞作を読む習慣をなくしてしまって久しい。でも数年前に、何のはずみだったか村田沙耶香『コンビニ人間』を読んで面白かった。世の中の「正常」に違和感を覚える主人公が、その違和を逆転させコンビニというマニュアル世界の歯車になることに喜びを見いだしてゆく倒錯が、軽やかな文章で描かれていた。

『生命式』は、そんな彼女の最新の短篇集。12の短篇小説が収められている。読後の印象は、村田沙耶香というのは、とんでもない作家だな。何度も笑うしかなく、しかも恐ろしい。これらの短篇に比べれば、『コンビニ人間』は口当たりのいい、とてもまろやかな小説だった。

たとえば本のタイトルとなった「生命式」。冒頭の一文はこうだ。

「会議室でご飯を食べていると、ふいに後輩の女の子が箸を止めて顔を上げた。
『そういえば、総務にいた中尾さん、亡くなったみたいですね』」

村田沙耶香の小説は、たいていごく当たり前の日常風景から始まる。その夜の式に呼ばれている主人公たち女性社員は、中尾さんについてひとしきりおしゃべりした後、ある先輩がこう切り出す。

「『中尾さん、美味しいかなあ』
『ちょっと固そうじゃない? 細いし、筋肉質だし』
『私、前に中尾さんくらいの体型の男の人食べたことあるけど、けっこう美味しかったよ。少し筋張ってるけど、舌触りはまろやかっていうか』」

いきなりの不条理の世界。事務職の女の子たちのどこにでもありそうな会話にいきなり挟まれる、「中尾さん、美味しいかなあ」。そのあまりの落差。これは、なんなんだ? 

やがてその理由が説明される。世界の人口が急激に減って、人類は滅びるかもしれないという不安感から「増える」ことが正義になり、セックスというより「受精」という妊娠を目的とした交尾が奨励されるようになった。人が死ぬと「生命式」が行われ、そこでは死んだ人間を食べながら男女がお相手を探し、相手が見つかったら二人でどこかで(しばしば人の目のある路上で)受精を行うことが当たり前になった。もっとも、と主人公は考える。「死者を皆で食べて弔うという部族はずっと昔からいたようなので、突然人間のなかに生まれた習性というわけではないのかもしれなかった」。

もっともらしい理由づけは、この小説の面白さとあまり関係ない。読み進むうえで、読者が納得してくれればそれでいいというだけのもの。それより、思わず笑ってしまうのはこんな描写だ。

「中尾さんの家は世田谷の高級住宅地だった。ちょうど夕食時で、あちこちから食事の匂いが漂ってきている。その中の一つが、中尾さんを茹でる匂いなのかもしれなかった」

誰もが記憶にあるだろう夕餉の風景のなかに、さりげなく差し挟まれる「中尾さんを茹でる匂い」。こういうあたりが村田沙耶香の真骨頂かもしれない。しばらく後で、今度は主人公の同僚の山本が亡くなり、その生命式で、主人公と山本の母親との間でこんな会話が交わされる。故人は、式のレシピを残していた。

「『業者に頼むとほら、どうしても味噌のお鍋になっちゃうでしょ。あの子はそれじゃいやだったみたいで、団子にしてみぞれ鍋にしてほしいみたいなんです』
『あの子って食いしん坊だったでしょ。自分が食べられるときも注文が多くて、鍋だけじゃないんですよ。カシューナッツ炒めとか、角煮とか……』
『え、鍋だけじゃないんですか?』
『そうなんですよ。なるべく遺志を尊重してやりたいんですけど、もう、困っちゃって』」

それに続く食事のシーンでは、「じゅわっと、中から肉汁がしみ出す」とか、「人肉には赤ワインかと思ってたけど、これは白も合いそうだなあ」なんてセリフも飛び出す。そして式に参加した人間は、母親に「ごちそうさまでした」「受精してきます」と感謝して立ち去ってゆく。

式の後、海辺で会った見知らぬ男性に向かって、主人公はこうつぶやく。

「『世界はこんなにどんどん変わって、何が正しいのかわからなくて、その中で、こんなふうに、世界を信じて私たちは山本を食べている。そんな自分たちを、おかしいって思いますか?』
『いえ、思いません。だって、正常は発狂の一種でしょう? この世で唯一の、許される発狂を正常って呼ぶんだって、僕は思います』」

長々と引用してしまったけれど、この作家の「とんでもなさ」が少しは伝わったろうか。「正常」と呼ばれるものは「この世で唯一の、許される発狂」にすぎないという感性は、この短篇集のそこここから匂ってくる。

人毛を使ったセーターや人間の皮膚を素材にしたベールが最高級品になった時代の結婚話である「素敵な素材」。ポチと呼ばれるおじさんに首輪をして飼う小学生二人の物語「ポチ」。オフィス街のわずかな土に生えるタンポポやヨモギを摘んで調理し、自分が野生動物であることを発見してゆく「街を食べる」。「委員長」「姫」「アホカ」と、つきあう仲間によっていくつものキャラを使いわける女性を描いた「孵化」。どれも、「正常」と呼ばれるものに違和を持ち、そこからこぼれ落ちるものを見据えて、それに忠実に、誠実に従ってゆく。

僕がこの小説を読んで思い出したのは、高校時代に読んだ星新一の短篇群だった。50年以上前に読んだきりなので間違っているかもしれないが、星新一の短篇にも、正常と異常をひっくり返して僕たちの常識を揺さぶるものが多かった。ただ、星の小説は知的な遊戯といった余裕が感じられたのに比べ、村田のそれは知的なというより時代への肉体的な拒否反応が、もっと切羽詰まったかたちで噴き出しているように思う。それが、生きづらさを感じている女性たちの、さらには男たちの共感を呼ぶんだろう。彼女の小説が30カ国で翻訳されるという事実は、村田沙耶香の描くものが現在の世界の先端で共感をもって受けとめられていることを示しているんじゃないか。

