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敗者としての東京/長谷川町子・私の人生/はじめての沖縄/噺は生きている/花の命はノー・フューチャー DELUXE EDITION/敗北力─Later Works/はじめての福島学/背信の科学者たち/VANから遠く離れて 評伝石津謙介/廃墟建築士/敗因と/半島を出よ/ハイスクール 1968/はるかな碧い海/俳句的生活/博奕の人間学

2023年11月16日 (木)

「測る世界史」ピエロ・マルティン

ピエロ・マルティン  著
朝日新聞出版 (288p)2023.06.20
2,420円

人類は生きるために、そして世界を知るために様々なものを測って来た。我々が日常的に道具を使って測っているものとは、物差しによる「メートル」、時計による「秒」、秤による「グラム」、気温計や体温計による「温度」、枡による「リットル」と言ったところである。普段の生活でアンペアや明るさを測っている人は居ないだろうし、明るさの「カンデラ」と言われると理屈としては判ったつもりになっているだけ。物質量単位の「モル」にいたっては「何それ?」といった感じではある。

著者のピエロ・マルティンはイタリア人で物理学(熱核融合)を専門とする大学の教授。EUの国際研究プロジェクトの責任者であるとともにメディアを通しての情報発信を活発に行って科学の普及に努めているという。それだけに、様々なエピソードを詰め込んで読者の「測る」ことへの興味の観点を広げるとともに、一般人から見ると変人とも見られる物理学者たちを学術的視点からと人間的視点の双方から紹介することで理解を深めてほしいという思いも伝わってくる。そして、本書で取り上げている7つの世界基準の単位は科学の進化の為には必須であるとともに、説明と検証のための共通化の歴史が語られている。つまり、「生活や歴史」として人類が測ってきた体験の側面と、「物理科学」としての複雑な方程式が登場してくる理論の側面の両方を描いている。従って、手に取る人の知識差や興味の視点の違いによっても楽しみ方は違ってきて良いのだろうと思う。

本書はあのビートルズと医療機器の関係を語ることから始まっている。EMI(Electric and Music Industries)社は1960年代初頭に結成早々のビートルズのレコーディングを行った会社。その時点でビートルズが将来世界を席巻するバンドになるとはEMIの誰もが思っていなかった。また、この時期にEMI社の医学機器部門ではコンピーターによる断層撮影技術の開発、実用化に成功した。これで同社のエンジニアは1979年のノーベル賞を受賞し、この測定分析技術は医学の進歩に大きく貢献した。そこで、著者の指摘は、ビートルズは音楽の革新に対し貢献しただけではなく、彼らの演奏活動から生じた収益がCTスキャンの実用化への大きな後押しになったと指摘している。こうした逸話を各所にちりばめながら本書は進んで行く。

最古の測定遺物として、一年間の月の満ち欠けの記録を彫り込んだ4万年前のマンモスの牙が発見されているという。また文明の黎明期には人間の身体が長さの測定の道具で、肘の端から中指の先までは肘(キュビット)という単位で広く使われていた。聖書でもこの単位はノアの箱舟の大きさを表現しているし、エジプトでもこの単位で基準石を作り、ピラミッドの建設でも活用し底辺約230mの大ピラミッドを誤差10cm以内という精度で完成させている。ローマ時代になると道路などの長い距離の測定はマイルが使われた。これは1000歩というラテン語に由来する名称だが、この時代の一歩は一方の足が地面を離れてから、その足がまた地につくまでを言っているので、現代の二歩に相当すると説明されている。街道歩きをしてきた私としては歩数測定基準も違いが有った事に面白さを感じる。

ローマに繋がる街道にはマイル標石が設置され、まさに「全ての道はローマに通ず」という権力の象徴でもあった。こうした測定基準によって「権力」と「信頼」を作り共同体社会が形成されていったことも良く判る。18世紀末のフランス革命によって6つの単位を定めた法律が施行された。長さのメートル、面積のアール、薪の体積(1立方メートル)ステール、液体容積のリットル、重量のグラム、通貨のフランである。その後、1875年にパリで17ヶ国が条約に署名して、以降の測定単位の国際協調の流れをつくり万国共通の測定単位が確立した。この国際条約が「メートル条約」と呼ばれたのも、ギリシャ語の「測定(メートル)」というが語源だという。

