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東京ヴァナキュラー/東京裏返し/東海道ふたり旅/童謡の百年/トレイルズ 『道』と歩くことの哲学/閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済/動物記/友は野末に/都市はなぜ魂を失ったか/東京プリズン/ドキュメント アメリカ先住民/「東北」再生/倒壊する巨塔(上・下)/「東京裁判」を読む/動的平衡/東京大学のアルバート・アイラー/時のしずく/東京の空の下、今日も町歩き

2022年1月18日 (火)

「東京ヴァナキュラー」ジョルダン・サンド

ジョルダン・サンド 著
新曜社(304p)2021.09.24
3,960円

著者は1960年生まれのアメリカ人、東京大学で建築史、コロンビア大学で歴史学を学び、東大在学中は谷中に住んで「地域雑誌 谷中・根津・千駄木」の編集者たちと歴史保存運動に係わった実体験が本書を書かせた原動力の様だ。「ヴァナキュラー」という言葉の意味を「土地ことば」と知ると、「谷根千」「新宿西口広場」「江戸東京博物館」といった一見ランダムな都内の地域や場所をテーマにして住民と空間の織りなす歴史を描いている本書のタイトルとして納得出来る。著者は東京のユニークさよりは、世界各国の都市空間を考える共通の手法を示したかったようだが、東京で生まれ、生活をしている私が時代記憶とともに本書を読むと「東京論」以外の読み方は見つからない読書だった。

20世紀後半には旅行や観光の商業化が進み、各国の都市は歴史資産とローカルな文化の独自性を打ち出す姿勢が顕著になった中で、東京がこの波に乗るのは若干遅かったと指摘している。その理由として1970年代初頭で東京には一世紀を超える建造物は殆ど無かったとしている。そう言われてみると、江戸期に繰り返された大火事、関東大震災、東京大空襲などで破壊と再建が繰り返され、東京駅や国会議事堂という近代建築物も19世紀末から20世紀初頭に作られていることを考えると、東京は「モニュメント」なき都市というサブタイトルにも納得がいく。

また、戦後の30年間に眼を向ければ、公害の代名詞でもあった東京はポスト工業化を果たし、1950年代からの郊外ニュータウンへの開発、1970年代には逆に都心のマンションに人口移動が進んだ。この結果、古くからの住民と新しい住民が混在したコミュニティーの成立のためにも、地域住民が自ら住む地域を守るという視点からの保存運動が顕著となった。こうした中1979年から1994年の16年間都知事をつとめた鈴木俊一は「マイタウン東京構想」という住民主体を匂わす政策と同時に「世界都市東京」を目指した「世界都市博」開催を推進した。結果としてバブル崩壊とともに「世界都市博」は開催されなかったが、この相反する政策こそ東京のジレンマを映し出していたと著者は指摘している。

本書の第一章は1969年の新宿西口地下広場が取り上げられている。一瞬とはいえ大衆が公共の広場を占有したものの公権力で排除された結果、東京では市民のための公共空間・広場機能は終焉を迎え、東京の都市論の転換点になったとしている。

中世ヨーロッパの都市国家における広場は、市民たちが集まり、政治を語り、決議する舞台だった。こうした広場は日本の都市空間には存在してこなかった。江戸幕府は防火帯として広小路を作ったり、橋のたもとにスペースを確保したことで非公認の市場や興行場として利用されることはあったが、あくまで、災害対策と経済活動のためであった。明治政府も1886年ドイツの建築家達に東京中心部の設計を依頼したが、彼らの大広場を含む都市計画が採用されることは無く、街路バターンの規格化と経済発展のインフラ整備のみに注力することになる。

