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2023年3月15日 (水)

「不穏な熱帯」里見龍樹

里見龍樹 著
河出書房新社(450p)2022.11.30
2,970円

タイトルで買いたくなる本がある。書店の棚で見た瞬間にタイトルが発するオーラに一撃をくらい、即座に買おうと決める。この本がそうだった。

『不穏な熱帯』というタイトルはもちろん文化人類学の古典、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を連想させる。サブタイトルを見ると「人間<以前>と<以後>の人類学」とあるから、これも人類学の本なのだろう。カバーの折り返しを見ると1980年生まれ、メラネシア民族誌を専門とする文化人類学者だ。

といって小生、とりたてて文化人類学に興味や知識があるわけではない。読んだことがあるのは、当の『悲しき熱帯』くらい。それも40年以上昔のことで、内容はほとんど覚えてない。レヴィ=ストロースがアマゾンの先住民を調査した民族誌と自伝的省察が入り混じったものだった。いま、ぱらぱらと本をめくっていたら、こんな部分に傍線を引いていたのを見つけた。「異常な発達を遂げ、神経のたかぶりすぎた一つの文明(評者注・西洋文明)によって乱された海の静寂は、もう永久に取り戻されることはないであろう。熱帯の香りや生命のみずみずしさは、怪しげな臭気を発散する腐食作用によって変質してしまっている」。現在でも、いや現在でこそリアリティをもって迫ってくる文章。『悲しき熱帯』を通底する視線で、レヴィ=ストロースが書名を「悲しき(tristes)」とした所以がうかがわれる。

とすれば、本書がそのタイトルを下敷きに「不穏な」と形容したのはどういうことなのか。タイトルを見て即座に買おうと決めた判断を、後になって分析すればそういうことになるだろうか。

この本で里見がフィールドワークしたのは南太平洋のソロモン諸島。ニューギニアの東にあり百余の島々からなる島嶼国家だ。首都のあるガダルカナル島は第二次大戦で日本軍が凄惨な戦いを強いられた地として記憶される。里見はガダルカナル島の東北に位置するマライタ島のフォウバイタ村という集落を拠点に、2008年から2018年まで7回の調査を行った。本書では、そのうち2011年の3カ月に渡った調査のフィールドノートが主に引用され、当時のノートと、それに対して里見の現時点でのコメントが本文の半分を構成している。

残りの半分はというと、そもそも人類学とはどのように発達した学問で、それは21世紀にどう記述されるべきかの議論。1980年代以降、それまでの人類学に対する批判がさまざまな視点から起こり、そうした批判的立場に立った研究が積み重ねられてきた、らしい。その道筋を紹介しながら、里見は、では自分はこの調査をどのように行い、どのように記述したらいいのかを思索している。

このような、フィールドノートと思索の重ね合わせという構成は『悲しき熱帯』を意識しているのだろう。先ほどのレヴィ=ストロースの引用からも、西洋で発達した人類学は未開の地の民族誌を研究することによって逆に西欧近代の歪んだ姿を照らし出す意図をもっていたことは理解できる。でも1980年代以降の批判は、そうした人類学の方法それ自体を問うものであったらしい。小生は人類学にまったくの素人だから、詳しいことは分からない。ただ、こうした批判は人類学に限らず、このところ進行している人文科学の方法の見直しに連なるものであることは分かる。その意味での興味がある。

大雑把に、きわめて単純化してしまえば、こういうことらしい。西洋で発達した人類学は、非西洋地域の「未開社会」を対象に発達した。そこでは「自然」は人間と関わらないものとして存在し、一方、「文化」は地域・民族ごとに多様に存在する。人類学は例えば、貨幣によらない交換や婚姻・供犠の様式を研究することによって地域・民族の社会がどのような特色をもっているかを知り、それによって西洋文明を相対化させる。でもそうした方法は、無意識のうちに「自然」と「文化」を対立させる「近代的二分法」を前提としている。また未開地域の「文化」は、歴史的展開のない無時間的なものと捉えられることも多い。西洋社会に生きる研究者と、未開社会の研究対象者とは画然と分けられている。

こんな批判と反省の上に立って、現在の人類学はいろんな試行錯誤を繰り返しているようだ。本書も、その最前線に立つ一冊ということになる。

前置きが長くなってしまった。里見が滞在したマライタ島。この島は海岸線に沿ってサンゴ礁が広がり、このサンゴ礁に砕いたサンゴの岩石を積み上げた「人工島」が90以上点在している。「人工島」には一家族から数十家族が住み、人々は漁業に従事している。「人工島」に暮らしながらマライタ島に畑をもっている家族や、「人工島」からマライタ島海岸部に移住した家族も多い。彼らはアシ(海の民)と呼ばれ、島や海岸部での生活を「海に住まうこと」と自ら呼んでいる。著者がホームステイしたフォウバイタ村にも、アシがたくさん住んでいる。

里見が2011年にフォウバイタ村を訪れたときに出会ったのは、アシの人々が「海に住まう」自分たちの生活に不安を感じる姿だった。そのことを、多くのアシは「岩が死に、島が海に沈みつつある」「海に住むのがこわくなった」と表現した。アシによれば、岩は生きていて育つものだが(実際、サンゴ礁は生きものである)、その岩が死んで、島は海に沈みはじめている。地球温暖化による海面上昇を、アシの人々はそう受け止めていた。