1960年にパリで第11回国際度量衡総会が開催され、宇宙を含めた測定空間の拡大に伴って国際単位が改定された。科学の進歩とともに測定精度を上げることが不可欠であるのは当然であるが、アインシュタインの特殊相対性理論で示した慣性で変化しない光の距離速度が基準となったことで、一つのゴールに到達したと言われているが、その測定基準は私の生活感からはかけ離れていったのも事実。

我々の生活で最も大きな影響を持つ単位は時間だと思う。アメリカ人物理学者のファインマンは「本当に重要なのはそれをどの様に定義するかではなく、どの様に測定するかだ」と言っているが、時間の測定はエジプト文明における大きな石柱の影を使って日中の時間や季節の変化を測定する日時計から始まる。ピサの大聖堂を訪れたガレリオはシャンデリアのリズミカルな揺れを見て、自分の脈拍を測りつつ振り子の当時性を発見したことから、1650年にオランダのハイヘンスによる振り子時計の実用化につながる。

そしてメトロノームが開発され、作曲家の意図したテンポを示す基準となった。ベートーベンは先端的な機器であるメトロノームを使用していた。彼のピアノソナタ第29番は一番の難曲と言われている。楽譜ではビアノソナタ第29番-106のテンポを138ビートと表記しており、とてつもなく早い演奏を要求していた。そのため、助手がメトロノームの操作を誤ったか、測定ビートの転写をまちがえたのではないかと言われているというエピソードが紹介されている。また、ダリの「記憶の固執(1931)」に描かれている液状化して垂れ下がっている時計は、時間は人間の主観的、個人的なものであり、アインシュタインの考えた時間の相対性を表現していると著者は解釈している。こうした時間の個人的な相対性は科学ではない、有限性の人生が心理に変えているという事からすると、測定単位の中の時間の特殊性は明らかである。

科学の進化の中で、原子の振動数を基に定められた時間基準では3億年で誤差1秒となったと。また、1875年に白金90%、イリジュウム10%の合金で作られたキログラム原器が一世紀の間に5000万分の1グラム減少したことが判明したため、2019年に重力の相対性理論と量子力学で定義されることになったと聞くと、もはや精度感覚は一人の人間としてはまったく実感できない。

一方、イングランドでは「1ポンド」は「100ペニー」。「1ペニー」は乾燥小麦32粒分という重量単位だった。このように重量単位は商業活動における必要性が高いため、多くの国で、リラ、ポンド、ペタ、マルタなどの様に重量単位だったものが通貨単位になっていったケースが多いというのも納得がいく。また、温度の測定単位は1848年に物体の可能な限り低い温度を絶対零度と設定しているケルビンという単位が採用されている。しかし、摂氏による温度表記が今なお我々生活の中で利用されているのは水の氷結が0℃、沸騰点の100℃という「シンプルさ」と「美しさ」とする著者の指摘はその通りで、基準の定義の妥当性もさりながら、測るという行為に対する我々の納得感が測定単位の定着に求められていると理解した。

しかし、読み終えてみると物理学の難しい方程式はともかくとして、そこから進化してきた科学技術の恩恵を十分に享受している自分に気付かされるのも事実である。自動車のナビ機能もGPS衛星との遠距離の通信や時間補正などが活用されて、誤差無く自分の移動状態を瞬時に表示してくれる。また人間ドックに行けばあらゆる検査は放射線や電磁波などを活用した機器によって測定が徹底的に行われる。日々そうした先進技術に囲まれて生活していることと、その原理を理解しているかは別問題として、本書の数式の部分は読み飛ばしても十分雑学的な楽しさ満載の一冊であった。(内池正名

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2023年6月16日 (金)

「敗者としての東京」吉見俊哉

吉見俊哉 著
筑摩書房(320p)2023.02.17
1,980円

歴史に関する本を読むときは、著者の育った時代を前提とした上で読むことが大切だと思っている。著者の吉見は1957年生まれと言うから、私より10才若い世代。社会学、都市論を専門としている学者で、「近代史」「地政学」「東京」といったキーワードでの多くの著作がある。本書は東京という都市を三つの歴史的事象を「占領」という概念でとらえ、敢えて「敗者」からの視線で東京を描き直してみようという試みだ。その「占領」とは、1590年の家康による江戸開府、1868年の薩長による江戸城無血開城、1945年のアメリカによる第二次大戦後の進駐である。

