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増補 もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために/送別の餃子/掃除婦のための手引き書/漱石と鉄道/その犬の名を誰も知らない/総力戦のなかの日本政治/属国民主主義論/それでも三月は、また/そこでゆっくりと死んでいきたい気持ちをそそる場所/葬祭の日本史

2022年7月16日 (土)

「送別の餃子」井口淳子

井口淳子  著
灯光舎(224p)2021.10.22
1,980円

著者は民族音楽学を専門にしており、研究テーマは「中国の音楽・芸能」「アジアの洋楽受容」と紹介されている。「中国の音楽・芸能」はともかく「アジアの洋楽受容」とは何だろうと思ったが、「亡命者たちの上海楽壇」という著作を見つけ、ロシア革命やユダヤ人迫害などで逃れてきた音楽家たちの活躍の場であった上海の状況を研究対象としており、興味深い分野の研究家である。

本書は著者が1980年代半から、中国の農村にフィールド・ワーク(以下FW)として繰り返し長期間滞在して中国の伝統芸能を研究する中で出会った人々の思い出を描いている。旅行のような一過性の滞在と違って、FWとなるとそれなりの期間に亘って村民の自宅に宿泊滞在させてもらうこともあり、住民との繋がりも深くなっていく。生活や移動における様々な問題が起こる中で「著者が困り果てていた時に周りの人々から、身振り手振りで助けてもらった」という体験が本書のベースといっている。

しかし、彼女は日本で言う「やさしさ」という言葉にピタリと合う、中国語は見つからないともいう。中国は二者択一を体現する考え方が強く、親子関係でも、よちよち歩きの子供に対しても「(あなた)」と呼びかけ、自分は「我」と称する。そんな、ある意味クールな立ち位置を守っているのだが、国籍や性別を問わず助けるという感覚は「仲間や身内」という狭い関係を超えて「人」を助けるという広い視野が根底にあると著者は考えているようだ。

本書に登場する人々はFWの対象の農村住民は当然として、民俗音楽や芸能を演じている人々の生業(なりわい)や日々の暮らしを描いている。また、1980~90年代の中国農村で女性研究者が長期間滞在することに中国側も心配していたようで、県の文化系の役人が監視役、支援者、通訳などの複数の役割を持って同行しており、そうした人々も登場する。

「甘い感傷に浸ることではなく、失敗の体験の中にぽっかりと差す薄日のような感覚」と表現しているように、厳しい現実の中での人々との触れ合いが見て取れる。そんな中で出会った「送行餃子」という言葉が本書のタイトルになっている。

著者が体験した時代背景は、毛沢東の死後、鄧小平による開放政策に始まり、1989年の天安門事件、90年代は江沢民の経済成長政策が進み、社会全体の貧富の格差が広がった時代だ。そうした変化の大きかった時代において上海に代表される都市の変革とともに、農村の生活変化も進んだ。象徴的に言われるのが、現地の人との連絡手段である。中国農村では手紙、急ぐときは電報という時代が長く続いたが、固定電話の時代をすっ飛ばして携帯電話の時代に突入したという。しかし、「農村」の状況は日本と中国では大きく異なっている。中国では「農村戸籍」と「都市戸籍」に分れていて、農村に生まれた人は一生農村を離れられず、出稼ぎで都市に出て来ても、そこに戸籍を移せず「農民工」と呼ばれて賃金などの条件も違うと言う。

そして文革の痕跡に接する事もある様だ。ある時、北京で中国文化の学芸員との会話の中で著者が農村の話をすると、スッーと暗い表情になったという。気になって尋ねると、父親が共産党幹部で文革の時に一家で地方に下放され彼女は「黒五類子女」といわれ迫害されたという。口承文化である民衆文化も文革で四旧として批判の対象になり、多くの資料や文物が廃棄された。その後の改革開放時代も経済第一主義で半農半芸の影戯芸人などは数を減らしていったという実態を紹介されていくと、あの文化大革命も私の中では歴史的事実という知識でしかなくなっていることに気付かされる。

北京郊外、河北省唐山市楽亭県が著者の最初のFWの地で、その後も何度も訪ね続けている。この楽亭県の文化行政機関主席の高老師との付き合いが語られている。1980年代後半でも、中国は大陸農村の調査は原則外国人に門戸を閉ざしており、ハードルはかなり高かった。加えて、全国で300を超える方言があり、出身者でもなければ住民と会話もできない。こうした点から、高老師のようなスタッフが同道することになる。老師と言っても年齢に関係ない敬称で、日本で言えば「先生」といったところ。 通訳、ボディーガード、郷土文化のガイドといった多様な役割を持った人ということか。

しかし、老師のように県の中心で生活していては農村の芸人の活動についてほとんど耳に入ってこないようで、「最近はめっきり上演が少なくなっている」と言っていたが、実際に村に滞在し始めると、「集市」と言われる定期市に周辺の村人も集まり口コミで情報が交換されて、近郊の村でこんな上演があるといった話が次々と入ってくる。この楽亭県では「三枝花」と呼ばれる、語り物芸能の「楽亭太鼓」、影絵芝居の「楽亭皮影戯」、地方劇の「評戯」を鑑賞していく。こうして村の人たちと上演を観た帰りの道すがら芸人の腕前の評価などを聴くという体験を繰り返す。