それだけでなく、アシの生活に「不穏な」兆候が見え隠れしていた。そのひとつに里見が以前に調査したときの協力者、ディメの死がある。ディメはフォウイアシ島という「人工島」からマライタ島に移住したアシの男性で、「尊敬されると同時に恐れられ」ている「重要人物」だった。それはディメの父の死とも関係している。この地域の住民のほとんどが現在はカソリック教徒だが、ディメの父はアシの伝統的な祖先祭祀(「カストム」)を司る祭司で、カソリックに改宗することなく亡くなった。カソリック以前に死者は「バエ」と呼ばれる茂みに葬られたが、ディメの父はカソリック司祭の祈祷によって「バエ」に埋葬されるという折衷的なやり方で葬られた。その後、ディメは10代の娘2人を相次いで失ったが、彼と人々はその原因を「父の埋葬で過ちを犯したため」と考えていた。2011年に里見が訪れたとき、ディメは大病後の衰えきった姿で現れた。そのディメが、間もなく亡くなる。さらに、ディメの父が埋葬され、カソリックに改宗した人々からは不気味に感じられる空間、「バエ」の大木が突風で倒れるという事件が起こった。この出来事はアシの住民に大きな動揺を引き起こした。

「フォウイアシ島の倒木は、アシの人々の前に、そしてまたフィールドワーク中の私の前に、いかなる文脈に位置付ければよいのか不明の、禍々しく得体の知れない対象として横たわっていた。バエの木が倒れたことは、いかなる『しるし』であり、それはフォウバイタ地区に住むアシの人々にとって何を意味するのか? 『われわれ』は過去に何らかの『過ち』を犯したのであり、この倒木はそのあらわれなのか? ……その倒木はまさしく……人々の自己知識を揺り動かす不穏で不定形の歴史として立ち現れていた」

そんなコメントをはさみながら、ディメの死と葬儀を巡るフィールドノートが続く。同時に、マライタ島と西洋文化の接触の歴史が、しかとは分からない記憶として伝えられているものとして記述される。

1978年に独立するまで英国領だったソロモン諸島が西洋世界と初めて接触したのは19世紀後半。マライタ島の「人工島」は1900年前後の初期植民地時代に多くがつくられている。この時代、マライタ島ではかなりの人々がオーストラリアやフィジーの農園に労働者として徴募された。そうした労働交易の結果、島に鉄製刃物や武器が流入して部族間での戦闘・襲撃が激しくなり、土地の収奪や人々の移動が頻繁に起こるようになった。この時代のことをアシの人々は「オメア(戦闘・襲撃)の時代」と呼ぶが、世代交代が進んだためあいまいな記憶としてしか伝えられていない。マライタ島の「人工島」はその「オメア」からの「避難のための島々」としてつくられた。アシの島々とそこでの生活は、そのように「ねじれた歴史的時間の中で形成された」ものとしてあったのだ。

ディメの死から1週間後。ディメの「過ち」を「正し」、喪を終わらせるために、カソリックの司祭によるミサが行われた。司祭はミサの最後に「あっ」と声を上げ、参列者たちに「聖なる塩」をふりかけた。この儀式によってディメの「過ち」は「終わった」。人びとは日常を取り戻したようだった。その数週間後、フォウイアシ島の「バエ」では倒れた大木を伐り、清掃が始まった。

ディメの「過ち」は片付いたとはいえ、アシの人々は「岩が死に、島が沈む」という深い不安のなかで生活している。岩が「生き」「育ち」「死ぬ」というアシの人々の感覚、「島が自ら育つ」ことと「島をつくる」ことを区別しない感覚は、「科学的」教育を受けた私たちの「自然」の概念とは違う。でもそんなアシの考えを非科学的と排斥するのでなく、逆に私たちが考える「自然」を再考するきっかけにすべきだ、と里見は言いたいようだ。

「人新世」という言葉は、もはや手つかずの「自然」などなく、地球環境がいたるところで人間の活動の痕跡をとどめていることを指している。でもその結果として、皮肉にも人の手の届かないところで「制御不可能で予期せぬかたちで非‐近代的な『自然』が現れつつある」。だからこそ人類学でも、「自然」と「文化」を画然と分かつ近代の二分法が問われている。「バエ」の倒木のような、「自然」と「文化」の境界で揺れ動く謎のようなもの、「識別不能地帯」にもっと目をこらし、耳を澄ませ。研究者だからそんな言葉遣いはしないが、著者が言いたいのはそういうことだろう。

そんなことを一巡りした後、里見は、「島が沈む」不安を抱えたアシの人々のことを「われわれの同時代人」と呼んでいる。カバーに使われた海とサンゴ礁の写真だけでなく、本文には著者が撮影した数十枚の写真が使われている。資料の域をこえて、写真もまた文章とは別の世界を伝えてくれて楽しい。(山崎幸雄)

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2021年7月19日 (月)

「ふたつのドイツ国鉄」鴋澤 歩

鴋澤 歩 著
NTT出版(270p)2021.03.25
2,860円

海外に旅して感じることは、空港の入出国は標準化されているので戸惑う事はないが、鉄道などの公共交通機関を利用しようとするといろいろ苦労することがある。国によって発券や乗降方式などが違ったり、説明表記や職員などが現地語しか話さなかったりすることもあり、個人で鉄道の旅をするのはなかなか大変である。それだけに、鉄道の旅の楽しさは格別である。いままで仕事や旅行でヨーロッパも何度も訪れているが、何故かドイツには行ったことが無かった。そんなこともあり、書店で目にしたタイトルに惹かれた。

1945年のナチスドイツの終焉とともにドイツは東西に分断された。インフラとして残された鉄道の運営組織、運行状況、経営や技術を支えた人材等についてドイツ再統一までの期間を俯瞰することで近現代ドイツ史を考えてみるという一冊。