こうした東京で、1968年10月21日国際反戦デーのデモに始まり、1969年のフォークゲリラ、ベ平連の集会などが新宿西口地下広場で行われた。この集会の特徴は「行進する統一的な行動をとる市民ではなく、座り込む幾つかの集団」であり、メディアは「精神の解放区」と呼んだ。しかし、この場所を「広場」から「通路」と名称を変えることで道交法違反として人々を排除した。この事件以降の都市論は公共の広場や国政のモニュメントから切り離された日常共有空間に可能性を求めて行ったというのが著者の見方である。以降、「界隈」や「原風景」といった言葉によって人々の思い出と歴史遺産の織りなすイメージが作られていく。一方、言葉としての「広場」は、新聞の読者投稿欄のネーミングに使われるなど、本来の「人々の声を集める」という意味を体現していると指摘されると、理念は正しく理解しているものの具体的な広場がないということかと納得させられる。

次に、所謂「谷根千」における活動を取り上げている。1984年に「地域雑誌 谷中・根津・千駄木」が創刊される。この雑誌の三人の編集者(若き母親)は地域の住民だった。住民の思い出話や、町の習わしなどを聞き取ってまとめることに集中しており、巻頭言では「・・懐古趣味でなく、古き良きものを生かしながら暮らすのが楽しく、生きのいい場所として発展するのに役立ちたい」と心意気を表している。こうした住民の共同感覚を育み、物語を掘り起こす作業は純粋な地域活動として続けられ、メディアにも数多く取り上げられていく。1970年の都民のアンケートで「下町」ランキングは浅草が筆頭で、上位十数地区の中に谷中、根津、千駄木は入っていないが、1987年の観光ガイドブックでの下町特集では谷根千が目玉になった。しかし、「谷根千」に住む人達からすると「下町」と言われることに反対の人々も多かったと言う。

町おこしとしては大成功だったと言っていいのだが、谷根千の町並保全のジレンマが有るとすると、建物という個人の有形財産とコミュニティーという無形財産の優先順位の問題である。この観点は地域の風景資産や歴史資産を保全するというときにはどの都市・地域でもぶつかるものだ。私も街道歩きをしていれば、古い宿場としての町並みを残した東海道の関宿や中山道の妻籠宿など素晴らしい歴史遺産に感動するのだが、そこでの歴史風景保全と人々の生活の調和には大変な努力が必要と言われている。また、多くの自治体で行われている、地域風景資産の認定も住民と所有者の意見の相違は良く起こることである。完璧な解が有るわけではなく、コミュニティーの判断に委ねられることになる。

東京を扱う初めての博物館として江戸東京博物館が1993年に開館した。400年を迎えた新たなモニュメントとして「東京という過去がいかに記憶されるべきか」という命題のもと屋内模型の展示なども多用した保存事業の大衆化の反映であった。もともと江戸の日常的な歴史イメージを形作ったのは「江戸っ子を自称する」市井の研究者達で、彼らは「日本の近代化を進めて行った明治人(薩長人脈)の努力は大いに誇るべきであるが、彼らが江戸時代の文化遺産を全く認めなかったことに対しては憤りを感じざるを得ない」という気持ちが強く、この感性の延長上に江戸東京博物館の展示方針があるため、江戸から高度成長期までの期間を対象としている展示の中で明治維新そのものや、天皇と皇居に対する言及は殆ど無いという違和感を著者は指摘している。

また、1999年に九段下に作られた昭和館は「戦中戦後の国民生活の労苦」を伝えるという施設であるが、戦時をテーマにしているにも関わらず、武器や死を示す展示や資料は無く、戦争そのものを柔らかなセピア色に染め抜くことで、当時の政治を覆い隠す役割を果たしていると考えている。このように日常に傾注していく中、2005年に公開された「Always三丁目の夕日」は1958年の都内の架空の町を描いて大ヒットした。観客達は自分の個人体験や記憶が時代の典型と思いつつ、半世紀前を回想するという、まさに東京ノスタルジーの頂点であった。こうした点を含めて、江戸博や昭和館の展示は「歴史研究の成果を踏まえない、興味本位の展示であり・・・・見世物的に再現することでは歴史認識は正しく形成されない」とし、ハイカルチャーの保存庫としての博物館の存在意義が失われ、個人の記憶が前面に出た公衆不在の「パプリックメモリー」に向かう道に進んでいるという著者の指摘には新鮮さを感じる。