そして、何週間も滞在してお世話になった御宅での最後の食事に、普段料理をしない高齢のおばあさんが餃子を作ってふるまってくれたという。まさに「送別の餃子」である。

また、面倒を見てくれた老師はもともと「郷土作家」と呼ばれている小説家。別れ際に一束の原稿用紙が渡される。それは彼が著者を主人公に書いた短編小説だった。そこには著者が自分では気付いていない欠点や弱点も丁寧に表現されていたと言う。まさに老師からの「送別の餃子」である。

著者のもうひとつの重要なFWは陜西省陜北県の楊家溝村である。1990年以来、毎年のように研究調査に訪れていると言う。この村では山肌を5メートル程穴を掘って住居にしている。岩窟である。水はずっと崖下の川に汲みに行くという厳しい生活が強いられる。食べ物も生活物資もすべて手作り、自前が前提の村。この村でも多くの伝統芸術の演者と出会っている。日本と同様に、中国の伝統芸能の演者は視覚障碍者であることが多いようだ。子供が病気や怪我で眼が不自由になると、親はその子が一生食べて行けるように「算命(うらない)」か「芸人」のどちらかの技量を身に付けさせた。その中の一人、語り物を演じる芸が象徴的である。視覚障碍者の演者は、物語を語り、両手で大三弦を奏で、足に付けた板を打ち鳴らしてリズムを取る。まさに一人三役をこなす。また、同時に彼は「占い師」でもある。この村は1000軒位の集落とのことで、各家で誕生日などの祝い事があると彼を呼び、数時間の演奏の後、食事がふるまわれ、最後に家族全員の「算命」を行い謝礼を受ける。これが彼の生計である。

また、著者は視覚障碍者の雨乞いの歌を聞き、その旋律に美しさを感じたと言う。しかし、演者は「この歌は哭調であり「不好聴(美しくない)」と語ったと言う。視覚障碍者の彼にとっては美しい音とは「自然の鳥の鳴き声や水の音」などであった。この村では、1990年代でもラジオやテレビの音は聞こえない。聞こえるのは「人の声」なのだ。だからこそ当地の民謡で「あなたの姿は見えないけれど、あなたの声は聞こえる」という歌詞が持つ意味に考えさせられる。

思えば、私は北京、上海、香港など何度となく仕事で訪れている。しかし会議の合間の休憩時間に街を散策したり、中国人の仕事仲間と中国語と英語が併記されたメニューが準備されているようなレストランで食事をするくらい。そんなことでは、本書のテーマとなっている風景や人々に接するチャンスはまったくなかったし、私の体感した中国はほんの一面で、特殊な部分だったと思う。しかし、仕事である以上それもやむを得ないことだ。仕事を全く離れたいまこそ、ゆっくりと滞在型の旅行に出てみたいと旅心がそそられる一冊となった。(内池正名

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2020年11月15日 (日)

「掃除婦のための手引き書」ルシア・ベルリン



ルシア・ベルリン 著
講談社(320p)2019.7.8
2,420円

先月の『苦海浄土』につづいて積読本の2冊目は、アメリカ人作家ルシア・ベルリンの短篇集。去年、タイトルに惹かれて買った。『掃除婦のための手引き書(原題:A Manual for Cleaning Woman)』。掃除婦とかマニュアルとか、小説とは縁がなさそうな言葉をタイトルに選ぶあたりに作者の、なんというか精神の傾きを感じた。2004年に亡くなっており、アメリカでも死後に評価されたらしい。短編作家で生涯に76本の小説を書き、本書ではそのうち24篇が紹介されている(訳者は岸本佐知子)。邦訳も地味ながら話題になり、版を重ねているようだ。

岸本の解説によれば、ルシアの小説はほぼすべてが実人生に材を取っている。そういうタイプの小説家の場合、その作品世界は素材にせよ舞台にせよ作者の実人生の幅のなかに収まって、限られた小宇宙をつくることが多い。でもこの本を読んで驚くのは、小説の登場人物も場所もその経験も、なんとも多彩なこと。

それは彼女が200回の引っ越しをしたと書いているように、アラスカからアイダホ、ケンタッキー、テキサス、モンタナ、アリゾナ、ニューメキシコ、ニューヨーク、カリフォルニア、コロラドなど国内と、チリ、メキシコなど海外を転々としたことによるだろう。また鉱山技師の娘として労働者と暮らしたかと思うと、チリでは上流階級の一員として裕福な生活を送り、成人してからは3度結婚して3度離婚し、教師、掃除婦、電話交換手、事務員、看護師などの仕事をしながら4人の子供を育て、アルコール依存症になり、晩年は大学で創作を教えたという経歴にもよるだろう。

