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人びとのなかの冷戦世界/ヒト、犬に会う/ヒマ道楽/非除染地帯/東日本大震災復興時刻表、福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書/暇と退屈の倫理学/日々の食材ノート/ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄/ひととせの ー 東京の声と音/樋口一葉『いやだ!』と云ふ/白檀の刑/ひべるにあ島紀行/100円玉ではじめる驚愕の財テク新理論(続)/百円シンガー 極楽天使

2022年4月17日 (日)

「人びとのなかの冷戦世界」益田 肇

益田肇 著
岩波書店(426p)2021.4.16
5,500円

「世界はすでに新たな世界的衝突の最初の段階に入っている。…ロシアは参戦する。そしてこの第三次世界大戦は10年続くことになるだろう」

この言葉は、今年2月以来のロシアによるウクライナ侵略について語られたものではない。でも、いま目の前で進行している衝突が世界史の転換点にあること、それが第三次世界大戦という言葉が発せられる生々しさを持っているという意味では、ウクライナでいま起きている事態に重なってくる。

この言葉が発せられたのは1950年。発したのはイギリスの哲学者バートランド・ラッセル。この年6月、北朝鮮軍が韓国に侵攻し、直後に米国が軍隊の投入を決めて朝鮮戦争が勃発したのを受けての発言だ。

『人びとのなかの冷戦世界』は、第二次世界大戦後に米ソの超大国が対立し、冷戦(The Cold War)と呼ばれた時代がどんな時代だったのかを、従来の歴史解釈とは別の視点から探った野心作。第三次世界大戦という言葉がリアルに感じられた時代のことを、当事者からも第三次世界大戦という言葉が飛びだす現在のウクライナ侵攻の真っただ中で読むという緊張感あふれる読書になった。

この本が、従来の冷戦を扱う歴史書と違う点は主にふたつある。ひとつは1950年という特定の年に注目し、その断面でいくつかの国(アメリカ、日本、韓国、中国、台湾、フィリピン)で何が起こっていたかを考えていることだ。ふつう冷戦の歴史というと、第二次大戦終結直後から米ソ対立が始まり、1947年に冷戦という言葉が使われはじめた、と「起源」やその「展開」といったふうに記述されることが多い。でもそういう発想そのものが危ういと著者は言う。そうした議論は冷戦世界が実在していたことを前提としているからだ。著者の結論をあらかじめ言ってしまえば、「冷戦とは想像上の『現実』だった」というもの。

この年、米ソが対立する冷戦が朝鮮半島で火を噴いて「熱戦」となり、世界の多くの人々が、この冷戦はやがて来るであろう第三次世界大戦への過渡期なのだと実感した。それまで何人かの学者や政治家が唱える一つの現実認識にすぎなかった冷戦(cold war)という言葉が、だれも疑うことのできない「大文字の歴史(The Cold War)」へと転換した。1950年とはそういう年だった。

この本が新しい視点を持っているもうひとつは、従来の冷戦史が政治家(トルーマンやスターリン)ら国の指導者の言動を追い国家対国家の枠で考えることが多いのに対して、各国の無名の人々が書いた日記や手紙、手記を幅広く収集し、草の根の視点から人びとがこの事態にどう対処したかを分析していること。だから各章の記述はアメリカや日本や中国の無名の人々の、ある日の行動から始まる。

そこから次のようなことが明らかになってくる。第二次世界大戦は参戦した国の社会に大きな変動を起こし、その結果さまざまな「新しい感情、新しい要求、新しい思考様式、新しい生き方」が生まれて旧来の社会と対立や緊張を起こしていた。