本書では時代区分を、1945年から米英仏ソ四か国による占領期、1949年の東西ドイツ建国からの1950年代、1961年のベルリンの壁建設から1970年代、そして1989年のベルリンの壁の崩壊からの両国鉄の再統合までの四つの時代に分けて描いている。この間の西ドイツ国鉄(DB)と東ドイツ国鉄(DR)に分れて運営された鉄道を比較していくことで、異なる政治・経済システムの下で、同一産業のパフォーマンスを分析するという本書の狙いは新鮮であるとともに、なかなか挑戦的である。ただ、鉄道好きなので、鉄道用語などは戸惑うことなく理解できたが、駅名や鉄道人たちの名前など数多くのドイツ語固有名詞が登場するのには辟易とする部分があったことは否定できない。

戦後ドイツの鉄道の特異性が顕著に現れたのはベルリンであった。東ドイツの中の大都市ベルリンは東西に分断占領され、西側から見ると飛び地として西ベルリンが存在していた。この異様な占領形態は多くの事件やドラマを生み出す舞台としては申し分ないものだった。本書の冒頭で、この点を開高健の「夏の闇」(1972年)から引用して説明している。それは、日本人男女がヨーロッパのとある鉄道に乗った時の会話。

「・・・しばらくすると女が『東にはいったわ』といった。またしばらくすると、『西に入ったわ』・・・」

東とは東ベルリン、西とは西ベルリンを指している。この様に、分断されたベルリンでは東西ベルリンを繋ぐ複数の鉄道路線が有ったが、その一つ「Sバーン」と言われる市街鉄道は西ベルリンから東ベルリンを通過して西ベルリンに入っていく路線で、分断ドイツの象徴のような鉄道である。

このSバーンは東ドイツ国鉄(DR)が西ベルリン内も含めて運営管理していたが、西ベルリン地域の運行を担った職員は西ベルリン居住者を多数雇用していた。こうした分断されたベルリンの鉄道運営の不合理性から、年を追うごとにその内在する問題は大きくなっていたようだ。賃金の支払い通貨の問題や、西側の職能別給与体系に対し東側は勤務年数だけを評価基準としていたなどのギャップが指摘されている。あえて東ドイツ国鉄がこうした問題を抱えながらもSバーンを運営していたものの、乗客数の減少や政治的効果が薄れてきたことなどが蓄積して限界に向かって行く姿は象徴的である。

本書に詳細に記述されている両国鉄の歴史のうち、興味深い点を以下に取り上げてみる。

旧ドイツ国鉄は米英仏ソ四か国の占領地域ごとに鉄道管理体が作られた。翌年には米英の地域の鉄道は統合に至ったが、なぜかフランスは米英とは歩調を合わせず、西側三カ国の占領地域の鉄道運営統合はこの時点では果たせなかった。この西側の足並みの乱れは何故なのか気になるところである。ドイツに対する欧州諸国の考え方の乱れは、「危険な統一ドイツの復活」を危惧するとか、「ドイツとオーストリア」のドイツ語圏の合邦を望む両国の希望を封殺してきた歴史を含めて、この問題は欧州の課題として永く議論されて来たことが思い出される。ただ、最終的には1946年の米ソのドイツ占領政策の決裂でドイツ統一はなくなり、西側三カ国の足並みはそろうことになる。そして、1948年6月18日にソ連占領軍は西ベルリン及びドイツ西部との通行を遮断するとともに、西ベルリンへの東ベルリンからの電気・ガス供給を止めた。いわゆる「ベルリン封鎖」である。この西ベルリンを人質にとったソ連の戦略に対してアメリカは大規模な空輸を行い1949年末までの一年強の間、毎日数千トン規模の物資を輸送し続けた。ベルリンという一都市を舞台に米ソの意地が激突した形だ。

両国ドイツが成立(1949年)すると、旧ドイツ国鉄は西ドイツ国鉄(DB)と東ドイツ国鉄(DR)が組織化された。

西ドイツはDBを国有化され、30,000kmの立て直しとともに、西ドイツ経済復興の担い手となった。それは西ドイツが資本と労働力を投入し続けることで経済成長するという西側共通の戦略に加え、近隣欧州諸国を市場とする輸出主導型で成長した中での物流の担い手であった。1950年代半ばからSLからディーゼル、電気機関車への転換が進むとともに、西欧各国(EEC・EC)との枠組に参加することで連携運行や列車の高速化が進んだ。しかし、1960年代後半には西ドイツ国内の輸送シェアはトラック輸送や航空機に奪われて赤字が続き、組織再編と合理化で82,000人を削減、6,500kmの不採算路線の廃止、システム化による業務合理化と自動化促進が本格化する。こうした施策の推進の一環としてDBは1972年に総裁として初めて民間ビジネス界からの人材(ドイツIBM社長)を登用している。

一方、東ドイツ国鉄(DR)は16,000kmの路線でスタートした。DRの管理者・職員は元ナチと係わりが無く、労働者階級出身であることが望まれていた。すなわち人材面では戦前の旧ライヒスバーンとの断絶を目指した。この結果、旧ライヒスバーンの鉄道人としての有能な人材の多くは西側のDBに採用されている。人を通じての断絶と連続の違いがここでも大きく表れている。DRでは1960年代に入っても、戦前からのSLが主力で100台が稼働していた。ディーゼル機関車の国産化が図られたが、2000馬力以上の機関車はソ連からの輸入機に限られていて、自国の車両研究や近代化には制約があったことを見ても、東欧のソ連支配の構図を知ることができる。

