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2023年11月16日 (木)

「日本語の発音はどう変わってきたか」釘貫 亨

釘貫 亨 著
中央公論新社(264p)2023.02.20
924円

著者は1954年生まれ。専門は「日本語学」、著作は「古代日本語形態変化」などが紹介されている。「日本語学」とか「日本語形態変化」という言葉に初めて接して、具体的な内容や研究手法もよく判らないまま本書を手にしたのは、帯のキャッチコピーの「羽柴秀吉はファシバ フィデヨシだった!」という言葉に引きつけられたから。

音声学では発音の再現を「再建」という言葉を使うとのことだが、本書は奈良時代(8世紀)から江戸中期(18世紀)における日本語発音の再建研究の現状と手法を説明しており、文献資料(万葉集や源氏物語絵巻等)の重要さと共に日本語音韻学だけでなく各国音韻学の成果も生かしつつ再建して行く大変さを理解させてくれる。また、表意文字としての漢字、表音文字としての平仮名、片仮名、そしてローマ字(アルファベット)を組み合わせて日常文を表現している日本語についても、なんでこんな複雑な言語になってしまったのかを知る楽しさもある。

現代の私たちは五十音(あいうえお)によって母音は5つと理解している。しかし、奈良時代は「い(i)」と「ゐ(wi)」、「え(e)」と「ゑ(we)」、「お(o)」と「を(wo)」に区別した発音がなされていたため、8母音だった。こうした「ゐ」とか「ゑ」は今となっては、店の名前などでしか出会わない存在である。音の再建の重要な資料が万葉集(万葉仮名)である。万葉仮名は中国の音読みを参考にして日本語音節(おおむね50音の一つ一つ)に漢字を当てたもの。当初は人名や地名といった固有名詞に使い、その後動詞などにも使って、8世紀には漢字だけで日本語の文が書けるようになったという。万葉仮名でハ行の子音は「波」「比」「布」「倍」「保」の漢字が当てられているが、中国唐代ではこれらの漢字は上下の唇を合わせた破裂音で「pa-pi-pu-pe-po」に近い発音だったという。こうした中国音韻学と万葉仮名からの推論が鍵。

次の変革期は平安時代で、ハ行の破裂音は緩くなり「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」と変化して行くとともに、手紙を書く時などは、「以」を「い」のように万葉仮名を崩して平仮名を生成して書くことが主流になっていく。そして表音文字の完成形として平仮名「いろは歌」四十七文字が確立した。万葉仮名と違って平仮名は一字が一音に対応するので書き手の筆記速度は大きく改善し、枕草子、源氏物語をはじめとして総て平仮名で書かれている物語や日記が多く残っている。その特徴としては地の文と会話文の表現差や切れ目がなく書かれていて、現代の我々が読んでもなかなか読み難い文章である。

また、漢字を訓読するときの万葉仮名の「伊」の偏をつかって「イ」と表現する片仮名が成立したものの、漢文読み下しのための訓点(符号)として使われていたこともあり、美的鑑賞の対象にもならず書としての存在感もほとんどなかった。

鎌倉時代になると文章の書き方は大変革を起こす。平安の源氏物語絵巻は総て平仮名で書かれていたが、藤原定家が書写校訂した源氏物語定家本は漢字を組み合わせて句点、読点を付した上で会話を括弧で括るという、まさに読み易さの革命を起こしている。こうした定家の活動は王朝風の文や和歌の綴りの混乱への対応でもあった。源氏物語定家本の漢字混入は注釈であるとともに文意理解の補強になっている。現代の我々が接している古典文はこの定家の文章体裁である。こうした定家の仕事も見方を変えると「原典尊重」の視点から批判が出てもおかしくなさそうであるが、著者は復古と革新の両面から前向きに評価している。

もう一つ日本語音声の記録の重要な資料として著者が挙げているのはイエズス会宣教師が残したローマ字の記録である。日葡辞書(1603)として刊行されているが、これによるとハ行音は「f」で表現されている。「ハ行音」は「鳩fato」「光ficari」というように両唇摩擦音で表記されていることから、本書の帯の「ファシバ フィデヨシ」がこれか。

江戸元禄期の文芸復興で、僧侶であり歌人でもあった契沖は仮名遣いの説明原理として使われてきた「いろは歌」に変わり、「五十音図」で説明した。また、古事記の近代的注釈を世に出した本居宣長は音訓研究の中で提唱した和歌の字余りからみた音声の再建が取り上げられている。例えば額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮も叶ひぬ今は漕ぎいでな」という和歌は「5-7-5-7-8」という字余りに読めるが、このア行音節の字余りの発音としては単独母音「い」を省略して発音していて、「今は漕ぎでな」と7音リズムだったとしている。素直に納得出来る説明だし、面白い視点だと思う。

こうした時代を通して、音読みの歴史も興味深い視点だ。例えば「行」という漢字を音読みで「こう・ぎょう・あん」、訓読みで「おこなう・ゆく」等と我々は使い分けて読んでいる。この様に、一つの漢字を日本人が複雑に読むことに中国人は驚くという。特に音読みの複数の読み方を「漢字の重層化」と言うようなのだが、各層は呉音(3~6世紀)、漢音(6~8世紀)、唐音(13世紀)として日本に入って来た。ただ、本家中国だけでなく、朝鮮、ベトナムでもこうした重層音は残っていない。なぜ日本にだけ重層音が残ったのかについて、呉音は仏教(僧侶)、漢音は律令制度(貴族)、唐音は禅宗といった別々の集団の中で伝承された結果と著者は見ている。

また、日本漢字音の特徴は音節が母音で終わることにある。一方、各国言語では子音で終わる語が多くある。英語の「CUP・káp」は日本では「カップ・kappu」と母音終わりに変化させる。このように明治以降片仮名で転写して表現してきた。日本人の英語下手の原因として発音のまずさが挙げられているのも、こうした片仮名イングリッシュで耳と目に刷り込まれているからと指摘している。

個人的に言えば日本語の多様性の一面として、中国の固有名詞の多くを漢字表記して日本語音で発音している。これで中国の歴史文化を学び、語って来た。以前の職場で各国の技術者と仕事をする中に中国の技術者たちも居た。ITの仕事関係の会話を英語でする際はお互い問題ないが、食事をする等の日常会話の中で中国の歴史や地名を語ろうとすると発音が判らないというジレンマに陥る。中国のことをそう知っている訳でもないアメリカ人が固有名詞(地名・人名)を音で覚えているので会話は成立する。一方、書けるし、それなりに知識のある日本人は中国語発音を知らないために会話が成立しない。「論語」は中国語でどう発音するのか? 「ルゥンイー」を知らなければ論語から名付けられた私の名前も伝えることはできない。

そんなことも考えながら、日本語の複雑な歴史を発音という視点からの説明とともに、グローバルに見ても異質な日本語体形を再認識させてもらった一冊だった。(内池正名)

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2022年11月27日 (日)

「日本で生きるクルド人」鴇沢哲雄

鴇沢哲雄 著
ぶなのもり(208p)2019.08.01
1,760円

埼玉・東京・神奈川をつなぐ京浜東北線で、始発の大宮駅から東京方面の電車に乗ると浦和の先に蕨という駅がある。小生の実家の最寄り駅でときどき利用するのだが、東口へ出ると中東系のアジア人とよくすれ違う。その大多数が本書のテーマであるクルド人。そのほとんどがトルコ国籍を持ち、日本に約2000人滞在しているうち蕨駅周辺に約1500人が集まっているという。クルド人が住むアナトリア半島のつけ根はクルディスタン(クルド人の地)と呼ばれるが、そこから蕨駅周辺はワラビスタンと呼ばれることもある。