例えばアメリカではアフリカ系から人種的平等を求める運動や、女性たちから男女平等を求めるデモが起こる一方、増え続ける移民への反感が増大していた。1950年に始まった赤狩り(マッカーシズム)で標的とされた者の多くは共産主義者ではなく、アフリカ系や公民権運動家、フェミニスト、同性愛者、移民、ニューディール政策支持者といった「新しい生き方」を求める人たち、つまり多数派から「非アメリカ的」とされる人びとだった。著者は、赤狩りはイデオロギー闘争ではなく何が「アメリカ的」で何が「非アメリカ的」なのかを巡る戦いだったという。非アメリカ的と目された「新しい生き方」は「共産主義者」「ソ連の手先」というレッテルを貼られて社会から排斥された。多くの民衆もそれに加担した。

日本のレッド・パージも似たような構造を持つ。1950年に始まったレッド・パージはGHQの指令に基づくとされている。確かに最初に新聞業界の共産党員とその支持者が排斥されたのはGHQの指令によるものだった。しかしその後、さまざまな企業で行われた大量解雇にGHQは関与しておらず、それぞれの企業の判断によるものだった。パージされたのは共産党員と支持者だけでなく「多くの場合、職場における不順応者や反抗者、非協力的なものたち」だった。核心部にあったのは、ここでもイデオロギー闘争というより「職場や社会、コミュニティーにおける望ましい秩序と調和のあり方をめぐる社会的軋轢」だったのだ。

著者はさらに中国の「反革命分子弾圧」、台湾の「白色テロ」、朝鮮半島の集団殺戮事件、フィリピンのフク団弾圧、英国での労働運動弾圧など、世界各地で「人びとの手による社会的粛清のパターンがほぼ同時に出現している」ことを見る。一方で、最近の研究から北朝鮮が韓国に侵攻したのは金日成が主導し、中国が参戦したのも混沌とした国内事情から毛沢東が決断したもので、必ずしも「スターリンの世界戦略」ではないことを示す。

上下2段組み300ページ以上に及ぶ膨大な本文をこんなふうに要約してしまっては落ちこぼれるものも多いけれど、益田は結論としてこう述べている。朝鮮戦争期に世界各国でほぼ同時に生まれた社会粛清運動の本質は「社会秩序を取り戻そうとする草の根保守主義のバックラッシュ(揺り戻し)」だった。その際、「共産勢力の拡大を食い止める」という冷戦の論理は、国内の社会的・文化的な軋轢を封じ込めるのに極めて効果的に機能した。

「冷戦とは、世界各地の社会内部のさまざまな異論や不和を封じ込めて『秩序』を生み出すための社会装置だったのではないか、そしてそれは政治指導者によってというよりも、むしろ普通の人びとによって創りだされた想像上の『現実』だったのではないか」

冷戦は「想像上の現実」だというこの本の大胆な仮説には、さまざまな反論があることだろう。でも僕らが学校で習う歴史も別の角度から眺めてみればまた新しい見方ができるという意味では、なんとも刺激的な読書体験だった。

益田が指摘していて見落としてはならないのは、人びとが秩序を求めて冷戦の言説にとびついた底に恐怖の感情があったことだろう。1950年は第二次大戦が終わって5年、参加した国の民衆には戦争の体験と記憶がまだ残っていた。朝鮮で起こった戦争はその記憶を蘇らせ、人びとは核攻撃を含む第三次世界大戦への恐怖をつのらせた。その恐怖と不安が社会内部に「敵」を名指し排除する社会粛清運動を駆動させた。

ウクライナの戦乱のなかで、今また核攻撃とか第三次世界大戦という言葉が飛びかっている。不安と恐怖の感情の水位が高まっている。歴史が、そのままでないにしても螺旋状に繰り返されるとすれば、この本を参照できることは多いだろう。例えば民主主義国家対権威主義国家といっても、敵対するどちらの国の内部にも社会的対立がある。国家という枠で民主主義対権威主義の二項対立に単純化してしまえば、そうした社会内の分断線は見えにくくなる。1950年に冷戦の論理で「非○○的なもの」が排除されたように、権威主義国家では強権的になされるものが、民主主義国家では民主主義の装いのもとに、異論が排除されたり、表現や行動の自由に実質的制限がかけられたりする機運が上からだけでなく下からも沸き上がってくるかもしれない(ヘイトスピーチや自粛警察にその萌芽が見える)。そこに敏感でありたいと思う。