1985年ソ連書記長に就任したゴルバチョフは体制内改革を目指して「ペレストロイカ(経済改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」を唱えて、米との融和ムードが高まるとともに、ハンガリーを筆頭に東欧諸国は抑圧されていた民主の動きが再燃していった。こうした流れの中で11月9日にベルリンの壁は崩壊し、Sバーンを始めとした東西境界駅構内でも分断の遮断機を上げて人々は通過して行った。翌年1990年10月に両ドイツの再統合、そしてその3年後DBとDRの両国鉄は再統合を果たして、現在の「DB-AG」が誕生することになる。

こうした歴史を読んでいると、著者が指摘しているように両ドイツ国鉄(DB・DR)ともに戦前の旧ドイツ国鉄から引き継いだものもあれば、捨てた物もある。ただ、戦後の両国鉄は「新生」と呼べるような改革的な施策は無かったし、東西ドイツともに国家が鉄道セクターに積極的な資源投入をしたようには見えない。島国の日本ではとても想像できない、国家分断と鉄道の歴史であるが、同時に物流システムとしての鉄道の位置付けの変化は世界共通の課題であった。日本の国鉄も苦労しながら分社化と民営化を果たしてきた。ただ、ドイツ国鉄に比較すると、鉄道システムが自国内で完結できるという単純さはラッキーだったといえる。それにしても、今度ドイツに行ってみようと言う気持ちが強くなった一冊である。(内池正名)

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2020年7月17日 (金)

「武器としての『資本論』」白井 聡



白井 聡 著
東洋経済新報社(292p)2020.4.23
1600円+税

「武器としての『資本論』」というタイトルを見たとき、「武器」とは何のための武器なんだろう、という疑問が湧いた。少しでもマルクスをかじったことのある小生のような団塊の世代なら、当然のように「革命」とか「資本主義を倒す」ための武器といった言葉が思い浮かぶ。でもそうしたことを、いまこの国でほとんどリアリティをもって語ることはできない。笑われるのがオチだろう。ではこの本が、買い手の目を引くためタイトルに選んだ「武器」とは何のためか。白井聡は、「この世の中を生きのびるための武器」なんだと言う。われわれはなぜ毎日、満員電車に揺られて会社に行かなければならないのか。なぜみんなが苦しまざるをえない状態にありながら、その苦しみを甘受して生きているのか。『資本論』はそういうことに答えてくれるのだという。

いま、マルクスなんて時代遅れの代物だ、というのがおおよその一致する見方だろう。確かに社会主義を標榜する国家の崩壊や堕落ぶりを見れば、それもうなずける。でもマルクス、特に『資本論』は現実の政治や国家から一歩も二歩も下がって、資本主義というシステムを批判的に分析した書物。革命論としてでなく、資本主義批判の学としてマルクスをもう一度読み直すと、貧富の差が極端になり、差別と分断が暴力的な様相を呈する今の世界を読み解くヒントが得られるかもしれない。マルクスが19世紀ヨーロッパの資本主義を分析した手法で現代を、特に1980年代以降の「新自由主義」とよばれる現在を分析したらどう見えるのか。これが本書の「裏テーマ」だという。

この本は「『資本論』入門」と謳っているから、『資本論』からいくつかのキーワードを取り上げ、それを解説するスタイルを採っている。「商品」「包摂」「剰余価値」「本源的蓄積」「階級闘争」といった言葉。といっても小生が『資本論』第1巻(だけ)をなんとか読んだ半世紀前の古典左翼的な解釈でなく、その後のさまざまな研究成果を踏まえたものになっているようだ。

本書がその分析を「裏テーマ」とする「新自由主義」とは1980年代以降の「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「競争原理」といった言葉に象徴される、現在までつづく資本主義のありかたを指す。それ以前、第二次大戦から1970年代まで(日本で言えば戦後から高度経済成長の時代)を白井は「フォーディズム」とくくっている。フォード社がベルトコンベアを導入して自動車を大量生産するシステムから来た言葉。大量生産した車は、少数の金持ちだけでなく、たくさんの普通の人びとに買ってもらわなければならない。そこでフォード社(に代表される資本家)は、車(商品)の価格を下げると同時に労働者の給料をアップして「労働者を消費者に変えようとした」。その結果、労働者の生活は豊かになり社会保障制度も整備されて、先進諸国では大衆消費社会が出現した。「労働者階級を富裕化して中産階級化するということが20世紀後半の資本主義の課題となり、相当程度実現された」ことになる。

でもこの流れは1980年代に逆流を始める。資本家は政府の介入を最小限にした市場原理主義で企業が自由に活動できる範囲を広げ、規制緩和などを通じて労働分配率を下げ、新たな剰余価値を生みだそうとした。日本でいえば「働き方改革」による非正規労働者の増大や、富むのも貧困も自己責任という考え方の浸透で90年代以降、格差が急速に拡大した。「無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義化の進行と同時に再び階級社会化していった」ことになる。無論これは日本だけでなく、先進資本主義国に共通の現象だ。白井はデヴィッド・ハーヴェイの言葉を引用して、新自由主義とは「資本家階級からの『上から下へ』の階級闘争」「持たざる者から持つ者への逆の再分配」だと述べている。

彼はまたこの時代を分析するのに「包摂」という言葉を使っている。『資本論』で使われる「包摂」という概念は、労働者が自分の労働力を商品として売ることでしか生きていけないことで資本の下に組み込まれることを指している。生産の目的が商品を売ることによる貨幣の獲得になることを「形式的包摂」、生産過程全体が資本によって組織化されることを「実質的包摂」と呼ぶといった具合に。でも白井は「包摂」という考えを、人間の身体が資本に組み込まれた状態だけでなく、感性や思考といった人間の精神までも資本のもとに組み込まれることに広げて考えている。こうした解釈の背後には、近代というのは、それ以前のように暴力的に身体を罰する刑罰でなく、監禁・監視することで思考や意思を矯正する刑罰に転換し、また教育や軍隊で規律を訓練し内面化させることによって、従順な身体をつくることで人々を支配する時代だ、というミシェル・フーコーの考え方があるんだろう。