そんな彼女の短篇群をどんなふうに語ればいいのか、よく分からない。いくつかの作品を取り上げ、物語を紹介して感想を述べても、あまりに多彩な彼女の小説世界の全体に触れられないように思う。そこで「実人生に材を取った」短篇群から、彼女の人生を引用によって再構成することでその魅力の一端を伝えてみたい。そのため、すべての小説に登場する作者その人らしい主人公を、ある一篇でそう名づけられているように「ルル」と呼ぶことにする。もちろん小説の主人公を作者その人と同一視してはならないのは承知している。でも「ルル」はルシア・ベルリンと同一人物でないにしても、ルシアの影であることは間違いない。

少女時代。両親は裕福な家の出だったが、大恐慌で没落した。ルルは住んでいた鉱山町と母親をこう描く。「ママ、あなたはどこにいても、誰にでも、何にでも、醜さと悪を見いだした。……この鉱山町をあなたはどこよりも憎んだ、なぜなら『町』とも呼べない小さな町だったから。『小さな町のクリシェよ』教室一つだけの学校、ソーダファウンテン、郵便局、刑務所が一つずつ。売春宿が一つ、教会も一つ。雑貨屋の片隅の貸本コーナーが図書館がわり」

小学生のルルは脊椎湾曲症で、「鉄のごつい矯正具を背中にはめていた」(フリーダ・カーロの自画像のような)。「中世の拷問道具のようなものに」つながれる病院の診察で、同級生のボーイフレンド、ウィリーがくれたハートのネックレスにまつわる美しい思い出がある。「お医者さんは、ウィリーにもらったハート形の銀が写ったわたしのレントゲン写真を一枚くれた。Sの字に曲がった背骨、おかしな位置にずれた心臓、そしてちょうど真ん中にウィリーの心臓(ハート)。ウィリーはそれを、鉱物検査事務所の奥の小さな窓に飾ってくれた」

チリでの高校時代。たくさんのメイドがいる豪邸に住み、シャネルに身をつつみ、ホテルでのディナーや舞踏会の日々。ルルは共産党員のアメリカ人教師に誘われ貧民層へのボランティア活動に参加しはじめる。「ゴミ捨て場に行った日は風が吹いていた。砂がきらきらたなびいて、おかゆの上に降った。ゴミ山から立ちあがる人影は土埃をまとって、銀色の亡霊のようだった。だれも靴をはいておらず、足はぬかるんだ丘の上を音もなく動きまわった。……湯気をたてる汚物の山の向こうに街が見え、はるか頭上には白いアンデス山脈があった」。この鮮烈なイメージ!

アメリカに戻ったルルは大学在学中に最初の結婚をする。2人の子供を産み、離婚。2人目の夫はジャズ・ピアニストで、一家はニューヨークへ出た。「二人でニューヨークで必死に働いた。ジュード(夫)は練習し、ジャムに参加し、ブロンクスの結婚式で弾き、ジャージーのストリップ小屋で弾き、やっとユニオンに加入した。わたしは子供服を縫い、ブルーミングデールスに置いてもらうまでになった。わたしたちは幸せだった。あのころのニューヨークは夢のようだった。アレン・ギンズバーグやエド・ドーンがYMCAで朗読をした。大吹雪のなか、MoMAにマーク・ロスコの展覧会を観にいった。天窓の雪ごしに射しこむ濃密な光のなか、絵が生き物のように息づいていた。ビル・エヴァンスやスコット・ラファロを生で聴いた。ジョン・コルトレーンのソプラノ・サックス。オーネット・コールマンのファイブ・スポットでの初演奏」。1960年代だろう。うーむ、ジャズファンなら涎が出る体験。

やがてルルは夫の友人と駈け落ち。2人の子供を産むが離婚。そしてアルコール依存症。「深くて暗い魂の夜の底、酒屋もバーも閉まっている。彼女はマットレスの下に手を入れた。ウォッカの一パイント瓶は空だった。ベッドから出て、立ちあがる。体がひどく震えて、床にへたりこんだ。過呼吸が始まった。このまま酒を飲まなければ、譫妄が始まるか、でなければ心臓発作だ」「考えちゃだめ。今の自分のありさまについて考えるな、考えたら死んでしまう、恥の発作で」

依存症に悩みつつ、ルルは働きながら4人の子供を育てた。掃除婦をしながら、こんなマニュアルを書きつける。「(掃除婦たちへのアドバイス:奥様がくれるものは、何でももらってありがとうございますと言うこと。バスに置いてくるか、道端に捨てるかすればいい)」「(掃除婦たちへ:原則、友だちの家では働かないこと。遅かれ早かれ、知りすぎたせいで憎まれる。でなければいろいろ知りすぎて、こっちが向こうを嫌になる)」「(掃除婦たちへ:猫のこと。飼い猫とはけっして馴れあわないこと。モップや雑巾にじゃれつかせてはだめ、奥様に嫉妬されるから。だからといって、椅子からじゃけんに追い払ってもいけない。反対に、犬とはつとめて仲良くすること)」。こういうひねりの利いたユーモアが、ルシアのどの短篇にもある。あるいはまた、モップでキッチンを掃除しながら、家の主人である医者とこんな会話もある。「ドクターが訊く。きみ、なんでそんな職業を選んだの? 『そうですね、たぶん罪悪感か怒りじゃないでしょうか』わたしは棒読みで答える」。