一般的に、東京と言えば「勝者」「成長」「巨大都市」のイメージが強い。しかし、江戸から東京、関東大震災、東京空襲、戦後復興、東京オリンピックという単純な成長主義的な見方だけでは、ポスト成長期である現在の東京を考えると見過ごしてしまうものが多すぎると指摘している。世界的に見れば長い歴史の中で多くの都市が外部勢力により「占領」され、先住者文明を粉々に破壊して、過去の記憶は不可視化されていることも多い。それに比べると東京は「占領=破壊」でなく、新しい要素が付け加えられて都市として変貌してきたことを特徴としている。そんな東京を描く方法論として、「判官贔屓」的な思考を含んだ広義の「敗者」の視点から東京という都市を読み解く必要性を指摘している。

江戸は武蔵野台地の東崖が東京湾に突き出たところに造られ、大小の川が流れ込み、複雑な地形が形成されていた。縄文期は集落も多く作られ、弥生期(4C後半)には渡来人が進出し、鉱山技術、牛馬の飼育、水運技術などを活用して武蔵秩父を拠点とした「秩父平氏」として500年を超えて江戸に君臨していた。しかし、源頼朝によって権力基盤を徐々に崩されていき、15世紀に太田道灌により留めをさされている。この「敗者」たる「秩父平氏」一族は「豊島氏」、「葛西氏」、「江戸氏」、「喜多見氏」、「丸子氏」、「六郷氏」、「飯倉氏」、「渋谷氏」などが各地を所領としていたことから、「敗者」の記憶を多くの地名で現在も辿ることが出来ることに驚くばかりである

江戸を占領した家康はまず、飲料水の確保のために井の頭池からの水供給路として神田上水を掘削する。また、物流を確保するために、小名木川・新川といった水路を造営した。最大の工事は神田川を御茶ノ水付近で迂回させ、水路を掘削して隅田川に合流させた。この工事で神田山を削り取った土は日比谷の入江を埋め立てに使われ、霞が関・日比谷・有楽町・丸の内は陸続きとなった。こうしてほぼ現代の東京の地形が出来上がっていく。家康の占領は、江戸を戦闘による死の時代から、都市基盤整備を進める建設の時代転換させていることが良く判る。

明治維新(1868)の薩長による占領で徳川慶喜は江戸を無血開城したものの、自身は大正期まで生きている。維新の真の「敗者」とは薩長に対して徹底抗戦した会津などの東北諸藩や彰義隊を始めとして、無宿人・貧民とともに産業化の中で搾取されてきた女工だったとしている。この中で、戊辰戦争で敗者となった旧幕臣敗者知識人たちの生き様に注目している。それは「敗者は垂直統合型の日本社会での栄達を諦め、その自閉から抜けだすことで、越境的な知の担い手になる」としている。例えば会津の山本覚馬もその一人である。鳥羽伏見の戦いに敗れ、幽閉されて失明する。それでも彼は口述で議院制度、貨幣制度、学校制度などについてまとめ、新政府にとっても貴重な意見になったという。釈放後は京都の復興に参画するとともに、同志社の設立など横断的な活躍をしている。

ただ、彰義隊は上野寛永寺に謹慎した徳川慶喜を守るために結成されたものの、慶喜自身は早々に水戸に逃れ、残された彰義隊は上野、谷中、根津、千駄木を戦場として一日の戦いで滅亡する。そして上野は維新後に英霊を弔うこともなく、公園や勧業博覧会会場として利用され、文明開化のシンボルとなる施設が作られていった。「勝者」西郷像を知る人は多いが、そのすぐ後方にある彰義隊の慰霊碑を知る人は少ない。

次に博徒と呼ばれていた「敗者」の中から有名人も現れてくる。その一人が清水次郎長である。その次郎長の人生を文章にしたのが天田愚庵である。彼は旧磐城平藩士の息子だったが戊辰戦争で両親を失った後、山岡鉄舟との知遇を得て、次郎長の養子となるという「敗者」の人生を辿る。かれは「東海遊侠伝(次郎長一代記)」(1884年)を書いた。三代目神田伯山が講談として、広沢虎造は浪曲で語ったことから、時代の敗者たる無宿人を全国区の人気者に押し上げて行った。また、明治初期に貧民窟といわれ「長屋の一部屋に複数の家族が居住して」生活する地域も多くあったが、こうした人々を1890年代徳富蘇峰の国民新聞を始めとする複数のジャーナリズムが積極的に取り上げている。