では新自由主義を内面化した価値観とはどういうものか? 一言でいえば、「人は資本(会社や仕事)にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という思想。若い世代には浸透している考え方だろう。それを白井は「資本による魂の『包摂』」と呼ぶ。新自由主義は人々の働き方だけでなく、考え方や感性までも変えてしまった。「このことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか」

人が内面まで支配されてしまったのなら、「資本に包摂された魂」がそこから脱却する道はあるのか? それがこの本の最後の問いになる。もちろんそれに対する筋道立った回答は用意されていない。でもその端緒として白井が考えるのは「『それはいやだ』と言えるかどうか」。お金になるかどうかのスキルで価値が決まるのでなく、スキル以前の人としての感性に照らして、生きていく上での条件の切り下げや不条理に対し、それは耐えられないとNOの言葉を発することができるかどうか。そんな「感性の再建」から始めなければならない、というのが白井の結論だ。

と、ここまで読んできて、学生時代に読んで今も記憶に残るマルクスの言葉を思い出した。「五感の形成はいままでの全世界史の一つの労作である」(『経済学・哲学草稿』)。五感、つまり視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といった感性は動物として人間が生まれつき持っているものではあるが、その中身は人間の社会的活動のなかで形成された文化でもある。マルクスの先の言葉の後には、「心配の多い窮乏した人間は、どんなすばらしい演劇にたいしてもまったく感受性をもたない」という文章がつづく。働くことが自分にとって喜ばしいものでなければ(疎外されていれば)、人間は身体も精神も自分自身でなくなってしまう。その状態に歴史上例がないほど深く侵されたのが新自由主義の時代というわけだろう。でも五感は社会的なものであると同時に、自然の一部である人間が生まれつき備えているものでもある。そこを信頼し、人間的自然の底に立ち帰って感性をもう一度磨き上げよう。この本は、そういう呼びかけの書と見えた。

カバーは赤一色、カバーをはがすと表紙は黒一色という装幀が、中身に対応して直截なのがいい。(山崎幸雄)

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2019年8月17日 (土)

「文豪たちの悪口本」彩図社文芸部

彩図社文芸部 編
彩図社(224p)2019.05.28
1,296円

名だたる文豪たちが、同業者である作家や編集者に対して発した「悪口」や「非難」の文章を集めた一冊である。「これらの悪口から文豪たちの魅力を感じてほしい」との思いから本書をまとめたとのことであるが、言葉のプロ達の「罵詈雑言」を突き付けられると喧嘩となった理由を理解・納得する以前に、彼らの人間性にいささか否定的な思いを持たざるを得ない程、激しい言葉遣いに驚いてしまう。そこまで言わなくても…と、読んでいて辟易としつつも、文壇人間模様の確認という意味ではそれなりの読書だったという事だと思う。まあ、暑い夏の読書としては、清涼感を期待してはいけない一冊。

本書で取り上げられている文豪たちは、「太宰治と川端康成」「中原中也」」「志賀直哉と無頼派作家たち」「夏目漱石と妻」「菊池寛・文芸春秋と今東光」「永井荷風と菊池寛」「谷崎潤一郎と佐藤春夫」といった人達の間での、一言でいえば喧嘩の集大成である。もっとも、夏目漱石の日記に記載されている妻鏡子に対する悪口は、漱石の洒落っ気と負けず嫌いが根底にあり、しっかり者の妻に対する亭主の遠吠えみたいなものだから、他のケースとは異なった「悪口」である。

まず登場するのは太宰治であるが、川端康成との対立は芥川賞選考に関する川端の「私見によれば作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった」と言うコメントに始まっている。結果として太宰の作品「逆行」は受賞叶わず、私生活まで非難されたと感じた太宰は次の様な抗議文を「文芸通信」に投稿した。

「私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。…ただ、あなたは作家というものは『間抜け』の中で生きているものだということをもっとはっきり意識してかからなければならない」

太宰が言う「間抜け」、川端が言う「生活の厭な雲」の一端を示すものとして、太宰の日記には金を借りる話が数多く書かれているが、「小説を書き上げた。こんなにうれしいものだったかしら。…これで借銭をみんなかえせる」という文章が印象的である。川端がこうした状況を「生活の厭な雲」というのも判らなくはないが、芥川賞の選考に影響させると言うのはやりすぎだとおもうのだが。

次に、太宰が対立したもう一人の人物は志賀直哉である。志賀は「文藝」の対談で太宰の「斜陽」などの作品について「さいしょからオチがわかっていてつまらなかった」とか「貴族の令嬢の言葉遣いがおかしい」などと評している。それに対して太宰は「新潮」に反論を連載し始める。

「或る雑誌の座談会の速記録を読んでいたら、志賀直哉というのが妙に私の悪口を言っていたので、さすがにむっとなり、こちらも大いに口汚く言い返してやったが、あれだけではまだ自分を言い足りないような気がしていた。…どだいこの作家などは思索が粗雑だし、教養はなく、ただ乱暴なだけで、そうして己ひとり得意でならず、文壇の片隅に居て一部の物好きなひとから愛されているくらいが関の山であるのに、いつの間にやらひさしを借りて図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えを作って来たのだから失笑せざるを得ない」

