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友人の社会史/雪の階(きざはし)/夢みる教養/愉楽/雪沼とその周辺・魔法の石板

2021年5月16日 (日)

「友人の社会史」石田光規

サブタイトルに「1980年-2010年代、私たちにとって「親友」とは、どのような存在だったのか」とあるように、当該30年間における人間関係の変化とその原因を読み解いている。特徴的なことは情報検索システムを利用して、朝日新聞(1984年~2015年)と読売新聞(1986年~2015年)で「友人」「親友」という言葉が含まれる記事をピックアップし、どんな属性の人間によってそれらの言葉が発せられたのか、そしてどのような内容の記事なのかを統計分析している。過去の内閣府などの青年意識調査は若者を対象としたアンケート形式だったことを考えると、新たな視点からの発見が期待できる。そうした手法が具体化されるのもデータベース化されたデジタル情報と検索システムに大きく依存しているというのも、まさに今だからこそ可能な実証調査と言える。

私も「友達」とか「親友」といった言葉を日常的に使っているものの、その存在の意義をそう厳密に考えたことも無い。小中高時代を共に過ごした仲間達と「損得勘定抜き」で付き合いを続けているという、以上でも、以下でもない。そんな自分の曖昧な友人感覚を再確認して読み始めた。それにしても、個々の分析結果として多くの詳細なグラフが表示されているのだが、老人の視力では追いつかない程の細かさに閉口しながら読み進んだ。

著者の主要な論点は次の通りである。日本では1980年代までは親族などの血縁、会社、地域といった固定的な人間関係を軸に生活していたが、1990年代に入ると様々な伝統が崩れていき、人間関係も自己選択に委ねられる領域が増してきたことから、著者は2000年を人間関係・友人関係の変化の分水嶺として考えている。2000年以降においては「付き合わなければならない関係」から解放され「選択的関係」に変化して行った。そこでは「自ら選ぶ自由」とともに「他者から選ばれない不安」が喚起されていく。また、情報端末の普及もあり、「見た目」の友人関係は充実していったものの、「曖昧な関係性」の拡大にまつわるストレスも増加したとしている。

こうした、著者の考える人間関係の変化のステップについて異論はないが、1947年生まれの私としては1980年代までを一括りで捉える時代区分に若干違和感を持った。というのも、固定的な人間関係の崩壊は、例えば町会の形骸化に見られるように1950年代には始まっていたのではないかと思うし、企業の終身雇用制度も1970年代からは徐々に崩れてきていることも人間関係の変化には大きく影響していると思っている。しかし、著者が1973年生まれと聞くと時代の区切りの感覚差はやむを得ないのかも知れない。

朝日新聞の記事(1984年~2015年)から「親友」という言葉に絞り込んで分析している。記事内容(文化芸能・政治経済・スポーツ・事件戦争・生活)と、「親友」という言葉の発話者の社会属性(文化芸能・政治行政・経済・スポーツ・著名人・投書者・フィクション)をマトリックスにして、約8000件の親友記事を分析している。この結果は、政治の分野での出現数の激減とか、文化芸能やスポーツの領域が増加傾向など、なかなか興味深い結論を得ていると思う。

特にスポーツの中では、高校野球とオリンピックの分野が突出しており、この二つのイベントが根性と精神性に強く結びついていることを示している。2000年以降、高校野球記事の内「親友・友情」が出現する比率は50%を越えていると聞くと、最早スポーツ記事ではないと思うほどである。物語の主役は当然ながら球児がほとんどで、試合結果を報じた記事の友情物語は大半が負けたチームからの視点であるのも高校野球の演出性が指摘されているとともに、記事からは批判、愚痴、妬み等は全て捨象されている。また、「文化・芸術・芸能」といった分野では、映画やドラマにおける「親友と友情を紡ぐ」物語といったイメージ領域にシフトしていく。こうした二つの傾向を著者は「無菌化された友情」と呼んでいる。

一般読者の投書蘭(朝日新聞の声蘭)の記事を分析した結果でも、2000年までの「親友」という言葉が日々の生活世界の何気ない風景として使われていて、困難の克服や喪失体験といった外部で起こった事象と結びついた投稿であった。一方、2000年以降は「個人にとっての重要性という曖昧な感覚」を軸に親友が語られる形に変化しており、著者は「親友のイメージ化」「付き合いたい関係を選ぶ時代」と著者は定義している。

一方、「友人関係」の「負」の要素について、読売新聞の悩み相談コーナー「人生案内」を分析した結果、友人にまつわる記事の内容と相談者の属性に大きな変化があったとしている。1990年代までは投稿の多くが中高生や若者だったが、2000年代に入ると相談者は中高生に限らず多世代にわたるようになり、「友人」との関係で「葛藤や対立を回避しようとする」悩みが多くなっている。これは「友人」の負の側面の顕在化といえる。

朝日新聞、読売新聞の読者投稿欄のこうした分析からも、コミュニケーション不安解消のための友情物語として、フィクションの人物を主体化したり、高校野球に代表される無菌化された友情記事が多く出現することを裏付けている。

「こうした、感情を通じて形作られる「友人」は、その基準が満たされないと「友人でないもの」として消失し、その集積は「孤立」に繋がる。結果、人々は「友人という関係のイメージに沿った付き合い方をするように駆り立てられる。これは『友人』という外圧によって作られた関係」であり、付き合いを積み重ねた結果としての「友人とは似て非なる物である。・・・・友人という言葉にはどうしてもプラスのイメージが付与される。しかし、ブラス面だけで理想化して行くのは無理が有る。・・・・私たちは社会の中で、たとえマイナスの要素が含まれていても持続的な対話が保証された関係を無理のない範囲で構築する必要が有るだろう。こうした関係を確立した時に私たちは、友人という概念を必要としなくなる」と指摘している。