本書はもともと益田がコーネル大学に出した博士論文が基になっている。その後、ハーバード大学出版から単行本になり、それが評判になって日本語版が出版された。日本語版については翻訳というより大幅な加筆、修正がなされている。そのせいか、研究論文の骨格は残しながら記述は具体的で分かりやすく、僕のような一般読者でもついていける。

ただ、12級という最近の本ではありえない小さな活字の2段組は70代半ばのジジイには苦痛だった。書店で手にしたとき、高齢者は拒まれていると感ずる。国内でほぼ無名の著者の博士論文、どのみち高定価が避けられないのなら、もっと活字を大きくして分厚い本にするか、上下2分冊にしてほしかった。面白くて最後まで読み通してしまったけれど、元編集者として一言。今年度の毎日出版文化賞、大佛次郎論壇賞受賞作。(山崎幸雄)

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2019年11月16日 (土)

「ヒト、犬に会う」島 泰三

島 泰三 著
講談社(266p)2019.07.12
1,925円

人と犬との関係は長い歴史がある、それは単なるペットではなく警察犬や牧羊犬を始めとした使役犬としての活躍の場は犬種を問わず多様である。まさに人間の良きパートナーという言い方が適切だと思うのだが、著者が熱く語っているのは「犬がいたからこそ、大型類人猿の一種『ヒト』は『人間』らしくなり…現在の『文明』にまで至った」という犬と人間の対等な関係である。著者は動物学者で日本ザルやマダガスカルに生息するアイアイという小型猿研究の専門家だが、本書では犬と人間の関係を幅広い領域からの分析と賛否を含めて多くの学説を引きながら精緻な説明を展開している。論文を読むような感覚で読み進んだのだが、一方、そこまで言わなくてもという「反論の表現」が有ったりするのも著者の「犬愛」の為せる業なのだろうと思う。

犬にまつわる興味深い事象がいろいろ紹介されているのだが、その一つが「歩く食糧貯蔵庫」仮説。その仮説とは1万5千年前に「イヌ」と「ヒト」は出会い、イヌの家畜化が進み、猟の協力者として、同伴者として、寝床を温めるものとして、そして時には食糧としてイヌが狩猟採集民に扱われていたと言うもの。「食糧」という言葉に一瞬違和感を覚えるが、犬食文化がある中国や韓国そしてオセアニアなどの地域の広がりを考えると、この仮説の存在を否定することも出来ない。

また、大分県での高度に訓練された紀州犬がイノシシと戦って倒すという特殊なイノシシ狩り、モスクワの地下鉄に乗って駅間を移動する犬、江戸時代のお伊勢参りの犬など、本当かと思いつつも人と犬のつき合い方の多様性を良く示しているエピソードである。また、犬は言葉を理解出来ず、名前を呼ばれてしっぽを振るのも単に音に反応しているだけという説に反論するかの様な事例が示されている。それは、初対面の犬に会うとき、事前に犬の名前を教えてもらい、初めて会った時に名前を呼ぶと犬は「なぜ、お前はおれの名前を知ってるんだ?」という驚きと怪訝な表情をするという。犬は単に名前を呼ばれて喜んでいるだけではないのだ。本当に怪訝そうな顔をした黒い犬の写真が添えられている。納得である。

本書が扱っているテーマは、「犬への変化」と題してイヌの起源を探りつつ、多くの学説を引きながら進化によるイヌの特性の変化を紹介し、「イヌ、ヒトに会う」と題してイヌとヒトが同盟関係を結んでいく過程を示し、「犬の力」と題して犬の特性を分析して人との共生の意味を解説。「ことばはどのように生まれたのか」という章では人と犬のコミュニケーションと言葉について語られている。