『日本で生きるクルド人』は、蕨駅周辺に住むクルド人を追ったドキュメント。著者の鴇沢(ときざわ)は元毎日新聞記者で2008年から川口通信部に赴任してクルド人を取材し、地方版に連載記事を書いた。この本は、その取材ノートをもとに書き下したもの。なお著者はその後退社し、現在はバルセロナに暮らしている。日本で暮らすクルド人の実態について記した、たぶん唯一の本だろう。

この本には何人ものクルド人が出てくる。まずはその一人、アリさんが日本に来た理由、そして来てからのことを紹介してみよう。

アリさんが一人で来日したのは1993年、17歳だった。来日したクルド人としては最初期に属する。トルコ政府はクルド人独立を目指す民族政党PKK(クルド労働者党)をテロ集団として弾圧しているが、アリさんの兄は別のクルド系政党DEPの党員で、こちらも政府により解散させられた。アリさんは「トルコに残っていたら逮捕されたかもしれない」危険を感じて単身、国外へ脱出した。日本へ来たのは、ヨーロッパ各国はビザ審査が厳しかったが日本は観光ビザで入国できたからだ。

当時、ネットに「日本へ行ったら蕨のマック(マクドナルド)へ行け」という書き込みがあり、そこで知り合ったクルド人に住む場所や仕事を紹介してもらった。仕事は造園関係や解体業。ところが5年後にオーバーステイで捕まり、収容中に難民申請をしたが却下された。2年以上収容された末に仮放免。難民不認定の取り消しを求め提訴したが、その最中に再び仮放免を取り消され1年間の収容。その後、日本国籍の妻と結婚したが、配偶者ビザはもらえなかった。現在は野田市に中古住宅を買ったが、ローンは奥さん名義。今も仮放免なので「明日どうなるかわからない」状態がつづいている。

以下、クルド人と日本の入国管理について、本書と「在日クルド人と共に 初の難民認定の意義と入管法の問題点」というパンフレットを基にまとめてみる。

クルド人は国を持たない世界最大の民族と言われる。人口は約3000万人。クルディスタンの地は第二次大戦後、英仏によって分割されトルコ、イラン、イラク、シリアに分かれた。クルド人は各国で少数民族として暮らしている。トルコではPKKがかつて独立を求めて武装闘争をおこない、トルコ政府はPKKをはじめとしてクルド民族を弾圧した。そのため1990年代からトルコ国籍のクルド人が国を逃れ来日しはじめたという。

彼らの多くは国際法上の「難民」に当たり、世界各国で難民申請したトルコ国籍クルド人の46%が難民認定を受けている。でも日本政府は「難民」の定義を極めて狭く解釈し、2018年だけでも563件のクルド人の申請があったが、これまで一人も難民として認定されてこなかった(今年、初めて一人が認定された)。先に紹介したアリさんもその一人だ。なぜ難民として認定されないのか。その背景を鴇沢は、「日本にとってトルコは友好国で、クルド人を難民として認めることはトルコ政府による政治的迫害を認めることを意味している」からだ、と記している。

難民として認定されず、オーバーステイで「不法滞在」となった外国人は入管の施設に収容される。収容はアリさんのように長期に渡ることもある。その待遇が非人道的なことは、昨年、スリランカ国籍のウィシュマさんが収容中に死亡した事件で明らかになった。収容の目的は、「いかなる名目があるにしろ、……肉体的にも精神的にも消耗させ、日本にいることをあきらめさせ、自主的に帰国させることだ」と鴇沢は書く。

収容者が一時的に収容を解かれる「仮放免」という制度がある。アリさんも二度収容され、二度「仮放免」されている。仮放免には「労働の禁止」「許可なく県外への移動の禁止」「月一回の入管への出頭」など厳しい制約がある。この条件に従えば、仮放免された人は自分でお金を稼げないから100%親族や友人、支援団体に依存しなければ暮らしていけない。長期にわたる仮放免でそれが不可能なことは、入管当局もよく知っているだろう。

実際、仮放免されたクルド人が収容される危険を承知で解体などの現場で働いていることは「公然の秘密」(鴇沢)だ。労働だけでなく、電車に15分乗って東京都内へ出かけるだけで違反となる仮放免の制度は、だから「いつでも拘束、収容できるんだぞ」という無言の脅迫になっている。ある仮放免中の人は、その状態を「生きながらの死(living death)」と表現している。

ところで、クルド人が多数住んでいるのは蕨駅東口だが、西口へ出るとまた少し様子が違う。西口には、2454戸の住民の過半数が中国人であることで話題になった芝園団地がある(ここについては団地に住むジャーナリスト大島隆の『芝園団地に住んでいます』<明石書店>に詳しい)。東口はケバブーの店やハラールの店がある程度でクルド色を感じないが、西口を降り巨大な団地へ行くと敷地内外に中国人向けの商店が並ぶ。蕨駅周辺は国際色豊かなのだ。もっとも、これには注釈が必要だ。クルド人が多く住むのは芝地区だが、ここも芝園団地も行政的には蕨市でなく川口市に属している。蕨駅は蕨市と川口市の境界近くにあり、ほんの数分も歩けば川口市になってしまう。

法務省が全国の自治体に住む在留外国人の数を発表している。それによると、いちばん多いのは東京都新宿区で43,985人(2018年)。次いで東京都江戸川区、三番目が川口市で36,407人。ベスト10に入っているのは川口市以外すべて東京と大阪の区部だから、市町村レベルでは川口は全国で最も在留外国人の多い自治体ということになる。それを国籍別に見ると中国(59%)を筆頭に、ベトナム(10%)、韓国(8%)、フィリピン(7%)、トルコ(3%)となっている(2019年)。これは川口市の数字で、蕨市は市域も人口も小さいから絶対数としては少ないが、割合で見ると、公立小中学校に通う外国人の比率は川口市より大きい。川口市と、隣接する蕨市はアジア人を中心とする全国有数の国際都市なのだ。

本書に戻ろう。アリさんは在日クルド人のいわば第一世代だが、今では小さいとき日本に来たり日本で生まれた第三世代も多い。その一人がメヒリバンさんだ。

彼女が、先に川口で暮らしていた両親の元へ来たのは6歳のときだった。小学校は、はじめ日本語が分からないので入学させてもらえなかったが、必死に勉強して2年生から小学校に入った。公立高校へも進学したが、先に希望が見えず中退。パニック障害も患った。その後、クルド人青年と結婚したが半年後の2017年10月、突然、入管から呼び出しがありそのまま収容された。収容は半年以上に及んだが、収容中に面会に訪れた著者に、メヒリバンさんはこう訴えている。「思い出がたくさんあるから日本にいる。80%以上(私は)日本人。実家は川口。家は日本。トルコには帰らない」。

メリヒバンさんのような第三世代のクルド人は、日本の生活や文化になじんでいる。日本語を覚えるのも早い。在日クルド人としてはじめて大学に進学したジランさんの場合、「クルド語は聞きとれるけど話せないので、母とはトルコ語。親同士はクルド語で話している。弟や妹は日本語しか使わない。だから兄弟では日本語」という状態だが、身分は家族全員が仮放免中。「自分は中身は日本人に近い。弟もそう。それなのに健康保険証もなく仕事もできない。これでは死ねと言われているのと同じ。どうやって生活していけばいいのか。頑張っている人にもう少し態度を変えるべきだと思うが、逆にいじめて、グローバル化といいながら何をしたいのかよくわからない」。