本書では多くの論点が提示されている。例えば、無秩序な都市開発が生み出す一風変わった風景を前向きに受け止めて都市を再評価する「路上観察学」活動の評価や、「日本橋」における風景保存と町おこし活動に内在する矛盾点の指摘、東京の「平和祈念館」の計画の挫折など、東京という都市を考えるうえで多用な視点からの問題が提起されている。文章的には読み難い言い回しが有るし、異見として読んだ部分もあるが、なかなか刺激的な一冊であった。(内池正名)








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2021年6月18日 (金)

「東京裏返し」吉見俊哉

吉見俊哉 著
集英社新書(352p)2020.08.22
1,078円

去年、吉見俊哉は『五輪と戦後』(河出書房新社)と本書『東京裏返し』という二冊の本を出している。この二冊は対になっていて、それぞれが互いを補いあう関係にあるように思えた。それは、どういうことか。

『五輪と戦後』は、2020年に予定されていた東京オリンピックを控え、その数カ月前に出版されたもの。周知のようにコロナ禍で開催が1年延期されたが(延期されたオリンピックが本当に今年開催できるのかどうか、小生は中止すべきと思うが、これを書いている時点ではまだ決まっていない)、ぎりぎりで刊行に間に合い「あとがき」の補記で延期について触れている。

この本は2020年のオリンピックを、1964年東京オリンピックを参照しながら、「あの輝かしい時代を再体験し、あわよくば再び輝かしい日本を呪術的に招来」させようとしているとの視座から批判的に考察している。そのために、オリンピックの「舞台」(競技場)、「演出」(聖火リレー)、「演技」(円谷と日紡貝塚)、「再演」(ソウルと北京)の四つの角度から1964年オリンピックを分析する。なかで『東京裏返し』と文字通り裏表の関係にあるのは、競技場がなぜそこに立地されたかの歴史的経緯を追った「舞台」の章だ。

1964年オリンピックの主要な舞台は神宮外苑の国立競技場と、水泳などが行われた代々木競技場だった。国立競技場のある神宮外苑はかつて陸軍の青山練兵場。代々木競技場は青山練兵場が移転した先の代々木練兵場で、敗戦によって米軍に接収されワシントンハイツとなっていた。どちらも軍用地だったわけだ。元はゴルフ場だった駒沢オリンピック公園も含め、これらの施設は国道246号(青山通り、玉川通り)沿いに立地している。この沿線はもともと陸軍の施設が多い「日本陸軍の中枢地区」で、渋谷も含め陸軍とともに市街地化し、発展していった。

それ以前、江戸以来の文化的商業的中心は日本橋、京橋、神田、上野、浅草、両国といった都市の東北部だった。だが関東大震災や第二次大戦の空襲で廃墟となった後、都市の中心は赤坂、六本木、虎ノ門、青山、原宿、渋谷、新宿といった都市西南部へと重心が傾く。「東京の近代とは、江戸以来の豊かな文化資産を擁する都心東北部からこの都市を離脱させ、都心西南部から郊外に広がる一帯に都市の基盤を移動させていく過程であった」わけだ。

さて『東京裏返し』は、薩長以来の政権が時に意識的に、あるいは無意識に軽視した都心東北部に焦点を当てた「社会学的街歩きガイド」。著者の吉見は、編集者とともにこの地域を7日間にわたって歩いている。例えば初日は、都電荒川線に乗って鬼子母神から王子の飛鳥山公園へ。第二日は秋葉原から上野を経て浅草へ。第三日以降は上野公園、谷中界隈、神保町から本郷の大学街、湯島聖堂やアッサラーム・マスジド(モスク)といった宗教施設を歩いたり、日本橋川と神田川を水上から観察したりしている。