メキシコに暮らす妹が肺がんになったと知らせてきた。余命は半年か一年。ルルはメキシコシティに飛んだ。その短篇の冒頭。「ため息も、心臓の鼓動も、陣痛も、オーガズムも、隣り合わせた時計の振り子がじきに同調するように、同じ長さに収斂する。一本の樹にとまったホタルは全体が一つになって明滅する。太陽は昇ってまた沈む。月は満ちそして欠け、朝刊は毎朝六時三十五分きっかりにポーチに投げこまれる」。物語の最初からぐいっと心臓を掴まれる。ルシアの短篇の書き出しはなんとも印象的だ。「六時三十五分きっかり」と細部にこだわって時刻を定めることで、それまでの具体的でもあり意識の内側のことでもある時間の流れがぴたりと静止する。そしてこうつづく。「人が死ぬと時間が止まる。もちろん死者にとっての時間は(たぶん)止まるが、残された者の時間は暴れ馬になる。死はあまりにも突然やって来る」

1990年代、アルコール依存症を克服したルルはサンフランシスコ郡刑務所で囚人たちに創作を教えることになった。そのことを題材にした一篇で、ある囚人の書くものが仲間内で才能があると誉められたことについて、ルルはこう答える。「『オーケイ、白状する。教師をやってる人間なら、誰でも経験あることだと思う。ただ頭がいいとか才能だけじゃない。魂の気高さなのよ。それがある人は、やると心に決めたことはきっと見事にやってみせる』」

この一節を読んだとき、「魂の気高さ」はルシア・ベルリンその人のことだな、と思った。生涯背負うことになった脊椎湾曲症と、その後遺症。没落してこの世を呪いつづけた母親との難しい母娘関係。3度の結婚と離婚。掃除婦などブルーカラーとして働きながらの4人の子育て。アルコール依存症。たいていの人間なら押しつぶされてしまう、そんな日々を生きながら創作への意欲を失わず、ぽつりぽつりと短篇を発表しつづけた。自らの絶望的な状況を、母親譲りの辛辣な眼とひねくれたユーモアで見つめながら、ほぼ無名のまま文章を書くことを放棄しなかった。晩年を語った数少ない短篇には、山間の町で、死んだ妹を思い出しながら、ルシアには珍しい穏やかな風景が広がっている。

「つい二、三日前、ブリザードの後にもあなたはやって来た。地面はまだ雪と氷に覆われていたけれど、ひょっこり一日だけ暖かな日があった。リスやカササギがおしゃべりし、スズメとフィンチが裸の木の枝で歌った。わたしは家じゅうのドアと窓を開けはなった。背中に太陽を受けながら、キッチンの食卓で紅茶を飲んだ」。ルシアの晩年にこんな時間が訪れたことをじっくり味わいたい。(山崎幸雄)

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2020年6月17日 (水)

「漱石と鉄道」牧村健一郎

牧村健一郎 著
朝日新聞出版(328p)2020.04.10
1,870円

私は夏目漱石も好きだし、鉄道も好きだ。だからと言って、その二つを関連付けて考えることはほとんどなかった。あったとしても、松山の軽便鉄道ぐらいなものだろう。しかし、著者は漱石の作品や日記などに鉄道に関する描写が多いことに注目している。例えば、「三四郎」は若者が九州から状況してくる東海道線の中の描写から始まり、「坊ちゃん」は新橋ステーションで主人公が下女の清と別れて四国に旅立つ場面から始まるように、出だしの情景やエンディングで大きな役割を果たしている。社会インフラとして定着して行った鉄道の歴史を詳しく紹介しながら、漱石の作品、日記、書簡などに表現されている鉄道の旅を当時の時刻表や旅行案内などを引用して、具体的に旅を再現して見せる。ちょうど、旅する漱石の向かいの座席に座って同行している気分を味わっているような一冊。

漱石の人生を振り返って見ると、1867年(慶応3年)生れ、大学予備門予科から帝国大学英文科に入学し、1893年(明治26年)に卒業。高等師範、愛媛県松山中学、熊本第五高等学校等で教鞭をとり、1900年(明治33年)文部省より英語教育法研究のため英国出張を命ぜられる。1903年(明治36年)帰国、帝国大学と第一高等学校で教鞭をとるも1907年(明治40年)すべての教職を離れ、朝日新聞に小説記者として就職している。1916年(大正5年)49才で死去。こうしてみると、まさに文明開化を経て、日清・日露の戦いを通して日本が世界に躍り出て行った時代であり、技術的にも政治的にも欧米各国に追いつき、追い越せの時代である。漱石自身も常に先端的な学校制度での教育を受けてきた訳だし、英国留学のチャンスを手にしたということからも、「開化の子」と言われてもおかしくない。