クルド人が経営するトルコ料理店「ハッピーケバブ」は蕨駅前にある。日曜日の午後、店は混んでいた。クルド青年の4人組。クルド青年と日本人女性のカップル。日本人のカップル。一人で黙々と食事する中年クルド人男性が何人か。店を切り盛りするのはもちろん全員がクルド人。小生にはトルコ語とクルド語の区別がつかないが、耳慣れない言葉が店を飛びかっている。その空気に、十数年前にニューヨークに滞在していたときの気分を思い出した。日本では家を出ても五感が緩んだまま動き回れるが、ニューヨークでは部屋を出た瞬間に無意識のうちに五感を緊張させアンテナを張り巡らせていた。その気分。ここは国際都市なんだ、と改めて思った。

芝園団地に住む大島隆は、先に紹介した本の末尾にこう書いている。「芝園団地は世界のいまであり、日本の近未来でもある」。この言葉は団地だけでなく、蕨駅周辺の川口・蕨地域に広げて、そのまま当てはめることができる。「川口・蕨は世界のいまであり、日本の近未来でもある」と。それが好むと好まざるとにかかわらずやってくる未来であるなら、私たち一人ひとりと国がこの近未来にどう向き合っていくのか。それが本書を読んだあとにやってくる問いになるだろう。(山崎幸雄)

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2021年12月18日 (土)

「にっぽんセクシー歌謡史」馬飼野元宏

馬飼野元宏 著
リットーミュージック(592p)2021.05.21
2,200円

奇書というか怪書というべきか。明治時代後期から始まった日本のレコード文化で性的な要素がどのように表現されてきたのかを語り尽くした600頁におよぶ大書である。「お色気・エロティシズム・セクシー」といった主観的なキーワードに振り回されることなく、楽曲がリリースされて受け入れられた時代背景とを合わせて俯瞰することで、その曲の持つ意味を再確認するという読み方が楽しい。また、歌謡曲がレコード・ラジオの「音」時代からテレビがメディアの主体になって「音と映像」へと表現形態が変化したが、本書で取り上げられている楽曲の半数は聴いたことが無いという私にとって、そうした曲を文字によって想像することはなかなか難しかったものの、自分が慣れ親しんだ楽曲については著者の独特な分析や考えを辿って行くことは楽しい読書であった。

本書はタイトルの通り「セクシー歌謡」について大正デモクラシーの時代から現代までを語るとともに、制作側の作曲家浜口庫之助、プロデューサー酒井政利の活動に焦点を当てて語り、「セクシー歌手トップ4の履歴書」と題して奥村チヨ、辺見マリ、山本リンダ、夏木マリのデビュー前を含め歌手として、また俳優としての活動経験を詳細に記述している。

本書の歌謡史を概略辿ってみると、第一次世界大戦後の好景気と大正デモクラシーによる自由な文化の風潮の中、澤文子の「アラ!失礼」(1928)という「エロ」らしき歌の登場を契機として、著者が「エロ歌謡」元年としている1930年には黒田進が歌う「エロ小唄」という身もふたもないタイトルの曲がリリースされている。これは「男側の勝手な妄想」から生まれた曲で、制作側も「エロ」を流行歌でどう表現するのかは未開発段階であり、「ニュアンス」を表現するといった一ひねりも無い直接的な歌だったようだ。

昭和初期から戦前にかけての時代は、渡辺はま子の囁くような歌唱で「忘れちゃいやよ」(1936)がヒット。彼女は武蔵野音大出身で音楽教師から歌手に転向しただけあって発声の技術も十分に発揮された初めての歌謡曲と言われている。一方、いわゆる「鶯芸者」と呼ばれた芸妓歌手による楽曲がリリースされていく。小唄勝太郎「島の娘」や美ち奴の「ああそれなのに」の中の歌詞「・・・あったりまえでしょう」などは、今なら「年間流行語大賞」になるような流行り方だった。しかし、これらの曲は内務省の検閲で「エロを満喫させる」として発禁となり、戦時体制になると多くの楽曲が「不謹慎歌謡」として販売も歌唱も禁止されていくという音楽活動の低迷時期を迎える。

戦後「鶯芸者」の流れは久保幸江の「トンコ節」(1951)西条八十作詞・古賀政男作曲が大ヒットで復活を果たす。それにしても私が4~5才の頃の歌謡曲だが、「ネエ!トンコトンコ」と歌っていたのを思い出す位であるから、ごく普通のはやり歌だったようにも思うのだが、この曲は1951年の自主規制のレコード製作倫理規定で放送禁止となっていると聞くと驚くばかり。

1950年代後半を「セクシー歌謡」の変革期とし、ハワイアンやラテンをベースとして洋楽トレンドの「ポップス」系や「ムード歌謡」の歌謡曲が登場してくる時代である。

「ポップス」系では、ガールズグループの先駆けとなったスリー・キャッツが星野哲郎・浜口庫之助の「黄色いサクランボ」で一世を風靡した。まさに「セクシー歌謡」の本丸である。

一方、「ムード歌謡」と呼ばれる「都会の大人の男女による恋の駆け引き」を歌った楽曲群のうちの一曲がフランク永井の低音と松尾和子のハスキーヴォイスで構成された「東京ナイトクラブ」(1959)。また、ハワイアンバンドだった和田弘とマヒナスターズが松尾和子と組んだ「誰よりも君を愛す」(1959)をヒットさせる。この系列で、松尾より低いキーのハスキーヴォイスだった青江三奈が「恍惚のブルース」(1966)でデビューし、「伊勢佐木町ブルース」(1968川内・鈴木)が大ヒットする。この曲は歌詞だけを読めば色っぽい表現はないし、むしろご当地ソングそのものである。ただ、冒頭のため息とサビのスキャットがエロティシズム全開のためNHK紅白でも冒頭のため息はカットされている。まさに言葉ではなく、歌い方だけで「エロ」を表しているという独特な曲である。

著者が孤高のお色気歌手とする、奥村チヨは1965年に「ごめんねジロー」でデビューした洋風イメージのシンガー。そして、「恋の奴隷」(1969,なかにし礼作詞、鈴木邦彦作曲)をリリースする。この曲はバンド・サウンドのビートの効いたボップスとアダルトな世界の歌詞を融合させて変革をもたらした。販売元の東芝ではこのタイトルには疑義が出されたと言うし、NHKでは放送コードの関係でこの楽曲を歌う事は出来なかった。辺見マリの「経験」も同様である。しかし、1970年代前半になるとTVを含めて「性的表現」を許容するようになった時代である。「8時だよ全員集合」で加藤茶の「ちょっとだけよ」等と言うセリフがゴールデンタイムで堂々と放映され子供までが真似をしていた時代。社会全体の性的表現の許容度が高まったというか、性的に緩んだ時代ともいえる。

山本リンダは「困っちゃうな」(1966)でデビューしたがヒットに恵まれなかった。キャニオンレコードに移籍した1972年に阿久悠作詞、都倉俊一作曲の「どうにも止まらない」でカンバックする。この復活の衝撃を三つの観点で説明している。それは、「イメージチェンジ(変身)」とステージ上を激しく動き回る「ボディーアクション」、そして「歌詞に込められた女性上位」としている。「女性上位」とは、この曲の作詞家である阿久悠が描き出した女性観であり、女性側が男を選ぶという構図である。ウーマンリブの波及や女性社会参画の時代を象徴した歌詞であった。