都市には、「さまざまな異なる時間が空間化されて積層」している。街歩きとはその異なる時間の間を移動することであり、「重層するいくつもの時間とその切れ目を発見していく」ことでもある。その切れ目を通して、高度成長期の幕開けを告げた東京オリンピックの「より速く、より高く、より強く」から、「より愉しく、よりしなやかに、より末永く」へとスローダウンする契機を探そうというのがこの街歩きの姿勢だ、と著者は述べている。

東京から北へ荒川を越えた川口の工場街で育った小生にとって、これらの地域には小さいときから馴染みがある。親に連れられて日曜に買い物に行くのは上野か日本橋だったし、住込みの職人と浅草の六区にはよく映画を見に行った。中学高校は田端だったし、大学のそばには都電荒川線の終点があった。この地域には何人もの友人の自宅がある(あった)。だから、この本で歩いている場所のほとんどを一度は訪れたことがある。コロナ禍で東京に非常事態宣言が出、自由に街歩きできないいま、いろんな記憶や思い出とともに本書を楽しんだ。とはいえ、そんなノスタルジックな読みでは本書の上っ面をなでたことにしかならない。

鬼子母神ではギリシャ神話との関連を説き、飛鳥山では渋沢栄一と資本主義の発展を考えるといった著者ならではの博覧強記のガイドとしても面白いが、もっとも興味深いのは「スローダウンした東京」へ向けてどう都市を改造していくか、その具体的提言だろう。

吉見がいちばん力をこめて主張しているのは、都電荒川線を環状線にすること。現在は早稲田から三ノ輪までの荒川線を、南千住から浅草、上野、秋葉原、万世橋、神保町、水道橋、飯田橋、江戸川橋を通って早稲田へとつなぐ。この「トラム江戸線」を、ただの「移動」ではなく、地域のいろんな文化的・生活的機能をになうスロー・モビリティのモデルとする。「『トラム江戸線』を実現させることで、私たちは、再び東京に『トラムの街』としての貌を持たせ、この都市の交通に平均時速13~14キロという時間軸を入れることで、東京=江戸の見え方を根本から変えていけるはずです」

次に吉見が考えるのは、首都高速道路のうち江戸橋ジャンクションから入谷までの区間の廃止。この区間は交通量が比較的少ないうえ、ほかの高速道路に接続しない「盲腸線」になっているから、撤去しても影響は少ない。それによって昭和通りに青空をもたらし(実際、この区間の昭和通りは蓋をされたように暗く重苦しい)、「道路両側の街々が融合するブールヴァール的な街路にしていくことで、秋葉原や御徒町、アメ横の賑わいを東の一帯まで広げる」ことを目指す。

さらに。いま、日本橋にかかる高速道路を地下化する計画があるが、これを日本橋という「点」だけなく日本橋川沿線の「線」にまで広げる。また銀座を南北に走るKK線(京橋~数寄屋橋~新橋)を公園化して遊歩道にする提案も既にいくつか出されている。そうした動きの先に、「首都高速道路そのものを、東京都心から徐々に撤去していく」ことを著者は提案する。「ひたすらスピードを求めて環境を犠牲にしてきた都市から、環境的な豊かさをサステイナブルに維持していく都市への転換」が必要なのだ。

もうひとつ面白いと思ったのは「グレーター上野駅」の提案。JR上野駅、東京メトロ上野駅、上野広小路駅、上野御徒町駅、御徒町駅、仲御徒町駅、京成上野駅は現在でも地下通路で結ばれているが、分かりにくい上に移動のための殺風景な通路でしかない。この地下を整備し、湯島駅も含めて「グレーター上野駅」を生み出す。地上では、上野駅正面玄関口は改装されたとはいえ、本来の可能性を十分に生かしていない。正面の視界を高速道路にふさがれ巨大デッキも設置されて、「高度成長期の機能中心の開発主義の産物が幾重にも歴史を寸断している」。ここを緑化した駅前広場とし、トラムで浅草方面と結ぶことで「昭和はじめのモダン東京を象徴する風景」を再現させる。「周辺地域との関係を、歴史を踏まえてデザインし直す」ことが求められる。