社会変革の象徴としての鉄道は漱石にどんな影響を与え、また、実際に漱石は鉄道をどう利用したのかを解明し、歴史の一コマも見つけようというのが本書の試みである。東海道線や甲武鉄道(中央線)など全国の鉄道、漱石留学先のロンドンの地下鉄、この時代の軍事的にも重要インフラであったシベリア鉄道や南満州鉄道等の進化を漱石の文章と共に俯瞰している。同時代に生きた「漱石と鉄道」という壮大なテーマのもとにページは進んで行く。

本書では、数多くのエピソードが取り上げられているのだが、その一つが「坊ちゃん」の主人公は如何なるルートで四国に行ったのか、というもの。新橋駅で下女の清と別れて、四国の松山とおぼしき地に向かったのだが、小説では新橋駅以降の旅程は省略されていて、いきなり愛媛県三津浜の港に上陸する。「坊ちゃん」が書かれたのは明治39年だが、東京市電の記述内容などから小説の舞台は明治30年頃、漱石が松山中学に赴任したのが明治28年であることを考えると、自らの松山行の体験を書いていると結論付けている。ルートについて荒正人の説に代表される定説は、新橋から神戸経由広島まで列車で行き、宇品港から短距離連絡船で三津浜港に至ったというもの。

しかし、著者は、漱石の知人あての書簡で「7日11時新橋発、9日午後2時当地着」と書いていることと、「坊ちゃん」の中で描かれている三津浜到着の様子からルートの特定について新たな説を提示している。

「ぷうといって、汽船が止まると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せてきた。・・・事務員に聞いてみるとおれは此処へ降りるのだそうだ」

艀がくるとすると乗って来た船は大型船であることが判る。事務員(船員)との会話から察するにこの船はさらに遠くへ行くと思われる。こうした推理から、神戸まで列車で行き、大阪商船が運行していた大型客船による神戸発、三津浜経由宮崎行か宇和島行に乗ったのではないかとの思いに至る。 

私は、このような分析をしながらの読書はしないのだが、著者の分析が正しそうに思えるのも漱石が小説を書くにあたって単なる想像でなく、時刻表を基にして表現していたという著者の仮説に説得力はあるし、漱石がまめに日記をつけていたこともあり、自らの旅の記憶や記録から小説に仕上げているという事が言えるのだろう。

もう一つの興味をもったテーマが「すれ違う漱石と伊藤博文」というものだ。漱石は明治42年9月2日から満州を旅している。当時南満州鉄道総裁だった中村是公は漱石の学生時代の下宿仲間であり、その誘いもあっての邂逅の旅行だった。一か月に及ぶ満州の旅を終えた漱石は10月13日に韓国に入り、ソウル9:00発の直行急行に乗り釜山に18:30に着く。日記には「すぐ船に乗る。・・10月14日8時下関着。」とあるから、釜山20:00発、翌7:30下関港着の連絡船が該当する。その後、下関から広島に入り、「昨晩(10月14日)広島発午後9時30分発の寝台で寝る。夜明方神戸着。大阪にて下車」後、大阪朝日本社を訪ねている。「TRAIN SERVICE 時刻表(明治43年)」から、広島発21:34発の寝台急行が神戸着6:22、大坂着7:22なのでこの列車と特定できる。

一方、伊藤博文は新聞記事から動き方が判る。「十四日午後五時二十三分、大磯通過の急行列車を特に停め・・・満州行きの途に就く」(東京朝日)。時刻表には新橋15:40発の下関行急行が有る。この列車は大船発16:57、国府津着17:36だから、大磯17:23とはピッタリである。それにしても、大政治家とはいえ、急行列車を特別に停めさせるというのも時代である。そしてこの急行は翌15日の6:20大阪、7:17神戸に到着し下関に向かう。

「つまり、二人を乗せた列車は明治42年10月15日朝7:00頃、東海道線の阪神間で轟音とともにすれ違い(既に東海道線は複線化されている)、そして東西に別れていった。」

数日後、漱石は伊藤が暗殺されたとの報を聞く。二週間前に自身が訪れたハルピン駅で中村是公と並んでいた伊藤博文が殺された事実は漱石に深い思いを抱かせたと思うが、漱石は阪神間で伊藤とすれ違ったことは知らない。

この他、楽しい検証も紹介されている。大正元年、病気も進んでいた漱石は妻鏡子を同行して長野に講演に行っている。日記には軽井沢駅のホームを「逍遥」したと書かれている。信越線は明治26年に碓氷峠越えをアプト式機関車の導入で開通し軽井沢では機関車の付け替えもあり停車時間が長かった。明治30年頃には軽井沢駅では立ち食いの駅そばが商売を始めており、著者は「この逍遥の間、妻の鏡子を車内に残して、漱石は一人蕎麦を食っていたのではないか」と想像は膨らむばかりである。