第一章は「犬への変化」と題してその起源が詳細に説明されている。食肉目としてネコ亜目とイヌ亜目の二つに分離したのが5600万年前。そして北米からユーラシア大陸に進出して100万年前にオオカミとイヌの共通祖が確立した後、「オオカミは人を襲わないという人間への許容度が高い。一方、イヌは人に対する高い親和性とともに、特定のヒトに強く結びつく傾向がある」という特性差を持ちながら独立していったことが判る。

第二章は進化してきたイヌがいよいよヒトと会うことになる局面で1万5千年前にオオカミ亜種のイヌがヒトにより家畜化されていく過程が示されている。

イヌが南下していって小型化が進んだ結果、イヌの平均体重はオオカミに比較しても半分近く軽くなっており、ヒトにとっては適切な大きさになっていた。また、イヌが多産であることや性成熟期間の短さといった生殖戦略はヒトが犬と共生するにあたって、仲間として適切な種を作り出していくための淘汰のサイクルが短いということも有利な点であったとしている。一方、ヒトは先行するホモ・エレクトウスやネアンデルタールの辺縁をさまよう直立二足歩行類人猿だった。

こうした特徴を持つ二つの種が同盟を成立させた理由は、ヒトとイヌ共に祖先種と比較すると小型で強力さに欠けているという相対的に弱いもの同士が結びついたものとされている。こうした環境でヒトは東南アジアに至って、ついに豊富な食生活を体験することになる。そこでイヌに与える食物もあり、イヌと共生することで他集団や大型捕食動物から逃れることが出来るといった相互関係により同盟が確立したと説明している。

第三章は「犬の力」と題して人と違う能力や特性を紹介している。犬は人と違って嗅覚、聴覚、味覚といったものだけでなく「恐怖」「凶暴さ」を匂いで嗅ぎ分けると言う。まさに人と別世界に居るということだが、味覚においても犬は水に関しては独特の味蕾があり水の味を感じることが出来ると聞くと、水をうまそうに飲む犬の姿にも納得がいく。また、犬の特性として集団行動の適応能力の高さこそ重要な点である。

こうした、人にない感覚能力、集団活動能力などを活用して、イヌから犬になった「犬」は人間社会でのみ生き延びられる存在となり、人間の意思を正確に実施しようとする特性を手にしたと言う。一方、ヒトは発達した大脳皮質前頭葉を使って全体的な判断を進化させてきたが、運動能力や感覚について高い能力を持っている訳ではない。このイヌとヒトの判断能力の違いを著者は、「犬は『人の仕草や物言い、匂い』など全体で客観的に判断するが、人は『第一印象』といった『幻想で判断する」と説明している。

第四章は「ことばはどのように生まれてきたのかについて述べられている。犬は声道の構造から人間の様に子音+母音といった発声は出来ないが、犬は人の話言葉を理解する。言葉と言っても、「身振り」「音声」「文字」の三つの形態があるが、その中でヒトの最大の特徴を「ひっきりなしのおしゃべりだった」としている。こうしたコミュニケーション力の進化のステップの第一段階とは、まず呼びかけ能力として相手が応えるまで「作為的な呼びかけ」を続けることであり、次にヒトの言葉は「命令」の段階に入る。この時代は道具の利用の拡大など遺跡も多く残る時代だ。そして2万5千年前から1万5千年前頃にヒトは名詞と修飾語、命令語をつなぐことを始めたという仮説だが、それは考古学的に動物を表す絵が数多く描きはじめられた時代と一致するという。

その中で、犬とのコミユニケーションと言えば「身振り」と「音声」ということになる。主たるものは飼い主がひっきりなしに語り掛ける明瞭な「音声」によって主人の感情や意図を間違いなく察知する能力であり、いずれにしてもそれに従うかどうかは犬と飼い主との相性であったり、犬からみて尊敬や信頼できる相手であるかどうかという。この指摘は全ての人間関係においても成り立つ指摘であることが、また怖い所だと気づかされる。

そして、最後に人にとっての犬の存在について著者は次の様にまとめている

「犬は大好きな人の傍らに常にいるが、まったく異なった世界を見ている。それだけに、人は心が開放される。人が犬のそばでは信じられないほど饒舌になるのはそのためなのである」