ほかに僕が好きだったのは「パズル」という一篇。人間の皮膚からその内臓を感じてしまう、内臓感覚ともいうべきものが強烈だ。

「生命体とは何と美しいのだろう。顕微鏡で貴重な細胞でも覗くように、早苗はじっと彼らの皮膚や筋肉を目で追った。/中身が僅かに透けた皮膚の中には、蠢く内臓がぎっしりと詰め込まれている。筋肉が根のように張り巡らされ、首に浮き出た血管には血液が循環し続けている」

人間を内臓のかたまりとして見てしまう主人公には、人の呼吸は内臓の匂いを発散させるものにほかならない。満員電車のなかで、彼女はこう感じる。

「早苗は、身体の力を抜いて体温の渦に寄りかかった。さまざまな口から放出された溜息が溶けあった空気につかるように、目を閉じてその湿度を肌で味わい、その中を漂う。乗客が吐き出す二酸化炭素にまみれていると幸福だった」

満員電車でぎゅう詰めになっていることへの肉体的な拒絶反応が、『コンビニ人間』と同じように逆転して過剰適応し、ぴったり身体を接している乗客の吐く息にまみれて「幸福」を感ずる。この倒錯と過剰適応はいかにも若い世代の感受性を感じさせる。日常の風景から、そういう感覚を掬いあげてみせる。この世代の小説はあまり読んでないけど、素晴らしくオリジナルな作家だと思う。(山崎幸雄)

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2019年1月18日 (金)

「戦時下の日本犬」 川西玲子

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川西玲子 著
蒼天社出版(265p)2018.07.25
3,024円

タイトルは「戦時下」となっているが、厳密には昭和初期から終戦後までの期間に於ける、愛犬団体が発行していた会報や新聞記事を基にして日本犬と飼い主たちがこの時代に翻弄されながら生きて来た姿を描いている。明治維新以降、日本犬は減少の一途をたどっていたが、それは先進的な西洋の文明を取り込むとともに犬についても洋犬至上主義とも言うべき風潮があったことも一因とされる。犬の世界を切り口として見ることで近代日本の土着性と西洋志向のせめぎあいが炙り出され、維新以降の日本人の精神史を映し出しているというのが著者の考え方であり、面白い切り口である。

加えて、私の個人的な理由で「戦時下の日本犬」というタイトルに惹かれて本書を手にした。それは、母が生前、戦争中に体験した愛犬の供出事件を思い出として語っていたからだ。母は大正14年生まれであるから18歳位の時の話だろう。実家では秋田犬を飼っていた。父親(私からすると祖父)が家族に犬を供出しなければならないと伝えた時、母は激しく反対したという。弁護士だった父親は戦時に鑑み供出も止むなしという結論を出した時、父親に「もう二度と犬は飼わない」という念書を書かせたという話だ。「犬好きの母」と「戦時の犬の供出」という二点が中心の思い出だが、母が生きてきた戦中をもう少し理解してみようという思いで本書を読み進めた。

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2018年1月20日 (土)

「戦争育ちの放埓病」色川武大

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色川武大 著
幻戯書房(416p)2017.10.11
4,536円

戦争中の色川にとって、未来を考えるとは戦争で死ぬまでの間どんな生き方をするか、ということだった。敗戦が決まり、見渡す限り焦土と化した東京を眺めて、それまで家があって畳があってと思っていたのが「実際は、ただ土の上に居たのだと知った」。家も高層ビルも、地上の人工的なものの一切は地面の飾りにすぎない。

「元っこは地面。その認識がはたして私の一生の中でプラスしたかマイナスしたかはわからないけれど、どのみち、あの焼跡を見てしまった以上、元っこはあそこ、ばれてもともと、という思いで生きるよりしかたがない」

虚無と楽天が分かちがたく絡みあった彼らの書くものが毎週、毎月、僕たちを楽しませてくれた時代の空気は、あれよあれよという間に変わってしまった。「戦後が終れば戦前だ」といったのは故竹内好だったけれど、僕たち戦後世代はいま生まれてはじめて戦争になるかもしれない恐怖に直面している。「核のボタンは私の机の上にある」と脅す金正恩。「私のはもっと大きくてパワフル」と返すトランプ。万一現実になれば韓日で100万単位の犠牲が出るとの予測もある危険なゲームをつづける二人。その一方のトランプを全面的に支持する戦後世代の首相を僕たちは持っている。

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2017年6月23日 (金)

「世界まるごとギョーザの旅」 久保えーじ

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久保えーじ 著
東海教育研究所(252p)2017.02.21
1,944円

著者は世界50ヶ国以上を旅して、現地で出会った食べ物を日本で再現している人だ。奥さんは調理師という能力を生かしつつ、夫婦が追いつづけたテーマの一つが「ギョーザ」である。中国人が日本でギョウザを焼くことにカルチャーショックを受けたというエピソードに象徴されるように、今となっては、焼き餃子はれっきとした日本のソウルフードになったと言って良いだろう。

それは、文化の伝播の常として受容のプロセスの過程で多様な変化が発生し、そこに新しいものが生まれるのは必然という証左でもある。その結果、長い歴史を持ちながらも世界各国にギョウザの仲間が存在し続けていることは「ギョーザ」の持つ魅力であることを教えてくれる努力の一冊になっている。

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