一方、漱石は鉄道について、かなり否定的な物言いをしているという著者の指摘は新鮮であった。「草枕」の中の、「何百という人間を同じ箱に詰めて、轟と通る・・・・汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって、この個性を踏みつけようとする。・・・・あぶない。気を付けねばあぶないと思う」というもの。近代化の象徴ともいえる鉄道を警戒しつつ、その利便性は充分に活用したという著者の指摘は正しいのだろう。

しかし、漱石は鉄道に止まらず、先端技術の進歩とともに近代化がもたらす本質的な負の部分をも引き受けて、抱え込まなければならなかった姿が病気と闘い続けた彼の人生そのものである。ナイーブであるだけにストレスは高まり精神をすり減らし、胃潰瘍も重症化していったに違いない。それにしても、明治という変革期を49才で駆け抜けた漱石の残したものがいかに多いかを再認識させられた一冊である。著者は「漱石」以上に「鉄道」が好きだと断言できる。(内池正名)

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2020年5月16日 (土)

「その犬の名を誰も知らない」嘉悦 洋著、北村泰一監修


嘉悦 洋 著、監修 北村泰一
小学館集英社プロダクション(344p)2020.02.20
1,650円

監修の北村泰一は1956年の南極観測第一次越冬隊員。当時25歳の京都大学大学院生でオーロラ観測を主任務にするとともに、犬ゾリの担当をした。昭和基地に15頭のカラフト犬を残し無念の帰国を余儀なくされたが、再度第三次越冬隊員として南極に行き「タロとジロ」に再会した人物である。現在89歳となる北村は第一次越冬隊の最後の生存者である。著者の嘉悦洋は西日本新聞社で社会部や科学分野の記者経験を持ちメディアの業界で生きてきた。

2018年に北村が健在であることを知り、「何故犬たちを置き去りにしたのか」「どのような思いで第三次越冬隊に志願したのか」「タロとジロ以外の犬はどうなったのか」「タロとジロは何故生き延びられたのか」等について北村自身への取材が実現した。この対話の中で、北村からタロとジロ以外の第三の犬が昭和基地に生存して居たという話を聞き、その犬を突き止めることに著者の視点は移っていったという。本書は60年という時間を戻し、南極体験を振り返りながら、第三の犬を解明のための北村と嘉悦の共同作業の記録である。

1956年末の南極観測船宗谷の出港のニュースは小学校3年生だった私も良く覚えている。国の期待を背負い、敗戦国として新たな発展を世界に示すイベントでもあった。南極と言う言葉の持つ挑戦の意味は同年5月の日本隊によるマナスル初登頂とともに子供心を揺さぶるには十分であった。しかし、第二次越冬隊の断念により、15頭のカラフト犬を昭和基地に置いて帰国せざるを得なかった事態に、国内で轟轟たる非難の声が上がったのを思い出す。メス犬のシロ子と8頭の仔犬たちを全て救出してきたという話もかき消してしまう程のバッシングだった。

だからこそ、その一年後に北村が昭和基地でタロとジロの生存を確認出来たときには皆が驚きとともに歓喜したということが強烈な記憶として残っている。逆に言うとそれしか記憶がないと言ってもいいのかもしれない。それだけに、懐かしい記憶を蘇らせてくれるとともに、カラフト犬の性質や南極越冬隊の活動を詳細に理解した上で謎解きに挑戦する楽しさを味わえる一冊である。

本書の前半は、日本の南極観測参加が認められ、その準備活動から北村の第一次越冬体験が書かれている。雪上車だけでなく、犬ゾリを利用すると言う決定に基づき、北海道内から20数頭のカラフト犬のオスの成犬が訓練の為に集められた。そして、タロとジロと名付けられた生後3ヶ月の仔犬も南極で犬ゾリ犬として育成させたいとの思いで選抜されている。この若さが謎解きの一つのヒントになる。

国内で訓練を重ねてはいるものの、未知の南極大陸で遭遇する困難な状況に対応しながら、越冬中に四度の犬ソリによる内陸調査が実施されたがタロとジロはまだまだ二軍であった。内陸調査は往復435km27日間という行程と聞くと、隊員と犬たちの一蓮托生の観測だったことが良く判る。一年間の越冬活動を経て、第二次越冬隊の到着を待つことになる。

第二次越冬隊を乗せた宗谷は1958年の初め、ブリザードの影響を受けて氷原に閉じ込められたまま流され140kmに迫っていた昭和基地から遠のくばかりであった。こうした状況下で、まず北村を始めとする第一次隊員が宗谷に収容されることになり、オスの成犬は首輪を穴一つきつく締めて首抜けをしない様に繋いだうえで、第二次先遣隊3名の隊員に引き継ついだ。

その間、宗谷の救援に駆けつけた米国のバートン・アイランド号の艦長から、氷状の悪化から、至急外海に離脱すべしとの勧告を受ける。第二次先遣隊の三人も昭和基地を撤収し、その後も天候は回復しないまま第二次越冬は断念したことから、15頭のオスのカラフト犬は昭和基地に残されることになった。