産業化が進み、東京では滝野川に官主導で1872年(明治5年)に士族の子女の救済のために紡績工場が設立された。その後、隅田川沿岸に造られた鐘淵紡績は明治20年の創設時は351名だったが、大正期には5000人規模に膨れ上がる。しかし、こうした工場の労働賃金条件の悪さから女工たちの逃避が続き、多くの工場で争議が起きている。そんな状況を細井和喜蔵がルポルタージュ「女工哀史」(1925年)で書いて脚光を浴びる。細井自身が紡績工場の下級職工、結婚している相手も女工であり、彼らの体験を自らの言葉としてまとめたものだった。

現在の我々がこうした弱者の状況について時代を越えて理解するための記録として読むことが出来るのも、当事者の言葉と共に、それを記述する人の存在が不可欠であったことが良く判る。天田を始めとしたジャーナリストの多くが戊辰戦争の敗者であったし、細井が貧しい職工であったことなども偶然ではないのだろう。

最後の占領については、著者のファミリーヒストリーを辿る事で「敗者」としての東京を描いて見せている。著者は母親の死後に戸籍謄本をとり、母、祖母、曾祖父、おじ(暴力団組長の安藤昇)についてその生き様を詳細に描いている。この様に、両親や祖父母の世代が中心で有った戦前・戦後時代を考える際には、家族の生き様を辿って体感していくことで彼らが呟いていた言葉の意味を再確認する良い機会になるはずである。加えて、戦後の思想家達の活動として鶴見俊輔の「自分は決して勝者にはならない」という思いと「思想の科学」での活動を紹介したり、ジャズを始め、映画、小説を語り、現代で言えばサブカルチャー的な領域での植草甚一に代表される「脱領域」的な知的活動ももう一方の「敗者」の極として評価している。まさに、「敗者は弱者ではなく、占領者の眼差しを受け入れながら、人々がしたたかな敗者として振る舞ってきた姿を示している」という著者の考えに納得する。

福沢諭吉は「やせ我慢の説」を書き、かっての主君であった徳川慶喜が水戸に逃れ責任を果たさなかったことを問うている。一方、第二次大戦の敗戦で連合国に無条件降伏したものの、最高責任者である天皇は東京裁判で訴追されることは無く、「敗者」は膨大な戦死者と民間人死者、そして生き残った国民、引揚者などであった。そうした状況を著者は「米国の占領は大日本帝国の劇的な崩壊と裏表であるが、敗戦前の秩序や意識が維持されたことが、戦後日本が本当の意味で『敗者』になり切れなかった」として、これからの日本を考える際に「敗者」としての深い目線が欠落することを危惧している。

第二次大戦の敗戦は両親の世代の歴史だ。私の父の生き様を振り返って見ると、彼は、「同期の仲間達の1/3が戦死した。死んだ仲間の為にも生き残った自分は頑張って生きなければならない」と語っていた。そこには生き残ったことの「希望」や「感謝」ではなく、生き残ったことによる「責務」を果たすために仕事に邁進していた戦中派が居たように見えてならない。(内池正名

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2023年5月15日 (月)

「長谷川町子・私の人生」長谷川町子

長谷川町子 著
朝日新聞出版(288p)2023.01.10
2,530円

私の頭の中では「長谷川町子」=「サザエさん」=「朝日新聞」という単純な図式が出来上がっていて、「長谷川町子の人生」などと大上段に構えられると、いささか戸惑いを覚えてしまう。今もテレビの「サザエさん」は放送を続けていることもあり、彼女がいつ亡くなったのかも気に留めていなかった。本書の略年譜を見て、1992年に72才で亡くなったことを再認識した次第。年譜によれば、大正9年(1920)生れで、13才の時に父親を亡くし、以降は母親と三人姉妹の真ん中で育ち、結婚しなかったので女性だけの家庭で過ごした一生だった様だ。

本書は「長谷川町子思い出記念館」(朝日文庫:2001年)を底本に、長谷川町子が各紙・誌に描いた挿絵を収録した上での復刻である。構成は大きく3つに分けられている。第一章は「私のひとり言」と題して、各雑誌に掲載されたエッセイや、文藝春秋漫画賞の選考委員としての彼女の選評。第二章は「おしゃべりサザエさん」と題して田河水泡、横山泰三、飯沢匡などの漫画家や作家との対談。第三章は「インタビュー・サザエさんと私」と題して記者との対話が収められている。昭和20年代から昭和50年代の40年間という時代差にもかかわらず長谷川町子自身の考え方のぶれの少なさとともに、対談相手や記者たちの意識変化や時代変化が鮮明に浮かび上がっているのも面白い点である。