こう考えると、音楽が文化を引っ張っていったという見方もあれば、時代の文化に合わせて売れる歌謡曲・ポップスを制作して行ったという見方の双方が浮かび上がってくる。

1960年代半から1970年代半における象徴的な変化を、「奥村チヨ・恋の奴隷=男にとって都合のよい世界観」から「辺見マリ・経験=愛していないなら口づけはやめてという女性の平等な意志の表現」そして「山本リンダ・どうにも止まらない=女が男を選ぶ女性上位」と説明する。

この時期はもう一つのインパクトのある作品がリリースされる。山口百恵の「ひと夏の経験」(1974)である。この楽曲に対して、婦人運動の先駆けである市川房江などがNHKに対して「歌謡番組でも女性を男性の従属物のように考えている歌などは使わないでください。例えば、山口百恵の『ひと夏の経験』、西川峰子の『あなたにあげる』 などの歌詞は許せない」と申し入れたという。山口百恵は自書の「蒼い時」で当時のことをこう語っている。

「ほとんどのインタビューでは、薄笑いを浮かべながら上目遣いで私を見て聞くのだった。『女の子の一番大切なものって何ですか』 。私の困惑する様を見たいのか・・・私は全てまごころ という一言で押し通した」時に、山口百恵15才の時である。

そして、1979年にはピンクレデイーが土居甫の派手な振り付けで「ペッパー警部」でデビューする。大人から見れば「下品」な振り付けも、子供達から見れば「面白い」振り付けだったということか。このあたりまでが私の体感的歌謡史の年限である。

本書でとりあげられている多くのセクシー歌謡曲は歌謡史の名曲として生き残り、それらを歌ってきた歌手達も歌謡史にその名を残している。その理由をこう語っている。

「特に女性歌手の性表現が存続してきた真の理由は,制作陣、作家達、そして何より歌い手たちの歌唱技巧と『覚悟』が有っての結果である。歌謡史の裏街道的扱いを受けがちなジャンルでありながらも本物は必ず生き残る のだ」

こうして時代を辿っていくと、桑田佳祐がデビューして「勝手にシンドバット」「C調言葉にご用心」など。語呂合わせのような刺激の強い歌詞の楽曲をどんどんリリースしていった。能動的でおおらかな性愛表現をコミカルに歌っていることから、桑田の作品群が女性蔑視やセクハラ的と言われたことはない。「セクシー歌謡曲」の世界から見ると異端であると気付かされる。(内池正名

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2021年1月17日 (日)

「日本のテレビ・ドキュメンタリー」丹羽美之

丹羽美之 著
東京大学出版会(288p)2020.06.19
3,300円

著者の丹羽美之は1974年生まれ。NHKに入り、ディレクターなどを経験し、現在は東京大学情報学環(文理融合の情報学)准教授。その世代の著者が日本のテレビの黎明期から60年間の歩みの中で制作されたテレビ・ドキュメンタリー番組と制作者の言葉を通して、番組で戦後日本の復興と近代化をどう記録してきたのかを明らかにし、加えてテレビ・ドキュメンタリーが新聞、雑誌、映画やラジオといった既存のメデイアとは違った形で独自の映像ジャーナリズムを切り開いていった状況を描いた一冊である。

本書の構成は、第一章では本書の原点ともなった、NHKアーカイブスなど、テレビ・アーカイブスの現状とその課題を語っている。第二章以降は、1957年にスタートしたテレビ・ドキュメンタリーの草分けであるNHKの「日本の素顔」とディレクターの吉田直哉、1962年日本テレビの「ノンフィクション劇場」を制作した牛山純一といった先駆者たちに始まり、TBSの萩本晴彦や村木良彦、東京12チャンネルの田原総一朗を中心とした1960年代後半から1970年代にかけて制作された実験的な番組に焦点を当ててその制作姿勢と時代を描いている。一方ローカル局のRKB毎日放送の木村栄文、山口放送の磯部恭子など幅広い作品を取り上げ、1990年代以降はフジテレビの「NONFIX」で活躍した是枝裕和や森達也などプロダクションやフリーランスによる番組制作方法の変化について考察している。そして、最後の章では、東日本大震災と原発事故でのテレビの役割について述べている。

こうした60年間に亘るテレビ・ドキュメンタリー番組を俯瞰しての著者の考察は具体的、且つ網羅的であり、これからの多様な議論のベースとしての起爆剤的価値が大きいと感じられるだけに、今後この領域での活発な議論が期待される。

著者はテレビ番組が人々の生活や文化に影響を及ぼしてきたにもかかわらず、今まで研究対象としてあまり取り上げられなかった理由を、制作側が「テレビ番組は一回放送すれば終わり」と考えていたことに加えて、過去の番組の保持が十分でなく、且つ、公開されていないことに起因すると指摘している。NHKアーカイブスが2003年にテレビ開局50年を記念してオープンし100万本の番組、800万項目のニュースを保存したものの、一部の番組を除いて非公開だった。ただ、学術研究に限り試行的に「アーカイブスを用いたテレビ・ドキュメンタリー史研究」が2009年から2011年にNHKと東大で共同研究が行われたことを契機として、著作権を含めた諸権利対応とともに、これらのライブラリーが単なる「保存庫」から「創造・発信源」に変化することがテレビ・アーカイブスの未来を作っていくとの著者の思いは強い。

本書では「日本の素顔」を社会派ドキュメンタリーの出発点として取り上げているが、私はこの番組を見ていたこともあって、この章は興味深く読んだ。制作者吉田直哉は1954年にNHKに入局。ラジオを3年間担当後「日本の素顔」のスタートともにテレビに移っている。「この番組は記録映画との訣別を目指してラジオの延長線上にデレビドキュメンタリーを構想した」という言葉が紹介されているように、吉田は劇場用記録映画とは結論を先取りした完了形の「説得映画」と定義し、一方、テレビ・ドキュメンタリーは「現在進行形」の思考過程を提示するという考え方に基づき、新たなドキュメンタリーの可能性を追求し多くの名作を残した。その「日本の素顔」の鋭い社会批判は戦後日本に残る課題を病理として描き出してきたが、経済成長とともに近代化・産業化がもたらす負の側面も次第に明らかになり、「日本の素顔」が担っていた近代啓蒙的な姿勢は敬遠されるようになったと著者は評価している。

次に1962年に日本テレビでスタートした「ノンフィクション劇場」を取り上げている。この番組を率いた牛山純一は日本テレビの一期生として入社して、報道部、政治担当記者を経て、1959年の「皇太子ご成婚」中継の責任者となった。牛山は他局が多用したヘリコプターによる空撮やフィルムインサートの映像を一切使わず、視聴者が一番見たいのは花嫁の表情と考えて、アップを多用した生中継で美智子妃の顔を追い続けた。この中継映像は他局のディレクター達からも高く評価されたと言う。牛山のこだわりは、制作者の署名性だった。「日本の素顔」は客観性を追求したが、「ノンフィクション劇場」は主観的、文学的なドキュメンタリーを目指した。それはタイトルの「ノンフィクション」と「劇場」という矛盾した言葉を組み合わせたところに牛山の意図が見えているというのもうなずける指摘だ。