帰国した隊員たちを迎えたのは第一次越冬の成功よりも、カラフト犬を残して帰国したことへの激しいバッシングだった。犬ゾリ係でもあった北村は犬たちの首抜けを避けるために首輪をきつく締め第二次隊に引き継いだことに、カラフト犬が生き残るチャンスを奪ってしまったと激しく後悔したという。そして、もう一度南極に行き雪に埋もれた15頭を見つけてやる事をけじめとして第三次越冬隊への志願をするという流れは、もはや研究者という立場を越えて、彼を突き動かしていたと言える。

こうして、北村は第三次越冬隊員として参加し、宗谷からヘリコプターで昭和基地に向かった第一便の隊員から、動き回る二つの黒い点を発見したと報告を受けて昭和基地に向かう。そして、タロとジロとの歓喜の再会を果たす。一方、北村たちは雪の下に埋もれているカラフト犬たちを捜索し、ひと月近く経ったときやっと、一頭の首輪を見つけ、それを中心に探索し一頭の遺体を見つける。犬たちは4m程離して繋がれていたが、彼らは小さな群(2-3頭)をつくるように首輪や遺体が残されていた。結果遺体発見7頭、不明6頭、生存2頭と判明した。これで、北村の犬たちに対する落としどころを見つけられたと言える。

そして、主題の第三の犬の解明になる。北村が超高層地球物理学の研究に追われ、南極に係わることが少なくなっていた1982年に第九次隊員と話す機会を持った。そこで、1968年に昭和基地で一頭のカラフト犬の遺骸が発見されていたという事実を知らされる。この年は第四次越冬隊員で行方不明となった福島紳隊員の遺体が発見された年である。「第九次観測隊夏隊報告」には福島隊員の遺体発見の報告は詳細にあるが、カラフト犬遺体発見の記述は一切ない。また、当時の新聞を中心としたメディアの報道にもこの犬の遺体発見は無かった。その犬は不明6頭の内の誰なのかを解明することは遅々として進まなかったものの、嘉悦という協力者を得て真相解明を再開させる。

膨大な公式記録を読み解きながら、第八次越冬隊報告の中に「今年の夏は昭和基地の気温が極めて高く、融雪現象が激しかった。そのため第一次隊が残したカラフト犬の遺骸すら発見されている」という唯一の記載を見つける。そして、各地に散らばる第九次隊員への聞き取りを続け、「発見場所はカラフト犬の係留地近く」「大きくはない体格」「少なくとも黒色でない体毛」といった断片的な情報を得ながら、6頭の中から第三の犬の候補を4頭に絞り込んで行った。

タロ・ジロが食べ物をどこで得ていたのかについては、首輪が抜けなかった5頭の遺体は全てきれいに残っていたこともあり、一時期流布された共食説は否定された。北村が考えたのは、昭和基地の近くの海水域の氷原につくられた食糧貯蔵庫である。そこは一度海水が流入した事故が有り、海水に浸かってしまった肉類は残置されていた。また、犬ゾリで内陸探査の際に一定距離に作っていた食糧デポがある。これらを犬たちは理解していたはずだ。しかし、タロ・ジロという幼く経験の浅く、方向感覚の未熟な犬だけでは、それらを利用するには限界が有る。そのためには保護本能とリーダーシップを持ったベテラン犬の力が必要だったと考え、北村と嘉悦は第三の犬はリキというリーダー犬であるという結論にたどり着く。

首輪を抜け、鎖の束縛から逃れ自由になったタロ・ジロ以外の成犬は基地から逃れたいと考えて北海道を目指したのかもしれない。しかし、タロとジロは幼い時に南極に来たため昭和基地こそがかれらの故郷だったので動かなかった。一方リキは、タロとジロが彼を頼ったこともあり、彼らとの共同戦線を張ったのではないか。そして、食糧のある場所にも十分訓練された能力を駆使して到達していたに違いない。加えて、リキが昭和基地に踏みとどまったのは人間が戻ってくるのを待っていたのではないか。犬には死の概念がないため、人を待ち続けることが苦痛でないという。しかし、第三次越冬隊が昭和基地に到着する前にリキは息絶えた。当時のカラフト犬の寿命は7~8歳と言われていたが、昭和基地に置き去りにされた時点で7歳だったリキとしては最後まで力をふり絞った結果だったのだろう。

次の北村の言葉が切ない心境を表している。

「北村は小さく息を吐き、『タロとジロに再会したあの時に、リキはすぐそばに埋もれていたんですね。待ち続けていたのに・・・』といって私をみつめた」

犬ゾリを引くと言う集団行動の訓練の重要性、リーダー犬の不可欠さ、極限環境でも小さなグループで生き延びる努力をすることなどは人間の世界とよく似ている。個々の特性を生かしながら協力する姿はプロジェクトのあり方とそっくりだ。

北村は南極で活躍したすべての犬たちが頑張り死んでいったことを知ってもらいたいとの思いを語っているが、それは人間と犬たちの信頼関係の証でもある。使役犬としての犬たちの忠実さはまさに相互の信頼関係と人間の愛情で成り立っていると思う。そして、その関係の延長に家族の一員としての犬たちが居る。人間と犬との深い世界は極限で良く判る。内池正名)