吉見にはさらに、上野公園と不忍池についても提案している。かつての寛永寺の寺域で彰義隊戦争の舞台になったここは、薩長政権によってその記憶と歴史をずたずたにされてきた。まず、彰義隊と官軍薩摩藩部隊の市街戦の舞台となり、現在は南千住の円通寺に移築されている黒門(寛永寺総門)を元の場所(上野広小路から桜並木への入口付近)に戻す。五重塔が動物園内になり柵で分断された東照宮を、大鳥居、石灯籠の参道、社殿、五重塔を一体として整備する。200基以上の石灯籠に灯りを灯し、上野の杜の夜を演出するなどして「寛永寺以来の文化資産を再浮上」させる。また不忍池は一部が動物園になって一周できないが、誰もが自由に散策できるよう「不忍池の封鎖解除」を進める。

今は影の部分になってしまった寛永寺の栄華を、そのように「裏返す」ことで「近世江戸の宗教文化を再体験できる地域としてデザインし直す」。後の本郷のパートでは、高い塀がつづく東京大学東端の池之端門周辺を不忍池・上野に向かって開き、活性化させてはどうかとも言う。

ほかにも、今は高速道路で蓋をされ、建物が醜い裏側を晒す川筋を見直して「裏返す」ことが提案されている。実際、日本橋川や神田川を船で進むと、川に面する側を意識した建物もぼつぼつ現われはじめている。まだ行政は関心を持たないが、埋もれたり壊されかけている文化資産を新しい視点で「裏」から「表」へ裏返す試みは、都心東北部のいろんな場所で動きだしているのだ。

クールな吉見が熱く語るトラム江戸線や高速道路の撤去、グレーター上野駅が実現した風景を夢想してみる。時速13キロで移動するトラムから見る東京は、古くて新しいヒューマン・スケールの街。懐かしい過去のような未来。それが成熟した国の首都というものだろう。少なくとも、オリンピックや万博やカジノといった「高度成長の夢、もう一度」の都市開発は、もういらない。(山崎幸雄)

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2018年9月23日 (日)

「童謡の百年」 井手口彰典

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井手口彰典 著
筑摩書房(320p)2018.02.15
1,728円

1918年(大正7年)に鈴木三重吉が児童向け雑誌「赤い鳥」を創刊し、童謡創作運動が盛り上がるきっかけとなった。この年を起点として、今年は「童謡誕生100年」と言われている。本書の冒頭には「かごめかごめ」「春が来た」「春よ来い」「およげ!たいやきくん」など10曲の題名が列挙されて、各々が「童謡」か「唱歌」かを判別せよという質問が出されている。古そうだから唱歌かなとというレベルの判断でページをめくり答えを見ると、「残念ながら答え合わせは出来ません」とある。厳密な意味で、何が童謡であるかの定義はできていないという現実を理解するところから本書の読書は始まる。真正面から「童謡」と「唱歌」の違いはという問いを突き付けられると、はたと答えに窮するというのもやむを得ないことのようである。

感覚的には「童謡」という言葉で一括りにしているが、童謡、わらべ唄、唱歌と言われているものから戦後に人気を博した児童歌手や「うたのおばさん」が唄う歌、アニメソングやCMソングなど、各々の時代に多様なジャンルの童謡的な歌が存在してきた。本書はそうした童謡にまつわる過去の記録を掘り起こして、折々の社会・時代でどのように受け止められ、歌われ、語られて来たのかを探り、人々が童謡に対して抱いているイメージの変化の過程を明らかにしようとしている。

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2018年7月24日 (火)

「トレイルズ 『道』と歩くことの哲学」ロバート・ムーア

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ロバート・ムーア 著
A&E Books(376p)2018.01.25
2,376円