しかし、1965年に牛山の転機が訪れる。「ベトナム海兵大隊戦記」という三回連続放送予定の番組が一回目の放送後に政府・自民党からの批判を受けて以降の放送は中止されるという騒動があった。当時はテレビ番組に対する、政治介入やスポンサー圧力による中止、自主規制が頻発していた。西側メディアとして初めて北ベトナムを取材したTBSの「ハノイ・田英夫の証言」(1967年)は放送後、偏向番組として政府から非難され、田英夫はニュースキャスターを追われたという記述に、田英夫追放劇のドタバタを思い出しながら読み進んだ。

こうした時代を振り返ってみるにつけ、現在のテレビが自由闊達な現状批判や大胆なチャレンジ精神を失ったのではないかという著者の指摘は重く感じる。

RKB毎日放送の木村栄文が制作した「苦海浄土(1970年)」でのドキュメンタリーにおける「演技」を取り上げている。「苦海浄土」は石牟礼道子による同名の公害問題告発本を映像化したものだが、木村はこのドキュメンタリーにあえて俳優の北林谷栄を起用した。石牟礼の想念の化身として盲目の旅芸人に扮した北林が患者たちや海を訪ね歩く。北林を本物の旅芸人と信じ込んだ患者は取材者やテレビカメラに対する態度と違って、自然な表情を見せて映像は作られていく。この挑戦は賛否両論を巻き起こし、ドキュメンタリーの意味が問われる作品になった。

最後に本書の中で東日本大震災についての報道や関連番組からテレビの役割を問い直している点に目を向けてみたい。震災発生直後から報道の中でテレビの速報性や同時性は十分に発揮され津波や原発事故の決定的瞬間をとらえた映像が大きなインパクトを持って提供された。著者はまた、震災後に多くのドキュメンタリーが作られ、持続的な調査報道に大きな力を発揮したと評価している。2011年12月31日に放送された福島中央テレビの「原発水素爆発・わたしたちはどう伝えたのかⅡ」という番組は、自らの震災報道に関する検証をした番組である。この福島中央テレビは福島第一原発の爆発映像を無人の情報カメラで捉えた唯一の局だった。その中に印象深いデータが紹介されている。爆発映像を見た福島中央テレビ幹部スタッフは爆発の4分後にローカル放送に放映、キー局である日本テレビは1時間14分後、政府が正式に第一原発の爆発を認めたのは5時間後のことだった。この時間差の中にテレビが持っている可能性とともに、メディアに携わる人達の報道姿勢が問われることを示していると思う。

1970年生まれの著者はテレビ・ドキュメンタリーを研究するために殆どの映像はアーカイブスを使って研究をした。また、それが可能になった最初の世代なのかもしれない。私を含め、団塊の世代はテレビと同時代的にテレビと接してきた。1953年2月にNHKが開局して日本のテレビ放送は開始されたが、当時近所の酒屋が店の奥の座敷にテレビを置いて近所の子供達や酒を飲んでいるオジサン達が一緒にテレビで野球中継などを見ていたことを思い出す。しかし、時を置かずに我が家の茶の間にもテレビが登場し食事をしながら一家でテレビを見る時代になった。例えば、日曜日の午後9時からの「事件記者」、9時半からは「日本の素顔」を見るというのが我が家のルーティンだった。

しかし、本書を読みながら、登場しているディレクター達の名前や業績は知識としてあるものの、1960年代後半からのテレビ・ドキュメンタリー番組のほとんどを視聴していない。高校生、大学生になってからは映画や音楽(ジャズ)にのめり込みテレビからは遠ざかっていたし、社会人になると仕事に追われ休日に家族との食事中にニュース番組や歌番組を見ていた程度。テレビの普及ともに成長した世代と言いながら、その黎明期だけが生活時間の中にテレビ番組があったと思う。著者の言う、テレビの歩みと戦後日本社会論という壮大なシナリオの中で、混迷と混乱の学生時代の日々、高度成長期の社会人としての多忙な日々を思い起こすと、その時代を描いたドキュメンタリー番組を客観的に視聴できる自信はない。(内池正名

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2020年12月18日 (金)

「日本習合論」内田 樹

内田 樹 著
ミシマ社(296p)2020.09.19
1,980円

「習合」という言葉を日常的に使う人はそう居ないだろう。私も「神仏習合」という熟語が頭の片隅にあるというぐらいなもの。タイトルを見て、どんな内容なのかと訝りながら本を開いた。著者の内田は「習合」と言う言葉を宗教の教義の折衷という意味に限定せず、異文化との混合、ハイブリッド、折り合いといったより広い意味で捉えて、「習合」をキーワードに多様な切り口から日本文化を語っている。

日本は地政学的には辺境国家で「異文化の習合」から得られた成功体験を生存戦略として選択してきたことを考えると、日本の雑種文化というのは必然と言っていい。加藤周一の「日本文化を世界に冠たる純粋種の文化と言いたてるのは英仏の純粋文化に対する劣等感のあらわれ」と言う言葉を紹介しながら、内田は「雑種文化で上等」という前向きの雑種文化論から出発して、神仏習合を語り、農業・教育・労働・日本の民主主義へと話を展開している。

内田は自称少数派であるが、少数派であることに悩んでいるわけではない。少数派だと不安になる人が居るが、内田の言葉を借りれば「孤立する力が足りない」とバッサリ切り捨てている。考えてみれば、異文化の人々とは会ってすぐに理解と共感が生まれることはまず無い。一人一人は所詮少数派だから、意見が異なるにしても少なくとも敵対していないことを相互確認する力が最低限必要ということだろう。そのように、「理解と共感」の上に人間関係を築くことは重要だが、過剰な価値を置くべきでないというのが内田の生き方である。

言葉を変えれば「習合」とは「異物との共生」であり、「習合的な集まり」とは一つの仕事をすることが第一で、そこには親密も共感も求めないという特性が彼にとっては心地よい集団という事の様だ。社会集団が寛容で効率的であるためにこうした「習合的」なあり方は良く出来たシステムであるとしている。

日本列島の住民は古代から異動と共生で上手くやって来た。その例として黒沢の「七人の侍」のストーリーを挙げているのも世代感としては良く判る。こうした雑種文化は他言語との混合を楽しむ文化としても根付いて来た。旧制高校の学生たちが造語した「バックシャン」は英語とドイツ語の、「ゲルピン」はドイツ語と英語の合成語だ。加えて母国語と外来語の合成としては団塊の世代が思い出すのは「内ゲバ」や「ドタキャン」などと枚挙にいとまはない。また、国歌の君が代も古今和歌集の詠み人知らずの長寿祝歌にイギリス人の軍楽隊教官のジョン・フェントンが旋律を付け、ドイツ人音楽家のフランツ・エッケメルトが手を入れているという「習合」の極め付きといえる。

本書の大きなテーマの一つが「神仏習合」である。「神仏習合」とは六世紀の仏教伝来とともに神仏の共生が始まり、神社の中に寺院が、寺院の中に神社が有るといった形が1300年続いて来たことをいう。しかし、慶応4年の神仏分離令によってこの共生は途絶して「神仏分離」が行われる。神宮寺の中では僧侶と神官が一緒に活動していたが、それが否定された。神仏習合の時代は、寺院と神社を統括する職分は別当と呼ばれた僧侶が任ぜられていたが、政令でこの別当職を廃し、神社の神官たちを政府の神祇官の所属にすることを命じた。この結果、神社で御経を唱える社僧たちは、還俗帰農するか、神官に職替するか迫られた。

