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料理が苦痛だ/流/琉球独立論/流星ひとつ

2019年5月17日 (金)

「料理が苦痛だ」本多理恵子

 

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本多理恵子 著
自由国民社(208p)2018.11.02
1,296円

タイトルを見ると単なる料理嫌いのエッセーにも思えるが、著者は自分の体験をもとに、世の主婦や主夫たちの中にある「家族の為に料理を作り続けなければならないという苦痛」の原因を考え、その対策を提示している一冊だ。

家事を預かる人間にとって、日常の中から家族に作る料理の心配が頭から離れることは無いだろう。食材の在庫を心配し、毎朝の弁当作りなど「終わりのない家事」に縛られている日常に疲れ果てる人がいておかしくはない。我が団塊の世代で言えば、結婚すれば男は朝から晩まで働いて「金」を家庭に持ち帰り、女は一日、家事と育児に没頭していた。現代は役割分担の柔軟性も高く、社会や家庭は男女が一義的に役割を分けることもなく、家庭ごとに役割分担の違いがある。本書でも「主婦と主夫」という両立した書き方をしているところもあれば、「主婦」という今までの概念の延長としての「料理をつくるのは女」という印象の書き方をしている箇所もあり、社会的目線と著者の実感の混在した状況も垣間見ることが出来る。

本書の構成としては、料理をつくることの苦痛の根源を自分自身の体験として紹介している第一章。苦痛の根源となる要素を広く取り上げて考える第二章。苦痛を和らげるための料理の一時停止などの手順を提示している第三章。これなら作れるという発想の転換をしたレシピを提示している第四章。そして、著者の一連の経験を通して得られた家族との対話と、その変化を書いている。

著者は和菓子屋の娘として育ったが、料理に対する姿勢はネガティブだったようだ。例えば、住宅を中心にして表には店舗、裏には工場があり、台所は屋根こそあるものの、通路の様な使い勝手の悪い場所だった。そこで、懸命に料理を作る母親は、小さな娘たちがうろちょろすることが邪魔でしかなく、子供達を台所から遠ざけていたという。また、和菓子職人の父親は、化粧品の匂いがつくと言って、娘たちが料理をすることを嫌がった。加えて、一家の食事は、お客が来れば誰かが接客に立っていく必要が有り、一家団らんとは程遠い時間だったと回想している。こうした著者も、学生時代に独り立ちして料理を作ったりしたが「食べてくれる人がいない」状況は料理の楽しさを生まず、結婚とともに「食べてくれる人(家族)」ができても、気合を入れた料理に家族が無反応だったりすると、精神的に辛かったと回想している。この様に、けして料理にポジティブではなかった人間が本書を書いているということは大切なことかもしれない。

次に、主婦にとっての料理にまつわるプレッシャーをいろいろと挙げている。

「時間があるから出来るはず」とか「家族の健康のため」という呪縛は、家族の健康を念頭に時間をかけて家庭料理を作ることを一人の肩で背負うという負担以外の何物でもない。

「毎日違うものを食べると言う呪縛」とは、外国で暮らしてみると家庭料理は選択肢が少ないことに疑問も不満もないことに気付くと言う。言われてみれば、日本ほど多様な料理を家庭で作っている国はないだろうと思う。台所にある道具の多様さも、和食、洋食、中華、はては石焼ビビンバ用の石鍋まであるのだから。「今日は昨日と同じご飯ですが、何か?」と言ってみてはどうかという提案には納得。また、昨今の風潮で言えば、インスタ映えという呪縛を上げている。なにも毎日のように人様に対して自慢げに自分の料理を見せつけてどんな意味が有るのかという意見には賛成だ。料理を食べてくれるのは「いいね」をくれる見知らぬ人ではなく、目の前の家族である。

「八宝菜の呪縛」というのは笑ってしまうような呪縛である。TVの料理番組を見て今晩は八宝菜を作ろうと買い物をして帰宅した主婦が、いざレシピを確認してみると材料を一品買い忘れていて、わざわざ材料一品の為にまた買い物に出かけるという話である。確かに八宝菜と言えば、各種具材の炒めものだ。豚の薄切り、イカ、エビなどに、野菜は白菜、人参、長ネギ、シイタケ、きくらげなどを加えるのだが具が沢山と言う意味の「八」であるし、レシピがどうであれレシピ通りの具材ですべて作らなければならないということもない、と私は思うのだが。開き直れば「七宝菜」ですと言いたくなってしまうのだが、その柔軟さというか、好い加減さがなく、自身を追いつめて行くという話だ。誰も、食べるときに具材の数なんぞ数えてやしないのだ。

この様に、主婦をとりまく料理の呪縛が数多く紹介されている。この辺の判断は、男女の違いもありそうであるし、そこには料理以前の問題である家族のコミュニケーションという側面の存在が大きいように思う。だからたまには、食卓で自らが作った思いを語り、質問をする。「さて、このソースは何からできているでしょうか?」と質問し、語りあうことの重要性を著者は指摘している。ただ、食卓で料理だけの会話では、まるで、カウンター越しの板前と客の会話の様に思ってしまうのだが。

そして、心から料理をしたくないと思う時、解決方法は「料理を止める」ことと言っている。「自分を責めるのではなく、素直に作らないことを選択する」という意見だ。それも著者は段階的に進めることを提案している。まず、自分の理想と家族の期待のギャップを知ること。逆の言い方をすれば、自分の苦痛は独りよがりから来ているのではないかと言う仮説である。「作りたい料理」と「食べたい料理」のとのズレを理解するための確認シートが例示されていて、それを家族に記入してもらい語り合っていく。要すれば、家族との料理に関するコミュニケーションである。