長谷川町子の漫画家としてのスタートは昭和9年14才の時に田河水泡に弟子入りし、翌年には少女倶楽部に作品を発表、東京日日新聞の日曜版に連載を始めたことからも、天才少女と紹介されて華々しくデビューした当時の状況が見て取れる。戦後は一家で世田谷に居を構えている。昭和21年9月に「夕刊フクニチ」で「サザエさん」の連載を開始、一旦休載後、昭和24年12月から朝日新聞の夕刊で「サザエさん」連載を再開して、昭和26年に朝刊に移り、体調不良から休載を繰り返しながらも昭和49年2月まで連載は続いた。この間6千回以上の四コマ漫画を描き続けたというのも異例の長さである。

日刊紙に連載することの苦労を長谷川町子はいろいろ書いているが「普段あまり外出しないので、漫画の案を考えていると身体の調子を崩して胃を悪くする」と書いている様に、一年単位の休筆が何回か有ったようで、昭和42年には胃がんの手術で4/5の胃を切除している。この時には家族からも仕事を止めることを進言されていたようだ。

全国紙に連載することで国民の全ての年齢層の男女が目にすることから、笑いのネタも家族的なテーマに限られるというか制約が有る。逆に言えば、刺激のあるネタは使えないということ。まさに、家庭マンガというジャンルの中で読者の興味を引き付けて行く大変さである。実際、読者からはちょっとした皮肉な表現に関しても抗議が来たりすると嘆いているように、多様な読者との「共感」の上に四コマ漫画は成り立つという現実の厳しさは、読む側からは想像し難いことのようだ。

そうした反動からか、昭和38年に「意地悪ばあさん」を描き始めている。週刊誌の「サンデー毎日」であれば読者層も大人に限定され、より強いひねりの効いた笑いを表現できるという自由度が彼女のストレスを解消させたと語っているのが印象的。

文芸春秋漫画賞を昭和37年(第8回)に受賞。その時「正真正銘の日本人の生活を土台にした笑い」と評されたと長谷川は記しているのも、狙い通りという事か。そして、昭和43年から昭和51年まで同賞の選考委員を務め、各回の選評が本書に収められている。小島功にはじまり、鈴木義司、東海林さだお、山藤章二、赤塚不二夫、馬場のぼる、手塚治虫など、そうそうたる漫画作家達の評価・選考をしているのだが、彼女が彼らの作品をどう見ていたのかについても楽しめる所。第18回では「ついに『天才バガボン』の赤塚不二夫氏を推しました。正直なところ余白の多い大人漫画を見慣れた目には漫画がゴタゴタして読み難かったですが・・・・・笑いのコツをよく心得た笑らわせ漫画」と率直に自分の考えを言葉にしている。

田河水泡、横山泰三(毎日新聞・プーさん)、秋好馨(読売新聞・轟先生)と言った漫画家たちとの対談もお互いに言いたい放題で面白い。それらの対談の実施が昭和20年代という時代背景もあるのだろうが、各自の漫画論はともかくとして、長谷川に投げかける質問も「令和」の時代では考えられない直球が多い。横山は「なんで結婚しないのか」とか「女性の漫画家は難しいのでは」と質問し、それに対して「別に、結婚しないという誓いを立てているわけではない」とか「逆に男の人にない目線で題材を掴める」と長谷川はまっとうに反論している。また、横山は「やっぱり結婚しなきゃだめだ。結婚しなくても恋愛でも良いけど。一度は結婚して、子供を持ってみなければ大人に見せる漫画は描けない」と言い放つ。秋好は「サザエさんは奥さんなんだから、もう少し色気が有って欲しいな。人妻らしい色気」と身勝手な期待をしている。師である田河水泡も「いろいろな経験をして、大人にならないと漫画は描けない。長谷川さんは荒唐無稽はやらないね」という発言に対して長谷川は「サザエさんは生活漫画・家庭漫画ですから!」と反論しつつ、「アイデアは自分一人。材料の限界は女で独り者・・・エッチな話でも男ならカラッと言えるのに女が言うといやらしい」と一人嘆く彼女も居る。