ただ、政府は「分離」は決めたが「廃仏」を決めたわけではない。しかし、旧水戸藩を始めとして、鹿児島、宮崎、土佐、松本など国学が盛んだった地域では廃仏の運動が盛んだった。加えて、民俗信仰への抑圧は続き、京都五山の送り火、盂蘭盆会、盆踊りなどが禁止された。しかし、この間、組織的な抵抗を示したのは浄土真宗だけで、民衆の抵抗も見られなかった。これは何故かとの答えを内田は、人々は「天皇神」が他の土俗神に対して、その優位性の確認を求めたものと受け取ったと見ている。戦後は神社の国家管理がなくなったこともあり、いずれまた日本では「神仏習合」が行われるといっているのだが、我が身を振り返ると初詣、酉の市等では神社に参り、菩提寺の代々の墓参りにも行く。生活の中では「神仏習合」そのものである。

内田のもう一つの大きな指摘は日本における民主主義の定着の歴史である。帝国憲法下で「天皇神」という認識が人々にあったにも関わらず、福沢諭吉が明治5年に書いた「学問のすすめ」の中で「日本国中の人民に生まれながら、その身に向きたる位などと申すはまずなき姿にて・・・」と語られていることを取り上げて、デモクラシーの萌芽としている。その後、自由民権運動が盛んになるとともに、美濃部達吉の「天皇機関説」は学界では定説になっていた。しかし、軍が天皇の直轄機関として突出し権限を集約していく中でエリートに支えられていた大正デモクラシーは命脈を断たれたという。

こうした戦時中の20年間を経て、終戦から戦後の転換点としての日本国憲法の制定自体の問題点に関する疑義を紹介している。それは、日本国憲法制定の前文として昭和天皇の「上諭」が存在している。そこには「朕は日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た、帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」というもの。

終戦時枢密顧問官だったあの美濃部達吉はこの件について、次の様な疑義を述べたと言う。ポツダム宣言受諾時点で無効になっている帝国憲法に基づいて第七十三条の改憲規定では改憲出来ないこと、新憲法の趣旨に合わない為に廃止させられる枢密院が新憲法の当否を論じるのは不合理であること、「日本国民が制定する」民主的憲法が勅命により天皇の裁可で公布されるのは虚構である、というものだった。敗戦時の混乱のなかで苦肉の天皇「上諭」だったのだろうが、法学者美濃部としては認めがたい論理だったのだろう。

明治の「神仏分離」と戦中・戦後の憲法改正などを通して、天皇制との多様な折り合いの中で日本人は生きてきたことが良く判る。それだけに、後付けで歴史と文化を語る限界もあるという事だろう。特に、戦中から戦後への連続性を語っている人間(架橋)として吉本隆明、江藤淳、伊丹十三の三人を挙げているのが面白い。

戦前・戦中・戦後の時代を生きてきた人達にこそ体験感覚を聞きたいところである。個人的に言えば、私の父は大正9年生まれ、平成21年に逝去した、まさに戦前・戦中・戦後を生きてきた人間だ。昭和17年に大学を卒業し就職、18年に召集、終戦とともにポツダム中尉で退役、職場復帰している。父は生きてきた時代について語る事はほとんどなかった。否定も、肯定・言い訳も聞いたことは無い。ただ「学生時代の友は三割が戦死した。死んでいった彼らの為にも、しっかりと生きなければならない」と言っていたことを思い出す。そこには理屈ではなく、生き方として信念の発露だったのだろう。息子の私には「判断や考え方」に口を出すことは無く、「やるんなら、死んだつもりでやれ」という一言だった。その自由さが父にとっての大切なことだったのだろうと今更ながらに思い返される。本書の全ての論に賛同する訳ではないが、幅広い議論の中で納得と、反論の混じり合う読書であった。父に読ませて感想を聞きたいと思った。(内池正名)

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2020年11月15日 (日)

「肉とスッポン」平松洋子

平松洋子 著
文藝春秋社(266p)2020.07.16
1,650円

食に関して多くの著作を残してきた平松洋子の一冊。タイトル通り、肉を食べる楽しさを語り尽くしているのだが、本人は「制御しがたい悦び。・・・いま確かに猛々しい生き物と親しく結び合っている名状しがたいナマの感覚」と書いている程の自称肉好きである。そして「美味い肉は作られる」というのが結論だ。

元来、人間は狩猟と採集で獲得したものを食べて、自然と一体化して生きてきた。天武天皇の肉食禁止令や、仏教の殺生戒の教えによって日本ではおおびらに獣肉を食べられなかった時代が長い。しかしそれでも「薬食い」と称して人々は肉食を続け、馬肉は「さくら肉」、猪は「山くじら・ぼたん」、鹿肉は「もみじ」など隠語で語られるのも庶民の知恵というか反抗心の表れと平松は指摘する。しかし、我が国の牧畜の仕組みは明治期に作り上げられたことを考えれば、長い間、庶民の肉食は野生種を狩りで捕獲するという。自然との共生が保たれていたことに他ならない。しかし、こうした共存の仕組みが長い時間の中で生活様式とともに変化した結果、現代では新たな課題が提起されている。「人間の食料が畜産で使われる飼料として奪われている」「動物の保護」「肉食による生活習慣病の多発」といった多様な議論の根源は、我々が動物との共存時代とはかけ離れてしまっているところに存在しているということなのだろう。

著者はこうした、日本の肉食文化の歴史を踏まえながら、狩猟、牧畜、屠畜、解体といった活動の知恵などを探るために全国の現場を訪れて、それらに携わっている人達から話を聞いている。羊、猪、鹿、鳩、鴨、牛、馬、スッポン、鯨といった生き物たちと向き合っている人達の仕事からは、伝統的な技術承継とともに日々の進化でもあることも語られている。そして、各々の肉を美味い料理にして提供する店にも足を運び、素材の活用の技を紹介している。日本の伝統食にこだわらず、世界の料理の知恵を含めて現代の日本人の食肉文化を俯瞰して捉えている。

本書で取り上げている野生種は猪、鹿、鴨、鯨であるが、各々の捕獲から消費までの環境の違いとともに、仕事・事業としての成り立ちも様々であることが興味深い。

島根県邑智郡美郷町では、猪の被害に苦しんでいた農家がプロの狩猟家に頼らずに自ら狩猟免許をとって、役場と連携して駆除捕獲と同時にそれを資源として活用しているケース。捕獲した猪は「おおち山くじら」というブランデイングをして「夏イノシシ」の淡泊な味を売り物にするとともに、婦人会は猪のなめし革を活用して、クラフト製品を作り、加工食品を含めての肉の販売も積極的である。自治体と住民の一体型の形態はユニークである。

また、石川県加賀市の鴨のケースは伝統の承継に立脚したアプローチである。この地では昭和期には鴨は魚屋で吊るされて売っていたというし、鴨のつがいをお歳暮や結婚式の引き出物にしていたというから、伝統的な食文化として定着していたことが判る。当地の片野鴨池にシベリアから飛来する鴨を「坂網猟」という、日没直後の池から飛び立った鴨をY型の網を宙に投げ上げて捕獲する猟が行われている。この伝統の技術を継承する組合を設立し捕獲量の管理することで持続性が担保されている。