本書の読書は、犬との生活の記憶とも重なり合って納得や驚きが続いた。中学生の頃、家で飼っていた秋田犬とコリーのミックス犬は長生きしたこともあり、懐かしさがいくらでも湧いてくる。もっと話しかけてやれば良かったと思うばかりだ。

犬に対する雑学的知識を満喫した読書であったが、気になる点が一つあった。それは、まだオオカミの亜種で会ったころは「イヌ」、家畜化されたイヌを「犬」と表記するとしており、同様に「ヒト」はホモサピエンスという人類種を示し、「人」は犬の家畜化以降のヒトを示すとしている。この説明を読んでいた時、「ヒト、犬に会う」という本書のタイトルは辻褄が合わないのではないかと思った。家畜化を起点とした表現の変化であれば「ヒト、イヌに会う」でないといけないのではないか。しかし、読み進むと第二章のタイトルは「イヌ、ヒトに会う」と整合性のある表記になっている。本のタイトルの表記は何か意図が有るのだろうか。また、考えてしまう夜の読書である。(内池正名)

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2017年2月18日 (土)

「ヒマ道楽」坪内稔典

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坪内稔典 著
岩波書店(224p)2016.12.10
2,052円

団塊の世代である私はフルタイムの仕事を卒業して4年。多少の仕事は有るものの、ボランティア活動、街道歩き、陶芸、読書、ジャズといった趣味で日々を過ごしている。モノ忘れを補う適度な緊張とゆるく流れる時間の混在した生活を楽しみながら、ある日、散歩の途中で「ほんとうはヒマなクセに。お忙しいアナタに 現代ストレス解消法!」というサブ・タイトルに惹かれて本書を手にした。

著者の坪内稔典は1944年生れ。学生時代から俳句を作り続け、近代日本文学、特に正岡子規の研究者となって詩歌を研究してきた人。本書は産経新聞大阪本社版に連載していた「モーロクのススメ」という2013年から2016年のコラムからの抜粋であり、フルタイムの仕事を卒業して二年目の72才である。「金を稼ぐ本職」から離れ、時間の制約からは解き放たれた生活による人生のリズムの変化期におけるエッセイである。

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2014年11月16日 (日)

「非除染地帯」平田剛士

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平田剛士 著
緑風出版(168p)2014.10.15
1,944円

東京電力福島第一原子力発電所の事故から3年半がたった。とはいえ事故を起こした原子炉の廃炉作業はこれからだし、今も4万人以上の住民が県外に避難したまま故郷に帰れないでいる。

汚染地域での除染が進んでいるとはいえ、除染作業が行われているのは住宅や道路、田畑だけ。それも期待した効果が出ていないところも多い。県の面積の8割を占める森林は手つかずのままだし、河川、湖沼、海浜、海洋もそのままになっている。また双葉町全域や浪江町・大熊町の大部分を占める「帰宅困難地域」はそもそも除染の対象になっていない。「3.11後の森と川と海」とサブタイトルを打たれたこの本は、こうした「非除染地帯」の生態系がどうなっているかを追ったルポルタージュだ。

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2012年4月11日 (水)

「東日本大震災復興時刻表」越前 勤

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「東日本大震災復興時刻表」
越前 勤 著
講談社(176p)2012.03
2,625円

「福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書」
福島原発事故独立検証委員会 著
ディスカヴァー・トゥエンティワン(412p)2012.03.12
1,575円

この二冊を机において、今回の震災と事故とはなんだったのか考えて見る。一年間という時間はまだまだ当面の対処の期間であり、対策についても手探りの期間でしかなかった。特に原発事故に関して言えば数十年といった時間軸で対策の効果を見ていかなければ、その影響実態は判断できないだろう。一方、発生した被害や痛みはどんどん風化していって、残された住民の怨嗟や遺棄された国土だけがモニュメントのように残るという事態だけは避けなければならない。私たちは今回の震災や原発事故で、肉親や仲間、家や風景、生活の場たる海や田畑、伝統や文化などあまりに多くのものを失っている。そうした状況の中からも新たに生まれてきた夢や希望はどんな些細なものであっても拾い上げて行きたい、そんな気持ちで取り上げたのが「東日本大震災復興時刻表」である。