しかし、長い期間色々な友人関係を結んできた経験では、私の「友人」感覚はけしてプラス面だけではないことを知り尽くしている。だからこそ「友人」なのではないのかとさえ思っている。それは「理想化の無理」を享受しているのではなく、「理想化の無意味さ」を体感しているのだと思う。友人同士、お互い理想の友人像からは乖離していることは承知している。語り合い、笑い、言い争いながら、最後は助け合うだけだ。「友人」は概念ではなく、「人」なのだと思いながら、読み終えた。本書の分析結果も面白い。そして、老人のわが身を振り返っても考えなければならない事柄のヒントも多かった。

自分が万一の時の為に連絡先リストを作ってある。小学生の頃の仲間にはじまり学生時代、会社、趣味、ボランティア活動など連絡すべき人を一覧にしている。しかし、毎年その中の誰かが逝去したりするので修正が必要だ。自分が長生きすればするほど連絡すべき人間が減っていくというのも悲しい。そんなリストを眺めつつ、コロナで会えていない仲間たちの顔を思い浮かべながら、友達とは何かを考えさせられる読書だった。(内池正名 )

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2018年6月20日 (水)

「雪の階(きざはし)」奥泉 光

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奥泉 光 著
中央公論新社(592p)2018.02.10
2,592円

昭和初期、皇室に貞明皇太后(昭和天皇の母)の信任厚い島津ハルという女官長がいた。そのころ天皇機関説を攻撃する「国体明徴運動」が沸騰していたが、霊感をもった島津を中心に「国体明徴維神の道」を求める密かな集まりがあった。島津が崇拝するのは『古事記』冒頭に出てくる天地開闢の神アメノミナカヌシ。島津は、裕仁天皇(昭和天皇)がやがて崩御し、幼い明仁皇太子が天皇となってアメノミナカヌシの霊と一体となり神人が合体すると告げた(原武史『皇后考』)。

こうした動きの背後には、昭和天皇を嫌い秩父宮を溺愛した貞明皇太后の存在があり、昭和天皇を廃し秩父宮を擁立しようとする重臣グループ、青年将校グループが存在したこととも無関係ではなかったろう。

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2017年1月17日 (火)

「夢みる教養 – 文系女性のための知的生き方史」小平麻衣子

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小平麻衣子 著
河出書房新社(208p)2016.09.13
1,620円

「夢みる教養」というタイトルと「女はいつも文化のお客様」という帯のキャッチコピーが気になって本書を手にした。しかし、それらの柔らかな表現とは裏腹に著者小平の厳しい視点の分析が繰り広げられている。大正から現代に至る期間で、女性が学問を志すことへの制約と男たちの排他的な言説が女性の学問意欲をいかに削いできたかを示し、その結果女性にとって「教養=実現しない夢」となってしまってきた歴史を緻密に描き出している。小平は昭和43年(1968年)生れ、慶應大学文学部に学び、現在同校文学部教授。近代文学におけるジェンダーについての研究をしてきたので、本書はまさに彼女の専門のど真ん中と言える。

小平は「教養」とは、深い知識を前提とした物事に対する理解力や創造力であり、古今東西の文学・宗教・哲学などの幅広い読書を通して、自己の人格を高めることとしている。しかし、「役に立たないが生活を豊かにする知識」とか「だれでも知っているべき一般常識」といった混沌とした「教養」の概念がまん延していることを証左として、それぞれの時代に求められてきた女性像に対応して、都合良く使われて来た言葉であったことを指摘している。同時に、「NHKの朝ドラ」で知的女性たちの人生を成功とか進歩という表現でドラマが作られていることに批判的な目を向けている。それは、少数の成功者を語ることで、一般の女性たちの苦労が隠され、解決すべき問題が明らかにならなくなってしまうという主張である。

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2015年1月12日 (月)

「愉楽」閻 連科

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閻 連科著
河出書房新社(464p)2014.9.30
3,888円

当方、今年で68歳になる。歳とったせいか、映画でも小説でも最近は物語性の豊かなものでないと面白味を感じないし、だいいち根気がつづかない。もっとも20世紀には映画も小説も物語性をいったん解体してみせる実験があったから、以後の作品は多かれ少なかれそれを意識しないわけにいかない。昔のように直線的な時間や空間に沿って波乱万丈の物語が繰り広げられる、といったものばかりではなくなっている。

そのような意味で、豊かな物語性を今日的に回復してみせたのは小説なら1960年代のラテン・アメリカ文学だった。ガルシア=マルケス、ボルヘス、プイグらの小説は魔術的リアリズムとも呼ばれ、豊かな物語性とともに、現実と非現実がないまぜになった幻想性や熱帯の風土と自然へのこだわり、神話や口承といった語りへの偏愛が際立っていた。

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2008年11月 6日 (木)

「雪沼とその周辺」/「魔法の石板」 堀江敏幸

Yukinuma 堀江敏幸著
新潮社(202p)2003.11.25/青土社(296p)2003.11.20

1,470円/2,310円

堀江敏幸の新刊が2冊、ほぼ同時に書店に並んでいた。一冊は小説で、もう一冊は長編エッセー。『魔法の石板』と題されたエッセーのほうには「ジョルジュ・ペロスの方へ」とサブタイトルがついている。堀江敏幸は『熊の敷石』で芥川賞を受けているから、一般には小説家というほうが通りがいいのかもしれない。けれども僕にとっては、処女作の『郊外へ』か ら『おぱらばん』『子午線を求めて』へと至る、フランスの現代作家と作品をめぐりながら、現地での体験と思索をちりばめた魅力的なエッセー群の書き手とし ての印象が圧倒的に強い。

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