猪、鴨に加えて鹿といった野生種の美味い肉の確保の手順は共通しているようだ。例えば、箱わなで捕獲したイノシシは、ストレスを与えない様に素早くとどめを差し、喉の左側を突いて血液を排出させ、内臓を取り出すことで体内ガスの発生を抑える。こうして一時間以内に解体を終える。屠畜から始まる、こうした素早い作業が鍵である。

一方、飼育して美味い肉を作る努力も紹介されている。北海道の羊飼育は軍服の原料として羊毛を利用するため明治期に函館で始まり、大戦後は1950年代に羊飼育のピークを迎えたものの、1962年に羊肉が自由化され国内飼育はビジネスチャンスを失った。現在の羊肉の自給率は0.5%という。

こうした状況で北海道白糠の「茶路めん羊牧場」が紹介されている。帯広畜産大学で牧畜を学んだ青年が1987年にスタートさせた牧場で現在800頭が飼育されている。飼料には北海道産を使い、取引先の用途によって性別・月齢などによる肉の特性を考慮して屠畜し出荷している。羊は牛や豚と異なり公的な等級や格付がないので、生産者のこうした知見が必要とされるとともに、生産者毎の肉の美味さが消費者から問われることになる。

北海道襟裳岬の短角牛の牧畜は海と陸の連携で成り立っている。明治期に南部牛(短角牛)が襟裳岬に導入されたものの、大戦の影響もあり草原も荒れ、コンブ漁にも大きな影響が出ていた。その襟裳岬の草原や森林の再生事業が1953年に始まったが、豊かさを失っていた隣接する海の再生でもあった。この結果、1965年頃から成果を上げ始めた。著者は半コンブ漁・半牧畜の三代目が経営する「高橋ファーム」を訪ねている。コンブ漁で忙しい夏場には牛は放牧しては掛からず、冬場は里に連れて来て世話をするといったサイクルである。黒毛和牛は脂肪の甘さと肉の柔らかさを売りにしているが、短角牛は放牧されて育った赤身の肉が特徴である。この短角牛の国内の牛の飼育頭数の1%でしかないが、この1%こそ多様性の意義と語っているのも印象的である。

こうした、日本のソウルミートを利用した料理についても詳しく語られているのだが、具体的な店の名前とともにレシピなども紹介されているので、食べに行ってみようと思わせるガイドブック的な要素もある。一例として「パッソ・ア・パッソ」というレストランのシェフは鳩を解体すると肉の状態から屠畜される前の2-3日間の気温などを知ることが出来ると言う。肉を捌きながら、料理するときの熱の伝わり方や肉の水分をどう抜くのかが判るという。そうした季節感の理解を含めて「肉にも旬がある」という指摘になるのだろう。

鳩の胸肉は肉の中に脂が入る肉質ではないので、外から強火で熱が入ると短時間でウェルダンになってしまうという特性がある。また、馬刺しでは、真っ白なサシが入っているのにしつこさを感じないのは馬肉は脂肪の融点が低いからと言われている。こうした、肉質の違い、脂肪の質の違いは当然調理に差が出ることになるのだろうし、その違いを楽しめる料理を作ると言うのが文化としての肉食の歴史と知恵だと思う。

スペインでイベリコ豚の生ハムを切り分けて皿に出されてすぐ食べようとして怒られたとの話も聞いたことが有る。イベリコ豚の脂肪は室温でとけるので、脂肪が溶けだしてから食べるのが一番美味いというもの。ここまでくると、美味いものを食べたいと言う欲の素直な現れという事だろう。

こうした、各種の肉に関する繊細な感覚は我々日本人の一般的な感覚領域にはないのではないか。我々のタンパク源の主力が魚介であった歴史が長く、現在も肉に比較すれば、非常に多くの種類の魚介を多様な手法で口にしている。私は、本書で取り上げられている獣や鳥の肉は全て一度は食べたことが有る。しかし、日常的に食べるわけではなく、特別な食材だ。ただ、本書を読みながら短角牛のすね肉を手に入れてビーフシチューを作ってみようという気持ちになった。時間を掛けて煮込むと美味そうである。内池正名)

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2019年7月16日 (火)

「日本銀行『失敗の本質』」原 真人

原 真人 著
小学館(253p)2019.04.03
907円

著者の原正人は日本経済新聞から朝日新聞に入り、経済部記者、論説委員、編集委員を歴任した。プロであれば、自らの能力を最大限に発揮できる環境を求めて転籍するというのは自然なIT業界で生きてきた私としては違和感はあまり感じないが、新聞業界の風土としてはどうなのか。経済部記者ということは産業界、学界、官僚、政治家など多くの取材源を持って記事を書いていくのだろうが、彼の仕事として判り易かったのは、安倍が2012年12月に「デフレ脱却」の政策を掲げて選挙戦に打って出たが、その政策を批判するために「アベノミックス」というキーワードを使って初めて記事にした本人という点である。

この言葉の元となったのは、言わずと知れた「レーガノミックス」だが、それは「小さな政府と強いドル」を志向しながら「軍事費を拡大」するという一貫性のない経済政策を進めた結果、貿易赤字と財政赤字に苦しめられた政策を揶揄するために使われた言葉だが、この政策を当時は「ブードゥー(呪術)経済学」と批判されていた。この言葉を一ひねりして「アベノミックス」と名付けて安倍の政策批判記事を書いたという。

振り返れば当時の日本の産業界、特に輸出産業各社は「円高」「法人税率の高さ」「電力の供給不安」「自由貿易協定(FTA)への対応」「労働規制」「環境規制」などの対応に苦しんでいた。ただこれらの問題の殆どは日本固有の問題ではなく、世界の主要国の共通した課題であったことは忘れてはいけないと思う。こうした環境での「デフレ脱却」の政策を説明の際に安倍は「日銀と政策協定を結んでインフレ・ターゲットを設けたい。…達成できなければ日銀総裁には責任を取ってもらう」とか「建設国債を大量に発行して日銀に引き受けさせる。そして、やるべき公共投資を行う」と語った。こうした発言に象徴される様に、財政法や日銀法に定められた独立性についても理解しているとは思えず、政治的にも、経済学的にも常識から外れた政策や発言を繰り返すだけでなく、「アベノミックス」という揶揄さえも安倍は自らその言葉を使うに至り著者の感覚を次の様に記している。

「安倍は『レーガノミックス』という言葉の拠来を知ってか知らずか、安倍自らが『アベノミックス』 というこの言葉を使うようになったのには、いささか経済学や歴史の無知としか言いようのないこっけいな姿に見えたものだ」

安倍のこうした発言以上に、私は自国の総理大臣に対して情けない思いを抱いた発言を本書の中に見つけてしまった。それは「輪転機をぐるぐるを回して、日本銀行に無制限にお金を刷ってもらう」という言葉だ。官僚や内閣府のブレーンがついて居ながら、何故こうした言葉が出てしまうのか。

一方、冷静に考えれば、こうした人物やその党派を選挙で選んでいるのも我々国民であることを考えると、2013年の選挙で民主党政権のふがいなさから消去法として浮かび上がったとはいえ、自民党内に総理人材が安倍しかいなかったというのも、この時代の日本の悲劇と言わざるを得ない。