そしてメディアの進化とともに、テレビのアニメのサザエさんが昭和44年に始まる。劇作家の飯沢匡との対談で番組の感想を聞かれると「テレビのサザエさんは見ていない」と長谷川は答えている。飯沢は「あなたが描いたものじゃなく、別物ですからね」と納得。確かに、原作は長谷川町子というだけで作画もストーリーも別に作る人が居る。そう考えれば彼女のさっぱりした性格が良く出ている答えなのだろう。

昭和49年に対談した記者は「サザエさん抜きの長谷川町子は考えられないが、あまりにもサザエさんの殻に閉じこもり過ぎて自由を失ったのではないか」と表現している。一方、長谷川町子は「辛いのは、読者から長谷川町子とサザエさんを混同されること」とも言っている。読者から見るとまずは「サザエさん」があっての長谷川町子なので、彼女は「作者以上」でもなければ「以下」でもない。そう考えると、頑張って描き続けてくれたという思いが湧き、お疲れ様という気持ちで読み終えた。

子供の頃の我が家では朝日新聞と読売新聞を取っていたので四コマ漫画は「サザエさん」と「轟先生」。加えて、両親は文芸春秋の別冊の漫画読本を読み、小学生の私や兄は杉浦茂に代表されるナンセンス漫画で腹を抱えて笑っていた。まあ、漫画好きな一家だったかもしれない。新聞四コマ漫画が「家庭・家族」の日々の微笑ましさの原点であるとすると、自分の家庭と同様、四コマ漫画も永遠に続くように思って読んでいた読者は多かったのではないか。

本書を読んでいる途中で散歩がてら、世田谷の桜新町にある長谷川町子美術館と記念館に行ってきた。美術館は長谷川町子が集めていた絵画や工芸品を展示するために作られ、後に長谷川町子の作品展示のための記念館が併設された。駅からサザエさん通りを抜けた静かな住宅街に佇んでいる。(内池正名)

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2018年7月24日 (火)

「はじめての沖縄」岸 政彦

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岸 政彦 著
新曜社(256p)2018.05.05
1,404円

「中学生以上すべての人に。」とキャッチコピーのついた「よりみちパン!セ」シリーズの、久しぶりの新刊。以前、このシリーズから小熊英二『日本という国』をブック・ナビで取りあげたことがある。この国が抱えるさまざまな問題の本質を、中学生でも理解できるよう、コンパクトかつやさしく語ろうという編集者の意図はよくわかる。

岸政彦という名前は『断片的なものの社会学』(朝日出版社)ではじめて知った。社会学者の岸がいろんな聞き取り(インタビュー)をして、研究者としての解釈や理解をすり抜けてしまうが心に残るささいなエピソードややりとり、その「断片」をつなげながら、でも世界はそんな断片からできていることを知らせてくれる本だった。若い世代(といっても1967年生まれ)の書き手が出てきてるなあと実感させられた。そのスタイルは、『はじめての沖縄』にも受け継がれている。

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2017年10月22日 (日)

「噺は生きている」広瀬和生

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広瀬和生 著
毎日新聞出版(320p)2017.07.26
1,728円

頁をめくる毎に著者の落語に関する造詣だけでなく、愛情の深さも良く判る一冊。それだけに、いささか偏愛とも言えそうな微細な分析には納得というよりも驚きが先行するというのが実感である。落語家に関する評論は数多く世に出されているが、本書は「演目論」であり、こうした演目(ネタ)を核にして落語を語り尽くしている本は珍しい。広瀬が俎上に乗せた演目は名作の名をほしいままにしている「芝浜」「富久」「紺屋高尾・幾代餅」「文七元結」の四つである。演目とは単なる「ネタ(種)」であり、各時代の落語家たちが独自の工夫を加えてさまざまな「演(や)り方」をして噺を語って来た。その意味を広瀬はこう語っている。

「落語の演目とはあくまでも『器』にすぎない。その『器』にそれぞれの演者が『魂』を吹き込んでいくことで、初めて『生きた噺』となる。…噺は生きている。だからこそ落語は面白い」

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2017年8月20日 (日)

「花の命はノー・フューチャー DELUXE EDITION」ブレイディみかこ

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ブレイディみかこ 著
ちくま文庫(308p)2017.06.10
842円

ブレイディみかこという書き手の名前を見かけるようになったのは数年前だろうか(遅いって!)。たいてい「イギリス」と「パンク」という言葉がセットになっていた。小生はイギリスに行ったことがないし、パンク・ミュージックも聞いたことがない。気になりながらも手を触れないできた。