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2017年8月20日 (日)

「総力戦のなかの日本政治」源川真希

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源川真希 著
吉川弘文館(253p)2017.03.02
3,024円

本書は吉川弘文館の「日本近代の歴史」シリーズの最終第6巻。1937年の盧溝橋事件から1945年の第二次大戦敗戦までの10年間に満たない期間を対象としているのだが、この激動の時代は近代の最後であるとともに、次に続く現代への屈折点になっていることから、現代からあの時代をどう読み解くべきなのかという提起でもある。執筆者の源川は1961年(昭和36年)生れ。21世紀の現代から戦前・戦中を語っている。

「歴史」とは語る人が生きた時代と語る時期の二つの要素によって異なる意味を持つと云う。その違いを三つのカテゴリーに分類している。戦争体験者によって1955年頃までに書かれた「体験的通史」、戦争体験者による高度成長期に書かれた「検証的通史」、戦後生まれの執筆者による世紀転換期に書かれた「記憶的通史」という見方である。本書に限らず現代においては、語る者も聞く者も双方ともに戦争体験を持たない人がほとんどである。そうした違いが有るからこそ執筆者の源川は近代、特に戦中を語ることに相対性があることを否定していない。

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2016年8月22日 (月)

「属国民主主義論」内田樹・白井聡

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内田 樹・白井 聡 著
東洋経済新報社(360p)2016.07.21
1,728円

この対談集のタイトルになっている「属国」とは、「日本はアメリカの属国であり、主権国家ではない」ことを指す。「属国民主主義」とは、「どれほど民主主義的に理想的なプロセスを経て物事を決めることができるとしても、決定の効力を及ぼすことのできる領域がどこにもないのならば、決定自体に何の意味もない」、そんな民主主義を指す。

最大の問題は、と白井聡が言う。「日本がアメリカの属国であるという現状を肯定しながらも、その原因となった敗戦という事実を、意識の中でちゃんと認めてないということですね。……『敗戦の否認』がもたらす大きな問題は、それによって日本人が、自らが置かれた状況を正しく認識できなくなってしまったということです。……本当は、主権がないのであれば、あるべき主権を確立しようとするのが、本来の意味でのナショナリズムであり、民主主義の帰結するところでしょう」

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2012年6月11日 (月)

「それでも三月は、また」谷川俊太郎ほか

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谷川俊太郎ほか 著
講談社(290p)2012.02.25
1,680円

谷川俊太郎、川上弘美、村上龍をはじめとした、17名の作家と詩人によるアンソロジーである。日本財団の「Read Japan Project」による刊行。編集者としてElmer LukeとDavid辛島という二人が名を連ねている。二人とも日本の文学作品を英語圏に紹介したり、翻訳している人物。この二人が17名を選んだ考え方は示されていないのだが、コンテンポラリーな感覚で言えばそれなりの統一感があるのかもしれない。ただ、評者しては初めて読む作家もおり刺激的であった。文学である以上、作家の感覚や感情で表現されているため、当然のことながら作品毎の好き嫌いが出てしまうのは止むを得ないことであるが、3.11によってもたらされているイメージの多様性を考えると一冊のアンソロジーが統一感を持って作られるということ自体至難の業だろう。本書の中で、今回の地震や津波といった自然災害にインスパイヤーされて書かれているもの6編、原発事故にインスパイヤーされて書かれているもの4編、両方もしくは不明のもの7編である。

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2008年11月 8日 (土)

「そこでゆっくりと死んでいきたい気持ちをそそる場所」 松浦寿輝

Sokode 松浦寿輝
新潮社
(233p)2004.11.25
1,785円

本には読者の知性を要求するものと、感性を要求するものの二種類があると思う。この本は読者に対して、かなり鋭い感性と深い想像力を要求するようだ。題名と装丁に引かれて読みはじめたが、その危うい感性の回路に迷い込むのにさして時間はかからない。

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2008年11月 7日 (金)

「葬祭の日本史」 高橋繁行

Sousai 高橋繁行著
講談社(252p)2004.06.20

756円

この本を手にしていたら、家人から「縁起でもない」としかめっ面をされた。葬祭とか葬儀と聞くと忌諱したくなる気分はあるものの、何か不思議な興味も否定できない。死にまつわる儀礼の登場者は死んだ本人は別として、親族や知人、宗教家、葬祭業といった人たちだ。特に、葬祭業 に対して、「死体を相手に不当な利益を貪る仕事」とのイメージが過去強かったが、「彼らは毎日のように待ったなしで死者に接しているから、否が応でも死に ついて普遍的な思いを抱かざるを得ない。・・・宗教家以上に宗教的な存在なのではないだろうか。・・」こうした視点で葬祭・葬儀に関する歴史と「死のプロ セス」ともいうべき本人・残された家族の精神的清算の考え方をまとめた一冊である。

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