そしていよいよ「料理を止めてみる」決断であるが、やめる期間を事前に決める。一週間なら一週間、とにかくきっぱりやめること。そして、この間には気になる料理を家族で外食をする。重要なのは口コミの評価ではなく自分の舌で評価することであるとしている。またその期間に料理本を読み込んでみるという提言もしている。一回目はすべて読み流す。二回目は気になったレシピを読む。三回目は特に気になったレシピの作り方を頭の中でシミュレーションする。そうして残ったレシピが「作る料理」・「作りたい料理」になるという。

こうした「料理停止期間」を過ごし、再開に向かうという。

本書は料理本ではなく、料理への向き合い方のガイドであると同時に、家族のあり方を考える本である。私は、食事という家族団らんの時間は決して料理が話題の中心ではなく、今日あったこととか、明日の予定とか話す場だと思うのだが。料理を作った人からすると「料理」が話題の中心であってほしいと思うのも判らなくはない。

ただ、いろいろ挙げられている呪縛の例を見ていると、どうも本書の対象は30-40代の主婦のようである。私もソバ打ちを趣味にしたり、学生の頃から自炊をしてきた。従って料理が嫌いではないが、毎日料理をするという経験はない。

その前提で、若い人達と話をしていると、自分の食べたいものを選択するのが不得意な人、決められない人が多くなったようにも思える。それは、レストランのシェフのお勧めを求め、SNSで発信される他人の評価に従って食事をする人達である。

そうした人達の典型的な質問が「美味しいお蕎麦屋さんはどこですか」という質問である。人の嗜好は多様で、個人差がある。「美味しい」かどうかの判断は異なることから、私は「好きな蕎麦屋はXXX」と返答するようにしている。「美味しいかどうかは、貴女が決めるのです」と語り掛け、呪縛の根源は自身にあることを教えてあげることも必要なことである。(内池正名)

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2015年11月19日 (木)

「流」東山彰良

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東山彰良 著
講談社(408p)2015.05.12
1,728円

今年の直木賞を受賞した『流(りゅう)』はまぎれもなく日本語で書かれた小説だけど、どこか日本の小説じゃないみたいだな。

考えてみれば当たり前なんだけど、そう感じた理由はふたつ。ひとつは、言うまでもなく東山彰良が日本人ではないこと。受賞の報道で知った人も多いだろうけど(僕自身もそうだった)、東山彰良はペンネーム。著者の王震緒は台北生まれ、今も中華民国の国籍を持っている。「東山」は祖父の出身が中国の山東省だったことから、「彰良」は母親が台湾の彰化出身であることから来ているという。

5歳で来日し、9歳のとき台北の小学校に入学。以来、日本に住みながら台湾、中国と行き来している。台湾、中国、日本、「どこにいても“お客さん”なんです」(asahi.com、2009年2月24日)という東山の言葉からは、青年期、自らのアイデンティティについていろんな悩みがあったろうことを想像させる。

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2014年9月11日 (木)

「琉球独立論」松島泰勝

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松島泰勝 著
バジリコ(292p)2014.7.20
1,944円

福島第一原発の事故が起こるまで「原発安全神話」なるものがあって、よく考えればどんな技術にも絶対安全はありえないのに、なんとなく安全だと思いこまされてきた。言葉の嘘にだまされていたわけだ。似たような言葉に「固有の領土」というものがある。尖閣諸島、竹島、北方領土について、相手国となにかあるたびに政治家や役人の口から飛び出す。「尖閣諸島は我が国固有の領土である」といった具合に。

実はこの言葉が正当性をもつためにはもうひとつの前提がいる。「沖縄(琉球)は我が国固有の領土である」ということだ(沖縄のことを以下、著者にならって琉球と表記しよう)。琉球王国は薩摩藩による間接統治があったにせよ600年つづいた王国だったから、これは明らかに歴史的事実に反する。「固有の領土」という言葉もまた、戦後日本人が疑うことなく使っている神話のひとつかもしれない。

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2013年12月15日 (日)

「流星ひとつ」沢木耕太郎

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沢木耕太郎 著
新潮社(323p)2013.10.11
1,575円

2013年8月22日、藤圭子投身自殺のニュースが流れた。ニュースを聞きながら、自分の体内時計が1970年代にゆっくりと戻っていく感覚を抑え切れなかった。彼女が1979年末に引退した後は、評者自身が仕事に追われていた時期でもあり、藤圭子の名前はTVや新聞のニュースから、海外の空港で法外の現金を没収されたとか、宇多田ヒカルの母親として聞くぐらいなものであった。そんなこともあり、沢木耕太郎が彼女の死後、間をおかずに藤圭子に関するノンフィクション本を刊行したと聞いて少なからず驚いた。やっつけ仕事で何を書いたのかという疑問である。しかし、本書の「後記」を読むことでそうした疑念も的外れであったことが判った。

本書は、1979年の秋に藤圭子が引退を表明した直後から同年12月26日の引退コンサートまでの短い間に、彼女と沢木によって行なわれたインタビューを記録したものである。そもそもこの原稿は「別冊小説新潮」に掲載し、その後、単行本として刊行される予定になっていたものだが、この原稿を書き終えたところでその計画に不安を持った。

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