でもあるとき、彼女のブログ「THE BRADY BLOG」を読んだら、これが面白いんだなあ。彼女にしか書けない体験と発想と文体。同じようにブログを使って発信している者として、「参りました」というしかない。最近は雑誌『世界』なんかにも寄稿しているようだけど、雑誌や本といった身構えたメディアではなく、ツイッターやFBといった瞬間的な反応が命のSNSでもなく、ある程度まとまった文章を、しかも友達に語りかけるみたいに気軽に発信できるブログというメディアがあったからこそ登場してきた書き手だと思う。

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2016年11月20日 (日)

「敗北力─Later Works」鶴見俊輔

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鶴見俊輔 著
編集グループSURE(256p)2016.10.19
2,376円

昨年7月に亡くなった鶴見俊輔の、僕はきれぎれの読者にすぎない。100冊を超える鶴見の著書・共著・編著書のうち、手に取ったのは10冊に満たない。鶴見が組織したベ平連の集会やデモに参加したこともない。それでもはじめて読んだ『日常的思想の可能性』(1967)以来、亡くなるまでずっと気にかかる存在だった。その気にかかる部分が、年とともにだんだん大きくなってきていた。

20代のころ読んで強烈に印象に残っている一節がある。吉本隆明対談集『どこに思想の根拠をおくか』に収録された、書名と同じ標題の鶴見と吉本の対談。べ平連の評価をめぐって、吉本がベ平連は社会主義に同伴するもので折衷的であり、世界を包括しうる運動ではないと批判した後のやりとりだった。

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2015年4月17日 (金)

「はじめての福島学」開沼 博

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開沼 博 著
イースト・プレス(416p)2015.03.01
1,620円

3月11日の原発事故から四年が経って、落ち着いて来た領域もあれば、まだまだ不安定な状況を続けている点も少なくない。ただ、落ち着いたと思えるところも、問題が解決したわけではなく、人々が忘れつつあったり、直接的な傷が見えなくなったということでしかない事柄が多いように思う。福島の問題は多岐に亘っている。正しく理解し議論するための前提知識も広範囲に必要とされるという厳しさがある。本書はこの四年間の「福島」の現実を数字としてとらえ、正しい理解にたどり着く手順を示すとともに、「とりあえずこれだけは知っておいてもらいたい」という事柄を一冊にまとめたと著者、開沼博は言っている。福島出身で3.11のあと福島大学で教鞭をとりつつ、日々地元に根付いて活動している人間からの発信として、先入観なしに本書を読んでみた。

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2014年8月11日 (月)

「背信の科学者たち」ウイリアム・ブロード/ニコラス・ウェイド

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ウイリアム・ブロード/ニコラス・ウェイド 編著
講談社(354p)2014.06.20
1,728円

原書「Betrayers of the Truth ( 真実の背信者たち)」は1982年にアメリカで出版され、1988年に化学同人から邦訳が出版された。科学の世界の不正の歴史とその構造に正面から取り組んだものとして高い評価を得た本である。発刊後30年たった現在でも科学不正に関する「古典」として確たる評価を得ている。そもそも本書が書かれたトリガーは1970年代から80年代にかけて、アメリカで科学不正が数多く発覚したことにあるのだが、本書が本年(2014年)6月に日本で再刊行された経緯は、STAP細胞に係る科学不正事件の発生にあることは言うまでもない。本の帯には「STAP騒動の底流をなすものは、この本を読めば、すべてわかる」という挑戦的な言葉が並んでいる。

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2012年5月11日 (金)

「VANから遠く離れて 評伝石津謙介」佐山一郎

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佐山一郎 著
岩波書店(312p)2012.03.24
3,360円

戦後、「VANジャケット」を率いて、青年の服装文化に大きな影響を与えた石津謙介の評伝である。今年公開された「三丁目の夕日’64」では主人公堀北真希がデートする相手はバリバリのIVYルックで身を固め、デートの場所は銀座みゆき通。団塊の世代よりも年上の東京オリンピックに大学生ぐらいだった人達にとってはVANが与えたインパクトの大きな流行だったと再認識させられる映像だった。石津謙介が「ヴァンジャケットの総師」や「アイビー・ルックの提唱者」と言われていた期間は十年から十五年間ぐらいのものだったのではないだろうか。

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