アメリカ東部のアパラチア山脈に沿ってアパラチアン・トレイルズという長距離自然歩道がある。本書はメイン州からジョージア州までの3500kmというこの道を5カ月かけて歩いた紀行文であると同時に、小さな細胞からゾウの群れまであらゆるサイズの生き物が「トレイル・道」を拠り所にして生きている実態や、人類が積み上げてきた「道」に関する歴史と将来を考察している。こうした幅広い視点をカバーしているため、読み手からすると話の飛躍と変化についていく努力が求められているのも事実。私は「旧街道歩き」を趣味にしているので、歩くことの楽しみは自分なりの理解をしているつもりであるが、「あなたは何故、歩くのか」という著者からの問いかけに応答しながらの読書となった。

本書は人間以外の生物のトレイルと人類が作り上げてきたトレイルの二つの視点から構成されていて、自ら歩き、体験した記録と多様な学術的成果を織り交ぜながらエピソードを紹介している。

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2017年12月17日 (日)

「閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済」水野和夫

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水野和夫 著
集英社新書(272p)2017.05.22
842円

6年前、水野和夫の『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』(日本経済新聞出版社)を読んだ。ゼロ金利、ゼロ成長と格差拡大がつづく日本経済の閉塞を、中世から近代への転換期だった16世紀イタリアと比較しながら資本主義の行き詰まりと捉える壮大な見取り図に興奮した(ブック・ナビにも感想を書いた)。この本の末尾で水野は、来るべき世界の見取図を「脱成長の時代」「定常システム」という言葉でラフスケッチしていた。言葉だけで中身がほとんど説明されていないのは、それが著者のなかで着想の段階であり、考えが十分に熟していなかったからだろう。本書を読んだのは、その着想がどう深化しているかを知りたかったから。

そこへいく前に、まず著者が現在の世界をどう考えているかを見てみよう。

英国のEU離脱やトランプ大統領の誕生を水野は、世界中で貧富の格差を拡大するグローバリゼーションへの抵抗、「国民国家へのゆり戻し」と考える。近代の国民国家は、豊かな生活や市民社会の安定といった市民の欲望に答えるために生産力の増大を必要とした。生産力を増大=成長するためには、世界には常にフロンティアがなければならない。フロンティアから富を中央(英国、米国といった覇権国)に集中させる(別の言葉でいえば収奪する)ことによって、資本は自己を増殖させてゆく。

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2015年7月12日 (日)

「動物記」高橋源一郎

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高橋源一郎 著
河出書房新社(276p)2015.04.09
1,728円

本書に収められている9つの短編は全て雑誌「文藝」に掲載されたもので、動物に係わる小説がずらりと並んでいる。各々は高橋の作品らしく、一ひねりも二ひねりもされていて、表現に仕組まれているユーモアを理解するための知識、それは文学的や動物学的そして極めて現代風なカルチャーというか風俗にまで及ぶ多様な事柄に理解と共感を持っていることを読者に対して要求している。そうした実験も、ある一定の読者層が想定される文芸雑誌を土俵にしているが故に可能なのかもしれない。動物に係わるといっても、「人間」の形に変えられたり、人間の「言葉」をしゃべる様になった動物たちの言葉や行動といった自由な表現に対し、読み手としての心の柔軟性が問われるようだ。

それは、通常の小説のように人間を描写し、人間の感性を表現する限りにおいては、読者としての知識と常識の中でその表現を読み解いたり、感動したりすることが出来るものだが、話の冒頭から、突然人間の形になったオオアリクイが出てくると、そもそもなにを考えて生きている動物なのかも良く判らないという不安感から読書が始まるわけで、甚だスリリングな時間を過ごすことになる。そして、人間の形に変った彼らは動物の視点から「人間」同志ではけして理解できない、人間の不器用さや狡さについて指摘をする。

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2015年5月11日 (月)

「友は野末に」色川武大

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色川武大 著
新潮社(251p)2015.03.31
2,160円