この「如是我聞」と題された一連の反論の最後が発表されたのは昭和23年3月。太宰は三か月後に愛人と入水自殺することになる。

また、志賀直哉は昭和22年の朝日評論の谷崎潤一郎と対談の中で太宰と同じ「無頼派」と言われていた織田作之助の印象を聞かれたときに「織田作之助か、嫌いだな僕は。きたならしい」とバッサリ切り捨てている。好き嫌いの表明自体が問題であるとは思わないが、記録に残る文章で「きたならしい」という発言はまさに「悪口」だ。文壇だから許されるというものではないだろう。この発言に対して織田は太宰と違って冷静に反論しているのが大人らしい。

「口は災いのもとである。…ある大家は私の作品を人間の冒涜の文学であり、いやらしいと言った。…考えてみれば、明治以降まだ百年にもならぬのに明治、大正の作家が既に古典扱いされて文学の神様になっているのはどうもおかしいことではないのか」

菊池寛は文芸春秋を創刊し、川端康成、横光利一らの若手作家の活躍の場を提供して行った。今東光も同人の一人であったが、「文芸時代」の創刊や大正13年の文芸春秋に掲載された「文壇諸家価値調査表」なる記事が契機となって騒動が勃発する。それは70名の作家を対象として、学歴、天分、風采、資産、性欲など11項目を評価採点したものである。これに憤慨した横光利一は読売新聞に、今東光は新潮に「文芸春秋の無礼」といった文章を送り付けた。ただ、横光は川端のとりなしで掲載前に撤回し、一方、今東光は以下の文章を新潮に掲載した。

「この決定的な、この上思いあがった、そしてこの非常識…何だか例に引いても不愉快だ。もうよそう。心ある文士は憎悪すべき非礼と侮蔑に甘んじられないならば、宜しく須らく『文芸春秋』に執筆しないことだ」

これに対し菊池寛は「しかし、今東光輩の『自分達を傷つける』意思云々に至っては自惚れも甚だしい…今東光でなく第三者が該表掲載の非礼を糾弾するならば自分は名義上の責任を負うて三謝することを辞さない」と激しく応えている。

菊池寛と永井荷風の確執も本書のテーマとなっている。私も学生時代に断腸亭日乗を読み通していたが、永井は数寄者で遊び人の文学者といった印象が強く、あの日記から菊池寛との関係を読み取ることは無かった。本書で引用されている断腸亭日乗では「文士菊池寛、予に面会を求むという。菊池は性質野卑。交を訂すべき人物にあらず」と一刀両断である。

多くの罵詈雑言が本書には収められているが、これらは、雑誌等の刊行物に掲載された文章、断腸亭日乗のように個人的な日記、そして谷崎と佐藤の例の様な手紙といったものに分類できる。常識的に言えば日記のような非公開のものに記述される言葉はより過激になると思うし、公的な刊行物に記載する文章は一番抑制的になると思うのだが、本書に記載されている太宰治、今東光、菊池寛たちの文章表現は感情開放度も高いことに驚くばかりである。文士にとってはこれらも作品の一部ということだろうか。

そして、本書に集められた文豪たちの活躍した時代は、お互いの「悪口」のやりとりの時間の流れが日単位・月単位であり、気持ちの落ち着きの時間が確保されていたのではないか。その点、現代のネットで罵り合うといった、あっという間に盛り上がる喧嘩とは違った意味が有ったのかもしれない。

加えて、現代では使われない言葉が沢山登場してくるのも書き手が文士であるが故なのか。そう考えると、文士たちの「悪口から魅力を感じる」というよりは、「言葉を駆使する才能を評価する」という方が本書の正しい読み方なのだろう。(内池正名)

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2019年4月22日 (月)

「文化大革命五十年」楊 継縄

楊 継縄 著
岩波書店(284p)2019.01.30
3,132円

「文化大革命五十年」という本書のタイトルを目にしたとき、時間の経過する速さに驚きつつ、あまりに遠くなってしまった当時の思い出が湧き出して来た。1960年代の初頭、中学生の私はベリカード(受信確認証)をもらう目的で各国の中波の日本語放送を聴いていた。その一つが北京放送だった。受信の記録を送ると美しくデザインされたベリカードとともにその後日本語小冊子が毎月の様に送られて来た。「人民公社好」・「大躍進」といったスローガンが躍る小冊子だったが、中学生だろうが関係なく送付していたのだろう。そんなきっかけで、中国という国に興味を持ちはじめた。1960年代中頃になると「文化大革命」という先鋭的な言葉と、報道される三角帽子を被せられた昨日までのリーダーたちが街を引きずりまわされる映像の持つギャップに不気味さというか違和感を覚えながらそのニュースに接していた。自分自身も騒然とした時代のど真ん中で混迷を深めていただけに、この対岸の騒動はニュース以上のものではなかった。

著者の楊継縄は1940年生まれ。新華社の記者の後、多くの著作を発表し、彼の代表作である「墓碑—中国六十年代大飢荒紀実」(2008年刊)は世界的にも注目された一方、楊に対する当局からの圧力が強まったといわれている。そうした理由からか、多少なりとも自由な香港で本書の原本である「天地翻覆----中国文化大革命史」(2016年刊)は出版されている。90万字という原本を要約する形で日本語版である本書は作られているが、要約とはいえ、二段組で300ページの本書は高齢者の視力ではなかなか厳しい読書であった。