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2012年1月10日 (火)

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

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國分功一郎 著
朝日出版社 (402p) 2011.10.18
1,890円

仕事の時代を終えた団塊の世代にとって「暇と退屈」は概念だけでなく、極めて日常的なものとして捉えなければならない年齢になっている。そんな「暇と退屈」が「倫理学」になるものなのかとタイトルに惹かれてこの大著を手にした。「倫理学」であるためにはいかに生きるべきかを問う内容になっていなければならないのだが、「暇と退屈」から「倫理」が導き出されるという期待と疑問が相半ばしての読書であった。

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2008年11月12日 (水)

「日々の食材ノート」 渡辺有子

Hibino 渡辺有子著
筑摩書房(127p)2008.04

1,575円

この本は、表紙は言うに及ばず本文・奥付にいたるまで活字は一切使われていない。全て手書きの文字をそのまま印 刷している。その字はけして達筆ではないし、読みやすいという程の字でもない。デザイン的にはぎりぎりのところを狙った本なのだろう。料理本の常道として 写真も添えられているが、その写真は料理を理解してもらうためのものではなく、料理や器が著者にとってどのように存在してほしいかを示すための画像として 扱われているように思える。

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2008年11月 9日 (日)

「ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄」 中山康樹

Bill 中山康樹著
河出書房新社(242p)2005.03.19

1,680円

ピアニスト、ビル・エヴァンスの演奏に出会ったのは40年程前のことで、その頃はアルバムがリリースされても輸入版は高価で、新譜はジャズ喫茶かラジオ放送に頼って聴いていたものだった。そんなことで、ディスコグラフィー的にはかなり知識は有しているし、時代背景も同時代的に進行していたのでそれなりの理解はしていたつもりだが、エヴァン スの幼年期を含めて生涯の音楽活動と周辺の動きを網羅した本書を読んで、そんなこともあったのかと再認識させられる事柄も多く、エヴァンスの人となりを活 写していて、新たなエヴァンス像を想起させられた部分も多い。

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2008年11月 8日 (土)

「ひととせの ー 東京の声と音」 古井由吉

Hitotose 古井由吉著
日本経済新聞社(251p)2004.10

1,890円

1937年生まれ、東京流入二世と自称する古井が声や音をキーワードとしてまとめた57編の小文集である。生活の中の音の感じ方は評者と10才年上の古井だけに時代の差を実感するが、その違いは違いとして彼の持つ感性と表現が楽しめる一冊だ。いまや東京では音で季節の移り変わりを感じるとのいうも希薄になってしまった。逆説的にいえば、車も人通りも少ない静かな(音の無い)季節が正月を実感す るというのもなにやら寂しい。表現されている多くの声と音は、忘れていた記憶が掘り起こされ、懐かしさがふつふつと湧いてくる。

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「樋口一葉『いやだ!』と云ふ」 田中優子

Higuchi 田中優子著
集英社新書(208p)2004.07.21

756円

樋口一葉をまともに読んだことがない。僕たちの時代にはまだ「教養」というものが生きていたから、学生時代、こ のくらいは読んでおかなくてはと思って『たけくらべ』に挑戦したことがある。そして見事に挫折した。擬古文に手こずったこともあるけれど、それ以上に、こ の小説のなにが面白いのか分からなかった。いまも当時も、樋口一葉は漱石や鴎外によって完成される近代小説を切り開いた先駆者の一人として評価されていた。そういう眼から見ると、一葉の小説には 近代以前の混ざりものが多すぎ、書き方においても、そこに描かれる人物像からも、「近代」がくっきりとは立ち上がってこないように感じた。

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