本書では政府の債務残高のGDP比の推移が1つの重要な視点として1890年から2019年までの130年間のグラフを示している。そこから読み取ることが出来るのは第一次世界大戦から第二次世界大戦の参戦とともに軍需産業の成長を支える戦時国債の発行が進み、敗戦直前には債務のGDP比は200%を超えていたことと、敗戦とともに国債は紙くずと化しハイパーインフレが発生し預金封鎖、新円切り替え等を行って国の借金を帳消しにした状況が見て取れる。そして戦後75年を経過した現在の債務残高のGDP比は敗戦時の200%のレベルを超えている。二つの時代の相似からも「財政の危うさ」を著者は強く指摘している。ただ、問題の本質は現在の日本の経済規模で万一でも破綻した場合、世界のどの国も経済共同体も援助できる規模を超えていると言われていることだと思う。

次に原が指摘しているポイントは日銀と安倍政権との連携である。安倍政権のスタートとともに日本銀行側のパトナーとして黒田東彦日銀総裁が任命される。そもそも先進国の中央銀行の金融政策・運用が選挙の争点になったことはない。これまでは「金融政策の政治化」を避けると言うのが政治の知恵であった。そうした世界の常識さえも捨てた安倍と黒田の二人三脚を、名著の「失敗の本質」に準えて第二次世界大戦の日本政府、日本軍の失敗との相似について分析しているのだ。

「失敗の本質」で語られたシナリオに沿って、日本銀行の政策決定や総裁発言を開戦から敗戦までの推移と比較分析している。黒田の前任の白川が安倍から突き付けられたコミットメントを拒否する形で任期満了前に退任したのも衝撃的であったが、その後の総裁黒田、副総裁岩田のコンビは「物価上昇目標2%は2年で達成できる。出来なないなら責任は自分達にある」と言って就任した。しかし、その目標達成時期は延期に次ぐ延期でいまだに達成されていないが、黒田は依然として総裁の座に坐り続けている。これは、ここまで悪化した国家債務に対処する課題の大きさに対して次期日銀総裁になり手がないという指摘もある一方、もはや、黒田がどう言い繕ったとしても2013年の就任時の短期決戦戦略は破綻し、それを修正しようとすればするほど安倍・黒田が否定した白川時代の政策に近づいていくというパラドックスに陥っているということだ。こうした「アベノミックス」の6年間を振り返りつつ、最後の「第二の敗戦」にさせないための判断を問い掛けているのが本書の言わんとしているところだろう。

本書のもう一つの論点は安倍政権の組織論的特性である。その分析とは、著者の立場からすれば、欠点を指摘しているのだが、その論点は、曖昧な戦略目的、短期志向の戦略立案、空気が支配する非科学的な思考、属人的決定プロセス、修正されない組織等を第二次大戦中の政府・軍部の組織文化との比較をして見せている。こうした判断や評価については多様な視点からの反論は当然あるにせよ、著者の姿勢は一貫している。

いずれにしても、健全な議論・論戦がされるべき現代で、政治だけでなく黒田日銀も言葉を失っていることを示すエピソードが書かれている。それは、日銀総裁の記者会見は挙手した記者に対して総裁が指名する形をとるのが慣例であるが、黒田は挙手している記者がいるにもかかわらず会見を打ち切ってしまう、初めての日銀総裁だという。こうした姿勢は明らかに自由な討論を否定する危険な仕振りである。

二人三脚の安倍も、政治家としての不勉強さだけでなく、その誤りさえも自覚できないというレベルに到達してしまったようだ。安倍が「物価が上がれば景気が良くなる」と語っている論理は誤謬であり、「実体経済が良くなるので物価が上がる」というのが科学的な論理思考である。

いずれにしても、我々に突き付けられている状況とは「アベノミックス」の待ったなしの出口戦略の必要性である。団塊の世代が全て75歳となる2025年に向けた施策が必須という著者の指摘は正しいと思う。一方、その出口戦略を推進していくための戦術を具体的に定義して、行動することが求められている。不都合な事実に目を逸らすことなく、判断と行動が求められているという事実だろう。「第2の敗戦」という言葉が怪しく目の前に行き来するという感覚が残る読書であった。( 内池正名 )

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2018年8月24日 (金)

「日本鉄道事始め」髙橋団吉

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髙橋団吉 著
NHK出版(208p)2018.04.11
1,836円

私は鉄道が好きだ。鉄道好きと言っても色々なカテゴリーがあるのだが、列車に乗る、写真を撮る、切符を集める、模型を作る等、子供の頃から一通りのことをやってきた。今、東京駅から東海道新幹線に乗れば品川の操車場の再開発工事を目にするし、東北新幹線では大宮新都心のビル群が天を突き、昔の操車場跡は面影もない。そうした風景を車窓から眺めていると、鉄道というシステムが時代とともに変わってしまったことを痛感する。

本書の著者である髙橋団吉も鉄道好きであり、鉄道に関する著作を多く書いて来た男だ。ただ、本書は鉄道マニア向けの「近代日本における鉄道」を語っているのではない。鉄道の有り方はその時点の社会システムからの要請から形作られているという事実を直視して「鉄道を通して日本の近代」を考えてみようという狙いの一冊である。

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2018年4月18日 (水)

「日本軍兵士」吉田 裕

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吉田 裕 著
中公新書(230p)2017.12.25
886円

国有地が確たる理由なしに8億円値引きされた森友学園問題で、当事者である財務省が作成した決裁文書が大量に改竄されていたことが発覚した。決裁文書は行政府が法に則って意思決定をし、決裁権者がそれを承認したことを記録するもの。これをきちんと保管することで後から意思決定の過程を追跡できる一次資料だ。その決裁文書を改竄したり隠蔽したりする行為は、いわば歴史を偽造するに等しい。今回は総理大臣とその妻の存在が、直接にか間接にか影響を与えて公正な法の執行を歪めた疑いが濃い。

と、この本を読みながら森友問題を思い出したのは、どうもこの国は昔から同じようなことやってるなあと感じたから。というのも、軍民合わせて310万人の犠牲者を出した第二次世界大戦の死者に関して、「包括的な統計がほとんど残されていない」というのだ。日本政府は、なぜか年次別の戦没者数を発表していない。戦争末期の混乱はあったにせよ、戦後ずっと厚労省が戦没者の調査を進めているのだから、その時々での数字を確定させることはできるはず。それがされていないことは、そこになんらかの意図があるのではないかと疑ってしまう。

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2018年3月19日 (月)

「日本人とリズム感」樋口桂子

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樋口桂子 著
青土社(299p)2017.11.24
2,376円

自分自身がリズム感に自信が無いのはともかくとして、リズムが文化論として成り立つのかも想像したことはなかった。所詮、リズムとはノリが良いかどうかであり、「好き」か「嫌いか」という落ち着きどころになってしまう様に思っていたので、リズム感を構造的に語るとはどういうことなのか興味を持って本書を手にした。

著者が日本人のリズム感を考える契機になったエピソードが紹介されているのだが、極めて象徴的で面白い。それは、来日したイタリア人とタクシーに乗った時に、ラジオから流れていた都はるみの「あんこ椿は恋の花」を聞いて「この女の人は腹が痛いのか」と真面目に質問してきたという。喉に無理なく流れるような唱法のベルカントオペラの国の人からすると、喉から絞り出すような都はるみの歌には驚いたようだ。もうひとつは、イタリア語通訳として同乗していた友人とイタリア人との会話で相槌の打ち方の違い。日本人の友人は相槌を打つときに首を下向きに振る。しかし、イタリア人は首を上に上げる。こうした声や相槌といった所作・動作が示す日本人の特性はどこに由来しているのかという疑問から本書は始まっている。

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