著者は「文革の悪夢から逃れ、災禍の再来を避けることこそ、中国が直面する重大な任務」として、文化大革命を科学的に研究することの重要性を強調しつつ、研究がまだまだ十分でないという認識である。本質的には、依然として「中国大陸」では文革研究はタブーとされていることから、真相の研究も表面的なレベルにとどまっていると著者は考えている。中国において、当局による出版審査を通った「文革史」と呼ばれる本はいくつか出版されているが、そのほとんどは官僚や知識人を被害者として紹介しており、一方、その迫害の加害者がその時点で権力を持っていたものであったと明確にしていないという。こうした状況に対する、著者の苛立ちが本書を書こうとしたモチベーションのように感じられる。そのため、歴史に対する「責務」や「責任感」という強い言葉を使って、真相を解明しようとする論調と併存して、自らの「熱」を抑えるかのように「科学」・「事実」という視点を語っているのが印象的である。

本書は文化大革命の始まりから紅衛兵、林彪事件、毛沢東の死、四人組裁判にいたる終焉までを描いている第一部。文化大革命後の名誉回復、官僚体制下の改革開放を描く第二部。文化大革命五十年の総括として、建国後17年間の制度に立ち戻って文革の根本原因を探るなど、現在の中国にとって文革の対価や遺産は何なのかを述べている第三部、という構成になっている。

全編を通して登場する人物も圧倒的な数で、既知の名前の方が稀であることなどからも、どんどん読み進み文革を俯瞰的に理解するという読書となった。 

1965年の彭真への批判、続く劉少奇と毛沢東の対立から、1966年の中国共産党中央委員会で反革命修正主義分子を摘発するという通知が出されて、時を置かずに「中央文革小組」が成立して文化大革命が始まった。以降の10年間に発生した、林彪事件、毛沢東の死、四人組の裁判といった中国の混乱した状況に関して、膨大な資料を引用しながら記述されていく。それは複雑極まりないジグソーパズルの様で、個々のピースが全体のどこに、どう関連して行くのかを理解して行く難しさを痛感させられる。

しかし、著者が一番言いたいことは、10年間の文革の結果と収束以降を語ることにあると思う。文革の結果として判り易いのは、人的な被害の規模感である。1978年の中央政治局会議で報告された数字は、一定規模の武闘・虐殺事件で127,000人が死亡、党幹部の闘争で10,500人が非正常死、都市部の知識人・学者官僚が反革命・修正主義・反動とレッテルを貼られ683,000人が非正常死、農村部における豊農とその家族1,200,000人が非正常死、と報告されている。文革に関連して2百万を超える国民が死亡したというこの数字を示されると、権力者間の政治的な闘争といった概念を超えて、壮大な内戦であるといえる。

そうした抗争の中で、1971年の林彪事件はまだまだ多くの不明点があるものの、その結果については著者は「この事件は中国のみならず、現代世界で最大級の政治ゴシップであり、それは毛沢東に痛撃を見舞ったばかりか文化大革命の弔鐘として鳴り響いたのだ」と語っている。この事件が文革のターニング・ポイントであったとしている。

その後、1976年1月に周恩来死去、9月9日に毛沢東死去、10月6日に四人組逮捕という推移を見ると、けして政治の理によって文革が終焉したのではなく、「象徴」の死によって文革の最終章を迎えたというのが良く判る。

文革後、多くの人的損失に加えて、毛沢東の死後、文革が中国にもたらした危機に対応するために、改革が必要とされ、経済改革は進められたが、政治改革は実施されることはなかった。つまり文革後権力を握った勢力は文革を全面的に否定しながらも毛沢東の政治遺産である一党独裁と官僚の集権化を捨てることは出来なかった。

1981年6月の中国共産党十一期中全会は文革を「指導者が間違って引き起こし、反革命集団に利用されて、党と国家を各民族・人民に大きな災難をもたらした内乱である」という結論に対して楊は次の様に語っている。

「文化大革命を否定しているが、文革を生み出した理論・路線・制度は否定していない。こうしたある意味、中途半端な結論によって、現在の中国に文革の悪魔が残っている。このため、災禍の再来が避けられない。……自由主義の角度から見ると、『官僚集団』とは中立的な言葉であり、制度の執行者であるが、中国の様に官僚集団の権力が国民から支えられたものではないので、権力を抑制したり均衡させる力はなく、官僚は公務上の権力を使って、大衆を抑制することが出来る。経済は市場化したが、権力構造は計画経済時代の状態を維持している。この状態は権力の濫用と資本の貪欲さが悪質に結合しているのが現代の中国の一切の罪悪が群がるところであり矛盾の源泉である」

これが、著者が文革を研究することの熱源である。ただ、著者は自らが先達と言っている訳ではなく、「後学の徒」であり、先行の研究者の優れた大量の著作を起点として始められた良さもあると語っている。それでも、著者はその時代の当事者であったことには違いない。

本書を読んで思うのだが、「自分の体験としての時代」と「歴史としての時代」を峻別して考えることは難しいことが良く判る。自分を正当化することと相反する色々な視点からの意見を客観的に聴く姿勢を持ち続ける気力が必要だ。他者の視点を加えて時代は完成する。つまり、自分が見聞きした体験は大切にすべきであるが、それは歴史を語る上での一面でしかないのだから。(内池正名)

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2018年6月20日 (水)

「不便ですてきな江戸の町」永井義男

Huben_nagai

永井義男 著
柏書房(260p)2018.04.26
1,728円

著者紹介には、作家・江戸風俗研究家とある。1997年に「算学奇人伝」で開高健賞の受賞を始め、小説や江戸風俗に関する著作が多く紹介されているものの、永井の著作は初めての読書となった。