本書は、昭和という時代を生き抜いた色川武大(昭和4年生、平成元年没)の九つの短編と二つの対談を収めている。今時、珍しい紙ケースに入ったデザインも凝っているし、本体表紙はそれを上回るインパクトがあって、彼の小説が持つ幻惑的な印象を上手く表現した装丁である。色川は「無頼派」と呼ばれた作風の通り、短編の中で綴られているエピソードは、厳格な軍人を父として持つ息子の反抗・放浪・挫折、戦後混乱期の生きるための庶民の知恵とあがき、花街の生活、ヒロポン中毒、胡散臭いギャンブル、新宿などの闇市とそこに跳梁する暴力団、常に身近にあった死、そして長期間の空白を経た突然の邂逅、といったモチーフがちりばめられている。

同世代の人達であれば体験的に共鳴することも、批判することも出来るのだろう。しかし、評者のような一世代遅れの「団塊の世代」にとっては、そこに描写されている情景の雰囲気やイメージは理解出来るものの、体験的実感ではなく親から伝え聞いた話やぼんやりとした思い出の中の時代なのだ。そうした時代背景とは別に、色川を終生悩ませた「ナルコレプシー」という病の影が作品の中に色濃く出ている。突然眠りに落ちたり、眠りと脳の活動のアンバランスから生じる幻覚に襲われる病気だが、そうした病状や薬の副作用から逃げることなく文学作品の中にそれらを表現していった。

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2013年9月15日 (日)

「都市はなぜ魂を失ったか」シャロン・ズーキン

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シャロン・ズーキン 著
講談社(392p)2013.01.12
3,990円

副題として「ジェイコブズ後のニューヨーク論」とある。本書でいう「都市」とは「ニューヨーク市(NYC)」であり、時代は「ジェイコブズ後」とあるように1980年代以降を主な対象としているのだが、過去からの経緯も詳しく語られているのに加えて、多様な映画や小説からの引用も多く、ニューヨークに対する広範な知識がないと、本当の意味で読みこなして行くのはなかなか難しい本である。仮に、本書を大学の都市計画の教科書として使おうとすると、教える側も教わる側もベースとなる知識の要求レベルに対応するのは大変なエネルギーを要するのではないかと想像する。

評者のような週末読書家で、NYCに対する知識や体験といえば、仕事の関係でマンハッタンから車で小一時間ほど北に位置するホワイトプレーンズやアーモンクといった、いわばニューヨーク郊外に滞在する出張は多かったものの、マンハッタンに宿泊した経験は殆どないという「NYCの素人」にとっては、見たこともない映画からの引用は適当に読み飛ばしつつ、現在のニューヨーク・ガイドブックとして読んでいくという楽しみ方も可能な一冊だと思う。

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2012年9月12日 (水)

「東京プリズン」赤坂真理

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赤坂真理 著
河出書房新社(448p)2012.07.24
1,890円

赤坂真理の小説を読んだことはなかった。彼女を知っているといえば、寺島しのぶが素晴らしく魅力的だった映画『ヴァイブレータ』(廣木隆一監督)の原作者としてだけだった。そして寺島しのぶがこの小説に惚れ込み、赤坂真理もまた映画が気に入っている、とどこかで読んだことがあった。

主人公は30歳過ぎの女性ライター。自分の頭の中に入り込むいろんな声に悩まされ、不眠や過食に苦しんでいる。彼女は偶然コンビニで出会った長距離トラック運転手に声をかけ、そのまま男のトラックに同乗してしまう。孤独な心と心が寄り添う、ひりひりしているのになぜか優しい気持ちになれる、不思議な感触のロードムーヴィーだった。

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2012年1月10日 (火)

「ドキュメント アメリカ先住民」鎌田 遵

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鎌田 遵 著
大月書店(432p)2011.11.18
2,940 円

アメリカ西部のニューメキシコ州にあるサンタフェは、アメリカ人が国内で行ってみたい場所のアンケートを取るとたいていナンバーワンにランクされる、日本でいえば京都みたいな土地だ。先住民プエブロ族とヨーロッパからこの地に最初に入り込んだスペインの文化が濃厚に残り、町中の建物も黄土色のプエブロふうに統一され美術家やアーティストも多く住む、砂漠の中の小さく美しい町。

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