本書は現代人がタイムスリップして過去の時代に生きてみるという小説。著者が「仮想実験」と言っているように、かなり挑戦的な試みである。例えば、「東海道中膝栗毛」の場合、十返舎一九という江戸に生きた人間が書いているので、現代人の我々が気になるところであっても彼にとって普通の事象であれば文章として表現されることは無い。一方、現代人が過去の時代で生きるという意味は、歴史的知識を持っているだけでは対応が難しく、過去で生きるための知恵が必要なのだ。だからこそ、現代人の視点で過去を体験するという狙いはスリリングで面白い。

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2018年1月20日 (土)

「FAKEな平成史」森 達也

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森 達也 著
角川書店(264p)2017.09.22
1,728円

森達也は1956年生まれ、1998年のオウム事件をテーマとした「A」の発表に始まり、2016年の佐村河内守を主題とした「FAKE」まで多くのドキュメンタリー作品を世に問うてきた。ただ、私が森達也の名前に接したのは、映像ドキュメンタリーではなく、書籍としての「放送禁止歌」(2000年解放出版社刊)であり、その文章からは敢えてタブーに挑戦するという印象を強く持ったと思う。

本書のタイトルにある平成とは森にとって32歳から62歳の30年間、私は41歳から71歳の30年間。この年齢差によって生じる時代認識の違いは大きい。「この平成の時代を自らのドキュメンタリー作品を振り返りながら平成という時代について考察する」という本書の狙いも、平成という時代が森の仕事の時間軸にぴったりと合致することには注視すべきだろう。

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2016年10月19日 (水)

「文学部で読む日本憲法」長谷川 櫂

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長谷川 櫂 著
筑摩書房(167p)2016.08.04
842円

俳人として活躍している長谷川櫂がなぜ憲法を語るのかという、そのギャップ感に後押しされて本書を手にした。帯には「その言葉の奥の時代精神を読み解く」とある。長谷川は俳句に接すると、俳句を生み出した日本文化とは何かといった想いに直面すると言う。限られた字数での表現の中に感情や心象を見つけ出して鑑賞するにはその文化と時代認識が必要であるということだろう。また、日本文化について書かれた名作と言われている谷崎純一郎の「陰翳礼賛」を昭和初期の時代精神を読みとるテキストとしているが、第二次大戦の敗戦を踏まえた時代精神を読み解くための最適なテキストは何かと考えた時、最も相応しいものとして「日本国憲法」を選んだと言っている。

通常、日本国憲法を語ろうとすると、条文の解釈や具体的な運用事例などがその中心になると思うのだが、「日本国憲法を文学部で読む」と言っている本書の趣旨は「法律も文学も言葉で書かれており、その言葉の奥に広がる世界を解明しようとする文学の方法で新たなるものが見えてくるのではないか」という挑戦的なもの。このように「言葉」をキーワードにして、「自分の欲望を行動や言葉で正当化する厄介な人間という動物」と「日本国憲法」の共存をどう図ろうとしているのかを探る旅のようなものだ。

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2014年10月13日 (月)

「プロパガンダ・ラジオ」渡辺 考

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渡辺 考 著
筑摩書房(351p)2014.08.25
2,484円

本書は太平洋戦争時に戦時国際放送として日本から放送された「ラジオ・トウキョウ」の記録であり、放送の実態とその責任を検証しようとするものだ。NHKでは戦時の海外向け短波放送について、日英間の謀略放送の歴史、戦争末期のアメリカからの謀略放送等の特番を放映してきている。しかし、これまでのNHKテレビ番組は二つの視点が欠落していると著者は指摘している。それは、国内ラジオ放送はどのように戦争を日本国民に伝えていたのかという視点と、「ラジオ・トウキョウ」が敵国アメリカや連合国軍に対してどのような謀略戦略を仕掛けていたのかの二点である。

これらを解明しようとする番組企画がNHKで2009年に開始され、いままでは、終戦とともに日本放送協会や内閣情報局によって関係する資料や録音盤などが徹底的に焼却廃棄されたことから、その実態把握が難しかったのだが、今回は米国公文書館に保管されていた第二次大戦対戦国からの謀略放送を傍受した録音盤の存在が明らかになったことで、この検証は一挙に具体的になったようだ。一方で戦後65年という年月は人間にとっては長すぎる時間であり、放送当事者たちの多くが鬼籍に入り、存命であってもインタビューをするための制約があったという。現代史を読み解こうとすると時間との戦いの厳しさを痛感させられる。

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2012年7月11日 (水)

「ブルックリン・フォリーズ」ポール・オースター

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ポール・オースター 著
新潮社(336p)2012.05.30
2,415円

「ブルックリン・フォリーズ」とは、あえて訳せば「ブルックリンの愚行」とでもなるのか。ポール・オースターの新作は、彼が愛し、今も住んでいるニューヨークのブルックリンを舞台にしている。ブルックリンに住んだことのある僕としては、見逃すわけにいかない。

例えばオースターはブルックリンの町について、こんなふうに書いている。

「白、茶、黒の混ざりあいが刻々変化し、外国訛りが何層ものコーラスを奏で、子供たちがいて、木々があって、懸命に働く中流階級の家庭があって、レズビアンのカップルがいて、韓国系の食料品店があって、白い衣に身を包んだ長いあごひげのインド人聖者が道ですれ違うたび一礼してくれて、小人がいて障害者がいて、老いた年金受給者が歩道をゆっくりゆっくり歩いていて、教会の鐘が鳴って犬が一万匹いて、孤独で家のないくず拾い人たちがショッピングカートを押して並木道を歩き空瓶を探してゴミ箱を漁っている街」

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